続日本紀とは? わかりやすく解説

しょくにほんぎ【続日本紀】

読み方:しょくにほんぎ

平安初期の歴史書。六国史(りっこくし)の第二40巻。菅野真道(すがののまみち)・藤原継縄(ふじわらのつぐただ)らの編。延暦16年797成立文武天皇即位文武元年697)から桓武天皇延暦10年(791)までを、漢文編年体記述続紀


続日本紀

読み方:ショクニホンギ(shokunihongi)

古代の歴史書。六国史一つ2番目)。


続日本紀(金沢文庫本)


続日本紀

読み方:ショクニホンギ(shokunihongi)

分野 歴史書

年代 平安前期

作者 藤原継縄〔撰〕


続日本紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/28 04:14 UTC 版)

続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らによって延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体漢文表記である。略称は続紀(しょっき)[1]

編纂

編纂は、前半部と後半部で異なる事情を持つ。

前半ははじめ、文武天皇元年(697年)から天平宝字元年(757年)、孝謙天皇の治世までを扱う30巻の構想として作られた。笹山晴生淳仁天皇の時代の藤原仲麻呂(恵美押勝)政権下で編纂され、恵美押勝の乱の影響で不十分な草案に終わったと推定している。光仁天皇が、この草案の修正を石川名足淡海三船当麻永嗣に命じたが、彼らは天平宝字元年紀を紛失した上、未完成に終わった(この年の前後には政争絡みの事件も多かったため、執筆者間で意見をまとめることが出来ずに紛失ということにしたとする説もある)。桓武天皇の命により編纂を菅野真道、秋篠安人中科巨都雄が引き継ぎ、全20巻とした。

後半は当初、天平宝字2年(758年)からおそらく宝亀8年(777年)、淳仁天皇から光仁天皇までを扱うものとして、桓武天皇の命で編纂された。石川名足、上毛野大川が詔によって編集した20巻を、藤原継縄、菅野真道、秋篠安人が14巻に縮め、延暦13年(794年)にいったん完成した。菅野真道、秋篠安人、中科巨都雄は、さらに6巻、すなわち桓武天皇の治世のうち延暦10年(791年)までを加え、全20巻とした。

以上あわせて40巻の編纂が成ったのは、延暦16年(797年)であった。

内容

「日本」という国家が形成されていく過程を神話をまぜて描いた『日本書紀』とその国家が形成された後の歩みを描いた『続日本紀』以後の勅撰国史では、その内容に違いが生じてくる。また、律令国家が整えられたことにより、内記外記図書寮などに不十分ながらも記録や公文書が蒐集される仕組が形成されてきたことが記録の充実をもたらすことになる。中国の国史編纂の基礎となった起居注[注釈 1]に相当するものは日本では「内記日記」といい、これを作成する仕組みも組織された。

全般に記述が簡潔で、事件の要点のみを記して詳細に及ばない。簡潔過ぎて養老律令のような重要事件が脱落した例が見られる。一部の人物の死亡記事に簡単な略伝(薨伝(こうでん))を付し、これは後続の史書に踏襲された。

記事中の日付に関しては干支を持って記されているが、稀に『類聚三代格』などに採録されて現存している公文書に記載されている日付の数字と食い違っている事例がある。これは干支に換算する際の計算もしくは記載ミスであるとみられている。また、天皇の即位記事に関しては、天皇の代替わりが巻首に来ているものと、巻の途中に来てしまっているものがあって不統一な体裁となっているが、これは度重なる校訂によって巻次構成が変更された影響によるとみられる。

政治的配慮は、桓武天皇の治世の記述において顕著である。天皇の心痛となった早良親王廃太子の記事は、事件の発端となった藤原種継暗殺事件とともに、いったん記載されたものが後に削除された。削除部は平城天皇の代に復活したが、嵯峨天皇によって再び消されて今に至る。消された部分は『日本紀略』に採録されている。この背景には早良親王が怨霊になったとする説と関係があると言われている[注釈 2]

