そろそろ日本は教育でも米国に負けるのでは
「失われた四半世紀」などと言われている日本だが、初等中等教育に限ってはその限りではなく、引き続きそれなりの位置をキープしている。
2011年の国際学力調査TIMSSにおいて、中2数学では日本は570点で42地域中5位(1位は韓国の613点。米国は509点で9位)、中2理科では日本は558点で同4位(1位はシンガポールの590点。米国は525点で10位)である。
生徒の勤勉さ、質の高い教材、教員の知識水準が比較的高いこと、などは引き続き日本が誇れることだ。特に難関中学や一流国立大の入試に見られるように、日本が考える力を重視した教育をしていることは特筆すべき点であり、専門知識に基づいた仕事の分業が十分に進んでいない日本社会の欠点をある程度補っていることは間違いない。
一方の米国では、じっくりと積み重ねが必要な数学や科学、工学等の分野で人材が不足しており、外国人労働者や移民に頼っているのは周知の通りである。
それでは、教育の面で引き続き日本は米国などに対して優位を保っていくことができそうだろうか。私の見方は、初等中等教育に関しては当面の間リードを保てるかもしれないが、実用的な生涯教育に関しては危ないのではないか、というものだ。
日本人は大学に入るまでは確かによく勉強するが、その後はあまり伸びない人が多い。特にフルタイムの仕事についてからは、勉強する機会が極端に少ない。22歳で大学を出てから60歳で引退するまで大して変わらない仕事をすれば良かった時代ならそれでも構わなかっただろうが、必要なスキルがめまぐるしく変わる昨今、このような状況では人的資本が大きく失われる可能性がある。
そもそも初等中等教育の成果はそのまま活用できるものばかりではなく、その上に何を積み重ねるかが大事だ。素因数分解できることが直接役に立つ訳ではなく、その数学的素養の上にどれだけ仕事に使えるスキルを身につけるかだ。アメリカの学生は、そうした勉強を大人になってから続ける人が多い。
私はミシガン州デトロイトにある中規模の大学に勤めている。州内では4〜10番くらいの位置につけるローカルな大学だ。ミシガン州を地理的な条件の似ている北海道に例えるなら私の大学は北海道大ではなく、北海道の中規模の公立大や私立大に相当すると言って良い。
しかし、そんなありきたりの地方大学にもたくさんの社会人大学院生が入学してくる。ビジネススクールやロースクールではなく数学科にである。それは、高校の先生だったり、メーカーのエンジニアであったりする。大学院に限って言えば、これらの学生は学科にとってメインの顧客だ。
今学期、私と機械学習のセミナーをやった地元の修士課程学生Aは、従業員千人弱のマーケットリサーチ会社のミシガン事務所に勤めている。私がこの大学に来て間もない頃、彼は大学4年生で私の数理統計学の授業を取っていた。評価が甘めのクラスで成績はA-かB+。ごく平均的な印象に残らない学生だった。
彼は就職して少ししてから修士課程に入学して、1学期に1つずつコースを取り続けている。修士を取るには10コース程度履修する必要があるので、5年かかることになる。昼に行われるセミナーや授業もあるので会社から許可をもらって大学に来る。5年間で4万ドルほどの学費がかかるはずだがこれも全て会社持ちだ。仮に博士課程に進みたい場合でも、会社から無条件に学費が出るそうだ。仕事でデータを扱いながら、修士課程にもう3〜4年も通っているので、セミナーを一緒にやっている数学科出身の博士課程2年目の留学生より理解度が高い。
彼が日本の難関国立大の入試問題を解けるのかどうかは分からない。しかし同規模の日本企業の地方事務所に勤める日本人が、彼と同程度のスキルを持ってデータを分析できるかどうかと言われれば、疑問を感じざるを得ない。(長く日本で働いていないので、私のこのような認識が誤りであることを願うが。)
日本も20年前は、経費を湯水のように使って人材を育成したり、一見無駄な研究にお金と時間を使ったりする余裕があった。しかし現在では、そうしたことにお金を使うのはもったないとか不公平(例えば製造業であれば仕事に裁量が少なく工場でルーチン作業に従事する従業員に対して不公平)であるとされる風潮が強く、優秀な社員の自助努力に頼っている面がある。
もちろん極端な話をすれば、才能に恵まれ努力さえ惜しまないなら、清掃員をしながら独学しホワイトボードに新しい定理の証明を落書きして数学者になることも可能かも知れない。しかし、社会全体としてそういう仕組みは危険だ。しかも日本は、米英やシンガポール、上海、香港などとは違い、継続的に優秀な頭脳の流入が見込めるわけでもない。
人材を育成してもすぐ豊かになれるわけではないが、人材の育成を怠れば豊かになるチャンスは限りなくゼロに近くなる。社会は平等を保つによって豊かになるわけではなく、時間をかけて育てた人材の一部が成功し、作り出した冨をみんなで分けることによって豊かになっているということを日本社会は思い出すべきだ。
