事蹟
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1206年モンゴル帝国が成立すると、当時のモンゴル人にしては珍しくウイグル文字に通暁していたことをかわれ、チンギス・カンによって大断事官(イェケ・ジャルグチ)に任命され、徴税を担当した。1215年に金の中都が開城した時、シギ・クトクはオングル・バウルチ、アルカイ・カサルとともに財宝庫の接収のため中都に派遣された。この時、オングル・バウルチとアルカイ・カサルは金朝留守のカダから金幣を受け取ったが、シギ・クトクは受け取らなかった。後にこの一件を知ったチンギス・カンはシギ・クトクを褒め称え、オングルとアルカイ・カサルらを叱責した。1219年に始まる大西征にも従軍し一軍を率いたものの、ホラズム軍にパルワーンの戦いで大敗を喫してしまう。これは西征におけるほとんど唯一といっていいモンゴル側の大敗だったが、シギ・クトクがチンギス・カンの義弟にあたることもあって罪には問われなかった。 『集史』チンギス・カン紀のチンギス・カンの諸将リストによると、トルイに与えられた諸軍のうち、シギ・クトクは右翼軍を支えたの千人隊長(ミンガン)のひとりとして列記されている。 チンギス・カンの死後もシギ・クトクはその子孫に仕え続けた。オゴデイ時代に入り、金が征服されると耶律楚材らとともに旧金領の戸籍を作り、税制を定めた。その後もモンケ即位時の大粛清を乗り切り、モンケに中都の大断事官に命じられている。晩年にクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が始まると、当時彼はカラコルムにいたためアリクブケ政権に味方した。結果としてアリクブケは継承戦争に敗れ、シギ・クトクがクビライに降伏したとき命は許されたものの不遇な晩年を送ったという。 モンゴル人には珍しく長寿だったようで、『集史』によると没した時は82歳であったという。『元朝秘史』では功臣表十七位に列している。
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