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February 06, 2010

皆さん「ダダ漏れ」についてちょっと思い違いをしてはいないか?

「ダダ漏れ」という言葉があちこちで見られるようになった。いうまでもなく、「ケツダンポトフ」の「そらの」さんの活躍によるものだ。事業仕分けやウェブ学会など、名だたるイベントに乗り込んで起きていることをノーカットで中継するスタイルは、マスメディアによる編集された情報に慣れた目には新鮮に映る。「あれはジャーナリズムじゃない」という批判も、もはや無視できない影響力を持っていることの裏返しだ。

とはいえ、もちろん全員とはいわないが、どうも世間の少なからぬ人々の間に、「ダダ漏れ」に関連してある種の誤解があるように思われるのでひとことだけ。ちょっと釣りっぽいタイトルだが、実際若干挑発的でもあり、でも一応割とまじめで、かつ前向きのつもりだったりもする。ちょっと長文。

知ってる人は多いだろうが、そもそも「ダダ漏れ」とは何か?たとえば地域情報サイト「品川経済新聞」の記事「大井町のすし店が「ツイッター割引」-「ダダ漏れ女子」の中継も」をみると、そらのさんを「動画配信サービス「ユーストリーム」でライブ中継を行う「ダダ漏れ女子」」と紹介している。もちろん彼らは承知の上でよりわかりやすく説明しようとしてこう書いたのだろうが、これは必ずしも正確とはいいがたい。一方、2010年2月4日付産経新聞記事「【Web】ダダ漏れ増殖中 ツールも向上、広がる可能性」には「私生活の映像などをネット上にさらす“ダダ漏れ女子”」とある。こちらが、少なくともそのルーツ的にいえば「正解」。

もともとこのことばは「小鳥ピヨピヨ」の運営者として知られるブロガー、いちるさんのいわば造語だった(※2010/2/7訂正:ずっと前からあったことばらしい。お知らせ多謝。コメント欄参照)。この意味での初出は2007/09/19の記事「自分の「今」がダダ漏れな子のブログ」。「自分自身の動画をリアルタイムでずっと配信している」ことをプライバシーが「ダダ漏れ」、と表現したもの。まだUSTREAMが今ほど一般的ではなかったころだが、こういう使い方は、少なくとも日本の環境下ではよほど意表をついていたのだろう。当時この記事を見て「よくやるなあ」と思った記憶がある。

で、件のそらのさんはその「ダダ漏れ女子2号」として、2009年5月25日の記事「ダダ漏れ女子2号、登場」に紹介されている。もちろん当時はまだ今のように知られた存在ではなかったのだが、この記事でも、自らの姿をネットに公開し続けるさまが描写されている。要するにダダ漏れとはそもそも、自分を映すものだったわけだ。

別にネット界隈の超ニッチな蘊蓄を語って自慢したいわけではない。ダダ漏れが「ダダ漏れ」と名付けられたのには意味がある、といいたいのだ。いちるさんが「ダダ漏れ女子」に注目したのは、いうまでもないが、彼女らが本来あまりネットで公開されることのない普段の姿、プライバシーに近いところをそのまま公開していたからだ。「漏れ」という表現も、「本来ないはずの」というニュアンスで使われている。

その後そらのさんのカメラは、次第にそらのさん自身ではなく外部に向かい始めた。そうした部分しか知らない方の中には、彼女をいわば「突撃取材」する人のようにとらえている人もいるかもしれない。それはそれで別にまちがいということはない。「ダダ漏れ」が自分を映さなければならないという決まりがあるわけでもないし。しかしそれでも、もともと「ダダ漏れ」が自分の姿を中継する行為であったという事実には、もう少し重要な意味がある。

こんなことを思ったのも、ちょうど昨日、2010年2月5日に早稲田大学で開催された「オープンプレスクラブ(OPC)構想について話し合う会」なる会合に出席した際の経験が印象的だったからだ。

会合のテーマはいわゆる記者クラブ開放問題。官庁などの記者クラブが既存マスメディアの記者たちに「独占」されていて、フリーのジャーナリストなどが入れず、監視が行き届かない中で、官僚と記者が「癒着」しているのではないか、といった批判がある。それで国民の知る権利が守られない状態が発生している、と。あるいは犯罪報道のようにもっと直接的に、マスメディアが監視役を果たさないために国家権力が国民の権利を侵害する状況が野放しになっている、という批判もある。だから記者クラブを開放して、幅広い層の人々が参加できるようにすべきである、と。おおまかにいうとこんな感じだろうか。

