島津光久とは? わかりやすく解説

島津光久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/25 01:18 UTC 版)

 
島津 光久
島津光久像(尚古集成館所蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 元和2年6月2日1616年7月15日
死没 元禄7年11月29日1695年1月14日
改名 虎寿丸(幼名)→忠元(初名)→光久
別名 又三郎(通称
神号 天大空泰雲雄命
戒名 寛陽院殿泰雲慈温大居士
墓所 鹿児島県鹿児島市池之上町島津家墓地
官位 従四位上侍従左近衛少将→左近衛中将、薩摩守大隅守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱綱吉
薩摩鹿児島藩
氏族 島津氏
父母 島津家久
島津忠清の娘
養母島津亀寿
兄弟 光久忠朗北郷久直忠広、町田忠尚、忠紀禰寝重永久雄、鎌田政勝、伊集院久国、忠心、伊勢貞昭、樺山久尚、北郷翁久正室、島津久慶室、種子島忠時室、島津久章室、島津久頼室、肝付兼屋正室、島津久茂室、入来院重頼正室
正室:伊勢貞豊の娘・曹源院殿
継室平松時庸の養女・陽和院殿
側室:松澤氏、黒田氏、救仁郷氏、津留氏
綱久北郷久定忠長、久岑、久逵、久侶、鎌田正長、久理、喜入久亮、久明、久当、久記、桂久祐、畠山基明、入来院明雅久房、久雄、税所久皎、満、辰、酉、亀、鶴、鶴千代(詳細別記
養女島津久雄継室
継嗣島津綱貴
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島津 光久(しまづ みつひさ)は、江戸時代前期の外様大名島津氏19代当主。薩摩藩の第2代藩主。初代藩主・島津家久(忠恒)の子、島津義久の玄孫にあたる。

生涯

元和2年(1616年6月2日、初代藩主・島津家久の次男として鹿児島に生まれる。寛永元年(1624年)に江戸幕府の命により人質となり江戸に移住したが、これは大名の妻子を江戸に定住させる政策(参勤交代の一環)の先駆けとなったと言われている。寛永8年(1631年4月1日将軍徳川家光から、松平の名字と偏諱(「光」の一字)を与えられ、初名の忠元(ただもと)から光久(「松平薩摩守光久」)に改名[1]。寛永14年(1637年)、島原の乱が勃発した際、父・家久が病気になったために代わりに参陣するよう命じられ、初めて帰国の許可が下りる。この直後に家久が死んだため、実際には島原の乱に参加することはなかった。

内政では、財政の立て直しのため家老島津久通に命じて、寛永17年(1640年)に長野(現在の鹿児島県薩摩郡さつま町永野)に金山を開発する。しかし、幕府の妨害により寛永20年(1643年)には早くも操業を停止させられるなど苦難の連続で、金山の再開発が始まるのは明暦2年(1656年)であった[2]。光久の治世は、幕府の鎖国政策によりそれまで依存していた海外貿易に収入の期待ができなくなったことから、この金山開発の他、新田開発、洪水対策など、産業振興による収入源の確保が基本政策となった。

また、光久の藩主就任直後は家中が安定せず、分家・新城島津家当主で妹婿の島津久章を自害に追い込んだり、父・家久お気に入りの家老であった島津久慶[注釈 1]を閑職に追放し、その死後には彼の名前を系図からも削除して記録からも抹殺しようとした事件もあった。

また父の代より始まった飫肥藩との牛の峠境界論争は延宝3年(1675年)に幕府の裁決により、飫肥藩側勝訴・薩摩藩側敗訴の決着の上で両藩の境界が確定、決着している。

その後、光久の長命もあって貞享4年(1687年隠居して孫・綱貴家督を譲るまで50年も薩摩藩を支配した。38人もの子女に恵まれた艶福家でもあるが、その母親の大半が記録には「家女房」とだけ書かれ、素性不明である。これは他の当主と比べても異常で、非常に奇異とされている[4]

鹿児島県名勝仙巌園はこの光久の命によって築かれたものである。また鹿児島の夏の風物詩である六月灯も光久が始めた行事と言われる。練り羊羹に必要な寒天の発明にも関わったと言われる[5]

