大学の授業を英語のみで行うことの是非

ミラノ工科大学の学長は、グローバル化のためにはイタリア語が障壁になると、修士課程と博士課程でイタリア語の使用をやめることを提案した。しかし、100人の教員がこれに反対して提訴した結果、差し止められた。大学の授業を英語のみで行うことに対する賛成意見、反対意見を紹介する。
大学の授業を英語のみで行うことの是非
student sitting an exam photo from Shutterstock

ミラノ工科大学の学長ジョヴァンニ・アッツォーネは、修士および博士課程のすべてのコースで英語を用いるという決定を下し、学内の教授たちから厳しい批判を受けた。そして、100人余りもの教員たちにより提訴されロンバルディア州の地方行政裁判所(TAR)は、「イタリア語を使い続けるべき」という判断を下した。

「すべての授業を英語で行う」提案が発表されたのはわずか1年前のことで、対照的な2つの意見によって迎え入れられた。一方では、ミラノ工科大学の公式サイトにあるように、すでに「すべて英語で行われる22の課程、24の博士課程とさまざまなマスターコース(注:大学卒業後に専門技能を学ぶためのコースだが修士課程とは異なる)」を誇る大学の教育内容のさらなる国際化を支持する人々がいる。他方ではイタリア語の生存と、さらにはさまざまな言語で行われる授業を選ぶことができる可能性を守ろうとする人々がいる。

学長の計画によって、国際的な教員を呼び込み、新しい状況をふまえてイタリア人教員を養成するために、320万ユーロが用意されている。判事たちは、この措置が「大学の国際化」を促進するのではなく、「特定の言語とその言語が担っている文化的価値へと教育を向かわせる」と判断して、すべてを差し止めた。また判決によると、「教員や学生のもっている、憲法によって認められた自由が損なわれることになる」という。

2つの主張の論拠として、わたしたちはアッツォーネ本人の発言(彼は『コッリエーレ・デッラ・セーラ』紙への書簡で決定の理由を明らかにしている)と、クルスカ学会(16世紀に設立され、イタリア語の研究と振興を行っている)会長、ニコレッタ・マラスキオ(『大学からイタリア語が追い出される?』という題名の本も出版している)が「PanoramItalia」のインタヴューを受けて行った意見表明 を選んだ。

ミラノ大学学長 ジョヴァンニ・アッツォーネ
賛成:大学にとってイタリア語はグローバル化の障壁になっている。

言語は目的ではなく、満足のいく仕事を見つけることのできる専門家にとどまらず、社会で活動的な役割を果たすことのできる人物を養成するための手段として考えられるべきです。従って言語の選択は、人生の重要な一部分を大学で過ごす人に、人間的に、そして専門家として成長する機会を提供するためにふさわしいものでなくてはなりません。

この意味で、現在わたしたちの大学の伝統的な長所である、質の高い専門家の養成だけでなく、同時に他の能力も向上させることが必要であるとわたしは考えます。なかでも特にグローバルな環境で活動し、別の文化に属してイタリアやヨーロッパの伝統とは大きく異なる価値観、立場、考え方をもつ人々と交流する能力が絶対に必要です。

大学教育は、このような文化的寛容さを発展させるうえで、素晴らしい手段となる力をもっています。ただしそれは、世界中の学生や教員が暮らし、研究をしている文脈で行われればの話です。もしこの目的が共有されるなら、英語を大学内部のコミュニケーションの手段として選択することは、少なくとも最高レヴェルの教育課程では必要不可欠となります。

実際にイタリア語の使用は、日々常に最高の教育環境を求めている世界中の若者をわたしたちが受け入れる能力を制限していることによって、他国の学生が入学する障壁となっています。もしこの障壁を越えることができるなら、わたしたちの国は、わたしたちの文化や生き方のもつ本来の魅力を完全に発揮することができるでしょう。

クルスカ学会会長 ニコレッタ・マラスキオ
反対:考えを深く掘り下げられない危険がある。

わたしたちはミラノ工科大学の提案が先進的な選択として紹介されないよう望みます。反対に、時代遅れな選択です。クルスカ学会は、ヨーロッパにおける多言語主義のために熱心に取り組んでいます。それぞれが多言語併用を推進することによってのみ、ヨーロッパは本当の意味で言語的多様性を生かすことのできる場となることができるでしょう。しかし、もし英語、つまり各国の言語を押しつぶす「超言語」のみに力点を置くならば、大きなリスクを冒すことになります。

もしある言語が、科学的論考や大学における高等教育といった高次の機能を失うなら、衰退してただの方言になる危険は高くなります。言語と思考の関係は緊密です。概念的思考が母語で行われるのは自然なことです。英語のみの授業では、マニュアル的な授業を行って内容を伝えるだけになり、考えを深く掘り下げられない危険性があります。

従って必要なのは、研究と学生の流動性、国外の大学との共同学位や国際的な博士課程のためにもっと資金を投入することです。そうでないと、教育を英語のみに限ってもただのお題目となってしまい、結局はイメージの問題で終わってしまいます。

イタリア国外で研究をしている同僚たちは(マラスキオは著書のなかで何人かにインタヴューを行った)、英語のみで授業を行う提案を非常にばかげたものだと考えています。彼らは外国でイタリア語の普及のために努力していますが、当のイタリアで反対方向に進む選択が行われていることが信じられないようです。

(注)元のイタリア版記事では2つの意見に対して投票を行うことができるが、賛成が60%、反対が40%の結果となっている。

TEXT BY MARTINA PENNISI

TRANSLATION BY TAKESHI OTOSHI