文化振興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 07:00 UTC 版)
アルフレッドはウェールズの学僧アッサーをはじめとし、マーシア出身のプレイムンド、ウェルフェルスなどを招聘し、荒廃したイングランドの学問の復興に当たらせた。ラテン語の文献を翻訳するなど学芸振興にも力を注ぎ、自らもラテン古典の英訳に携わった。アルフレッドが訳するよう指示したと言われる書物が聖グレゴリウス『対話』『司牧者の心得』、オロシウス『異教徒を駁する歴史』、ベーダ『英国民教会史』、ボエティウス『哲学の慰め』、聖アウグスティヌス『独白』『詩篇』である。そのうち『司牧者の心得』の序文は原典にはなく、アルフレッド作であると言われ、デーン人によるイングランドの文化衰退を嘆く文章となっている。 教育に関してもアルフレッドの尽力は評価が高い。前述の学者・学僧などの協力を得て宮廷学校を設立し、自身の子を筆頭に貴族の子などに教育を施した。 一方でアルフレッドはアングロサクソン年代記の作成を指示した。9つある写本と断片のうちで一番新しい記事は1154年であり、ベーダの『英国民教会史』などを参考に紀元前からの歴史が約250年の間に書き続けられたことになる。これらのアルフレッドが作成させた年代記や翻訳した文献は古英語の希少な研究対象としての価値も高い。 また、アルフレッド法典と呼ばれる法典の編纂を行った。この法典は旧約聖書の十戒など聖書の抜粋から始まり、ケント王エゼルベルト法典・ウェセックス王イネ法典と、イネ法典に強く影響を受けたマーシア王オファ法典などを参考にして編まれた。それに伴って裁判制度の改革を行い、王国をシャイアやハンドレッド (hundreds)に分割し地方裁判をきちんと行わせたり、フランク式誓約を導入したりした。これらの改革によってウェセックスの治安は厳粛に守られた。 晩年のアルフレッドは、デーン人の侵略によって荒廃したイングランドの復興に従事した。度重なる侵攻によって荒廃したロンドンをアルフレッドは立て直した。この際、当時の主流であった木造建築ではなく、石の建材が用いられた可能性がある。ロンドンの他にも外敵からの防衛拠点としての役割を持たせたバラ(borough)の建設など後世に引き継がれていく政策など行っている。
※この「文化振興」の解説は、「アルフレッド大王」の解説の一部です。
「文化振興」を含む「アルフレッド大王」の記事については、「アルフレッド大王」の概要を参照ください。
文化振興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 03:39 UTC 版)
「マヌエル1世 (ポルトガル王)」の記事における「文化振興」の解説
海外交易によって豊かになったマヌエルは、宮廷に芸術家や科学者を多く招き、パトロンとして彼らの活動を後援した。また、リスボンのジェロニモス修道院(1502年着工、1551年完成)やベレンの塔(1515年着工、1521年完成)、トマールのキリスト教修道院(1481年に回廊を増築)に代表される華美な建造物を新築または増改築した。これらには、アフリカ・アジアの珍しい動物や、珊瑚やロープなど海に関するものをモチーフとした装飾が過剰なほどに施された。このポルトガル独自の建築様式は、後に19世紀になって「マヌエル様式」と呼ばれるようになった。
※この「文化振興」の解説は、「マヌエル1世 (ポルトガル王)」の解説の一部です。
「文化振興」を含む「マヌエル1世 (ポルトガル王)」の記事については、「マヌエル1世 (ポルトガル王)」の概要を参照ください。
- 文化振興のページへのリンク