荻生徂徠墓
名称: | 荻生徂徠墓 |
ふりがな: | おぎゅうそらいのはか |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 東京都 |
市区町村: | 港区三田四丁目 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1949.07.13(昭和24.07.13) |
指定基準: | 史7 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 荻生徂来、字は茂卿、徂来はその号である。 江戸時代における儒学史上最も傑出した人物であつて、又経世の才に富んでいた。古文辞学を提唱し、護園学派の祖としてその学殖は卓拔、又後世に影響するところが多かった。 享保13年正月19日卒し、長松寺に葬られた。 三重の台石上に高さ約3尺1寸6分、幅約1尺2寸3分、奥行約8寸7分、頭部櫛形の棹石を立て、表面に隷書で「徂■物先生之墓」と刻し、背面には松平忠統撰■鳥石の書にかかる銘文が彫られている。 |
荻生徂徠墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 08:15 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動荻生徂徠墓(おぎゅうそらいはか)は、東京都港区三田四丁目にある荻生徂徠の墓で、国の史跡。荻生徂徠は、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者で、徳川吉宗に重用され、古文辞学を提唱して護園学派の祖となった人物である。
概要
荻生徂徠は、享保13年(1728年)正月19日、63歳で死去し、三田の長松寺に葬られた。墓は三重の台石上に高さ約3尺1寸6分、幅は1尺2寸3分、奥行約8寸7分の頭部櫛形の棹石を立て、表面に隷書体で「徂徠物先生之墓」と刻し、背面には猗蘭侯(本多忠統)が墓誌を撰し、葛烏石(松下烏石)が書した旨を記した銘文が彫られている。
1949年(昭和24年)7月13日、国の史跡に指定された。史跡管理団体は長松寺である。
2000年(平成12年)3月に東京都教育委員会によって表示板が設置された。三田の忍願寺の駐車場内に石碑および説明板が設置されている。
関連項目
外部リンク
座標: 北緯35度38分38.4秒 東経139度44分16.2秒 / 北緯35.644000度 東経139.737833度
固有名詞の分類
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