また、藤原広嗣の乱における謀反人・藤原広嗣に対する好意的な記事や宇佐八幡宮神託事件及び道鏡に関する記述に政治的意図が含まれているという説もある。これとは別に、編纂過程で30巻分あった内容を20巻分に圧縮しているため、重要な内容でも削除された記述があるのではないか、とする指摘もある[2]。ただし、『日本書紀』と比べれば、続紀の信頼性はずっと高いと考えられている。“天平文化”をとりまく諸側面を解明し、本格的な実録として最初に整備された史書である。

『続日本紀』には、『官曹事類』と『外官事類』が付属した。前者は本文に掲載しなかった文書類を原文そのままに項目別に配列したもの、後者は内容不明でおそらく前者に似たものであろう。どちらも失われた。

『続日本紀』目次 (主要事項)

  • 天之眞宗豊祖父天皇(あめのまむねとよおおじのすめらみこと)(第四十二代)文武天皇
  • 日本根子天津御代豊國成姫天皇(やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)(第四十三代)元明天皇
    • 卷第四 元明紀一 慶雲四年七月より和銅二年十二月まで
    • 卷第五 元明紀二 和銅三年正月より和銅五年十二月まで
    • 卷第六 元明紀三 和銅六年正月より霊亀元年八月まで
  • 日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたかみずきよたらしひめのすめらみこと)(第四十四代)元正天皇
    • 卷第七 元正紀一 霊亀元年九月より養老元年十二月まで
    • 卷第八 元正紀二 養老二年正月より養老五年十二月まで
    • 卷第九 元正紀三 聖武紀一 養老六年正月より神亀三年十二月まで
  • 天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)(第四十五代)聖武天皇
    • 卷第十 聖武紀二 神亀四年正月より天平二年十二月まで
    • 卷十一 聖武紀三 天平三年正月より天平六年十二月まで
      • 大地震(畿内七道地震)発生。聖武天皇が(地震の発生は)不徳の致すところとする詔を記載[3]
    • 卷十二 聖武紀四 天平七年正月より天平九年十二月まで
    • 卷十三 聖武紀五 天平十年正月より天平十二年十二月まで
    • 卷十四 聖武紀六 天平十三年正月より天平十四年十二月まで
    • 卷十五 聖武紀七 天平十五年正月より天平十六年十二月まで
    • 卷十六 聖武紀八 天平十七年正月より天平十八年十二月まで
      • 美濃国で大地震が発生。櫓や館、正倉、仏寺堂舎や百姓家がみな倒壊。
    • 卷十七 聖武紀九 孝謙紀一 天平十九年正月より天平勝宝元年十二月まで
  • 宝字称徳孝謙皇帝(ほうじしょうとくこうけんこうてい)(第四十六代)孝謙天皇
    • 巻十八 孝謙紀二 天平勝宝二年正月より天平勝宝四年十二月まで
    • 卷十九 孝謙紀三 天平勝宝五年正月より天平勝宝八歳十二月まで
    • 卷二十 孝謙紀四 天平宝字元年正月より天平宝字二年七月まで
  • 淡路廃帝(あわじはいたい)(第四十七代)淳仁天皇
    • 卷二十一 淳仁紀一 天平宝字二年八月より天平宝字二年十二月まで
    • 卷二十二 淳仁紀二 天平宝字三年正月より天平宝字四年六月まで
    • 卷二十三 淳仁紀三 天平宝字四年七月より天平宝字五年十二月まで
    • 卷二十四 淳仁紀四 天平宝字六年正月より天平宝字七年十二月まで
    • 卷二十五 淳仁紀五 天平宝字八年正月より十二月まで
      • 孝謙天皇譲位、大炊王即位(淳仁天皇)、藤原仲麻呂に恵美押勝の姓を賜う。小野田守帰国し、唐の安禄山の乱を報告。
      • 唐招提寺建立。新羅の攻撃を準備。
      • 藤原仲麻呂、大師に任ぜられる。光明皇太后崩。
      • 近江保良宮を北京とする。
      • 孝謙上皇と淳仁天皇不和となる。孝謙出家。多賀城秋田城など整備。全国的に飢饉、疾病。
      • 藤原良継らの仲麻呂打倒計画挫折。鑑真没。道鏡少僧都に任じられる。
  • 孝謙天皇重祚 (第四十八代)称徳天皇 
    • 卷二十六 称徳紀一 天平神護元年正月より十二月まで
    • 卷二十七 称徳紀二 天平神護二年正月より十二月まで
    • 卷二十八 称徳紀三 神護景雲元年正月より十二月まで
    • 卷二十九 称徳紀四 神護景雲二年正月より神護景雲三年六月まで
    • 卷三十 称徳紀五 神護景雲三年七月より宝亀元年九月まで
      • 藤原仲麻呂(押勝)、道鏡の排除を企てるが敗死。道鏡大臣禅師となる。淳仁天皇を淡路に流し、孝謙上皇重祚する。
      • 墾田永年私財法停止。淳仁天皇、幽閉所脱走を図り死亡。道鏡太政大臣となる。
      • 道鏡、法王となる。
      • 法王宮職を設ける。
      • 筑前大台城が完成。
      • 県犬飼姉女ら、称徳女帝を呪詛したこと発覚、遠流。
  • 天宗高紹天皇(あめむねたかつぎのすめらみこと)(第四十九代)光仁天皇
    • 卷三十一 光仁紀一 宝亀元年十月より宝亀二年十二月まで
    • 卷三十二 光仁紀二 宝亀三年正月より宝亀四年十二月まで
    • 卷三十三 光仁紀三 宝亀五年正月より宝亀六年十二月まで
    • 卷三十四 光仁紀四 宝亀七年正月より宝亀八年十二月まで
    • 卷三十五 光仁紀五 宝亀九年正月より宝亀十年十二月まで
    • 卷三十六 光仁紀六 桓武紀一 宝亀十年正月より天応元年十二月まで
  • 日本根子皇統弥照尊(やまとねこみすまるいよよてらすのみこと)(第五十代)桓武天皇
    • 卷三十七 桓武紀二 延暦元年正月より延暦二年十二月まで
    • 卷三十八 桓武紀三 延暦三年正月より延暦四年十二月まで
    • 卷三十九 桓武紀四 延暦五年正月より延暦七年十二月まで
    • 卷四十 桓武紀五 延暦八年正月より延暦十年十二月まで