もちろん実際に何をするか、できるかというのはそれなりにいろいろあるわけで、それをいろいろ話し合おうという会合だったわけだ。会合自体は面白くて、フリージャーナリスト、大学生、大学院生、マスメディア勤務の方、一般企業の方などさまざまな人が集まったおかげで興味深い話もたくさん聞けたし、今後に向けてどういうアクションをとったらいいかについてのいくつかの面白そうなアイデアも出た。実行に移されるものも出てくるだろうと思う。それはもちろん歓迎すべきことだと思っている。

会合でいろいろ出た中には、技術の進歩によっていまや誰もが情報発信できる時代になったのだから、ネット中継を皆で分担していろいろ活動してみよう、みたいな話もあった。要するに「ダダ漏れ隊」みたいなもの、自発的なものかもしれないが、そういうものができて、あちこち取材にいって、どんどん動画中継するようになればよい、といった話だ。基本的に悪い話ではないなと思っていたので、そのときはあまり気づかなかったのだが、漠然とした違和感めいたものはあって、何かと考えているうちに思い当たった。

この会合で私は、PCを持ちこんでニコニコ動画で生中継をしていた。見ていた人はわかるだろうが、カメラには会合の中心人物である「ガ島通信」の藤代さんとフリーライターの渋井哲也さんぐらいしか映っていなかったのだが、別に数人しかいなかったわけではない。出席者の多くは生中継のカメラに映ることをいやがり、映らない位置に席をとっていたのだ。

通常の会合であれば、それは別に問題ではない。気にする人がいるのは当然で、そういったことに配慮するのは中継する側としても当たり前のことだし、実際そうしていたわけだが、今回の会合は、知る権利とか、自由な取材活動とか、そういったものがテーマだという意味では、若干「特殊」といえば特殊だ。一方で「ダダ漏れ隊」ができてどんどん動画中継するようになればよいと話していながら、もう一方では、自分が動画に映り込むのをいやがっている。これはちょっとおかしくないだろうか。

思い当たるふしはある。こうした態度は、実のところ今のマスメディアの方々に多く見られるものだ。彼らが、相手のようすを動画に録るが自らが映るのはいやがり、相手に取材で切り込むが自らが取材で切り込まれると狼狽するといった状況は、私も実際に何度か経験した。この会合の出席者たちの態度は、こうしたマスメディアの人たちの態度とよく似ていたように思う。

もともとリアルタイムで配信されてしまう生中継において、他人の著作権やらプライバシー権やらの侵害がはからずも起きてしまうリスクを完全に消去することはできない。録画なら削除・編集できるところも生では対応できないからだ。プロであるマスメディアだって当然同じ問題はあって、できる限りは事前に承諾をとるだろうし、よけいなものが映りこまないように配慮もするだろう。それを前提として、ぎりぎりまで努力しても映っちゃったものとかについては、あるいは知る権利が優先という論理で押し切るか、あるいは会社組織がごめんなさいといってなんらかの対応をするか、といったことをやってるわけだ。

初期のダダ漏れが自分を映すものであったということも、同じ事情があるはず。自分の姿だけなら、自分が納得していればそうした問題が起きないからだ。もちろん今、そらのさんが取材等で自分以外の人を撮影する際には、相手には事前に承諾をとっているだろうが、そうしたことを今よりはるかに多くの人が一般的に、何の配慮もなしにやるようになったとしたら、あるいは「報道」に類することをやり始めたら、何も問題なしですむとは限らない。当然の話だが、何をやってもいいというものではない。

ダダ漏れは問題があるからやめろとかそういうことではない。「大人」な書き方をすれば、気をつけたほうがいいよ、ということになるし、ポジショントーク的にいえば、発信を前提としたメディアリテラシー教育の再構築が必要だとかそういう話になる。発信者たる個人や小さな組織にその手段を与えるネットサービス事業者が対応すべきだという考え方もあるだろうが、必ずしも実効性があるとは思えない。たとえばテキストベースのブログサービス企業とかだって、ユーザーを縛るのはそれなりに難しい。明らかに「有害」と識別できる情報ならともかく、報道の領域に近づいていくと、そうした区分けははっきりとはできないことが少なくないはずだ。

