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世界に拡がる小さなコミューンから親たちが学べること

経済の論理によって日常生活がますます「植民地化される」時代にあって、望ましい生き方を集団で模索する「コミューン」的あり方をいかにして取り戻せるだろうか。ニューヨーク大学教授クリスティン・ロスの近刊から考える。
世界に拡がる小さなコミューンから親たちが学べること
COURTESY OF VERSO

10年ほど前、とりわけ退屈をもて余していた時期にわたしは、現状に失望し、不満と失意を抱えたメディア関係者のためのコミューンを立ち上げることを検討していた。例えば「カン・ドロップアウト・コミューン」と名乗って、カリフォルニアの安価で埃っぽい、豊かな地域に住み、用水路を引き、鶏を育て、奇妙な政治・宗教的信念を育んでいく。これは冗談だったが、しかし完全に冗談というわけではなかった。心のどこかで社会から離れ、同じ考えをもつ人たちに囲まれて、ヤギに餌を与えながら過ごす日々を夢想していた。

残念ながら、短気で、身体的不快や近隣のいざこざにうまく対処できないわたしは、コミューンをつくっても、きっと数カ月で追い出されてしまうだろう。加えて、コミューンの存在意義、その政治的主張がわからないという問題もあった。はたして、コミュニティを結びつけるには現代生活への不満だけでは不十分なのだろうか? それ以上の活動がなくてもコミューンと言えるのだろうか? それともモデストから25km離れたところで暮らすただの10~12人のルームメイトになるのだろうか? やがて子どもが生まれると、わたしの共同生活に対する考えは、たわいもない、皮肉ともいえる空想から、もっと実際的な、意味のあるものへと変わっていった。

前回のコラム(英文)で、わたしは中流および中流階級以上の親たちが子どものサマーキャンプの参加枠を争っている件について書いた。あの記事を書いたのは、わたしが抱いた疎外感、親たちのあいだで爪はじきにされていると感じたことがきっかけだ。わたしたちは大半が40代で、つまり大人になってから、9.11、2008年の市場暴落、パンデミックを立てつづけに経験してきた世代だ。確かに米国の歴史をどこであれ40年ほど切り取れば、3つか4つの悲惨な出来事は見つかるだろうし、それを特定の世代を同情的に病的とみなすために利用することも可能だろう。しかし9.11や大不況のあとに大人になった人々は、概して、親世代より国の将来について楽観的ではない。

バラク・オバマの大統領当選はリベラル派に一時的な救いをもたらしたものの、それもドナルド・トランプの台頭によって崩れ去った。わたしたちは、気候変動のせいで火事が頻発し、政治的二極化や不平等によって引き裂かれた世界を子どもたちに引き継ぐことを心配し、ほとんど自分たちだけで、子どもにその準備をさせなければいけないように感じている。

フランスの農民たちが結成したコミューン

比較文学の教授、クリスティン・ロスの近刊『The Commune Form: The Transformation of Everyday Life(コミューンの形態:日常生活の変容)』[未邦訳]を読みながらずっとこの件を考えていた。ロスは、これまで1871年のパリ・コミューン、1968年5月のフランスの学生蜂起について書いているが、本書では2000年代後半にフランスの農民とその同盟者が新空港建設の阻止を目的に結成した、1,000エーカーのコミューン「ノートル=ダム=デ=ランド」に着目している。そこでは大勢の人々が自分の土地から追い出されそうになっていた(フランス政府はその土地を「a zone d’aménagement différé(開発延期地域)」に指定していたが、農民たちはその略語をそのまま利用して「zone à défendre(防衛地帯/ZAD)」と呼んでいた)。

ロスは、コミューンが機能するには、敵対勢力から身を守る物理的なスペースと、人間関係や経済に代わる組織に関する明確なビジョンの両方が必要だと主張する。彼女が定義する「コミューンの形態」とは、「望ましい生き方を集団的に精緻化する政治運動であり、手段を目的化することである」。言い換えれば、理論は親密かつ本格的な環境のもとで実践される必要があり、実際の人々に囲まれた実際の場所でこそ、生きることについてのアイデアを試すことができるのだ。

