連邦内務大臣
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1998年9月27日に行われた連邦議会選挙で SPD と同盟90/緑の党の連立政権が成立すると、シリーは内務大臣に指名され、10月27日に就任した。彼の在任中、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し世界的にテロへの不安が広がる中、治安維持強化のための法案制定の責任者となった。彼が打ち出した多数の法案は、彼と同名の通信販売会社 Otto にかけて「オットー・カタログ」とマスコミに呼ばれた。2001年には極右政党のドイツ国家民主党 (NPD) を禁止する法案を提出したが、法案が連邦憲法裁判所に違憲と裁定され、撤回に追い込まれた。また内相として生体認証パスポートの導入を進め、2005年10月から発行が始まった。在任中に急速に進んだインターネットの普及に対応して、ハッカーやインターネット犯罪に対処する計画を発表し、連邦情報保安局に担当させることになっている。2002 FIFAワールドカップの際はフーリガン対策で日本の警察に協力、ドイツ代表チームが勝ち進んだ決勝戦に合わせて来日し、シュレーダー首相らと共に観戦した。 在任中さまざまな疑惑に関係することになった。2005年7月には在キエフ・ドイツ大使館のビザ発給業務に対する不当な政治的圧力をめぐる「ビザ・スキャンダル」の関係者として参考人招致される。同年9月には月刊誌『キケロ』(Cicero) に対する連邦刑事局の捜査が報道の自由を侵害するものとして激しく批判された。さらにアメリカによる対テロ戦争の最中の2003年にアメリカ中央情報局によってアフガニスタンに拉致され収容所で拷問を受け、2004年3月にアルバニアで解放されたレバノン系ドイツ人ハレド・アル・マスリの消息について、駐独アメリカ大使から情報を得ていたにも関わらず口止めを要請されていたことが後になって判明し、野党のみならず党内からも批判された。これについて、シリーは事後報告で介入のしようがなかったと弁明した。また連邦裁判所に禁止されたオンライン秘密捜査命令に署名していたことも判明し、法学者から「組織的な違憲犯罪行為」と非難されている。 2005年9月の連邦議会でシュレーダー政権の退陣が決まると、10月18日に内相を辞任、アンゲラ・メルケル政権が正式発足した11月22日に離職した。「対テロ戦争、移民流入の制限、個人情報保護などを隠れ蓑に、市民の権利を制限して監視社会を作ろうとしている」と揶揄されるなど、立場上仕方ないとはいえ総じて国民受けが良いほうではなかった。退任後は生体認証の技術を開発する複数の企業の監査役に就任し、癒着ではないかと批判されている。2009年の連邦議会選挙に出馬せず、政界を引退した。
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