俗ラテン語
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俗ラテン語(ぞくラテンご、羅: sermo vulgaris セルモー・ウルガーリス、英: Vulgar Latin)は、ローマ帝国内で話されていた口語ラテン語で、ロマンス語の祖語となる言語。 ローマ帝国の崩壊後、地方ごとに分化し現在のロマンス諸語になった。
- ^ 「民衆ラテン語」 (Popular Latin)という名称を提唱しているのは主にラテン語研究者で、「ロマンス祖語」(Proto-Romance)という名称は主にロマンス語研究者によって提唱されている。
- 1 俗ラテン語とは
- 2 俗ラテン語の概要
- 3 脚注
- 4 外部リンク
俗ラテン語
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古典ラテン語は大いに尊重されつづけ、文章構成の模範として学ばれたが、俗ラテン語の影響もまた、何人かの中世ラテン語作家たちの構文論において明白である。文章語としての中世ラテン語発展が高みに達したのは、フランク王シャルルマーニュの後援で促進された教育の再生であるカロリング・ルネサンスのときであった。アルクインがシャルルマーニュのラテン語秘書を務め、彼自身重要な作家である。西ローマ帝国の権威が最終的に崩壊したあとの後退期以後にラテン語の文学と学習が復興をみたのは彼の影響によってであった。 同時期にロマンス語への発展も起こっていたが、ラテン語そのものは非常に保守的でありつづけた。もはや母語ではなくなって、古代および中世の多くの文法書がひとつの標準形を与えていた。他方で、厳密に言うならば「中世ラテン語」なる単一の形は存在しない。中世期のすべてのラテン語著作家はラテン語を第二言語として話しており、その流暢さの程度は異なり、構文・文法・語彙はしばしば彼らの母語に影響されていた。このことはそれ以後ラテン語がますます不純になっていく12世紀ころにおいてとりわけ正しい。フランス語話者によって書かれた後期中世ラテン語文書は中世フランス語への、ドイツ人によって書かれたものはドイツ語へ等々の、文法と語彙の類似を示すようになる。例をあげると、一般に動詞を末尾に置くという古典ラテン語の慣行に従うかわりに、中世の著作家たちはしばしば彼ら自身の母語の慣習に従ったものだった。ラテン語には定冠詞も不定冠詞もなかったが、中世の著作家たちはときに unus の変化形を不定冠詞として、ille の変化形を(ロマンス語における用法を反映して)定冠詞として、さらには quidam(古典ラテン語では「ある、なんらかの」の意)を一種の冠詞のように用いた。esse(英語の be)が唯一の助動詞であった古典ラテン語と異なり、中世ラテン語の著作家は habere(英語の have)を助動詞として用いることがあったが、これはゲルマン語およびロマンス語における文構成に似ている。古典ラテン語における対格つき不定詞構文 (accusative and infinitive construction) はしばしば quod または quid に導かれる従属節に置きかえられた。このことはたとえばフランス語における類似の構文での que の用法とほとんど同一である。 8世紀後半以降のすべての時代において、これらの形や用法は「間違っている」と気づけるだけ古典語の構文論に十分親しんでいた(とりわけ教会内の)教養ある著作家たちがおり、これらの使用に抵抗していた。こうして聖トマス・アクィナスのような神学者や、ギヨーム・ド・ティールのような学識ある聖職者の歴史家のラテン語は、上述の特徴の大部分を忌避する傾向にあり、その語彙やつづりにおいて一時期を画している。列挙した特徴は、法律家(たとえば11世紀イングランドのドゥームズデイ・ブック)、医師、技術に関する著作家、世俗の年代記作家らの言語においてはるかに優勢である。しかしながら従属節を導く quod の用法はとりわけ広く普及しておりすべての層で見られる。
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