村上水軍の解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 19:17 UTC 版)
来島村上氏は、早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされ、他の二家は能島村上氏が小早川氏(その後、嗣子が無く断絶)、因島村上氏は毛利家の家臣となった。1588年(天正16年)に豊臣秀吉が海賊停止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされる。 因島村上氏は、そのまま毛利家の家臣となり、江戸時代には長州藩の船手組となって、周防国三田尻を根拠地とした。能島村上氏は毛利家から屋代島(周防大島)を与えられて臣従し、江戸時代には因島村上氏とともに長州藩船手組となった。来島村上氏は、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した結果、江戸幕府によって豊後国の内陸部にある玖珠郡に転封され(森藩)、一部の飛地藩領や海路による参勤交代を除いて、海から遠ざけられた。
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