子供が最初から海外で暮らすということ
「子供が急に海外で暮らすということ」というエントリーを読んで、自分も1つエントリーを書いておきたいと思い立った。
私が住んでいるデトロイトの日本人は駐在員が多いし、Twitterで絡んでいる人の中にも米国に来たくて家族を説得して家族で来たという人がそれなりにいる。配偶者やお子さんが米国生活に順応するのに苦しんだり失敗したという話はたくさん聞いてきた。(もちろん、何の問題もなく元気にやっている人もたくさんいるので、渡米前の人が悲観的に考えた方が良いのかはまた別問題である。)
しかし我が家のストーリーは、どちらかというとその逆である。比較的少ないケースかも知れないが、逆に言えば見落としがちな視点でもあるので紹介させて頂きたい。
私が2004年に米国に来たのは、米国はNo.1だからとか米国が好きだからとかでは断じてなかった。キャリアの選択肢としてそれがベストだと思ったからに過ぎない。私は日本の生活環境が大好きだし、キャリア上の問題がないなら日本に住みたいと常に思ってきた。
妻は私が行きたい所なら何処にでも付いていくと言ってくれていたが、英語圏の大学を卒業していた事もあり日本よりむしろ海外暮らしの方が楽で良いというタイプだ。そして娘は渡米の1年後に生まれて以来、13年間ずっと米国に住んでいる。
娘が生まれて3年弱、私はずっと日本の方を向いていた。娘は家の中で純粋に日本人の子として育っていたし、私は留学生活が終わったらたぶん日本で働くことになると思っていた。
娘が3歳になる少し前、私達は娘を英語生活にも慣れさせておこうとプリスクール(幼稚園)に入れた。もちろん英語は全くできなかったが特に問題は起こらなかった。そもそも3歳前の子は話す言葉に関係なくあまり周りの子とコミュニケーションを取らないし、娘はぼんやりとした能天気なタイプなので気にならなかったようだ。(外国人の子が低年齢から幼稚園い通うメリットは語学の習得よりもこの点にあると思っている。)
私は大学院を卒業後、米国の大学からオファーをもらって働く事になった。別に米国で働きたかった訳ではなく、大学院の友人たちと情報交換しながら必死で就職活動をしたら、成り行きで米国で働くことになったというのが正しい。しかし、大学の仕事はテニュアトラックといういわば6年間の試用期間のあるポストなので、相変わらず私は日本の方を向いていた。
娘は4歳を過ぎるとようやく、
「◯ちゃん(自分の名前)、英語あまり分からないんだよね。」
と自分が言葉に不自由している事に気付き始めた。そんな事もあり、4歳から5歳にかけて何度か学校に行くのを渋ったが、Kindergarten(いわゆる小学校0年生)に上がる頃にはほぼ英語ネイティブの子と遜色なくなっていた。
東日本大震災があり、その後に学校でも世界の色々な事を学ぶようになると娘は
「日本は昔は戦争に負けたし、最近は地震や津波がきてかわいそうな国だね。」
と言いだした。妻と私は、
「そういう事もあったけど、日本はとても豊かで良い国だよ。」
と教えたが、なるほどそういう風に見えるのかと思ったものである。
大学が私を任期無しポストに転換するかどうかを決めるテニュア審査が近づくと、私はそれに悲観的であったので「日本に帰ることになるかも知れない」と家族に伝えた。意味もなく理屈っぽい文章が好きな娘は無邪気に、
「私は日本に帰ることはできないよ。日本に行くことはできるけど。」
と私に言った。娘の言葉遊びに特に深い意味はなかったようだが、その頃から日本に「帰る」のか「行く」のか、娘と話す時には考えるようになった。
期せずして私のテニュアが認められると娘はもう10歳になっていた。日本語を話すし、日本の小学校に3度も体験入学をしたし、私から見ると生粋の日本人に見えるが、本人は日本は旅行や祖父母に会うために行くところだと思っている。
妻はグリーンカードが取れた2013年から働き始めた。米国中西部では労働許可を持った日本人が少ない一方で多数の日本企業があるため、グリーンカードを持った日本人は仕事を探しやすい。いま、日本に帰っても妻が仕事を探すのは結構難しいのかも知れない。
一昨年、ミドルスクールに入った娘には親しい友達も格段に増えた。ほとんどが小さい頃から近くに住んでいる幼馴染やその友達で、その大半は韓国系や中華系の米国永住者である。友人たちの年上の兄弟はおそらく全員が米国の高校や大学に進学している。私は相変わらず自分の日本の母校を娘に推しているものの、娘にはもはや米国での生活以外考えられないようだ。
幸運なことに、私は家族の米国への適応にほとんど不自由がなかった。一方で、家族ですぐに日本に引っ越すことはもはや難しくなってしまったと感じている。日本に親しんだ家族を米国に連れてくることも大変だが、米国に親しんだ家族を日本に連れていくとしたら、それもまた困難を伴うのだと思う。どこの国に住むにしても、家族の国への帰属意識をコントロールすることはできないということである。
まだどうなるかは分からないが、現時点での私のプランは米国で引き続き働き、リタイア後に日本に住むことだ。娘が驚いたり悲しんだり困ったりしないようにそれは伝えてある。その頃には娘も自分で好きな場所でやっていけるようになっているだろうし、引退した両親が日本に住んでいるというのは娘にとっても馴染みのあることだろう。
