海洋論争
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17世紀前半には「海洋論争」といわれる学術的対立が繰り広げられた。例えばグロティウスは、母国オランダを擁護する観点からオランダの通商を排除しようとするポルトガルに対抗し、『自由海論』(1609年)を刊行して何人も海を所有しえないと主張した。グロティウスの主張によれば、海はその自然的性質から境界を確定することが困難であるため所有や領有の対象とはなりえず、万民による利用のために開放されるべきという。この主張は後の海洋の自由の原則形成に大きな影響を与えたが、当時は多く論者がグロティウスの主張に異を唱えた。その中でも代表的であったのがセルデンの『閉鎖海論』(1635年)である。セルデンは同書の中で、歴史的な慣行に照らせば海軍力による支配や国家権力の行使などによって海洋の物理的支配は可能であると主張し、グロティウスの挙げた論拠を否定した。18世紀にはいり、重商主義や通商自由主義が高まっていくと「海洋論争」は「狭い領海」と「広い公海」の二元構造を認める方向に落ち着いていった。つまり、中央集権化の進む国家の秩序維持に必要な「狭い領海」と、通商の自由や海外植民地獲得などをもくろむ海洋先進国の自由競争が容認される「広い公海」の二元構造である。こうした考え方は当時の国際社会で受け入れられ、国際慣習法として確立した。
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海洋論争
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学説上もグロティウスが説いた海洋の自由の理論に対しては多くの学者が反論し、1610年代から30年代にかけて『自由海論』に反駁する著書が多く出版された。例えば自国を擁護する観点から、ポルトガルのセラフィム・ジ・フレイタスは『アジアにおけるポルトガル人の正当な支配について』(De justo imperio Lusitanorum asiatico, 1625)を、スペインのフアン・ソロルサノ・ペレイラは『インド法』(De Indiarum jure, 1629)を著わした。またイギリスのウィリアム・ウェルウッドは『海法要義』(An Abridgement of All Sea-Lawes, 1613年)、『海洋領有論』(De dominio maris, 1615年)などを著わしグロティウスに反論した。ウェルウッドの反論に対しグロティウスは『ウィリアム・ウェルウッドによって反論された自由海論第5章の弁明』(Defensio Capitis Quinti Maris Liberi Oppugnati a Guilielmo Welwodo)を執筆し再度海洋の自由を主張しようとしたが、これは未完成でありグロティウスによって出版されることはなく、『捕獲法論』の原稿とともに1864年に発見され1872年にサミュエル・ムーラー著『閉鎖海論』(Mare clausum)の付録として出版された。これはグロティウス自身が書いた唯一の反論であるといわれる。イギリスのジョン・セルデンが著わした『閉鎖海論』(Mare clausum, 1635年)は『自由海論』に反駁した書籍のなかでも最も有名な著書である。セルデンはこのなかで、海水は流動的であっても海そのものが変化するわけではないため海の物理的な支配が可能であるとし(グロティウスが説いた自然的理由の否定)、海は無尽蔵ではなく航行・漁業・通商などによって海の利益は減少するため万民の共同使用に適しているという主張は事実に反する(グロティウスが説いた道徳的理由の否定)としたのである。前述のようにこの時期イギリスは「イギリスの海」を主張し自国沿岸の漁業独占を目指していて、とくにイギリスの学者たちはイギリスのこうした立場を正当化するために『自由海論』に反論した。つまりグロティウスはオランダの東インドへの航行の自由の論拠として海洋の自由を主張したのに対し、セルデンはイギリスによる近海漁業の支配の論拠として海が領有可能であることを主張したのである。『閉鎖海論』の出版当時には『自由海論』よりも大きな支持を集め、また『閉鎖海論』ほうがより当時の諸国の慣行に一致していたともいわれる。こうして17世紀前半に展開された学術的論争は「海洋論争」といわれ、近代の海洋法形成の契機となった。
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