『コンテンツ産業論:文化創造の経済・法・マネジメント』
河島伸子著『コンテンツ産業論:文化創造の経済・法・マネジメント』ミネルヴァ書房、2009年。
某誌向けなんだがこっそり出しとく。一応ちょっとだけ変えてある。
本書は、タイトルにあるとおり、コンテンツ産業について論じたものだ。同時期に出版された同じタイトルの書籍(出口・田中・小山 (2009))と比較してコンパクトにまとめられていて、そちらが研究書であるのに対してこちらは入門書と位置づけるのが適切だろう。
本書執筆における著者の問題意識は、「はじめに」の部分にあらわれている。
「コンテンツ産業に関する教科書、専門書は、この数年で、少しずつ増えてきているが、テキストについては、各章で個々の産業の市場規模、産業構造を記述するもの、コンテンツ制作の現場の記述を中心としているものにとどまる傾向が見られる。一方、研究書の多くは、多数の実務家・研究者による編著であるため、章により、記述的なものと分析的なものとが混在しており、読みにくい面がある。また、扱う内容と主張にばらつきがあるという欠点を持つこともある。この分野における研究蓄積が始まりつつある今の段階では、一つの視点に基づき、多領域にわたる情報・知見をコンパクトにまとめた入門書が必要であると思われる。」
まさにこれを実現したのが本書だ。すなわち、一人の著者の視点から、コンテンツ産業の主な領域についての情報・知見をコンパクトにまとめていて、これが本書の大きな長所となっている。著者が一人であることから、記述のスタイルや視点が安定しており、基礎的な情報、基本的な考え方がコンパクトに、かつ比較的バランスよく説明されているのがよい。学部生の入門科目向けのテキストとして、またそれ以外でも初めてこの分野に触れる者向けの入門書として、こうした、概略をつかむことを重視したアプローチは効果的であると思われる。
とはいえ本書とて、著者が他書を批判するポイントでもあるところの、内容の偏りからまったく無縁というわけではない。コンパクトな入門書であることを考慮したとしても、それは本書の性格に重要な影響を与えているように思われる。
本書の構成は次のようになっている。
はじめに
第I部 文化経済とコンテンツ産業
第1章 文化経済とコンテンツ産業入門
第2章 コンテンツ産業政策の勃興と発展
第3章 デジタル・コンテンツ産業の経済的特徴
第II部 ハリウッド
第4章 ハリウッド・モデルとグローバルなメディア・コングロマリット
第5章 コンテンツ産業の内部構造とダイナミクス
第6章 コンテンツ産業を取り巻く国際政治と法的環境の変化
第7章 ハリウッド・モデルへの対抗
第III部 各産業の特徴と動向
第8章 映画産業
第9章 音楽産業
第10章 広告産業
第11章 テレビ放送産業
第12章 ゲーム産業
終章 コンテンツ産業論の展望
副題に「文化創造の経済・法・マネジメント」とあるとおり、本書の最も大きな特徴は、コンテンツ産業を文化産業ととらえている点である。その「中心」にはハリウッドや欧米のメディア・コングロマリットのような存在があり、他の地域、他のコンテンツ分野をそれとの比較においてとらえるというアプローチである。こうした図式の下、コンテンツ産業が経済や法、ビジネスといった側面から解説され、その後第Ⅲ部で、主要なコンテンツ産業のいくつかについて個別の解説が加えられている。(第Ⅲ部の中で、通常はメディア産業の一部として取り上げられることの多い広告産業がコンテンツ産業の一ジャンルとして紹介されていることは、通常コンテンツ産業の主要ジャンルの一つとされる出版産業が取り上げられていない点も併せ考えると興味深いが、やや唐突な印象がある。)
本書の記述が一貫して「文化」という視点に立脚していること自体は、著者の専門が文化政策論であることを考えれば、むしろ自然ではある。いうまでもなく、さまざまなコンテンツは「文化」の一翼を担う存在であり、その意義は近年とみに高まってきている。世界から注目を浴びるようになってきた日本のコンテンツ産業にとって、この分野の重要性はなおさらのことでもあろう。
