謀反事件とは? わかりやすく解説

謀反事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 14:45 UTC 版)

范曄」の記事における「謀反事件」の解説

文帝の弟である劉義康は、宰相として内外政務取り仕切り、その権勢皇帝凌ぐものがあった。元嘉17年440年)、文帝劉義康の腹心であった劉湛以下十数名を誅殺流刑処し劉義康を江州刺史左遷した代わりに皇子始興劉濬揚州刺史として迎えられたが、劉濬12歳幼く、州事を代行していたのが范曄である。同年宿営衛兵統括する衛将軍元嘉19年442年)に東京の衆務を司る太子詹事務め順調に出世していた。 左遷され劉義康の配下にいたのが孔熙先で、彼は劉義康のために謀反計画した朝臣抱き込むために范曄が必要であり、范曄外甥の謝綜を通じて親交持った。この謀反には、他に仲承祖・徐湛之・謝綜などが参加し、兵は臧質蕭思話準備する手筈になっていた。 しかし、元嘉23年445年)、徐湛之密告により孔熙先ら計画露見した范曄は、自身を含む一族全員処刑され、ここに名門である范氏一族途絶えた

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謀反事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 16:24 UTC 版)

高桑次郎」の記事における「謀反事件」の解説

高桑次郎については藤原定家日記明月記』に記載がある。嘉禄2年1226年)の項に「美濃の人、高桑次郎鎌倉幕府対す謀反人として、六波羅探題捕らえられる。」という記述がある。その際高桑次郎首領として、高桑城より実に300人の将兵率いて六波羅探題襲ったという。 この謀反事件は、承久の乱の僅か6年後に起きている。この乱の幕府主導者であった第2代執権北条義時はこの事件前々年死去北条政子幕府大黒柱であった大江広元は、共に事件前年に死去している。高桑次郎は、幕府支えたこの3人の相次ぐ死去で幕府の力がかなり弱まった誤認し、「頃は良し」と決起したといわれている。

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