イドリブ攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/18 03:59 UTC 版)
ファトフ軍はこれまでの反体制派と異なり、高度に組織化され重武装化していた。彼らは結成間もない2015年3月下旬にイドリブへの攻撃を開始した。約2,000人の戦闘員が四方から、40輌におよぶ兵員輸送車に乗って攻撃を行った。シリア政府軍が過去4日間で150回にわたって空爆を行ったが、ファトフ軍は政府軍拠点を制圧した上でイドリブ市に進入するなど、組織的な戦闘を展開した。政府軍・親政権民兵との5日におよぶ激しい戦闘の末、28日にイドリブ市をほぼ完全に制圧した。 反体制派は、イドリブ進入の時には市民から歓迎されたと主張した。同市には、住民や、シリア政府支配を離れたイドリブ市郊外からの避難民数十万人が3年にわたって身を寄せていた。反体制活動家は、イドリブ中央刑務所の遺体とされる画像を公開し、この遺体が政府軍によって処刑されたものだと主張した。反体制武装集団は、B.アサド大統領の写真を破り、その父ハーフィズ・アル=アサドの像を破壊した。 ファトフ軍に制圧されたイドリブは政府支配を離れた2番目の県庁所在地となった(最初はラッカ)。これにより、反体制勢力は、政権の牙城ラタキアに迫り、アレッポと沿岸部の兵站線を妨害できるようになった。イドリブ県において政府軍支配地は、県庁機能を移転させたジスル・シュグールとその周辺の都市・軍事基地・拠点などを残すのみとなった。
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