となると、すわ法規制だという話に行きがちだ。もちろんそれはありうる方向性で、現行法で対処できない、あるいはしずらい部分があるなら、なんらかの法整備が必要かもしれない。とはいえ現行法は、少なくともダダ漏れを行う人の違法行為や権利侵害に対する救済措置はある程度備えているわけで、むしろ今考えるべきはダダ漏れ者自身の保護策のほうなのではないか。ここまでは大丈夫というルールを示してあげることで、歓迎できない行為を抑え、望ましい側面を伸ばすことをねらうわけだ。

報道、特に国などの公共機関に関する報道の領域は、より多くの、多様な視線にさらすことで公正を保つという意味で、「保護」のメリットが大きいかもしれない。記者クラブ開放問題も、同じ問題意識から発生したもののはずだ。権力に対する監視役としてのメディアの役割の一部をもしそうした「ダダ漏れ隊」を含む一般に近い人たちに担ってもらうことが社会的に有益であり、今後必要だと考えるなら、少なくともその領域においては、ダダ漏れされることを職務の一部と考えてもらったほうがいいかもしれない。社会的に影響の大きい企業などの団体も、それに類するものとしてとらえる考え方がありうる。

ではそうでない場合、たとえば一般の人を映すことはどうか。ダダ漏れを行うのも一般の人である場合が多いことを考えると、この問題は、情報を伝える役割を担うネットサービス事業者の責任問題に直結する。今でも動画投稿サービス事業者は、アップロードされた動画のうち問題のあるものを削除したりするが、生中継では対応が間に合わないこともあろう。そもそも、機械で判定できるような明確なものでなければ、すべての動画を常に監視し続けることなどできない。しかし人力で監視しようとすればコストがかかるから、今のように気軽に利用できるものではなくなってしまう。

この問題はもちろん昔からあった。それが顕在化してきたのは、技術の進歩によって、これまでそうした手段を使えなかった多くの人がそれを利用可能になったからだ。ではそうした危険な道具は封印したほうがいいのか?ここで考えなければならないのは、現行の法や慣行が、過去の技術水準、過去の考え方に依拠して形成されたということだ。もしそれが社会の実態に沿わなくなってきたなら、そちらのほうを変えたほうがいい場合もあるかもしれない。よく「新しい酒には新しい革袋」とかいうが、これは「新しい革袋には新しい酒」とでもいおうか。誰もが動画で情報発信できる時代とは、誰もが動画に映り込む可能性をある程度は認識しておかなければならない時代だ。もちろん何をしてもいいという話にはならないが、今のようにほんのちょっとでもだめという考え方は現実的とはいえない。

つまり、ある程度は権利侵害をお互いに許容しようというわけで、これはけっこう「過激」な話だと自覚はしている。社会や人は時代とともに変わっていくが、そのペースは技術ほど速くないことも多い。少なくとも今の段階で、こういう考え方が社会の大勢を占めるとは思わない。巨視的にいえば、科学技術のおおまかな方向性が、これまでのような、自然を含む環境や他者からの「自立」への指向から、それらとの「共存」みたいなものへの指向に変化しつつあるように思われるので、自分ではまちがってないと思うんだが、当然異なる考え方の人はいるだろう。もちろん現行法は厳然と存在するわけだし。しかしそれが新しい動きとの間で摩擦を起こすなら、そこでなんらかの調整をしようという人たちが必ず現れる。さまざまな考え、立場の人がいる以上、しばらくはあれこれ議論が続いたり、トラブルが起きたりしていくことになるんだろう。むしろ安易に結論を出さないほうがいいと思う。

少なくとも今いえることはある。極論はともかく、より現実的な部分を考えるとすれば、少なくともメディアの一翼を担って情報発信をしようという人たち自身には多少の「覚悟」が必要ではないか、ということだ。やや挑発的にいえば、少なくともネット中継中に自分の姿がダダ漏れされる覚悟のない者が、ブームに乗ってダダ漏れなどやろうとは考えてくれるな、と。同様に、動画でなくても取材活動をする人は、同じやり方で自分が取材される可能性を意識しておくべきだろう。もちろんマスメディアの皆さんも同様だ。そもそも「誰もが情報発信できる時代」とはそういうものではないだろうか。