2011年の国際学力調査TIMSSにおいて、中2数学では日本は570点で42地域中5位(1位は韓国の613点。米国は509点で9位)、中2理科では日本は558点で同4位(1位はシンガポールの590点。米国は525点で10位)である。
生徒の勤勉さ、質の高い教材、教員の知識水準が比較的高いこと、などは引き続き日本が誇れることだ。特に難関中学や一流国立大の入試に見られるように、日本が考える力を重視した教育をしていることは特筆すべき点であり、専門知識に基づいた仕事の分業が十分に進んでいない日本社会の欠点をある程度補っていることは間違いない。
一方の米国では、じっくりと積み重ねが必要な数学や科学、工学等の分野で人材が不足しており、外国人労働者や移民に頼っているのは周知の通りである。
それでは、教育の面で引き続き日本は米国などに対して優位を保っていくことができそうだろうか。私の見方は、初等中等教育に関しては当面の間リードを保てるかもしれないが、実用的な生涯教育に関しては危ないのではないか、というものだ。
日本人は大学に入るまでは確かによく勉強するが、その後はあまり伸びない人が多い。特にフルタイムの仕事についてからは、勉強する機会が極端に少ない。22歳で大学を出てから60歳で引退するまで大して変わらない仕事をすれば良かった時代ならそれでも構わなかっただろうが、必要なスキルがめまぐるしく変わる昨今、このような状況では人的資本が大きく失われる可能性がある。
そもそも初等中等教育の成果はそのまま活用できるものばかりではなく、その上に何を積み重ねるかが大事だ。素因数分解できることが直接役に立つ訳ではなく、その数学的素養の上にどれだけ仕事に使えるスキルを身につけるかだ。アメリカの学生は、そうした勉強を大人になってから続ける人が多い。
私はミシガン州デトロイトにある中規模の大学に勤めている。州内では4〜10番くらいの位置につけるローカルな大学だ。ミシガン州を地理的な条件の似ている北海道に例えるなら私の大学は北海道大ではなく、北海道の中規模の公立大や私立大に相当すると言って良い。
しかし、そんなありきたりの地方大学にもたくさんの社会人大学院生が入学してくる。ビジネススクールやロースクールではなく数学科にである。それは、高校の先生だったり、メーカーのエンジニアであったりする。大学院に限って言えば、これらの学生は学科にとってメインの顧客だ。
今学期、私と機械学習のセミナーをやった地元の修士課程学生Aは、従業員千人弱のマーケットリサーチ会社のミシガン事務所に勤めている。私がこの大学に来て間もない頃、彼は大学4年生で私の数理統計学の授業を取っていた。評価が甘めのクラスで成績はA-かB+。ごく平均的な印象に残らない学生だった。
彼は就職して少ししてから修士課程に入学して、1学期に1つずつコースを取り続けている。修士を取るには10コース程度履修する必要があるので、5年かかることになる。昼に行われるセミナーや授業もあるので会社から許可をもらって大学に来る。5年間で4万ドルほどの学費がかかるはずだがこれも全て会社持ちだ。仮に博士課程に進みたい場合でも、会社から無条件に学費が出るそうだ。仕事でデータを扱いながら、修士課程にもう3〜4年も通っているので、セミナーを一緒にやっている数学科出身の博士課程2年目の留学生より理解度が高い。
彼が日本の難関国立大の入試問題を解けるのかどうかは分からない。しかし同規模の日本企業の地方事務所に勤める日本人が、彼と同程度のスキルを持ってデータを分析できるかどうかと言われれば、疑問を感じざるを得ない。(長く日本で働いていないので、私のこのような認識が誤りであることを願うが。)
日本も20年前は、経費を湯水のように使って人材を育成したり、一見無駄な研究にお金と時間を使ったりする余裕があった。しかし現在では、そうしたことにお金を使うのはもったないとか不公平(例えば製造業であれば仕事に裁量が少なく工場でルーチン作業に従事する従業員に対して不公平)であるとされる風潮が強く、優秀な社員の自助努力に頼っている面がある。
もちろん極端な話をすれば、才能に恵まれ努力さえ惜しまないなら、清掃員をしながら独学しホワイトボードに新しい定理の証明を落書きして数学者になることも可能かも知れない。しかし、社会全体としてそういう仕組みは危険だ。しかも日本は、米英やシンガポール、上海、香港などとは違い、継続的に優秀な頭脳の流入が見込めるわけでもない。
人材を育成してもすぐ豊かになれるわけではないが、人材の育成を怠れば豊かになるチャンスは限りなくゼロに近くなる。社会は平等を保つによって豊かになるわけではなく、時間をかけて育てた人材の一部が成功し、作り出した冨をみんなで分けることによって豊かになっているということを日本社会は思い出すべきだ。