賃上げより前にやるべきこと
なんだか賃上げの話が聞かれるようになった。製造業大手の一斉回答があって、「久しぶりに春闘」みたいな報道が踊っている。景気がよくなってきたんだねぇ、と感慨ひとしおなわけだが、ちょっと待った。
賃上げより前にやるべきことがあるだろうに。
以下は、客観的なデータやら詳細な調査やらに基づいていない、単なる感想だが、そう大きくポイントをはずしてはいないのではないかと思うので、書いてみる。「ちがうぞ」という事実をご存知の方はぜひご教示いただければ。
賃上げは、もちろんそれ自体としては望ましい。製造業大手の動向は労働市場全体への波及効果をもつ。賃上げによって景況感もさらに上向き、消費にもいい影響を与えそうだ。回りまわって、中小企業やら個人事業主やら、アルバイトやパートの方々やらにまで、次第にその効果が及んでいくかもしれない。というか、そんな大上段に構えた話よりも、個人として好ましいってことだ。
ただ、忘れてはいけない。賃上げは、「既に雇われている」人たちのものだ。「まだ雇われていない人たち」や、いわゆる非正規雇用の人たちは視野の外にある。まだ雇われていない人の中でも新卒については、例の2007年問題もあって採用増の動きがあるようだし、非正規雇用の人たちについても、最近は賃上げを要求していく動きが出ているそうだから、多少は改善の方向にあるのだろうが、「既に雇われている人たち」に比べると状況には雲泥の差がある。特に、不況のまっただ中に社会に出た人たち、「第二新卒」の時期を過ぎてしまった層の人たちの雇用機会は、依然として厳しいのではないかと思う。
もしそうならば。
労働組合は「既に雇われている人たち」の組織だから、その人たちの利益になることをまず追求するのは当然といえば当然だが、春闘とやらで気勢を上げる前に、もう少し社会的公正ってやつに気を配ってはもらえないか。「弱者の見方」を自称するなら、賃上げよりもまず雇用機会の拡大をめざすべきではないか。別に不要な人を雇えといっているのではない。身分の安定した常勤職員の賃上げより先に、不安定な立場におかれている非正規雇用の人たちの労働条件を引き上げたり、常勤への転換を促したりすることが公正につながる、とは考えないか。もちろんそれは、ただではできない。「既に雇われた人たち」の取り分を少なくとも一部は放棄する、あるいは将来取り分となるべきものの一部をあきらめる、といったことを含む。そういう「覚悟」をしてはもらえないか。
もうかっている企業がなんとかせよ、という声もあろう。気持ちはわかるが、もうかっていると認めるほどもうかっている企業はそれほど多くないかもしれない。そもそも企業は営利団体なのだ。もうけを出すのが目的で、経営者はそのために株主に「雇われて」いる。営利を目的としない労組とはちがう。企業に期待するのは、あまり適切ではないと思う。
では政府は?もちろん、政府にもやるべきことはある。むしろ、今こそ政府の決断が求められているときはない、といってもいいかもしれない。というと、最近よくある市場原理主義の見直しだとかなんとかいう人たちの意見と似ているようだが、そうではない。国会の議論などを聞いていると、市場万能主義のせいで格差が拡大したのが問題だと主張する人たちがたくさんいるが、私はそうは思わない。現在の労働市場が市場万能主義に陥っているというのも、ちょっとちがうと思う。
むしろ、逆ではないか。
これまで若年層の雇用機会が極端に不足していたのは、企業が「既に雇われている人たち」の雇用維持を最優先にしたからだ。これは、必ずしも経済原則にしたがったものとはいえない。もちろん、新規に雇用するより既にいる従業員を使いまわすほうが暗黙知を生かすなどの点で有利だということはある。しかし、企業の現場を多少なりとも知る者としていわせてもらうと、実際のところは、そういった合理的な理由というよりも、現在既に雇われている人を厚く保護する労働法制の影響のほうが大きいような気がする。雇われているのは、より付加価値が高いからではなく、既に雇用されているからだ。つまり、労働市場において、市場万能主義が跋扈したことではなく、法制度のために市場メカニズムが働かなかったことこそが、雇用機会の世代間不均衡をもたらしたのではないか。
もしそうだとすれば、政府の役割は、既存の労働者の保護政策を充実したり、補助金やら交付税やらをばらまいたりすることではなく、「過剰」な労働者保護を切り下げ、「既に雇われている人」と「これから雇われる人」との公平を保障するための法制を検討することではないだろうか。つまり、今必要なのは、資源の再配分よりも公正なルール作りだ。具体的には、たとえば非正規雇用の人たちの給与水準を、同じ仕事の常勤雇用者のそれより低くすることを禁止することなどが考えられる。これは、つまるところ、労働市場におけるリスクとリターンの関係を「正常化」すべきということだ。同じ仕事で、リスクの高い(雇用が守られていない)労働条件の人は、リスクの低い(雇用が守られている)労働条件の人より高いリターン(給与)を得るべきだ。その差額はリスクプレミアムとみることができる。経済合理性のあるルールだと思うが、今はこうなっていない。リスクの低い労働条件の人のほうが高い給与を得る傾向にある。だから所得差が「身分差」のように認識されてしまうのだ。
