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September 06, 2021

結果か機会か

ツイッターで書こうと思ったらちょっと長くなってきて連投ツイートだと長すぎそうなのでブログ記事にしてしまえ、というわけで以下ひとくさり。

きっかけはこれ。ここ数日話題になってる「高市氏を女性が支持すべきか」問題、個人的には「女性の社会進出を望む立場なら政治的立場にかかわらず高市氏が首相になることを支持すべき」などとは思わない。そもそも高市氏に首相になってほしくないし、性別より政治的立場の評価が優先するのはむしろ当然だ。

「女性の社会進出を望む立場なら政治的立場にかかわらず高市氏が首相になることを支持すべき」という言説も、文字通りの意味というよりある種の嫌味であり、言いたいことはわかるがそういう言い方をするのはよくない。

ただ、アファーマティブアクションやクォータ制のような主張は「政治的立場にかかわらず女性を取り立てるべき」であるという主張に近いものだろうとは思う。女性も多様性があるわけで、憲法14条を持ち出すまでもなく、政治的主張の近い女性のみを取り立てるべきという主張は説得力に欠ける。

この特定の人物に関してはこれ以上の話はないのだが、当然このテーマは社会全般に拡張しうるわけで、一般的に議論になりやすいのは「能力」との関係だろう。特により高い「能力」が求められるリーダー層では「充分な『能力』がないのに女性だから選ばれた」といった不満が出ることがある。性別より政治的立場が優先するなら「能力」も優先すべきだろう。

これに対して「今の男性優位社会では能力の劣る男性が牛耳り能力の優れた女性を排除しているのだからまずそこを是正すべきだ」という意見がある。これは的を射た部分があって、今活躍している女性たちは男性よりはるかに厳しい条件下で勝ち上がってきた点で男性より優れている可能性が高い(上記の特定の人物についてはそう思わないが)。

まだチャンスを得ていない女性たちの中にもそうした人はたくさんいるだろう。そういう人たちがチャンスを得られるようになるために必要なのがクォータ制のような「人為的」な介入なのか競争による自然な「淘汰」なのか、という点が自分の中では問題の焦点だ。

社会階層のことはひとまず措くと、男性が多くを占める競争社会では男性同士が競争し、勝った者がリーダー層となる。この「淘汰圧」はその中に入ってきた女性にはもっと強く働いていて、そこで勝ち抜いてリーダー層になる女性はその分より優れている可能性がある、というのは上記の通り。

でもそこにクォータ制とかそれに近い配慮をするとそうでない人も入ってくる、というのが「リーダー層は性別でなく能力で選ぶべき」という主張の論拠だろう。もちろん大半は能力によって選ばれているのだろうが、そうでないと思われる例を実際にみている人も少なからずいるのではないか。男性もリーダー層ばかりではないし能力をもちながら機会を得られない人も多いので、そういう人からみれば、「お前は恵まれた立場の男性だからあきらめろ」といわれても納得は難しい。

「では能力の劣る男性が引き立てられるのもやめろ」という反論があるが、少なくとも能力の劣る人を引き立てる組織には能力の優れた人を引き立てる組織に競争で負け消えていくという「淘汰圧」が加わる。能力のある女性を引き立てれば能力のない男性を引き立てる組織に勝つチャンスは大きい。

なのでどんどんやればいい、と思うが、もちろん現在の社会では競争条件は男女同等ではなく、機会を奪われ制限されている女性は少なくない。いかにしてそうした機会の不平等を解消ないし軽減していくかの方が、一部のリーダー層の何割を女性にすべきかみたいな話より重要だと思う。

その意味で、競争に参加する女性の母数を増やしていくことは納得感を伴う根拠の1つになりうる。もちろんそれは男性間の競争と同等の条件である必要がある。結果としての「女性の人数や比率」でなく、実際の競争に入る以前の家庭や教育の段階から競争条件を同等にしていくことが重要という主張だ。

