大名として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 06:25 UTC 版)
父の死により3歳で祖母の生家である大須賀家を相続し、遠江横須賀藩で6万石を領した。家康の配慮により、安藤直次が後見人とされている。その後、叔父に当たる榊原家当主榊原康勝に子がなく断絶しかかっていたところ、徳川四天王の血統が絶えるのを懸念した家康の命により、忠次が10歳で榊原氏館林藩10万石を相続した。一説には、忠次自身の希望で榊原家相続となったともされる。これにより、大名大須賀氏は絶家となった。 大須賀氏の領地は榊原家に吸収されたりはせず、幕府に返上となった。家臣団も解雇、家は絶家となったが、一部の家臣は3割加増の上で榊原氏の家臣に編入されている。また、忠次の擁立に功があった榊原家の3人の家老は江戸幕府より「御付人」(御附家老に相当する)に任じられてそれぞれ1千石を与えられ、榊原家からの知行とは別に子孫に継承することが許され、幕末には幕府が旗本・御家人の知行から軍役金を徴収しようとしたときに彼らの身分を巡って幕府の勘定所と榊原家(当時は越後国高田藩)間で論争になっている。 正保4年12月12日(1648年1月6日)、奥平昌能とともに幼年の徳川家綱の傅役を仰せ付けられた。その後、白河藩14万石に転封、更に姫路藩15万石に国替となり、寛文3年(1663年)には保科正之の推挙により、井伊直孝の死後、幕府の老職(大政参与)に迎えられた。 万治2年(1659年)、現在の加古川市東神吉町から米田町にかけての加古川右岸に「升田堤」という堤防を構築し、それまで2つに分かれていた升田-船頭間の川の流れを1つにする流路改変工事を実施している。 姫路では新田開発を指揮するかたわら、和歌、百人一首を嗜んだ。
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