ロスは、ZADができた背景にある原動力のひとつは疎外感であるとし、それは「人間の本質の喪失というより、可能性の喪失であり、資本主義による社会組織の破壊と分断によってもたらされた閉塞と行き詰まりの感覚である」と指摘している。また、フランスの哲学者アンリ・ルフェーヴルの著作を引き合いに出し、日常が経済的論理に支配されつつある現状、「日常生活の植民地化」についても触れている。これはわたしたちから「尊厳、社会生活、時間、生活を制御するという感覚、生活環境の美と健全さ、集団で未来を創造する可能性そのもの」を奪う、と彼女は書いている。このような状況下では、コミューンが唯一の選択肢となる。

16年、ロスはZADに向かう途中で、「国家や金融が組織する世界から意図的に引き離された生活を維持できるようなモデルを意識的に探っている」という理想主義者のグループに出会った。メンバーは「開発途上の西部開拓時代のような場所で、集合住宅の喧噪、混乱、喜びを感じながら、世界に対する明白な感覚──(ここが)集団的な社会変革と実験の空間であると同時に、物理的な住居であるという感覚の芽生えとともに」生活をしていた、と彼女は書いている。

建設途上の建物と広大な菜園から成るこの村では、争いごとは「Cycle of the Twelve(12人のサイクル)」と呼ばれる委員会によって裁かれ、委員会のメンバー12人は毎月くじで選ばれる。ロスは話をするためにZADへやってきたが、このコミューンの住人と一緒に干し草を運んでいるとほどなく、「へとへとだが心地よい疲労感」を感じている自分に気がついた。身体を酷使したからというだけでなく、むしろ、「労働と社会的交流が混ざり合うことでもたらされる社会的密度や強度が関係しているのだと思う。とくに、多くの時間をひとりで過ごすことに慣れているわたしのような人間にとっては」と説明している。

学者であるロスは、少々自虐を交えながら、自分は牧歌的な生活の魅力に少しばかりはまりすぎているかもしれない、と認めている。厳しい読者であれば『The Commune Form』は「マルクス主義者のニューヨーク大学教授が干し草を一回運び、それについて書いた本」だと評して相手にしないかもしれない。しかしそのような単純化した読み方では、本書の主要な論点、大きな目的のために、何より重要なタスクを一緒に遂行することで見つかるかもしれない希望についての主張を読み落とすだろう。

彼女は言う。「日常生活は疎外の場かもしれないが、そこはまた疎外を解消する場であり、社会変革の地でもある」。食料分配から不和の交渉にいいたるまで、コミュニティの一員としてわたしたちが負っている基本的な責任は、異なるタイプの社会を形成できるという証明になる。

集団行動をする能力が親に欠けている

親たちからよく聞く不満は、何かに対して共通の感覚を生みだすのは不可能に近いというものだ。この不満の大半はおもに携帯電話に対するもので、親は子どもに携帯電話を持たせたくないものの、子どもが直面する極度の社会的プレッシャーを考えると、実際に禁止するのは無理だと感じている。子どもの友人たちがスマートフォンで連絡を取り合うなかで、電話を持っていないわが子が孤立してしまうのではないかと心配なのだ。

これを解決するには、こうした圧力を社会の力で相殺するしかないように思える(例えば「Wait Until 8th」運動では、8年生が終わるまで子どもにスマートフォンをもたせないよう親に促し、誓約書にサインするよう求めている)。ジョナサン・ハイトの近著『The Anxious Generation』の書評でジェシカ・ウィンターが指摘したように、問題は、最近の親には集団行動をする能力や、集団行動に対する信頼が欠けていることだろう。孤立し、不安を覚え、携帯電話に依存しているのは子どもたちだけではない──そしてわたしたち親には、デバイスを取りあげてくれる人がいない。

