海軍再建
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1896年(光緒22年)、張之洞が創設した自強軍に招聘されて呉淞砲台総台官に任命される。さらに自強軍幇統兼「通済」管帯にも任命された。1899年(光緒25年)、北洋水師幇統に任命される。さらに清朝がイギリスから新たに購入した軍艦「海圻」艦長に任命された。1903年(光緒29年)7月、薩は広東南澳鎮総兵官に任命される。まもなく北洋水師統領に昇進した。1905年(光緒31年)、広東水師提督に昇進した。 1909年(宣統元年)2月より、薩鎮氷は粛親王善耆らとともに海軍組織の準備を開始し、同年7月に薩は籌備海軍大臣に任命された。9月、薩は世界各国を外遊して、各国の海軍事情を視察した。薩の帰国後、1910年(宣統2年)、海軍部が正式に発足して、薩は海軍統制に任命される。翌年には海軍副都統に任命された。海軍部組織や海軍再建では、実質的に薩がこれを指導し、日清戦争で壊滅した艦隊の再建を果たした。 1911年(宣統3年)10月10日、武昌起義が発生すると、薩鎮氷は艦隊を率いて漢口へ向かい、黎元洪ら革命派への攻撃を開始した。しかし、海軍内では革命派に同情してこれを支持する声が強く、また、黎元洪やイギリスの働きかけもあって、薩は次第に活動を鈍らせていく。まもなく、袁世凱内閣の海軍大臣に任命されたが、結局薩は就任しなかった。そして突然、単身で海軍を離脱し、福州へ逃走した。この後、海軍は次々と革命派への鞍替えが進んだ。
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