版本

刊本

  • 〈国立歴史民俗博物館蔵 貴重典籍叢書〉本、全5冊
国立歴史民俗博物館館蔵史料編集会 編、臨川書店〈国立歴史民俗博物館蔵 貴重典籍叢書〉、全5巻、1999-2000年) 一 ISBN 4-653-03527-X、二 ISBN 4-653-03528-8、三 ISBN 4-653-03529-6、四 ISBN 4-653-03530-X、五 ISBN 4-653-03531-8
有栖川家旧蔵本を底本とする。永正12年(1515年)に三条西実隆公条父子が卜部家相伝本を書写して7冊本に編成した三条西家本より出た写本群の一つに属し、江戸時代初期の書写と推定される。
坂本太郎 校訂、吉川弘文館、1968年) 前篇 ISBN 4-642-00003-8、後篇 ISBN 4-642-00004-6
(吉川弘文館、2000年) ISBN 4-642-00303-7
  • 『続日本紀 蓬左文庫本』 八木書店影印本、全5冊
(解題・校勘記: 吉岡眞之・石上英一八木書店、1991-1993年)
巻11-40の30巻分が鎌倉時代書写の金沢文庫本である。これらは卜部家本系統以外の極めて希少な写本であり、価値が高い。

注釈・訳注

(1985-1989年) 1 ISBN 4-329-00375-9、2 ISBN 不詳、3 ISBN 4-329-00377-5、4 ISBN 4-329-00378-3、5 ISBN 4-329-00379-1、6 ISBN 4-329-00380-5、7 ISBN 4-329-00381-3
(1986-1992年、ワイド版2008年) 1 ISBN 4-582-80457-8、2 ISBN 4-582-80489-6、3 ISBN 4-582-80524-8、4 ISBN 4-582-80548-5
(1992-1995年、現代語訳のみ)上 ISBN 4061590308、中 ISBN 4061590316、下 ISBN 4061590324
(1989-2000年) 一 ISBN 4-00-240012-3、二 ISBN 4-00-240013-1、三 ISBN 4-00-240014-X、四 ISBN 4-00-240015-8、五 ISBN 4-00-240016-6、別巻 ISBN 4-00-240103-0