しかし、「産業論」と題したこのコンパクトな入門書において、その議論が「文化」、もっとはっきりいえば「高尚なる弱者としての文化」という視点からのものとなっていることには、若干の問題意識を禁じえない。
今でもその片鱗は根強く残っているが、もともと「文化産業」なる概念は、水と油を混ぜ合わせたような違和感のあるものとしてとらえられていた。いってみれば、「文化」が美しく高尚であるのに対し、「産業」は醜く卑しい、という考え方だ。この点は、初期の文化政策論や文化経済学において重要な論点であったらしい。本書の第1章においても、この点について詳細に解説が加えられている。
この葛藤が曲がりなりにも解消に至ったのは、実際に文化活動が産業化していく過程が誰の目にもはっきりと観察されたからだ。少々露悪趣味に走れば、「文化を支えるには産業からの資金が必要」という切実な要因であったともいえよう。かつて権力者、有力者がパトロンとなって支えてきた文化は、彼らが凋落し入れ替わりに市民層が台頭するに伴って大衆化していく。この過程で文化をビジネスとして提供することが一般的になっていった。文化が産業を自らの基盤として必要とするようになったわけだ。(この時点ですでに、本書における「文化」という概念は、ハイカルチャー主体という一定の色づけがなされていることに注意。)
しかしここで、文化の創造者たるクリエータは突如、弱者として意識されることになる。そこで登場するのが、新たな(そして多くの場合は控えめな)パトロンとしての政府だ。文化は人間をより高め、幸せにするものであり、守るべき価値があるが、人々は文化に対し充分には代金を支払わず、文化を市場メカニズムで支えるのは無理であり、したがって文化やその担い手を守るためには、公的支援が必要である、という流れになる。いわば、文化の創造者に充分な資金が流れないことを、正の外部性による「市場の失敗」とみて、それを是正するために政府の介入が必要との結論が導かれるわけだ。本書における論調は、はっきりとそれを打ち出しているわけでは必ずしもないが、慎重にことばを選んで展開される議論の中で、結果として政府等の公的セクターの役割を重視しているように見えることは否定できない。
このような議論の流れは、文化経済学や文化政策論が近年、その分析対象をハイカルチャーにとどまらず商業コンテンツ一般まで広げるようになる中で、より強く主張されるようになった。本来、自由を重んずる社会であれば、民間の事業活動に政府が不用意な干渉を行うことは控えるべきであろう。しかし、ここに国内産業の振興や文化の多様性の保護、国際競争力といった価値観が加わると、やはり市場メカニズムの不全を修正する政府の役割があるという議論になる。ここでは、文化の担い手としてのクリエータだけでなく、企業や地域、国までもが保護の対象となる。「強者」役を割り当てられるのがハリウッドであり、またそれらを含むメディア・コングロマリットだ。本書がこれらについて、またその「影」として浮かび上がる他国のコンテンツ産業でとられている対抗策について、第II部を費やして解説しているのは、その意味でも重要な意義がある。
この傾向は、コピーが容易にできるデジタルコンテンツの普及に伴って、さらに拡大、促進されつつある。著作権侵害が大規模なものとなり、権利保護等の側面で一定の政策的配慮を要する状況が生まれているとの認識だ。ここでは、ハリウッドのメジャーやメディア・コングロマリットですら、絶対的な強者であり続けることはできない。本書は著作権を、政府による補助などと並ぶ文化保護政策の一手段と位置づけ、その意義を「否定」する「経済学者」(ずいぶん極端な類型化とは思うが)の主張に対し異を唱えている。いずれにせよ、政府その他公的セクターの役割ないし責務が増大している、という方向へと議論が導かれることは変わらない。
こうした議論の全体を否定するつもりはない。しかし、文化を守るべきとの主張には、その前提として、何が文化かについての社会的合意が存在するとのナイーブな仮定があるという点は、指摘されなければなるまい。本書がいう、支援されるべき「文化」とは、突き詰めればその時の政府が好ましい、あるいは保護に値すると考える文化であり、その選別の基準は、どれほど考え抜こうとも、事後的には恣意と区別できない。