系譜

  • 父:島津家久(1576-1638)
  • 母:島津忠清(島津仲家祖、薩州家島津義虎の三男、島津義久の外孫)の娘
  • 養母:島津亀寿(1571-1630) - 義久の三女[6]
  • 正室:曹源院殿 - 伊勢貞豊の娘、島津家家老・伊勢貞昌の孫娘[7]
  • 継室:陽和院殿 - 平松時庸の養女、交野時貞の娘[9]
  • 側室:和泉忠参の姉[10]
  • 側室:新納忠頼の娘
  • 側室:松沢八右衛門の娘
  • 側室:黒田頼清の娘
  • 側室:救仁郷頼重の娘
    • 四男:島津久岑(1650-1668) - 島津久近(佐志島津家[11])の後嗣
  • 側室:津留正将の娘
    • 六男:島津久侶(1655-1697) - 島津忠清(新城島津家)の後嗣
  • 側室:玉利重親の娘
  • 側室:有馬純実の娘
  • 側室:塩田国実の娘
    • 十四男:桂久祐(1665-1711) - 桂久澄の養子
  • 側室:岩山直朝の妹
  • 側室:味方正信の娘
    • 十五男:畠山基明(1666-1746) - 阿多忠栄の後嗣
  • 津田氏の娘[10]
    • 十五女:袈裟千代[8](1670-1748) - 種子島伊時継室、和泉忠参姉の養女
  • 家女房(姓名不詳)[注釈 2]
    • 三男:島津忠長(1645-1670) - 喜入亀二郎丸の後嗣のちに北郷久定の後嗣
    • 五男:島津久達(1651-1719) - 伊勢貞衡旗本寄合)の養子のちに佐多久利の後嗣
    • 七男:鎌田正長(1656-1683) - 鎌田正勝の養子
    • 九男:喜入久亮[12](1658-1722) - 喜入忠長の後嗣
    • 十男:島津久明(1659-1717) - 島津大蔵家祖
    • 六女:万鶴[8](1661-1734) - 北郷忠昭(平佐北郷家)室
    • 七女:千亀[8](1661-1722) - 伊勢貞顕室
    • 十一男:島津久当[13](1661-1729) - 島津久岑(佐志島津家)の後嗣
    • 十二男:外記(1665-1682) - 夭折
    • 十三男:島津久記[14](1665-1733) - 島津頼母家祖
    • 十一女:千代鶴[8](1666-1684) - 桂忠厚(外記家)室
    • 十二女:千代松[8](1667-1687) - 種子島伊時初室
    • 十三女:鶴千代[8](1668-1733) - 頴娃久明室のち離別
    • 十六男:入来院重矩(1672-1735) - 入来院規重の養子
    • 十七男:島津久房[14](1673-1732) - 島津求馬家祖、島津重年の外祖父
    • 十六女:松鶴[8](1673-1744) - 島津久輔(市成島津家)室のち離別
    • 十七女:亀松[8](1674-1694) - 島津忠伴(島津助之丞家)室
    • 十八男:島津久雄(1680-1747) - 島津久侶(新城島津家)の養子
    • 十八女:亀千代[8](1680-1682) - 夭折
    • 十九女:徳鶴[8](1683-1725) - 北郷久嘉(平佐北郷家)室
    • 十九男:税所久皎[15](1687-1741) - 高橋種周の養子のちに辞し税所氏を冒す
  • 養子
    • 養女:島津久雄継室 - 実父:島津久茂(島津内記家)


脚注

注釈

  1. ^ 初代異国方宗門方掛け家老という[3]
  2. ^ 寛政重修諸家譜』では「某氏」、『島津氏正統系譜』では「家女房」とある。

出典

  1. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』(近代文芸社、2000年)ISBN 4-8231-0528-1
  2. ^ 今吉弘編 鹿児島県の不思議事典』(新人物往来社、2003年)ISBN 4-404-02994-2
  3. ^ 『職掌起原』
  4. ^ 木村礎藤野保村上直編『藩史大事典7巻 九州編』(雄山閣、2015年)ISBN 4-639-00725-6
  5. ^ 鶴屋八幡HP
  6. ^ 忠清の母・御平とは姉妹、光久の曾祖叔母にあたる
  7. ^ 万治元年6月11日1658年7月11日)死去
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『島津氏正統系図』
  9. ^ 寛永15年2月3日(1638年3月18日) - 正徳元年8月12日1711年9月24日後光明天皇掌侍、万治2年(1659年)婚姻
  10. ^ a b 『島津氏正統系図』には「母ハ和泉茂兵衛忠参姉」「実母ハ津田氏女日アラ不シテ死ス時ニ忠参姉局役ヲ勤メ命ヲ受テ子ト為」とある
  11. ^ 島津家久は妹の島津御下に三千石の領地を与えた。御下は島津久元宮之城島津家)と再婚し久近を産んだ。しかし久近が夭折したため、御下死後にこの領地をどうするかという問題が持ち上がった。家久は久元の長男・島津久通(母は久元先室)にこの領地を継ぐように命じたが、久通は辞退した。そのため御下死後、久岑が御下の領地と遺臣を継ぎ、創設されたのが佐志島津家である。
  12. ^ 「旧記雑録拾遺諸氏系譜三」には「母中井五左衛門女也」とある
  13. ^ 「旧記雑録拾遺諸氏系譜三」には「母松元某女也」とある
  14. ^ a b 「旧記雑録拾遺諸氏系譜三」には「母濱田勘左衛門純昌女也」とある
  15. ^ 『島津氏正統系図』には「母ハ家ノ女房」「母氏ニ因テ税所氏ヲ冒ス」とある

関連項目


島津光久(しまづ みつひさ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/03 17:14 UTC 版)

新・子連れ狼」の記事における「島津光久(しまづ みつひさ)」の解説

東郷重位との会話によれば、彼から示現流指南受けていたが、武者修行をすることで更なる精進をしたいという重位の願い聞き入れ彼に暇を与えて武者修行のたびに出させた。なお、左目は失われており、蛇皮眼帯当てている。

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