このようなルール作りは、実際のところ、中小企業よりも大企業にとってより大きなインパクトを持つのではないか、と想像する。中小企業でよく聞くのは、「アルバイトから正社員になってよかったと思ったら、仕事がきつくなってかえって時給換算の収入は減ってしまった」という類の話だ。大企業の場合は、正社員との差はもっと大きいから、正社員になれば給与は上がる例が多いだろう。だからこのようなルールが施行されれば、より大きな調整を行わなければならなくなるはずだ。
とはいえ、世間的にみれば、かなりドラスチックな意見だと思う。この社会を支える基盤となってきた常勤雇用者の猛烈な反発にあうだろう。現状では、多少の妥協をしても、この方向に少し動かしてみる、というぐらいでもできれば大成功だ。政府も、国民の反対が強ければ動くことはできない。まず動くとすれば誰か?というわけで、ぜひ労働組合の方々に期待したいのだ。賃上げを要求する前に、「まだ雇われていない人たち」を「これから仲間になる人たち」と考えてもらえないか。国の年金制度が世代間扶養のしくみであるのと同じ意味で、企業年金にも世代間扶養の意味がある。自分たちの老後は、ある程度は後の世代にかかっているはずだ。自分たちの世代で「草を食べ尽くしてしまう」ことは、きっと自分たちのためにもならない。
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Comments
興味深く読みました。不安定な雇用ならリスクプレミアム分の高い賃金を、というのは正論ですね。実際、フリーランスを雇うときは、一般的に社員より高いフィーを払います。バイトやパートが安定な雇用形態より時給で安いとしたら、それは歪みといえます。
おおむね同意だったのですが、一点だけ。
>具体的には、たとえば非正規雇用の人たちの給与水準を、同じ仕事の常勤雇用者のそれより低くすることを禁止することなどが考えられる。
の部分について、文脈から考えても、ここは「会社の解雇権を強める」という案がきてもいいのではないでしょうか?
個人的には規制を増やすより、無くす方向にして頂きたいです。
ちなみに私は経営者ですがべつに自社で解雇権を発動したいとは思っておりません:-)
フリーランス(=IC =independent contractor)を活用すれば済むと思います。
Posted by: hidetox | March 17, 2006 02:28 AM
hidetoxさん、コメントありがとうございます。
そうそう、労働法の問題がありましたね。ご指摘のとおり。言い訳じゃないんですが、書きかけのときには入れていたのに、どこかで削ってしまったようで。本文中の「現在既に雇われている人を厚く保護する労働法制」あたりがその片鱗、ですね。流動性のある労働市場を前提とすれば、解雇をより幅広く認めることのマイナス面は今よりずっと少ないだろう、と思います。いやがる人が多いだろう、というのはかわりませんけど。かといって「みんながどんどん辞めていく社会」がいいといっているわけではない、というのもおわかりいただけますよね?
Posted by: 山口 浩 | March 17, 2006 02:40 AM
大変共感を憶えました。
この意見はドラスティックなのでしょうか?当たり前の意見ではないかと思います。
山口さんのおっしゃるように、労働組合が正社員の既得権益だけを守って非正社員の権益を考慮しないのは今や大問題だと思います。正社員、非正社員の格差は不景気時に最も強く現われると言うのが今回の長期停滞で明らかになったと思います。そして、もう1つしわ寄せが来たのが将来の労働者である新卒学生ですね。正規労働者と非正規労働者の間の職場環境の差が大き過ぎ、実質上労働市場が分裂してしまっているのも非正規側に組みこまれた人々に取っては大問題だと思います(もしかしたら、マクロに対しても悪い影響があるかも知れません)。国が法律で正社員と非正社員を区別する合理的理由は全く分かりません。どこが市場原理主義なのでしょうかね?
個人的には非正規労働者と正規労働者の給与水準を規制するよりは、国が定めている非正規労働者と正規労働者の区別を無くし、正規労働者の保障水準を引き下げ、非正規労働者の保障水準を上げる形で、社会保障上の格差(例えば厚生年金、社会保険の格差etc)を無くし、給与は事業主の自由裁量に委せる方向で良いと思ってます
Posted by: 学生 | March 20, 2006 02:57 PM
学生さん、コメントありがとうございます。
人間、立場がちがうと意見がかなり異なるもので、ここに書いたようなことは、見る人が見ると「とんでもない暴論」となります。それぞれの人にそれぞれの事情があって、そのいずれもがそれなりの根拠をもっているがゆえに折り合いがつかないと。話をするときには、そのあたりをわかった上でないと危ないわけですね。その意味で、ここに書いたものは、私にとってはけっこう「冒険」のつもりです。「天に唾」系の話でもありますし。ひとつだけ申し上げたいのは、けんか腰だけではものごとは解決しにくい、ということです。ぜひ、意見のちがう人の考えを、できるだけがまんして聞いてみてください。現実的な対応を考えてみてください。「正しい」だけではうまくいかないことが多いのです。
Posted by: 山口 浩 | March 20, 2006 05:26 PM
大変興味深い記事ですが、新たな「法規制」というところについて、ちょっと気になるところがあります。
釈迦に説法という気もするのですが、一般には、企業は企業特殊的資源への投資が必要とされる(あるいはそうして欲しい人材)には高い雇用保障を提供し、それが不要な場合には低い雇用保障を提供すると考えられているのではないでしょうか?
