仕事を生きがいにせざるを得ない人達
以前に少し触れたが、私は労働問題に興味を持っている。
最近、松本孝行さんが「仕事のやりがい≠いきがい」という示唆に
富んだ記事をエントリーされたので、以前から思っていたことを書きたい。
多くの日本で働く人達にとって「仕事」と「生きがい」というのは
密接に関係しているのだろうと思う。しかし、それが望ましいことなのか
どうか、というのは判断が難しい。
というのも、密接に関係しあう二つのものの因果関係というのは、
往々にして判断しにくいものだからだ。
例えば「鶏が先か、卵が先か」ということわざがある。
どちらが発端かを判断することは難しい。
きちんと考えれば「鶏の卵」をどう定義するかの問題に帰着するわけだが
普段、養鶏業者の人はそんなことを考えないだろう。
ただ、正直に言うと私はこの諺はあまり好きではない。
なぜならこの諺が時として「どっちでも良い」というニュアンス
に取られてしまうことがあるからだ。
そこで、もっと良い例えだと私が思っているのは
「ごはんが先か、おかずが先か」というものである。
私が通っていた高校には学食があったのだが、
そこがともかく想像を絶するくらいまずかった(*1)。
(*1) 大学生の時、「大学の学食のレベルを1とすると、
高校の学食のレベルはゼロだ」というジョークが一時流行った。
例えばラーメンにしても、
どこに行ったらそんなにマズい麺を仕入れられるんだ、
というくらい変な麺を使っていたし、
メニューには毎日「ラーメン」と書いてあるのだが、
日によって味噌ラーメンが出たり醤油ラーメンが出たりする。
そのラーメンは200円だったのだが、
250円くらいのカップラーメンをコンビニで買ってきて
食堂の給湯機で80度くらいしかないお湯を入れて食べるのが
流行っていたほどだ。
定食もかなりきわどい線を突いていた。
例えばメニューに「串揚げ」と書いてあるのだが、
中に何が入っているかは説明されていない。
それは、タマネギを大量の衣で揚げたものであったり、
これでもかというくらい脂の臭い鶏肉を揚げたものであったりした。
そんな定食を頼んだ時は、とりあえずおかずに手をつけるのだが、
あまりにもまずいため、ごはんをかきこんでなんとか味を消す。
また、少しおかずを食べて、ご飯で味を消す。
そうこうしているうちに定食を食べ終える。
通常であれば、ご飯だけでは味が薄いので
ごはんの合間においしいおかずを食べて味を楽しむ、
というのが望ましい食事のプロセスだと思うのだが、
このプロセスが全く逆転しているのだ。
しかし、端から見ていると、この二つの違いは良く分からない。
仕事と生きがいについても似たことが言える。
生きがいがあって、それが仕事になる。
それが楽しいので更に仕事をする、
という好循環であれば大変望ましい。
しかし、ほとんどの人にとってこのプロセスは
まずい学食のようになっていないだろうか。
すなわち、
仕事が忙しすぎる
↓
他の事をやる時間がない
↓
仕事が生きがいだと思うことにする
↓
仕事が更に忙しくなる
という循環である。
「ごはんとおかず」の例と少し違うのは、
働いている本人も因果関係が分からなくなってしまうことだ。
そういう点で、私の嫌いな「鶏と卵」の例に似ていると
言えるかも知れない。
ただし「鶏と卵」と少し違う点もある。
それは終りがあることだ。
↓
寝る時間もなくなってくる
↓
もっと強く仕事が生きがいだと思うことにする
↓
仕事が更に忙しくなる
↓
過労死
人間は最後はどっちみち死ぬわけだし、
生きがいの仕事をしながら死ねれば本望だと思うかも知れない。
そう思わない人は仕事を生きがいにするのは
そこそこで止めておくと良いかも知れない。
ブログ内の関連記事:
― 労働白書「日本型長期雇用の維持を」
― ニートとは何か
― 海外で勉強して働こう(アカデミック版)
