帖佐宗光とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 帖佐宗光の意味・解説 

帖佐宗光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/20 09:40 UTC 版)

 
帖佐宗光
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄3年(1560年
死没 元和2年3月10日1616年4月25日
別名 宗辰、通称:彦左衛門
戒名 竹隠栄修居士
墓所 鹿児島県鹿児島市南林寺
主君 島津義弘
氏族 帖佐氏
父母 父:帖佐宗治
宗康

帖佐 宗光(ちょうさ むねみつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将島津氏の家臣。

生涯

帖佐氏は平姓平田氏の一族。永禄3年(1560年)、帖佐宗治の子として誕生。

父・宗治は島津義弘足軽大将で、軍奉行等も務めた。宗光も足軽大将として義弘に仕え、天正10年(1582年肥前国田尻鑑種龍造寺隆信に対して謀反し、島津家に助勢を頼んだ際には、義弘の命で田尻但馬らと共に数ヶ月ほど田尻氏の城に入った。

義弘の豊後国入りにも従い、島津家久の下へ義弘からの使者として赴いた際は、家久に留め置かれその軍奉行を務めると共に、天正14年(1586年12月9日豊前国緒方城攻めの際に首級を2つ、同月11日の豊臣氏との合戦でも首級5つを討ち取った。翌天正15年(1587年)の根白坂の戦いで島津勢が敗戦した際、家久が討ち死にする心算であると聞き及んだ義弘より、それを制止するための使者として遣わされたが、家久がそれを聞き届けず、宗光が切腹を覚悟で諫言した事で漸く家久もこれに応じた。

天正16年(1588年)に島津家が豊臣秀吉より播磨国1万石を拝領した際は、市来掃部兵衛と共にその代官を仰せ付かり数年ほど伏見に住んだ。天正18年(1590年)、義弘の次男・久保小田原征伐に出陣した際はこれに同行、文禄の役にも久保の供をし、兵糧奉行並びに普請方・玉薬賦方にも任じられている。

朝鮮より帰国後は義弘の三男・忠恒の供として伏見に住み、忠恒が伊集院忠棟を殺害した際は、その報告を薩摩国島津義久へ報告する隠密の使者となった。また忠恒に従い庄内の乱にも参加する一方、その合戦の様子を伏見の義弘へ伝える報告役も担ったが、そのまま伏見に留め置かれ関ヶ原の戦いに従軍、薩摩へ逃れる義弘の傍らにあってその供をし、この功により100石を賜った。

元和2年(1616年)、死去。享年57。

出典




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

','','','','','','','','','','','','','','','','','',''];function getDictCodeItems(a){return dictCodeList[a]};

すべての辞書の索引

「帖佐宗光」の関連用語

1
18% |||||

2
12% |||||

3
12% |||||

4
12% |||||



帖佐宗光のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable(){return sideRankTable};

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



帖佐宗光のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの帖佐宗光 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS