ファシズム政権
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1922年、ファシスタ党が「ローマ進軍」を起こすと、革命の危機に怯えた王家はムッソリーニに組閣を命じた。1923年には新選挙法(アチェルボ法(イタリア語版、英語版))が定められた。これにより全国で最多得票を得た政党が議席の3分の2を獲得できるようになり、1924年4月6日の総選挙(イタリア語版、英語版)でファシスタ党が議会の最大勢力となった。統一社会党(イタリア語版、英語版)のジャコモ・マッテオッティはファシスタ党の暴力的手法などを批判したが、6月10日にファシスタ党員によって暗殺された。ムッソリーニは、議会の内外で高まるファシスタ党批判に対し、1925年1月3日の議会演説でムッソリーニは独裁制の推進を公言(Discorso del 3 gennaio 1925)、12月24日に首相に代わる新たな役職として国家統領を創設・就任した。1926年には一党独裁体制を確立させ、1928年にはファシズム大評議会が正式な国家機関となった。1929年2月11日、ローマ教皇庁のピエトロ・ガスパッリ(イタリア語版、英語版)枢機卿とラテラノ条約(ラテラーノ条約)に調印し、6月7日に批准されたことにより、教皇領併合以来のイタリア国家とローマ教皇の対立構図は解消され、バチカン市国が成立した。 その後は膨張政策を指向して1935年よりエチオピアへの軍事侵攻を開始、1936年にイタリア領エチオピア帝国を建て、その東部に位置するエリトリア、ソマリアとあわせてイタリア領東アフリカを築いた。そのほか、1938年にはアルバニアを併合した。こうした膨張政策は国際的孤立を引き起こし、スペイン内戦への介入を契機にナチス・ドイツへの接近を進めた。1937年にはドイツや日本と日独伊防共協定を結成、国際連盟からも脱退した。
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