実業界との接触
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:55 UTC 版)
修養団は当初は学校を中心とした精神運動だったが、1909年(明治42年)の春に蓮沼が渋沢栄一を訪ねたことで実業界との関係を持ち始めた。渋沢は紹介状を持たない人物とは会おうとしなかったが、蓮沼は渋沢に会うために10メートル余りに及んだ長文の手紙を書いて送り、苦労のすえ面会に至り、資金援助を得ることができるようになった。 渋沢栄一が修養団において果たした役割は小さくない。渋沢は、蓮沼の「精神の修養」を重視する姿勢を評価して後援した。 渋沢が援助の手を差し伸べて以降、修養団は政財界や教育界の有力者からの後援を得られるようになった。援助した代表的な人物は、森村市左衛門、手島精一、新渡戸稲造、岡田良平、井上友一、床次竹二郎などである。 財閥グループの中では小倉正恒が熱心だったので、住友財閥と修養団の関係が深い。住友財閥が修養団の受け入れを決めたのは、小倉が本店理事だった1919年(大正8年)12月のことである。激化する労働争議に対抗するために、小倉は、住友製鋼所、住友伸銅所(後の住友金属工業)、住友電線へと、修養団支部を拡大していった。 小倉以外では東芝の大田黒重五郎、秩父セメントの諸井恒平も熱心だった。 修養団は、八幡製鉄、東京電気会社(現・東芝)でも導入された。
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