東金堂の概要
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東金堂(とうこんどう)は、『興福寺流記』に引く「弘仁記」によれば、神亀3年(726年)、聖武天皇が叔母にあたる元正太上天皇の病気平癒を祈願して建立したものである。 東金堂は治承4年(1180年)の平重衡の兵火を含め5回焼失し、その都度再建されている。最初の焼失は寛仁元年(1017年)で、隣の五重塔が落雷で焼け、東金堂も類焼した。永承元年(1046年)には寺内の主要建物の大部分を焼く大火があり、東金堂も焼けている。治承の兵火後、嘉暦2年(1327年)の大火では焼け残ったが、文和5年(1356年)と応永18年(1411年)には五重塔とともに焼けている。現存する東金堂は応永22年(1415年)の建立である。 『興福寺流記』に引く「宝字記」によれば、奈良時代の東金堂には本尊の丈六薬師如来像と両脇侍菩薩像が安置されていた。同流記に引く「延暦記」によれば、この他に純銀弥勒菩薩像、金銅阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が安置されており、さらに「弘仁記」によれば、文殊菩薩像、維摩居士像、観音菩薩像、虚空蔵菩薩像、梵天・帝釈天像、四天王像、金剛・密迹力士(こんごう・みっしゃくりきし、仁王)像、正了知神(しょうりょうちしん)像、羅睺羅(らごら)像、天女像が安置され、堂背面には新羅伝来の釈迦三尊像が安置されていた。 治承の兵火後の東金堂再建は、元暦2年(1185年)には完成していたが(『玉葉』)、仏像の復興は進んでいなかった。その後、文治3年(1187年)、東金堂衆らが飛鳥の山田寺に押し入り、同寺講堂本尊の金銅薬師三尊像を強奪してきて、興福寺東金堂の本尊に据えるという事件が発生した。この旧山田寺像も応永18年(1411年)の火災で被災。両脇侍像は助け出されたが、薬師如来像は搬出できず、焼失をまぬがれた頭部だけが現存する。この薬師如来像頭部(いわゆる「興福寺の仏頭」)は、再建後の東金堂本尊台座内に収納され、昭和12年(1937年)に再発見されるまで、その存在は知られていなかった。 現在の東金堂には薬師三尊像(薬師如来と両脇侍菩薩像)を中心とする諸仏を安置する。須弥壇中央に本尊の薬師如来坐像、その左方(向かって右)に脇侍の伝・日光菩薩立像、右方(向かって左)に脇侍の伝・月光(がっこう)菩薩立像を安置する。薬師如来像と日光菩薩像の間には文殊菩薩坐像、薬師如来像と月光菩薩像の間には維摩居士坐像を安置する。これら諸仏の間には薬師如来を守護する十二神将立像12体が立ち、須弥壇の四隅には四天王立像が立つ。薬師如来像は銅造で、応永の火災後の再興。同じく銅造の日光・月光菩薩像は旧山田寺像で、奈良時代の作品であるが、前述の薬師如来像頭部(仏頭)よりは時代が下る。文殊菩薩像、維摩居士像、十二神将像は鎌倉復興期の像。四天王像は平安時代の作で、もともとどの堂宇にあったものか不明である。
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