城砦から宮殿に(カペー朝)
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「シテ宮殿」の記事における「城砦から宮殿に(カペー朝)」の解説
カペー朝になると、古いガロ - ローマ時代の城砦から宮殿へ改築が始まった。996年 - 1031年まで統治したカペー朝2代目国王ロベール2世はパリに長く駐在し、王妃コンスタンス・ダルルの要求で、より快適に住めるように城砦を建て替えた。古い城壁を強化し城門を追加した。城壁内に会議場、自身の住居、教会を建築した。 カペー朝5代目国王ルイ6世は、友人であり政治顧問・聖職者シュジェールの助けを借りて改築を進めた。聖ニコラウス教会を竣工し、中央の古い塔とドンジョンを撤去し、より強い塔とドンジョンを再建した。 ルイ6世の子ルイ7世は、さらに王宮を拡大し、礼拝堂を増築した。島の西端は壁に囲まれた庭園と果樹園となった。 次の代のフィリップ2世は、政治能力が高く、それは王宮機能の拡大にも活かされた、王宮の機関が近代化され、王宮内に王立文書館、財務省、裁判所が置かれた。その後、ほとんどの期間において王国の首都として機能した。さらに宮殿周辺の泥道にパリで初めて石畳舗装をし、空気と匂いの改善に貢献した。 フィリップ2世の孫であるルイ9世は、後世に聖王ルイ(セントルイス)と呼ばれる人物で、自らをフランス王のみならずキリスト教世界の指導者と知らしめるべく宮殿内に新しい教会を建築した。それは元々教会のあった場所であり、1242 - 1248年に様々な聖遺物を収容するサント・シャペルとして建てられた。サント・シャペルは2階構造となっており、下の階は家臣用、2階が王族用で Galerie Merciére と呼ばれる通路で王宮と直に接続されていた。キリストの聖遺物である「荊の冠(英語版)」を触れるのは王のみであり、それは毎年聖金曜日に王によって取り出された。 そして、財政・司法などの機関を収容した。
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