鎌田政年とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 鎌田政年の意味・解説 

鎌田政年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/05 13:47 UTC 版)

鎌田 政年(かまた まさとし、永正11年(1514年) - 天正11年7月8日1583年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将薩摩国島津氏の家臣。別名は政房。通称は刑部左衛門、尾張守。入道名は寛栖。妻は山田有親の娘。子は鎌田政広、鎌田政商。

島津忠良貴久義久の3代に仕え、大隅帖佐薩摩馬越日向三ツ山、大隅牛根地頭職を歴任した。

弘治3年(1557年)の薩摩北部の豪族・蒲生範清攻め、永禄11年(1568年)の菱刈隆秋の薩摩馬越城攻めなど数々の武功のある人物だった。特に馬越城攻めの際は、島津忠良から「永久に島津家はその功を忘れぬ」とその忠功を賞されている。

元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いが起こると島津義弘と共に兵150人を率いて出陣、池島川で休憩中の日向伊東氏の将兵を攻撃、更に義弘に与えられた兵60人を率いて伊東軍の背後に回り、義弘、五代友喜の軍勢と共に3,000人の伊東軍を撃退せしめた。

天正6年(1578年)に島津氏が耳川の戦いにて大友氏に勝利すると、肥後国の豪族である城氏名和氏が島津氏に誼を通じてくる。政年はその支援として手勢を率いて肥後国へ入った。そして、天正8年(1580年)、新納忠元と共に肥後阿蘇氏領に侵攻、矢崎城(熊本県宇土郡)の中村惟冬を攻めこれを討ち滅ぼした。

没日には2つの説があり、「天正11年7月8日」説と「天正15年7月10日1587年8月13日)」説がある。法名は「喜翁勝観庵主」。姶良郡牛根二川の望海山喜翁院に葬られた。

参考文献

  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)
  • 『明赫記』 鹿児島県史料集(27)(鹿児島県史料刊行委員会)



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', '', ''];function getDictCodeItems(index) {return dictCodeList[index];}

すべての辞書の索引

「鎌田政年」の関連用語

1
30% |||||

2
14% |||||

3
12% |||||

4
8% |||||


6
6% |||||





鎌田政年のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable() {return sideRankTable;}

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鎌田政年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの鎌田政年 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS