全面対決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 13:58 UTC 版)
憲忠暗殺の報せを聞いた景仲は鎌倉に戻ると、ただちに管領屋敷に火を放つと共に憲忠の正室(上杉持朝の娘)ら生き残った人々を持朝の糟谷館に避難させた。糟谷館に着いた景仲は、持朝ら上杉一族の要人と協議して京都にいる憲忠の弟・房顕を次の関東管領に迎え入れると共に成氏を討伐する事を決めた。更に景仲はそのまま領国の上野に入って兵を集めると共に、使者を越後守護・上杉房定に派遣して援軍を求める一方、嫡男・景信を直接京都に派遣して事の次第を幕府に報告、房顕を迎える事にした。そして、景仲は長尾実景及び後継者である景住の殺害によって空席となった家宰の地位に再びつくことになった。 康正元年(1456年)に入ると、成氏は上杉氏の本国である上野を攻略するために鎌倉を出発して武蔵府中の高安寺に入った。この報せを聞いた景仲は直ちに上野・武蔵の兵を率いて府中に向けて出撃し、上杉一族もこれに合流すべく出陣した。だが1月21日、分倍河原の戦いにて惨敗し、扇谷上杉家当主・上杉顕房、犬懸上杉家の上杉憲秋ら名だたる武将を多く失い、難を逃れた景仲だけが残った軍をまとめて辛うじて常陸国小栗城まで落ち延びる事が出来たが、閏4月には小栗城も成氏軍に攻め落として景仲は上野に逃れた。だが、成氏も上杉氏救援に駆けつけた今川範忠によって鎌倉を追われて下総国古河城を根拠として古河公方を名乗った(享徳の乱)。その後も戦いは関東地方各地を二分して展開し、長禄3年(1459年)の上野・羽継原の戦いでは成氏軍を打ち破るなど、上杉軍の中核として活躍して道真と並んで「東国不双の案者」(『鎌倉大草紙』)などと呼ばれた。 寛正4年(1463年)、鎌倉にて死去。享年76。関東管領上杉氏と白井長尾氏の発展のために力を尽くした生涯であった。嫡男の景信が家宰職を継いで山内上杉家を統括、成氏との戦いを継続していった。 宝徳2年(1450年)に雙林寺を開基、木像が安置されている。
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