江戸での医業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 13:04 UTC 版)
一町田中村磯野弘道かその父鶴堂に医業を学んでいた蕉園は、総髪のため医者稼業を認められ、本郷竹町で売薬を営んだ。文化13年(1816年)10月頃通油町酒屋隣に移り、文政元年(1818年)春頃鉄砲町に移った。伝馬町の豪商紺屋の子の火傷を治したところ、回診の際に駕籠を手配してくれるようになったという。 江戸での生活は苦しく、文政元年(1818年)4月佐藤祥三から金20両を借金している。文政元年(1818年)夏、旧領民が100両を集め、狐新居村荒井甚五左衛門、一町田中村佐藤祥三、荒巻村今泉綱右衛門の3名が江戸に持参したが、蕉園は受け取らなかったため、帰国後これを資金として一町田中村白山神社に生祠が創建された。 文政2年(1819年)小火に類焼したところ、母が火事を恐れて江戸を離れたがったため、7月29日養子修三に家督を譲り、川越に移った。程なく母の気が変わると江戸に戻り、浅草の借家に住んだ。
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