謀反事件
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文帝の弟である劉義康は、宰相として内外の政務を取り仕切り、その権勢は皇帝を凌ぐものがあった。元嘉17年(440年)、文帝は劉義康の腹心であった劉湛以下十数名を誅殺・流刑に処し、劉義康を江州刺史に左遷した。代わりに皇子の始興王劉濬が揚州刺史として迎えられたが、劉濬は12歳と幼く、州事を代行していたのが范曄である。同年に宿営の衛兵を統括する左衛将軍、元嘉19年(442年)に東京の衆務を司る太子詹事を務め、順調に出世していた。 左遷された劉義康の配下にいたのが孔熙先で、彼は劉義康のために謀反を計画した。朝臣を抱き込むために范曄が必要であり、范曄の外甥の謝綜を通じて親交を持った。この謀反には、他に仲承祖・徐湛之・謝綜などが参加し、兵は臧質・蕭思話が準備する手筈になっていた。 しかし、元嘉23年(445年)、徐湛之の密告により孔熙先らの計画は露見した。范曄は、自身を含む一族全員が処刑され、ここに名門である范氏一族は途絶えた。
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謀反事件
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高桑次郎については藤原定家の日記『明月記』に記載がある。嘉禄2年(1226年)の項に「美濃の人、高桑次郎が鎌倉幕府に対する謀反人として、六波羅探題に捕らえられる。」という記述がある。その際、高桑次郎は首領として、高桑城より実に300人の将兵を率いて六波羅探題を襲ったという。 この謀反事件は、承久の乱の僅か6年後に起きている。この乱の幕府側主導者であった第2代執権北条義時はこの事件の前々年に死去。北条政子と幕府の大黒柱であった大江広元は、共に事件前年に死去している。高桑次郎は、幕府を支えたこの3人の相次ぐ死去で幕府の力がかなり弱まったと誤認し、「頃は良し」と決起したといわれている。
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