薩土盟約
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薩土盟約(さつどめいやく/さっとめいやく)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年(1867年)6月下旬から同年9月上旬まで結ばれていた、薩摩藩と土佐藩の間の政治的提携。薩土連約などともいう。(これより1ヶ月前に、薩摩藩と土佐藩の間で結ばれた薩土同盟に関しては薩土密約の項を参照)
- ^ 『中岡慎太郎全集』244頁。家近1995、195頁。なお、このときの討幕の密約を本項の薩土盟約(平和的な大政奉還を目指したもの)と区別して「薩土討幕の密約(薩土密約)」と呼ぶ。
- ^ a b “『「薩土討幕の密約」を結び、土佐藩の軍備を近代化した板垣退助。明治の自由民権運動以前の幕末の活躍とは?』”. デジスタイル京都 (2023年1月27日). 2023年1月30日閲覧。
- ^ 翌年正月3日鳥羽・伏見の戦いが始まると、板垣らは山内容堂による制止を無視して「薩土密約」に基づき、独断で戦闘に参加。その後の戊辰戦争においても、迅衝隊・胡蝶隊などを編成して参戦するなど、結果的には「薩土討幕の密約」は発効され、戦後に維新政府によって、伏見における初期参戦が評価されて賞典を賜う結果となった。
- ^ 『新納立夫日記』。会議の出席者は関山糺(大目付兼家老事務取扱)、西郷、小松、大久保、田尻務、蓑田伝兵衛、吉井(以上側役)、内田政風、新納立夫(以上留守居)。芳2002、181頁。家近1995、195頁など。
- ^ a b なお、「柏村日記」(『修訂防長回天史』349-350頁)に残る8月14日時点における西郷の発言「弊藩に於て討幕は不仕(つかまつらず)」については、当時の薩摩の武力倒幕路線と矛盾するため、様々な憶測が可能であり研究者によって解釈が異なる。文字通りこの時期にはまだ薩摩藩内で倒幕路線が確定していなかったとする説(実際に国元では反対論が盛んであった)、「討幕」の対象が江戸の幕府本体ではなく徳川慶喜(および徳川宗家)のみであるとする説、対象は一会桑(慶喜とそれに与同する松平容保(会津藩主、京都守護職)・松平定敬(桑名藩主、京都所司代))の在京兵力だとする説などがある。高橋秀直はこれら諸説をまとめた上で、西郷の上記主張は、薩摩が幕府打倒の戦の口火を切ることはできるが、全面戦争を行うには薩摩単独では不可能であると宣言したとの解釈が妥当であろうとしている(高橋2007、373-374頁註3)。
- ^ 蓑田伝兵衛宛大久保書翰(『大久保利通文書 一』475-477頁)。
- ^ 芳2002、182頁
- ^ 『西郷隆盛全集』2、225-226頁。佐々木2004、365頁。
- ^ 青山2008、257-258頁。
- ^ 「船中八策」の真偽性および新規性については近年疑義が唱えられており、龍馬以前の同様な主張も発見されている。詳細については船中八策を参照。
- ^ 『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻)
- ^ 『寺村左膳日記』。青山2006、99頁。
- ^ 『寺村左膳日記』慶応三年六月十八日条「西郷吉之助之論は、彼是議論するも益なし、早々兵端を開き幕府を討たんとする見込みなり」。青山2006、100頁。
- ^ 青山2006、100頁。
- ^ 『寺村左膳日記』「大条理を以、懇懇説き終り(中略)薩之三人、格別異論なし」。佐々木2004、366頁。
- ^ 『保古飛呂比』「少々異論、尤モ大体ハ同意ナレ共、文字上等ナリ」。佐々木2004、367頁。
- ^ 『鹿児島県史料 玉里島津家史料補遺 南部弥八郎報告書二』742頁「此策断然相行れ候得は実に皇國挽回之基本とも相成可申」。佐々木2004、367頁。
- ^ 『保古飛呂比』二、404-405頁。
- ^ 青山2006、102-107頁。
- ^ 佐々木2004、370-371頁。
- ^ 朝廷の制度とりわけ摂関などの人事や職掌に関しては文久年間以来島津久光および薩摩藩が繰り返し主張してきたものであることから、第6条は薩摩側の主張で入れられたものと考えられる。佐々木2004、372-373頁。
- ^ a b c 家近1995、196-201頁。
- ^ 高橋2007、375頁註4など。
- ^ 坂本龍馬宛木戸書簡。8月2日付、9月4日付。
- ^ 『保古飛呂比』二、452頁、506-507頁。
- ^ 坂野2008第一章「幕末議会論 土佐要因と薩摩要因」。
- ^ 同年9月大久保利通宛吉井友実書翰(『大久保利通伝』1)。尾佐竹猛『維新前後に於ける立憲思想』(1925年、邦光堂)80頁。
- ^ 坂野2007、21-22頁。
- ^ 坂野2007、40-46頁、48-58頁。
- ^ 佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』(1992年、吉川弘文館)1頁。
- ^ 尾佐竹猛前掲書。坂野2008序章、第一章「幕末議会論 土佐要因と薩摩要因」、第二章「幕末議会論と大阪会議」。
