最高裁判所訴訟
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「ジョン・ロス (チェロキー)」の記事における「最高裁判所訴訟」の解説
1828年12月20日、ジョージア州はアメリカ合衆国がチェロキー・ネーションの移住を実行に移せないことを恐れ、チェロキー族からその権利を剥奪する一連の抑圧法を法制化し、チェロキー族の移住を強制しようとした。このような情勢にあって、ロスはジョージア州とチェロキー・ネーションの間の年金不払いと境界に関する論争を解決するために、1829年1月にワシントンにまた代表団を連れて行った。ロスはジャクソン大統領との不毛な交渉に代表団を連れて行かず、アメリカ合衆国議会に直接請願を書き、大統領に対する習慣的な対話と請願は無しに済ませた。 ロスはアメリカ合衆国議会では、国民共和党の個人の中で、上院議員ヘンリー・クレイ、セオドア・フリーリングハイゼンやダニエル・ウェブスター、下院議員アンブローズ・スペンサーやデビー・クロケットの支持を得た。このような支持にも拘わらず、1829年4月、陸軍長官ジョン・イートン(在任1829年-1831年)はロスに、ジャクソン大統領はチェロキー・ネーションに対するジョージア州の法律を及ぼす権利を支持すると告げた。1830年、アメリカ合衆国議会はインディアン移住法を成立させることで、ジャクソンの強制移住政策を裏書きした。これは大統領が東部にいるインディアン・ネーションの土地との引き換えにミシシッピ川より西の土地を確保することを認めるものだった。 ロスとチェロキー族代表団がアメリカ合衆国政府の行政府や議会との折衝を通じてチェロキー族の土地を守ろうという運動に失敗したとき、ロスはアメリカ合衆国裁判所を通じてチェロキー族の権利を守ろうという過激な手段に転じた。1830年6月、ウェブスター上院議員やフリューリングハイゼン上院議員の薦めで、チェロキー族代表団はジェームズ・モンロー政権やジョン・アダムズ政権でアメリカ合衆国司法長官を務めたウィリアム・ワートを、アメリカ合衆国最高裁判所でチェロキー族の権利を弁護するものとして選出した。 ワートはチェロキー族のために2つの事件で弁論した。1つは「チェロキー・ネーション対ジョージア州事件」、もう一つは「ウースター対ジョージア州事件」だった。首席判事ジョン・マーシャルはその判決で、チェロキー・ネーションは主権国家であることを認めようとしなかった。マーシャルはジャクソン大統領にチェロキー族をジョージア州法から守る行動を強制しなかった。チェロキー・ネーションの主張は、チェロキー族が「国内の従属した主権であり」、そのために民族国家としてジョージア州を訴える権利を持っていないという根拠で否定された。裁判所は後にこの立場を「ウースター対ジョージア州事件」に拡張し、ジョージア州はその法律をチェロキー族の土地に拡げることはできないと裁定した。しかし、チェロキー族は十分に主権を持っているからではなく、国内の従属した主権であるからだった。かくして裁判所はチェロキー族がジョージア州に依存するのではなく、アメリカ合衆国に依存すると裁定した。これら一連の裁定によって、法を及ぼす権限は連邦政府に基本的に担保されたものであるからジョージア州はその法を拡張できないということになった。チェロキー族はジョージア州政府に合法的に抵抗できる主権と考えられ、そうすることを推奨された。 裁判所は、チェロキー族が究極的に連邦政府に依存するのであり、真の民族政府ではなく完全な主権は持たないと入念に主張した。インディアン移住法という形で連邦議会がこの問題全体を扱う連邦政府の立法権を行使したときに、この論争は疑わしいものになった。一連の判決はジャクソンを政治的に困らせ、ホイッグ党は1832年の選挙でこの問題を利用しようとした。ホイッグ党は「インディアン問題」は連邦政府が扱うのが最善であり、地方政府が扱うべきではないという以前の意見を大きく打ち出した。 1832年5月、最高裁判事ジョン・マクリーンはチェロキー族代表団との非定例の会合で、チェロキー族の状態に対するその見解を表明した。マクリーンの助言は「移住して準州となり、その土地全てにネーションだけが所有する特許を受け、連邦議会に代表を送るが、立法権と全公職を選出する権利全体をネーションに残すこと」だった。
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