方広寺鐘銘事件
方広寺鐘銘事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)
豊臣氏は家康の勧めで、地震等で滅失してしまった方広寺大仏(京の大仏)及び、大仏殿の再建に着手し、慶長19年(1614年)8月3日に大仏の開眼供養を行うことにした。ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めた。問題とされたのは「国家安康」で、大御所・家康の諱を避けなかったことが不敬であるとするものであった。「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したとする説もあるが(「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である)、これは後世の俗説である。 さらに8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた結果、五山の僧侶たちは「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。 これに対して豊臣氏は、家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し弁明を試みた。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。そして、豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告したのである。 この事件は、豊臣氏攻撃の口実とするために家康が以心崇伝らと画策して問題化させたものであると考えられているが、当時の諱の常識からすれば不敬と考えられるものであり、また近年研究では問題化に崇伝の関与はなかったとされている。 その後も鐘はアジア・太平洋戦争中の金属供出を免れ、鋳潰されることもなく方広寺境内に残されている(重要文化財)。
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