軍縮問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 03:41 UTC 版)
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1ギニーまで費す」つもりであった。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。 軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官フェルディナン・フォッシュ元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュはラインラントへの永久的な駐兵と、ロシア内戦における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相とウィルソン陸軍参謀総長の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。 一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後のジュネーブ軍縮会議やワシントン会議といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。
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