脚注

注釈

  1. ^ 天子の言行を側近が記録したもの。
  2. ^ 記述が復活された平城朝では藤原種継の遺児である藤原薬子が平城天皇の寵愛を受けていた時期と重なる。また、平城天皇自身が早良親王の廃太子によって皇太子となった人物であり、早良親王怨霊説の否定は天皇の皇位継承の正当性を主張する上で必要であったとも言われている。

出典

  1. ^ 続紀 - コトバンク
  2. ^ 荊木美行「“日本書紀”とはなにか」『日本書紀の成立と史料性』燃焼社、2022年、67-68・73頁。ISBN 978-4-88978-157-1。(原論文:『古典と歴史』第10号、燃焼社、2021年)
  3. ^ 安田政彦『災害復興の日本史』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2013年、10頁。 ISBN 978-4642057615全国書誌番号: 22196456 

参考文献

外部リンク


続日本紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 02:19 UTC 版)

吉美侯部」の記事における「続日本紀」の解説

715年霊亀元年3月25日 - 相模国足上郡の人で丈部造智積と君子麻呂郷里表彰し終身無税とした。孝行旌表したものである。 724年神亀元年2月22日 - (前略従七位下大伴直南淵麻呂従八位下錦部安麻呂無位烏安麻呂、外従七位上角山君内麻呂。外従八位下大伴國持。外正八位上壬生直國依。外正八位下日下部使主荒熊、外従七位上香取五百嶋、外正八位下大生部三穂麻呂、外従八位上君子部立花、外正八位上史部麻呂、外従八位上大伴直宮足らは、陸奥国鎮所に私穀を献じたので、外従五位下授けた725年神亀2年1月22日 - 聖武天皇朝廷にて征夷将軍ら1,696人に勲位叙する詔を行ったそれぞれに功績に応じて)差をつけた。正四位上藤原朝臣宇合は従三位勳二等に、従五位上大野朝臣東人従四位勳四等に、従五位上高橋朝臣麻呂正五位下勳五等に、従五位下中臣朝臣廣見従五位上勳五等に、従七位下後部王起正八位上佐伯宿称首麻呂五百原君麻呂従七位下君子麻呂従八位上出部直佩刀少初位上朝臣牟良自、正八位上田辺難波従六位下坂本朝臣宇頭麻佐、外従六位上丸子大國、外従八位上國覓忌寸麻呂10人は勳六等叙し賜田2町を与えた733年天平5年9月23日 - 遠江国榛原郡人君子部眞塩の女(娘)は一度三つ子男子産んだ大税200束と乳母1人賜った752年天平勝宝4年6月17日 - 外正六位下君子部和氣遠田君小捄、遠田君金夜を外従五位下叙した。(後略757年天平宝字元年3月27日 - 孝謙天皇は、「これより後、君子部改め吉美侯部とする」と勅した。 764年天平神護元年3月16日 - 従六位下朝臣犬養従五位下とした。尾張国三河国播磨国石見国紀伊国阿波国等が飢饉となったので、これを助けた越前国足羽郡の人である、従五位下益田縄手益田連を、外従五位下吉弥侯根麻呂ら4人に下毛野公を、外従五位下葛木毘登大床ら7人に葛木宿禰の姓を賜った767年神護景雲元年7月19日 - 正五位上右少弁西大寺次官である大伴宿祢麻呂駿河守とし、これを兼務させた。陸奥国宇多郡の人である外正六位上勳十等吉弥侯部麻呂上毛野陸奥公の姓を賜った10月15日 - 称徳天皇は以下のように勅した。「陸奥国奏上を見るに、伊治城築城始めてから30日にも満たず完成したようである。朕はこれを大変な偉業だと思う。夫れは、危険に臨み生命忘れた忠勇現れである。天命まっとうしたため早期成功成したのである築城は単に外敵制するだけでなく、国境防衛負担減らし辺境安んじることを可能とするものである若し昇進させなかったら、どうして後の者にこれを勧められようか。