佐藤政養(さとうまさよし 1821-1877)
初代鉄道助、「測量三角惑問」著者。
佐藤政養は、山形県遊佐郷升川村(現下飽海郡遊佐町升川)に佐藤与兵衛の長男として生まれ、幼名を与之助といった。
佐藤は初め、酒田の伊藤鳳山、真嶋佐藤治のもとで学んだ。黒船が来襲した嘉永6年(1853)に、江戸へ出て広木貫助のもとで西洋流の砲術と練兵術を学ぶ。翌年には勝海舟の私塾に入り、蘭学・砲術・測量などを学んだ。佐藤の学力その他が、勝に認められたのだろう。安政2年(1855)には、勝海舟に従って長崎海軍伝習所に向かい、天文・測量・航海術等を学んだ。さらに万延元年(1860)に勝海舟が渡米すると、同塾の留守役を任される。
この間幕府御軍艦操練所蘭書翻訳方、大阪方面海防御用などを拝命する。そのころ幕府は、近代的洋式台場の築造に着手する(文久3年 1863)のだが、佐藤は勝海舟のもとで、この台場工事の多くを指揮した。
元治元年(1864)には、神戸海軍操練所の開設に尽力し、教授方として教鞭をとる。
一方、当時日米通商条約による開港は、幕府の方針で神奈川港となっていたが、佐藤政養は江戸湾や横浜の地勢、将来性、政治外交上の問題等を研究し、勝海舟に横浜開港を建言した。これを受けて、横浜開港が実現したことから、「横浜開港の父」と呼ぶものもある(一般には、佐久間象山を、「横浜開港の父」とする)。
維新の後は民部省に出仕し(明治2年 1869)、民部省鉄道掛、同年12月には工部省に出仕し、同3 年からには小野友五郎とともに、東海道と中山道のいずれを幹線とするかについて検討する東海道(鉄道)路線の調査を行い、翌4年「東海道筋巡覧書」を工部省に提出した。
同年、初代の鉄道助に任命される。のちに「鉄道の父」と呼ばれる井上勝鉄道頭を補佐し、鉄道事業にあたる。同6年には、「敦賀西京間鉄道建築緩急見込大略」を、同8年には「自西京至敦賀鉄道布設建言」を、それぞれ工部省に提出するなど創業期の鉄道事業に貢献した。
地図測量のことでは、1857年にオランダで出版されたメルカトル図法による世界図を翻訳した「新刊輿地全図」(1861刊行)を作製した。佐藤の著書には、測量計算に不可欠な三角法を問答形式で判りやすく解説した「測量三角惑問」(1872)がある。さらに、前述した鉄道路線調査において、持てる測量技術が力を発揮したことは予想できる。また、陸軍の陸地測量事業最初の技術者となる福田治軒(半)、その父で「測量集成」の著者である福田理軒(泉)と交流があった。その治軒は佐藤政養に師事し測量術を学んだことから、彼の著書「測量集成」には、佐藤が序文を寄せている。
大阪・京都間の鉄道が完成するの目前の明治9年5月に結核のため辞職し、翌年8月に勝海舟邸で死去した。
佐藤政養は、山形県遊佐郷升川村(現下飽海郡遊佐町升川)に佐藤与兵衛の長男として生まれ、幼名を与之助といった。
佐藤は初め、酒田の伊藤鳳山、真嶋佐藤治のもとで学んだ。黒船が来襲した嘉永6年(1853)に、江戸へ出て広木貫助のもとで西洋流の砲術と練兵術を学ぶ。翌年には勝海舟の私塾に入り、蘭学・砲術・測量などを学んだ。佐藤の学力その他が、勝に認められたのだろう。安政2年(1855)には、勝海舟に従って長崎海軍伝習所に向かい、天文・測量・航海術等を学んだ。さらに万延元年(1860)に勝海舟が渡米すると、同塾の留守役を任される。
この間幕府御軍艦操練所蘭書翻訳方、大阪方面海防御用などを拝命する。そのころ幕府は、近代的洋式台場の築造に着手する(文久3年 1863)のだが、佐藤は勝海舟のもとで、この台場工事の多くを指揮した。
元治元年(1864)には、神戸海軍操練所の開設に尽力し、教授方として教鞭をとる。
一方、当時日米通商条約による開港は、幕府の方針で神奈川港となっていたが、佐藤政養は江戸湾や横浜の地勢、将来性、政治外交上の問題等を研究し、勝海舟に横浜開港を建言した。これを受けて、横浜開港が実現したことから、「横浜開港の父」と呼ぶものもある(一般には、佐久間象山を、「横浜開港の父」とする)。
維新の後は民部省に出仕し(明治2年 1869)、民部省鉄道掛、同年12月には工部省に出仕し、同3 年からには小野友五郎とともに、東海道と中山道のいずれを幹線とするかについて検討する東海道(鉄道)路線の調査を行い、翌4年「東海道筋巡覧書」を工部省に提出した。
同年、初代の鉄道助に任命される。のちに「鉄道の父」と呼ばれる井上勝鉄道頭を補佐し、鉄道事業にあたる。同6年には、「敦賀西京間鉄道建築緩急見込大略」を、同8年には「自西京至敦賀鉄道布設建言」を、それぞれ工部省に提出するなど創業期の鉄道事業に貢献した。
地図測量のことでは、1857年にオランダで出版されたメルカトル図法による世界図を翻訳した「新刊輿地全図」(1861刊行)を作製した。佐藤の著書には、測量計算に不可欠な三角法を問答形式で判りやすく解説した「測量三角惑問」(1872)がある。さらに、前述した鉄道路線調査において、持てる測量技術が力を発揮したことは予想できる。また、陸軍の陸地測量事業最初の技術者となる福田治軒(半)、その父で「測量集成」の著者である福田理軒(泉)と交流があった。その治軒は佐藤政養に師事し測量術を学んだことから、彼の著書「測量集成」には、佐藤が序文を寄せている。
大阪・京都間の鉄道が完成するの目前の明治9年5月に結核のため辞職し、翌年8月に勝海舟邸で死去した。
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