東芝時代
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デビューからスタッフや状況が変わったことや、アルバム製作が一段落着いたということもあり、環境のリセットを考えていた村田は東芝EMIへ移籍する。当時大流行していた打ち込みによる音作りを大胆に持ち込んだアルバム『GO POP』を1988年にリリース。アレンジも他人に委ねた本作は、村田独自のポップなメロディーは健在ながら、これまで培った生音中心の綿密な音作りと逆方向の仕上がりになった。ボストンでミックスダウンを行う予定が、ミキサーがナッシュビルに滞在していた為、ナッシュビルのスタジオにてミックスダウンを行う。村田はミキサーを気に入り、後年、「空を泳ぐ日」、「Hello Again」のミックスダウンも依頼。「空を泳ぐ日」はボストンでミックスダウン。パール兄弟のアルバムも同じミキサーが手掛ける。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}次作『太陽の季節』(1989年)はざっくりしたバンドサウンドに振った作品、『空を泳ぐ日』(1990年)は中村哲のアレンジで打ち込み中心。ボストンにてトラックダウン。ややMOONレーベル時代の作りに戻った感はあるものの、総じてやや停滞した音楽活動となってしまった感は否めなかった[独自研究?](「電話しても」のアンサーソング「電話しなくても」も収録)。また、村田本人もどこかルーチン的になってしまった音楽活動に新鮮さを失い、コーラスやアレンジの仕事をこなしつつ、湯川トーベンのフォークロックスや、J-WAVEの企画で、杉真理とのユニット「アロハ・ブラザース」、斎藤誠らとのユニット「21」を結成。杉山清貴、河内淳一とのユニット「INN&OUT」等のアマチュア的な音楽活動へ向かい、表舞台からは徐々に姿を消していくこととなった。
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