武家としてとは? わかりやすく解説

武家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/30 15:23 UTC 版)

東野氏」の記事における「武家として」の解説

近江鎌倉時代より代々佐々木氏守護職世襲し、室町時代には佐々木氏信を祖とする京極氏北近江を、佐々木泰綱を祖とする六角氏が南近江守護として治めていた。1467年応仁の乱が始まると、京極持清六角高頼それぞれ東軍西軍分かれて互いに争うようになる。この時東野氏京極氏配下として、他の北近江小領主供に出陣した東野氏東野東方東野山に居城築き本拠地とした。 行重の嫡男周防行信は、京極氏から余呉庄の地頭任じられる1510年行信鳥居本での京極高清六角氏綱戦いにおいて、磯野吉・井口宮内らとともに京極方として出陣し戦功挙げるその後京極氏従い転戦するが、一族から多く戦死者を出すことになる。 京極家実権浅井亮政握られると、浅井氏仕えるようになる3代目浅井長政織田信長敗北する寸前まで浅井支えたが、1573年浅井氏滅亡した後には、東野戻り閉居した。『東浅井郡史』によると、東野左馬助政行、千田采女正西山右衛門らは防戦し、浅井久政自害助けている。 東野にあった居城は、1583年賤ヶ岳の戦いの際に堀秀政が砦として再構築し、実戦使用された。現存する遺構も、その当時のものと考えられている。 行信長男左京進秀行は武士あきらめ曲直瀬道三医学学び余呉中之郷医業始める。秀行の長男左京進行是は、一旦は丹羽氏仕え1200石を与えられるが、後に浪人すると中之郷帰り医業継いだ。 秀行の次男左馬助行信は、1585年近江国長浜城となった山内一豊召抱えられ、300石を得て再び武士となる。小田原征伐関ヶ原の戦い出陣し功をなす。関ヶ原の戦いの後、徳川家康から土佐国一国与えられた一豊に従い土佐に移る。そのため、土佐東野近江東野と、系譜分かれることになる。行信は7千石与えられ伊予守名乗る山内氏重臣のひとりとなり、明治に至るまで代々高知城主の家臣として仕えた行信の子、幸政は1400石を与えられ江戸城丹波篠山城の普請に関わった。大坂冬の陣には中備え大将として従軍し、功をあげた。

※この「武家として」の解説は、「東野氏」の解説の一部です。
「武家として」を含む「東野氏」の記事については、「東野氏」の概要を参照ください。

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