私が住んでいるデトロイトの日本人は駐在員が多いし、Twitterで絡んでいる人の中にも米国に来たくて家族を説得して家族で来たという人がそれなりにいる。配偶者やお子さんが米国生活に順応するのに苦しんだり失敗したという話はたくさん聞いてきた。(もちろん、何の問題もなく元気にやっている人もたくさんいるので、渡米前の人が悲観的に考えた方が良いのかはまた別問題である。)
しかし我が家のストーリーは、どちらかというとその逆である。比較的少ないケースかも知れないが、逆に言えば見落としがちな視点でもあるので紹介させて頂きたい。
私が2004年に米国に来たのは、米国はNo.1だからとか米国が好きだからとかでは断じてなかった。キャリアの選択肢としてそれがベストだと思ったからに過ぎない。私は日本の生活環境が大好きだし、キャリア上の問題がないなら日本に住みたいと常に思ってきた。
妻は私が行きたい所なら何処にでも付いていくと言ってくれていたが、英語圏の大学を卒業していた事もあり日本よりむしろ海外暮らしの方が楽で良いというタイプだ。そして娘は渡米の1年後に生まれて以来、13年間ずっと米国に住んでいる。
娘が生まれて3年弱、私はずっと日本の方を向いていた。娘は家の中で純粋に日本人の子として育っていたし、私は留学生活が終わったらたぶん日本で働くことになると思っていた。
娘が3歳になる少し前、私達は娘を英語生活にも慣れさせておこうとプリスクール(幼稚園)に入れた。もちろん英語は全くできなかったが特に問題は起こらなかった。そもそも3歳前の子は話す言葉に関係なくあまり周りの子とコミュニケーションを取らないし、娘はぼんやりとした能天気なタイプなので気にならなかったようだ。(外国人の子が低年齢から幼稚園い通うメリットは語学の習得よりもこの点にあると思っている。)
私は大学院を卒業後、米国の大学からオファーをもらって働く事になった。別に米国で働きたかった訳ではなく、大学院の友人たちと情報交換しながら必死で就職活動をしたら、成り行きで米国で働くことになったというのが正しい。しかし、大学の仕事はテニュアトラックといういわば6年間の試用期間のあるポストなので、相変わらず私は日本の方を向いていた。
娘は4歳を過ぎるとようやく、
「◯ちゃん(自分の名前)、英語あまり分からないんだよね。」
と自分が言葉に不自由している事に気付き始めた。そんな事もあり、4歳から5歳にかけて何度か学校に行くのを渋ったが、Kindergarten(いわゆる小学校0年生)に上がる頃にはほぼ英語ネイティブの子と遜色なくなっていた。
東日本大震災があり、その後に学校でも世界の色々な事を学ぶようになると娘は
「日本は昔は戦争に負けたし、最近は地震や津波がきてかわいそうな国だね。」
と言いだした。妻と私は、
「そういう事もあったけど、日本はとても豊かで良い国だよ。」
と教えたが、なるほどそういう風に見えるのかと思ったものである。
大学が私を任期無しポストに転換するかどうかを決めるテニュア審査が近づくと、私はそれに悲観的であったので「日本に帰ることになるかも知れない」と家族に伝えた。意味もなく理屈っぽい文章が好きな娘は無邪気に、
「私は日本に帰ることはできないよ。日本に行くことはできるけど。」
と私に言った。娘の言葉遊びに特に深い意味はなかったようだが、その頃から日本に「帰る」のか「行く」のか、娘と話す時には考えるようになった。
期せずして私のテニュアが認められると娘はもう10歳になっていた。日本語を話すし、日本の小学校に3度も体験入学をしたし、私から見ると生粋の日本人に見えるが、本人は日本は旅行や祖父母に会うために行くところだと思っている。
妻はグリーンカードが取れた2013年から働き始めた。米国中西部では労働許可を持った日本人が少ない一方で多数の日本企業があるため、グリーンカードを持った日本人は仕事を探しやすい。いま、日本に帰っても妻が仕事を探すのは結構難しいのかも知れない。
一昨年、ミドルスクールに入った娘には親しい友達も格段に増えた。ほとんどが小さい頃から近くに住んでいる幼馴染やその友達で、その大半は韓国系や中華系の米国永住者である。友人たちの年上の兄弟はおそらく全員が米国の高校や大学に進学している。私は相変わらず自分の日本の母校を娘に推しているものの、娘にはもはや米国での生活以外考えられないようだ。
幸運なことに、私は家族の米国への適応にほとんど不自由がなかった。一方で、家族ですぐに日本に引っ越すことはもはや難しくなってしまったと感じている。日本に親しんだ家族を米国に連れてくることも大変だが、米国に親しんだ家族を日本に連れていくとしたら、それもまた困難を伴うのだと思う。どこの国に住むにしても、家族の国への帰属意識をコントロールすることはできないということである。
まだどうなるかは分からないが、現時点での私のプランは米国で引き続き働き、リタイア後に日本に住むことだ。娘が驚いたり悲しんだり困ったりしないようにそれは伝えてある。その頃には娘も自分で好きな場所でやっていけるようになっているだろうし、引退した両親が日本に住んでいるというのは娘にとっても馴染みのあることだろう。