東西統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 05:47 UTC 版)
1989年にベルリンの壁が崩壊し、翌1990年にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)の統合が実現した。 しかし蓋を開けてみると、「新生ドイツ」の政権は旧西ドイツの顔ぶれがそのままで、「統一まで制定せず」と「ドイツ基本法」にとどまっていた「ドイツ憲法」も制定されず「基本法」を格上げすることにとどまった。また、東ドイツの行政区画は東ベルリンが西ベルリンと統合されて都市州ベルリンに、他の地域は新連邦州5州に再編され、「基本法」を受け入れることになった。 そのため、ドイツ再統一は「対等統一」とは名ばかりの「西による東の吸収合併」という事態になり、「統一のユーフォリア」から醒めると旧東ドイツには厳しい現実が待ち構えていた。旧東ドイツ地域への政治的配慮として、実勢レートとはかけ離れた東西マルクの等価交換を行ったことが一面仇となり、旧東ドイツ地域の製造業は軒並み競争力を失うこととなった。「社会主義の優等生」といわれた東ドイツ経済も、当時GDP世界第3位の経済大国であった西ドイツの経済には太刀打ちできず、次々と国営企業は倒産・閉鎖に追い込まれた。東ドイツ・マルクの等価回収を皮切りに、旧東ドイツ地域のインフラ再整備や高率の失業への対処などのため国の財政支出が増大することに対して、旧西ドイツ市民の中には旧東ドイツ地域を厄介者扱いする向きも現れ、それが旧東ドイツ市民のプライドを傷つけることとなった。
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