身の危険顧みず忠節尽くした者をいたわり宜しく酬、賞、式を加えものとする従四位下田中朝臣多太麻呂正四位下正五位下石川朝臣名足大伴宿祢益立に正五位上従五位下上毛野朝臣稲人、大野朝臣石本従五位上授け外従五位下道嶋宿祢三山築城首長としてかかる計画立て築造成しこのような美功となったので、特に従五位上賜り、また外従五位下吉弥侯部眞麻呂先を争って殉国遂に狄徒を馴服帰順せしめたので特に外正五位下に進階させる。このほか、諸軍軍毅上の者、諸国の軍士、蝦夷俘囚等で築城協力的取り組んだ叙位者は、鎮守将軍宜し評定して奏聞すること。」 769年神護景雲3年3月13日 - 陸奥国白河郡の人で外正七位上丈部子老、賀美郡の人で丈部国益標葉郡の人で正六位上丈部賀例努ら10人に阿倍陸奥臣、安積郡の人で外従七位下丈部継足阿倍安積臣、信夫郡の人で外正六位上丈部大庭らに阿倍信夫臣、柴田郡の人で外正六位上丈部嶋足に安倍柴田臣、会津郡の人で外正八位下丈部2人阿倍会津臣、磐城郡の人で外正六位上丈部山際に於保磐城臣、牡鹿郡の人で外正八位下春日部麻呂ら3人に武射臣、亘理郡の人で外従七位上の宗何部池守ら3人に湯坐亘理連、白河郡の人で外正七位下の靭大伴部継人、黒川郡の人で外従六位下の靭大伴部ら8人に靭大伴連、行方郡の人で外正六位下大伴部三田ら4人に大伴行方連、苅田郡の人で外正六位上大伴部人足大伴苅田臣、柴田郡の人で外従八位下大伴部麻呂大伴柴田臣磐瀬郡の人で外正六位上吉弥侯部人上に磐瀬朝臣宇多郡の人で外正六位下吉弥侯部文知に上毛野陸奥公、名取郡の人で外正七位下吉弥侯部老人賀美郡の人で外正七位下吉弥侯部大成ら9人に上毛野名取朝臣信夫郡の人で外従八位下吉弥侯部足山守ら7人に上毛野山公新田郡の人で外大初位上の吉弥侯部豊庭に上毛野中村公、信夫郡の人で外少初位上吉弥侯部広国に下毛野静戸公、玉造郡の人で外正七位上吉弥侯部念丸ら7人に下毛野俯見公の姓を賜った。これは、大国造の道嶋宿祢嶋足の申請よるものである。 773年宝亀4年1月15日 - 出羽国の人で正六位上吉弥侯部大町外従五位下授けた。軍粮を援助したことによる777年宝亀8年12月14日 - 初め陸奥鎮守将軍の紀朝臣廣純が「志波の賊がのように結集して欲しいがままに毒しました。出羽国は軍を出してこれに与し戦いました敗退しました。」と言上したので、近江介従五位上佐伯宿祢久良麻呂鎮守副将軍とし、出羽国平定するよう命令した正五位下勳五等の紀朝臣純に従四位勳四等を、従五位上勳七等佐伯宿祢久良麻呂正五位下勳五等、外正六位上吉弥伊佐西古および第二等の伊治公呰麻呂外従五位下勳六等百済王俊哲勳五等授けたそれぞれに差があった。 778年宝亀9年6月25日 - 陸奥國および出羽国国司以下、征戦に功の有った者2,267人が爵された。(宝亀8年12月14日の条の昇叙と同じ内容) 賜爵を受けられなかった者には禄が授けられ、これにも差が有った。父が戦死した子もまた例に依り叙された。 779年宝亀10年1月13日 - 従五位上の紀朝臣船守に正五位上従六位下吉弥侯横刀外從五位下授けた9月4日 - (前略外従五位下吉弥侯横刀将監とされた。(後略783年延暦2年1月20日 - 紀朝臣木津吉弥侯横刀ら8人は早朝から夜まで公庁在り勤めて怠らなかった。これにより詔があり進爵した。従五位下朝臣木津従五位上外從五位下吉弥侯横刀正六位上朝臣入居、三嶋真人名継に従五位下正六位上出雲臣嶋成、嶋田宮成筑紫廣嶋、津連真道外從五位下授けた2月25日 - (前略従五位下吉弥侯横刀上野介とした。(後略3月21日 - 従五位下吉弥侯横刀正八位下吉弥夜須麻呂下毛野朝臣の姓を賜った。また外正八位上吉弥間人同姓の総麻呂下毛野公の姓を賜った

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