白起八面六臂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:33 UTC 版)
紀元前279年と紀元前278年、昭襄王は白起に命じて楚を討った(鄢・郢の戦い)。楚の鄢と鄧の地を取り、罪人を赦してこの地方に移し、南郡として秦の版図とした。楚の頃襄王は東に逃亡した。この功で、白起を封じて武安君とした。また、紀元前277年には蜀郡郡守の張若に命じて楚を討ち、巫郡および江南を取り、秦の版図として黔中郡とした。 南方の大国であった楚は大きく版図を秦に奪われることとなった。 紀元前276年、白起を楚に続いて魏の討伐に命じる。魏の2城を取るなど魏討伐でも活躍した。 紀元前275年には魏冄にも魏の討伐を命じ、魏の首都大梁まで迫り、魏将暴鳶の軍を破って遁走させた。余勢を駆って、紀元前274年に客卿の公孫胡昜にも魏の討伐を命じ、魏の巻・蔡陽・長社の地を取った。紀元前273年に魏将芒卯の軍を破り、首級13万を挙げた(華陽の戦い)。戦国七雄の一国に数えられた魏は大きく衰退した。 この年、秦に従わない趙を白起に命じて討った。白起は趙将賈偃と戦い、その士卒2万人を河中に沈めることに成功した。続いて昭襄王は討伐した魏を臣事させ、白起に命じて本格的な楚討伐に乗り出そうとした。 秦に使いに来ていた楚の春申君はこれを聞き昭襄王に上書した。春申君は、「今、天下には秦と楚より強い国はありません。王は楚を討とうとされますが、これはちょうど二匹の虎が互いに戦うようなもので、ともに傷ついてしまい、良策とはいえません。また大王は天下の地を領有し、威力はここに極まったと言うべきです。この威力を保守し、仁義の道を厚くすれば、いにしえの三王(三皇)や五覇(春秋五覇)と肩を並べられましょう。ここは、逆に楚と和親されるのがよろしいかと存じます」と言った。 昭襄王はそれに従い、出兵を取りやめて楚と和親した。その後楚は、人質として太子完(後の考烈王)と春申君を差し出し、秦と楚の大国二国はしばらく争うことがなかった。 紀元前271年に、昭襄王は客卿の竈に命じて斉を討った。斉の剛・寿の地を取り、これを魏冄に与えた。魏冄の封地は拡大を続け、王族を凌ぐほどとなった。ここに魏冄の栄華は極まった。
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