中流階級の親たちが抱える疎外感が皮肉なのは、その同じ親が、グループチャット、チェーンメール、ソーシャルメディアを通じて、ある意味でかつてないほどつながっていることだ(わたしの携帯電話にはユーススポーツリーグのアプリだけでも4つ入っている)。近年、中流階級の親たちは、こうしたデジタルフォーラムを政治組織のツールとして活用し、例えば、全米のマグネット・ハイスクール[編註:独自の特色をもつ公立高校]の排他的な入学基準を擁護したり、学校図書館で特定の本を禁止したり、教育委員会で選出された役員をやめさせたりするために利用している。

こうした争いの多くが、主に保守的大義のために行なわれているのは偶然ではないだろう。保守的な親の多くは、子どもたちが絶え間ない脅威にさらされていると感じており、基本的に政府を敵視していることが多い。何かの伝統を守ろうという些細な呼びかけでさえ、そうした親を身構えさせてしまう。

一方、ある程度進歩的な中流階級の親たちは、こうした争いにそこまで明確な政治的利害を感じておらず、どちらかというと集団行動を公平性や社会正義の問題に結びつけているように見受けられる(リベラル派や郊外の中流階級の人々が携帯電話やスクリーンタイムを子育て議論の中心に据えるのは、親たちが子どもの学校周辺に漂う文化戦争を身近に感じていないことが理由のひとつだろう)。人々はこの種の疎外感に呆れ──あるいは呆れるべきかもしれないが、それをしたからといって疎外感が解消するわけではない。

コモンズに投資をできなくなった社会

いずれも、フランスのコミューンとはかけ離れているように見えるかもしれない。しかしロスの本を読みながらわたしたが考えていたのは、40年前に通っていた保育園のことだった。当時の米国には、多くの都市に漠然と社会主義色を帯びた幼稚園や保育の協同組合が点在していた。こうした学校のいくつかは、シカゴ大学教員の妻たちのグループに遡ることができる。彼女たちは1916年、赤十字の活動に時間を割くべく、保育協同組合を設立した。わたしは子どものころ共同保育園に通っていたが、自分の娘を同様の園に通わせる段になると、その費用は月額3,000ドル(約45万円)近くになっていた。

同じようなことが、当時公共スペースだった多くの場所で起きている。市民のレクリエーションスポーツ連盟は競技クラブに置き換わり、市民プールは高価なスイミングセンターに変容し、公立学校は放課後の家庭教師で補われている。前者はいずれも物理的な空間であり、その多くが民営化と放置によって奪われてきた。これが、忙しすぎて共有地(コモンズ)に投資できなくなった結果である。

中流階級の親たちの大半は、比較的負担の軽い協同組合に加入することも、ましてやコミューンに参加することもないだろう。それでもロスの著作には優れた教訓が示されているし、どこであれ小さなコミューンを構築し、守っていく方法は存在する。親たちが疎外感を軽減したいなら──例えば自分の町で、子どもが高校に入るまで携帯電話を与えないことが可能かもしれないと信じたいのであれば──20世紀のさまざまな年代で、少なくとも特定の地域で米国の親の子育てを励ました、奇妙な、疑似共同体の精神に立ち返る必要があるのかもしれない。

プールであれ公園であれ、物理的な空間は集団行動によって取り戻すことは可能だし、それは、排他的なマグネットスクールの入学ポリシーが少数の親の働きかけによって守られているのと同じことである。日々の小さな勝利の積み重ねこそが、疎外感を治療する唯一の方策なのだ。これより効果的な方法があるだろうか?

ジェイ・カスピアン・カン|JAY CASPIAN KANG
『The New Yorker』のスタッフライターであり、エミー賞にノミネートされたドキュメンタリー映画の監督であり、『The Loneliest Americans(最も孤独なアメリカ人)』[未邦訳]の著者。The New Yorkerに入社する前は『New York Times』のオピニオンライターをしていた。これまでには『The New York Review of Books』、『This American Life』、『Times Magazine』の記事を執筆。新作映画「American Son」は、ESPNの「30 for 30」シリーズのひとつとして2023年に初公開予定。家族とカリフォルニア北部に在住。

(Originally published on The New Yorker, translated by Eriko Katagiri/LIBER, edited by Michiaki Matsushima)

※『WIRED』によるコモンズの関連記事はこちら。


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