民主化運動弾圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 03:44 UTC 版)
朴正煕が終始民主化運動を徹底的に弾圧し、終身大統領として自身の権力を死ぬまで保持しようとしたこと、朴政権下での拷問、不当逮捕を含む強権政治が大統領の死後も2代の軍事政権に引き継がれ、韓国の民主化を阻んだことも事実であり、内政における自由化が遅れる原因となった。 批判的な見地からは、独裁者としての批判に加えて、朴正煕を日本統治時代における対日協力者・親日派とする意見もあり、実際2005年8月29日に韓国の市民団体民族問題研究所、ならびにその傘下の親日人名辞典編纂委員会より発表された「親日人名辞典」の第1回リストに記載された。2004年に日本統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法が可決され、その時代に日本の陸軍士官学校で学び、満州国国軍に参加していた朴正煕もそれに含まれる(最終的には保守派の反対を受け、該当しないように配慮されることとなる)という一幕もあった。 これらは韓国で行われている歴史見直しの一環であるが、次期大統領選絡みで、朴の娘であり有力候補の一人であったハンナラ党(当時名称)党首・朴槿恵の人気低下を狙ったという見方もある。朴正煕や全斗煥政権など韓国の軍事政権が行った開発独裁政治に、日本統治時代の朝鮮統治の手法や理念がどれだけ影響を与えていたかは、歴史家によって意見がまちまちである。 国外からは、反共産主義同盟の強化を意図するアメリカ政府や日本政府などを除けば、朴正煕政権は批判的に評されることが多かった。特にセマウル運動については、農業近代化であるよりも相互監視を機能させるための農村の強制的な組織化であるとして、全体主義的な組織化になぞらえる論考も日本では生まれた。
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