本来、何が文化かを決めるのは、時の政府ではない。日本に限らず、文化を形作るコンテンツの多くは、公的支援なしに、むしろときには政府の迫害を受けながら育ってきた。実際、現代においてメインストリームの文化として認識される多くのコンテンツ分野は、政府と関わりのない大衆文化として、あるいは権力やその弾圧に反抗するアンダーグラウンド文化として発生し、発展してきたのだ。保護がなくても、あるいは保護がなかったがゆえにこそ、こうした文化が育ったという点は強調されてしかるべきだろう。別にハイカルチャーより大衆文化のほうが優れていると主張するつもりはないが、その逆も適切とは思えない。文化としてどちらが高尚かについては私の知見の外だが、少なくとも産業論としては、どちらが優れているとも一概にはいえないはずだ。
現時点で保護すべき価値があるから保護すべきという議論も当然ありうる。しかし、今価値を認められるコンテンツを保護することが、これから生まれ、発展するかもしれないコンテンツに対して負の影響を及ぼす(経済学的にいえばクラウディングアウト)おそれがあることも忘れてはならない。極論すれば、政府が適切にその保護の対象を選べるとする発想は、権力者の庇護の下に発展し、その後彼らの凋落とともに大衆にその収入源を求めたハイカルチャー系の文化を、大衆に根ざして発展してきた大衆文化系の文化より高等とみる「上から目線」の考え方に通じるものであるように思われる。
この問題にこだわるのは、それが決して過去のものではないからだ。たとえば、現在日本が世界に「誇る」と政府が公式にぶち上げ、その振興をはかろうとしているアニメやマンガ、ゲームといったコンテンツ分野は、ほんのわずか前までは、恥ずべき文化、あるいは文化の名に値しない単なる商品とされ、子供に悪影響があるから規制すべきといった意見が公然と語られていた。今でもこうした風潮が完全に消えたわけではないことも周知の事実。であるとすれば現在、恥ずべき文化、推進すべきでなく、むしろ規制すべきとされるコンテンツの中に、将来その価値を認められ、保護すべきと論じられるかもしれないものが含まれていないと誰がいえるだろうか。恣意的な保護は恣意的な規制と表裏一体である。今保護されるコンテンツの影で、保護されないために相対的に不利となり、出るかもしれなかった芽をつぶされるコンテンツがないと誰が保証できるだろうか。
繰り返すが、コンテンツ産業への保護策を否定するわけじゃない。日本のコンテンツ産業においても、かつて戦時中、政府資金で高度な特撮やアニメの技術が発達し、それが戦後の産業復興の際の基盤となった経緯がある。また今後も、制度やインフラの整備、人材育成支援など、政府その他公的セクターの役割に期待される領域は少なくない。しかし、かつてホンダの四輪自動車製造進出にあたって当時の通商産業省が強固に反対した事実をみるまでもなく、政府の関与が的外れでないという保証はまったくない。また、ハイカルチャー分野でよくみられる直接支援のような政策によって、「伝統芸能」ないし「文化財」のような存在になることを、多くのコンテンツクリエータたちは望まないだろう。表現の自由といった法的問題を離れても、「産業論」と銘打つならば、少なくとも、既存産業への保護が新たな産業の発展を阻害してしまうリスクについて自覚がないのは危険だ。
以上の批判を前提としても、入門書としての本書の価値は、基本的にゆらぐものではない。広範にわたるコンテンツ産業をコンパクトに概観できるテキストとして、また平易で安定した記述で安心して薦められる入門書として、コンテンツ産業の振興について真剣に考えなければならないこの時期に出版された意義は大きい。
上にも書いたが、入門書としてお勧め。
参考文献:
出口弘・田中秀幸・小山友介(2009).「コンテンツ産業論―混淆と伝播の日本型モデル」東京大学出版会。
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