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Comments

ネット中継中に自分の姿がダダ漏れされる覚悟のない者が、ブームに乗ってダダ漏れなどやろうとは考えてくれるなーーー全く同感です。
刺激的な論考、参考になりました。

Posted by: hansei | February 06, 2010 01:56 PM

amazonの広告に笑ってしまいました。

Posted by: ponta | February 06, 2010 02:18 PM

ご存知かと思いますが、関西芸人は数十年前から「ダダ漏れ」を同様の意味で使ってますよ。

Posted by: dada | February 06, 2010 08:13 PM

この話題なら数年前にすでに

*初期justin.tvでも写りたくない一般人の論争がおこってて、アメリカも日本も大差ないこと
*秋葉原通り魔事件でUstream配信があり、ジャーナリズムと野次馬根性の差が実は無かったことがバレたこと

という出来事があったことも触れていると良いかなぁとおもいました。

Posted by: otsune | February 06, 2010 08:30 PM

同じく何が造語といいたいのかわからなかった。
「ダダ漏れ」は四半世紀くらい前には普通にあった言葉ですよ。
作者は自分の無知を恥じればいい。

Posted by: onajiku | February 07, 2010 08:06 AM

コメントありがとうございます。

hanseiさん
ちょっと強い表現だとは思います。むやみにハードルを上げたいというわけではありません。ただ本質的にリスクを含み、にもかかわらず重要な意義のあることに対しては、真剣に取り組んでもらいたい、と思いました。

pontaさん
はて何のことやら。

dadaさん
「ご存知」だったらこうは書きません。知りませんでした。関西芸人のことはあまり知りませんで。お知らせありがとうございます。本文に加筆します。関西だけなんですかね。プライバシーに関しての使い方ですか?お読みいただいたのであればお分かりいただけると思いますが、この文章は「ダダ漏れ」ということばそのものの語源というよりは、今ネット中継を指して「ダダ漏れ」と称するという用法にひっかけて、ネット中継に関する問題意識と自分の考えについて書いたものです。関西芸人が数十年前からこのことばを使っていたとしても、この文章の本旨は変わりません。

otsuneさん
ustreamの初期からこの種の話があったことは承知しています。秋葉原の事件の現場にいた人たちの行動についてはいろいろな方がたくさんの論評を出されていますが、私も2008年7月にこんな文章を書きました。
http://www.h-yamaguchi.net/2008/07/post_15ea.html
かつて書いたから繰り返さない、とかかっこつけません。単に思い出しませんでした。短時間で一気に書くブログの文章なので、商業媒体の文章とは書く際のスタンスもちょっとちがっています。ただ、ここでの関心は、ネット中継が数年前とは比較にならないほど一般的な行為になった状況を前提としています。以前同趣旨の文章が書かれたからといって、もう何も書く意味はないとは思いません。

onajikuさん
無知と不勉強は認めますが、「ダダ漏れ」ということばがずっと以前から使われていた事実を知らなかったということ自体は正直あんまり恥ずかしくはないですね。私にとっては、本質から外れた批判をすることのほうがよほど恥ずかしいです。

Posted by: 山口 浩 | February 07, 2010 10:51 AM

「ダダ滑り」なんて言葉も前からあるけど、
今、ネット上で流行っている意味での「ダダ漏れ」を
論じるのに、その言葉を知っていたかどうかは関係ないですよね。
つまらん揚げ足です。

Posted by: bonbobon | February 08, 2010 10:23 AM

bonbobonさん、コメントありがとうございます。
いろいろあるんですね「ダダ」系。ニュアンスとして、とどめておくべきものが出てしまってる、というところは共通してるんでしょうか。

Posted by: 山口 浩 | February 09, 2010 04:22 AM

>以前同趣旨の文章が書かれたからといって、もう何も書く意味はないとは思いません。

別にただ「わたしはよりわかりやすい記事になるなとピュアに思っただけ」なんで、これといって他意はありませんよ。
過去に似たようなことを書いたんなら「前にも似た用なことを書いたが」とかurlがあればわかりやすいんじゃないかなとは思いますが。

たぶん他の揚げ足取りコメントに憤慨してて、私まで巻き添えくって揚げ足取りコメントと誤解されたんだと残念な気分になりましたが、まぁそれはしょうがないことなんで。(個別に態度を変えればいいのになぁとは思いますが)

Posted by: otsune | February 28, 2010 12:13 AM

otsuneさん
ご説明したとおりで、この文章を書いたときには前に書いたものについてはあまり意識していませんでした。ともあれ気分を害されたようで、申し訳ありません。

Posted by: 山口 浩 | February 28, 2010 04:41 PM

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