そのために変えるべきは社会の構造、というのは以前から繰り返し発言しているがそういう話だ。これは社会全般の大きな変革が必要で時間もかかるだろうが、人為的に結果だけいじるようなやり方は持続性に欠けるし恣意性の入り込む余地を生む。能力に欠ける男性が「下駄を履かされる」状況の多くもまさにそうした恣意性によって生じたものであり、恣意性に恣意性をもって対抗するのは悪手だ。

そうは言ったって長年実態は変わらないじゃないか、まずは数をそろえるべき、というのがクォータ制の思想なのだろう。焦りはわかるんだが、この点でもう1つ重要なのは変革によって力を失う人々への視線だ。社会の大きな変革は社会の大半、中でも現在影響力をもっている人たちに受け入れられなければ難しい。

そういう声を無視するとどうなるか、という事例を我々は米国や英国で目撃することとなった。個人的にトランプやQAnonの主張はまったく受け入れがたいが、そうした考えに惹かれ支持する人たちの声に耳を傾けず、バカと決めつけて否定しても問題は解決しないしもっと面倒なことが起きる。

これは「もっと虐げられている人たちがいるのにそっちは放置か」という批判を呼びやすいだろうが、あっちかこっちか、敵か味方かではない。集団として「特権」を得ていると思われがちな男性にも酷い状況に置かれた人はおり、集団として差別されていると思われがちな女性にも特権的な立場の人はいる。

そうした点に目をつぶって「お前たちの問題はいいから自分たちの問題を直視しろ」とやってきたことは社会的合意の形成を妨げ、21世紀の今になっても実態が変わらないことの重要な1つの要因になっているのではないか。

もちろんこの点は男性側にもいえて、反省すべきところは多い。女性の多くが直面しているさまざまな問題、中でも能力のある女性がそれを発揮する機会を与えられずにいる現実について、もっと目を向け、発言していくべきではないか。社会に顧みられていないという不満を抱えている女性は多くの男性が想像する以上に多いのだろう。自分でもできる範囲ではやってきたつもりだが、力不足は自覚している。

ただ同様に、社会に顧みられていないという不満を抱えている男性も多くの女性が想像する以上に多いではないか。ならば共有、協働できるものはもっとあるはずだ、というのが長年の主張なのだがなかなか理解が得られない。

ひとついえるのは、女性は家にいろとか女性が憎いとかみたいな根っこからの差別をよしとする態度は、むろんないとはいわないが、少なくともある程度の発言力を持つ男性の間ではあまり一般的ではないのではないかということだ。むろんこれは過去100年以上にわたる女性たちの「闘い」の成果だが、戦ったのは女性だけではない。そしてそれは今も変わらない。なのにいわゆる「上から目線」でミソジニーだの価値観アップデートだのと決めつけられることに対する反発の声、というのがよくみるパターンだ。

すぐに「トーンポリシングだ」みたいな批判が飛んできそうだが、そうした一方的な態度がコミュニケーションの機会を奪い、分断を促進しているようにみえる。女性も男性も一枚岩の集団ではなく立場も意見もさまざまだ。たまたまひどい意見を見ても、それが全体だと思うべきではない。そこを雑にひとくくりにすると見えなくなってしまうものがたくさんある。

「味方」内の分断を煽るなと憤る一方で「敵」認定した相手との分断はむしろ煽っていたりする言説は少なくないが、これは「敵」を滅ぼす戦争ではない。「味方」を増やす合意形成の場だ。そのために必要なのはまず意見の異なる人の声に耳を傾けることであり、その人が負った背景に目を向けることだろう。それは男女に限った話ではない。

この分野はちょっとでも否定的なことを書くと即座に「敵」認定され、主張をすべて否定されがちだ(たぶんこの文章もそう受け取られるのだろう)。最後に確認のためはっきりさせておくが、「敵」になったつもりはない。現在の社会において、能力のある女性がその力を発揮する機会を充分に与えられていない状況はまちがいなくあり、それは是正されるべきだ。しかしそれは人為的な介入によってではなく、競争の結果優れた能力をもつ女性が(男性も)機会を得ることのできる環境を整備していくことで達成されるべきだと考える。

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