先発投手として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:37 UTC 版)
巨人では斎藤雅樹、桑田真澄とともに「三本柱」と呼ばれるほどの投手だった。しかし、斎藤、桑田の2人が年間200イニング以上をコンスタントに投げて年間を通じて活躍するのに対して、槙原は二人に比べて年間200イニングを超えたのは1988年の1度のみであった。シーズンの勝利数も1993年の13勝が最高であり、防御率2点台序盤や1点台を記録した年もランキングでは2位で終わること2度と不運も重なった。1988年に年間最多奪三振を記録したがセ・リーグの最多奪三振のタイトルは1991年からの制定で、主要な投手タイトルを獲得できず常に先発3番手と見られていた。 1986年の優勝争いの終盤、10月7日の対ヤクルトスワローズ戦でマーク・ブロハードに逆転の決勝2点本塁打を打たれたり、1990年日本シリーズ第1戦1回表にオレステス・デストラーデに先制3点本塁打を打たれるなど、「ここ一番に弱い」と評されていた。
※この「先発投手として」の解説は、「槙原寛己」の解説の一部です。
「先発投手として」を含む「槙原寛己」の記事については、「槙原寛己」の概要を参照ください。
- 先発投手としてのページへのリンク