在野活動
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憲政本党総理を辞して後の大隈は、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。 明治41年(1908年)米国バプテスト教会の宣教師であったH・B・ベニンホフ博士に依頼し、キリスト教主義の学生寮「友愛学舎」(現在の早稲田奉仕園)を開く。 明治41年(1908年)11月22日に戸塚球場で開催された米大リーグ選抜チーム:リーチ・オール・アメリカンチーム 対 早稲田大学野球部の国際親善試合における大隈重信の始球式は日本野球史上、記録に残っている最古の始球式とされている。大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者にして総長であり、かつ内閣総理大臣を務めた大政治家である大隈の投球をボール球にしては失礼になってしまうと考え、早稲田大学の1番打者で当時の主将だった山脇正治がわざと空振りをしてストライクにした。これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった。 この頃大隈自身が製作に関わった、明治45年(1912年)6月公開の記録映画『日本南極探検』には、探検隊を自邸に招いた際に撮影されたと見られる、カメラに向かって帽子を取って挨拶する大隈の姿が映像として記録されている。 また新聞等で政治評論を行うことも継続した。明治43年(1910年)2月には憲政本党議員に招待され、事実上の党復帰を果たした。この年以降、大隈は大規模な遊説旅行を行い、政治活動再開への動きを見せていた。明治45年(1912年)、橋本徹馬、加藤勘十の結成した立憲青年党の発会式に大隈は、松村介石、山田三七郎と共に招かれる。
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