― アメリカと日本の就職面接の違い
― 優秀な人が失業する仕組みを
最近、松本孝行さんが「仕事のやりがい≠いきがい」という示唆に
富んだ記事をエントリーされたので、以前から思っていたことを書きたい。
多くの日本で働く人達にとって「仕事」と「生きがい」というのは
密接に関係しているのだろうと思う。しかし、それが望ましいことなのか
どうか、というのは判断が難しい。
というのも、密接に関係しあう二つのものの因果関係というのは、
往々にして判断しにくいものだからだ。
例えば「鶏が先か、卵が先か」ということわざがある。
どちらが発端かを判断することは難しい。
きちんと考えれば「鶏の卵」をどう定義するかの問題に帰着するわけだが
普段、養鶏業者の人はそんなことを考えないだろう。
ただ、正直に言うと私はこの諺はあまり好きではない。
なぜならこの諺が時として「どっちでも良い」というニュアンス
に取られてしまうことがあるからだ。
そこで、もっと良い例えだと私が思っているのは
「ごはんが先か、おかずが先か」というものである。
私が通っていた高校には学食があったのだが、
そこがともかく想像を絶するくらいまずかった(*1)。
(*1) 大学生の時、「大学の学食のレベルを1とすると、
高校の学食のレベルはゼロだ」というジョークが一時流行った。
例えばラーメンにしても、
どこに行ったらそんなにマズい麺を仕入れられるんだ、
というくらい変な麺を使っていたし、
メニューには毎日「ラーメン」と書いてあるのだが、
日によって味噌ラーメンが出たり醤油ラーメンが出たりする。
そのラーメンは200円だったのだが、
250円くらいのカップラーメンをコンビニで買ってきて
食堂の給湯機で80度くらいしかないお湯を入れて食べるのが
流行っていたほどだ。
定食もかなりきわどい線を突いていた。
例えばメニューに「串揚げ」と書いてあるのだが、
中に何が入っているかは説明されていない。
それは、タマネギを大量の衣で揚げたものであったり、
これでもかというくらい脂の臭い鶏肉を揚げたものであったりした。
そんな定食を頼んだ時は、とりあえずおかずに手をつけるのだが、
あまりにもまずいため、ごはんをかきこんでなんとか味を消す。
また、少しおかずを食べて、ご飯で味を消す。
そうこうしているうちに定食を食べ終える。
通常であれば、ご飯だけでは味が薄いので
ごはんの合間においしいおかずを食べて味を楽しむ、
というのが望ましい食事のプロセスだと思うのだが、
このプロセスが全く逆転しているのだ。
しかし、端から見ていると、この二つの違いは良く分からない。
仕事と生きがいについても似たことが言える。
生きがいがあって、それが仕事になる。
それが楽しいので更に仕事をする、
という好循環であれば大変望ましい。
しかし、ほとんどの人にとってこのプロセスは
まずい学食のようになっていないだろうか。
すなわち、
仕事が忙しすぎる
↓
他の事をやる時間がない
↓
仕事が生きがいだと思うことにする
↓
仕事が更に忙しくなる
という循環である。
「ごはんとおかず」の例と少し違うのは、
働いている本人も因果関係が分からなくなってしまうことだ。
そういう点で、私の嫌いな「鶏と卵」の例に似ていると
言えるかも知れない。
ただし「鶏と卵」と少し違う点もある。
それは終りがあることだ。
↓
寝る時間もなくなってくる
↓
もっと強く仕事が生きがいだと思うことにする
↓
仕事が更に忙しくなる
↓
過労死
人間は最後はどっちみち死ぬわけだし、
生きがいの仕事をしながら死ねれば本望だと思うかも知れない。
そう思わない人は仕事を生きがいにするのは
そこそこで止めておくと良いかも知れない。
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