- ^ 幕末に倒幕論派であった板垣は明治5年(1872年)頃に議会論者になっていた。稲田正次『明治憲法成立史』(1962年、有斐閣)111頁。坂野2008、18-24頁。
- ^ 『修訂防長回天史』1155頁。
- ^ 『寺村左膳日記』同日条。青山2006、107頁。
- ^ 『保古飛呂比』二、2433頁。
「大政返上等の周旋し候に、後楯に兵を用ひ候事は、脅迫手段にて不本意千万なり、天下の為に公平心を以て周旋するに、何ぞ兵を後楯とせんや、出兵無用」。 - ^ 松浦2008、151頁
- ^ なお、イカルス号事件の真犯人は福岡藩士の金子才吉であり、事件の直後に藩当局に自首した直後に自害していたが、これが判明したのは1年以上後の明治元年(1868年)10月だった。
- ^ 『山内家史料 幕末維新 第六編』507頁。青山2006、110頁。
- ^ 当日の容堂の発言に「今後之模様ニ寄、追而(兵士を)差立候筈ニ付、国内之用意なし置へし」(『寺村左膳日記』8月20日条)とあったという。
- ^ 佐々木2004、373頁。
- ^ 『寺村左膳日記』9月7日条。家近1995、204頁。青山2006、111頁。
- ^ 『寺村左膳日記』9月10日条。青山2006、112頁。
- ^ 慶応三年八月四日付桂右衛門宛西郷書翰(『西郷隆盛全集 二』240-250頁)、同年十二月五日蓑田伝兵衛宛西郷書翰(『西郷隆盛全集 二』303-307頁)など。
- ^ 慶応3年7月23日に幕府は長州藩処分問題解決のため、長州支藩の代表者を大坂に呼び出し、長州側もこれに応じた件を指す。禁門の変以来長州藩兵は京阪地方に展開できなかったため薩摩との軍事協力を行う上での障害になっていたが、これが解決されたとする。ただし幕命が長州藩に伝えられたのは8月20日であり、実際に家老が大坂へ出発したのは9月14日だったため、9月7日の薩土盟約破棄の一因となったかどうかは不明である。
- ^ 幕府大監察永井尚志が大政奉還論に関心を持ち、7月3日に後藤を招き意見聴取しようとしたことを指す。永井は9月20日には建白書の提出を土佐側に促している。
- ^ 井上1991、212-215頁。
- ^ たとえば慶応三年九月一日付山県有朋宛品川弥二郎書翰(『修訂防長回天史』第五編下、1152頁)「今以南海之快報無之、実に悲歎に堪へず箇様遅延相成候ては事機相失し候事は必然と苦慮此事奉存候」、同年八月四日付本山只一郎宛て中岡慎太郎書翰(『中岡慎太郎全集』175-176頁)「幕悪日ニ成リ我事一ツモ不進、グズグズ仕候中何モ事去リ候而ハ後ニテ難ヲ被成候哉、実ニ悠々失機と可申奉存候」など。
- ^ 倒幕路線はあくまで西郷ら在京薩摩藩幹部の方針であり、国元にはこれを危険視する島津図書(久光の弟)をはじめとする反対論者も多く存在し、京都においてすら関山糺などは「長州に義理立てして御国(藩)の名誉を汚すのか」と小松らを激しく非難するなど、西郷らが薩摩藩論の主流とは必ずしも言えなかった。
- ^ 家近1995、208-212頁。
- ^ 佐々木2004、381-386頁。
- ^ 高橋2007、348-356頁。
- ^ 『大久保利通文書』二。書状の日付は10月8日になっているが、これは三藩協議の後、内容確定を受けて中山忠能に提出された日である。青山2008、261-264頁。
- ^ 芸州藩在京家老辻将曹が、小松から兵力動員の計画を聞いた後、同藩勘定奉行植田乙次郎を山口に派遣していた。植田は藩主浅野長訓から長州藩主へ贈る刀剣を持参しており、出兵協定は既定路線であった。佐々木2004、389-390頁。
- ^ 「討幕説停止諭達」(『鹿児島県史料 忠義公史料 四』458-459頁)。
- ^ 佐々木2004、398頁。青山2008、263頁。
- ^ 通説ではいわゆる「討幕の密勅」はこの時の願書にこたえて作成されたと見るが、井上勲は長州の出兵延期が伝わり、討幕派にとっての状況が大きく変わった10月9日以後に宣旨が請求されたはずであるとし(井上1991、232-236頁)、佐々木克もこれに賛同して、密勅の請求は10月11日であったろうとする(佐々木2004、400-405頁)。
薩土盟約
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慶応3年(1867年)4月、再び容堂の側用役に任ぜられ、側近として復帰。同月に開催され、短期間に破綻した四侯会議の決裂後、容堂は帰国するが、実弟・山内豊積(兵之助)を名代として滞京させ、寺村、真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟らに補佐を命じた。坂本龍馬の進言を受けた後藤象二郎の大政奉還論に共鳴し、参政に任じられて薩土盟約の締結に加わった。当初から武力倒幕路線を歩んでいた薩摩に対して、左膳は和平路線を貫き、薩土盟約書の成文化を担当。盟約破綻後も大政奉還路線を推進した。
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