その代わり、低い雇用保障を提供された労働者側は、(余暇の機会費用を含めて)企業特殊的な資源への投資を避けることで対応することが可能です。
もちろん、個別にみれば、インバランスが生じている事例はあるはずですし(というよりも、個々の事例をみれば完全な均衡が達成されている状態の方が稀だと思いますが)、このプロセスを法で規制するということは、立法者の方が個々の経済主体よりも、雇用保障水準と企業特殊的な資源への投資水準の均衡点に関する情報を持っており、かつ、それをエンフォースする仕組みを持っているということが前提になるように思われます。
解雇権濫用法理という雇用保障を強制するルールは合理的ではないと思うのですが、それへの適応がいわば正規雇用と非正規雇用の区別です。そうした雇用保障水準を用いて企業特殊的な資源への投資水準をコントロールすることに制約を加えることには、それ自体としてかなり大きなコストが存在するように思われますし、個人的には、解雇権濫用法理の緩和と雇用形態の自由化を行った上で、雇用保障水準の選択については企業の選択に委ねるのがいいのではないかという印象を持っています。
Posted by: 47th | March 23, 2006 07:12 AM
47thさん、コメントありがとうございます。
「釈迦」ではなく「門前の小僧」ですので大歓迎です。Institutional knowledgeへの対価、はご指摘の通りです。私の議論は労働市場におけるいわゆる「完全競争」みたいな状態をイメージしたものですので、そういうのとか賃金の下方硬直性とかそういうのは無視しています。均衡点は企業の内部情報ですから、政府には知る由もなければ知る必要もありません。企業自身が定める正規雇用への賃金と非正規雇用への賃金との関係に着目したものです。ご意見はその通りですが、この程度であれば弊害は少ない(「合理的」の範囲内)のではないかと考えました。これなら労基署のチェックができるのではないかというあたりも含めてです。ここでのポイントは「同一労働」の定義ですね。今のところ、非正規雇用の多くは女性ではないかと想像していますが、それなら比較的労基署の判断で認定しやすいのではないでしょうか。長期的には、企業にjob descriptionの整備を求めていく方向なんですかねぇ。労働契約の整備は、正規雇用についても重要な課題ではないかと思うので、過重な負荷ではないと考えるのですが。
あと、私の印象では、解雇権の緩和は、上記のようなやり方よりも、「政治的」に抵抗感が強いのではないかと思います。いかがでしょう?
Posted by: 山口 浩 | March 23, 2006 12:31 PM
個人的な印象としては、90年代以降の日本の労働政策は、(a)解雇権濫用法理の実質的な緩和(裁判所の運用レベルにおいては、整理解雇の解釈はかなり柔軟になっているんですよね)、(b)企業グループ外での労働者派遣の開放という形で、雇用保証水準の選択の多様性を企業に与えることで雇用需要の最大化を図るという政策をとってきているんではないかという印象があり、その方向性は望ましいと思っていたんですが、色々と考えさせられました。
最近はまっている開発の分野で見ても、非正規雇用(informal sector)の拡大は途上国と先進国の両者に見られる現象で、これをどう考えるかが議論の的となっているようなので、また自分でも考えてみます。
お返事ありがとうございました^^
Posted by: 47th | March 25, 2006 01:59 AM
47thさん
非正規雇用もindependent contractorと考えればenpowermentのひとつのかたち、といえなくもないでしょうが、日本の場合は実態が伴ってないですね。
望ましい方向性、というご見解には賛成ですが、結果として生じている現状は、やはり公平とはちょっといいがたい印象があります。社会的な合意があれば自然に変わっていくのでしょうが、そういう期待は持ちづらいですよね、今のところ。またいろいろ教えてください。
Posted by: 山口 浩 | March 25, 2006 11:41 AM
トラックバックがうまくできず失礼いたしました。
あきらかに「あっちのほうが得だよな」となった場合、そして「あっち」にそうやすやすと行けないとき、やはり歪みを正す必要はあると思いますが、それをどこに期待すればよいのか、というのが難しいと思います。
既得権益があれば守りたいのは役所だけじゃないし、誰もが総論賛成各論反対となってしまいます。
「当たり前」であり、かつ「ドラスティック」、並び立ちます(^_^;)
Posted by: stonco606 | March 30, 2006 11:56 AM
stonco606さん、コメントありがとうございます。
「当たり前」のはずのことが「ドラスチック」であるケースというのは、他にもたくさんありそうですね。やはり立場のちがいというのは強力なんだろうな、と思います。うまく突破するためには、何かよほどのものがないといけないんでしょうね。
それでも、希望を捨てずにいたいものです。
Posted by: 山口 浩 | March 30, 2006 05:25 PM