士分の知行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)
入部してから当初、越後長岡藩では分散地方知行制(相給)が行われたが、旱損や水害が多い長岡藩において、分散地方知行制では打撃が大きく、村方にとっても迷惑が多いということで寛永11年(1643年)以降から、蔵米知行化が進んだ。 これにより長岡藩のほとんどの藩士は表向き「知行取り」でも実質的には蔵米知行に変更された。また、長岡藩の年貢率=「免」は原則三ツ五分(35%)であった。藩士に給付する蔵米については、いわば最低保障が付けられた微禄の藩士を除き、知行100石に対して当初は米48石だった さらに享保13年(1728年)には20石給付にまで落ち込み、以降長く20石代から抜け出せずにいた。なお『新潟県史・通史3・近世一』によると享保13年には三蔵火事の影響による藩士からの半知借り上げがあり、これが知行100石に対する20石給付の直接の原因になった。
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