プロフィール
谷藤友彦(やとうともひこ)

谷藤友彦

 東京都城北エリア(板橋・練馬・荒川・台東・北)を中心に活動する中小企業診断士(経営コンサルタント、研修・セミナー講師)。2007年8月中小企業診断士登録。主な実績はこちら

 好きなもの=Mr.Childrenサザンオールスターズoasis阪神タイガース水曜どうでしょう、数学(30歳を過ぎてから数学ⅢCをやり出した)。

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2018年10月19日

和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』(再読)―全体主義と古代日本の人倫思想の違い


日本倫理思想史(一) (岩波文庫)日本倫理思想史(一) (岩波文庫)
和辻 哲郎

岩波書店 2011-04-16

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 全体主義については、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」などを参照していただきたい。本書を読むと、古代日本の人倫思想は全体主義と紙一重のようにも感じる(だから、前回「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」という記事を書いた)。だが、本書を改めて読んでみて、両者の違いを4点指摘してみたいと思う。

 (1)全体主義のルーツをたどっていくと、啓蒙主義に行き着く。そして、啓蒙主義の時代には理神論が生まれた。これは、唯一絶対、完全無欠の神が人間を創造するところまでは神が関与するが、それ以降は人間の営みに委ねられるという立場である。この理神論を杓子定規に解釈すると、唯一絶対、完全無欠の神の特徴を人間が受け継いだという考え方が生じる。つまり、人間は皆、唯一絶対、完全無欠の理性を有している。だから、人間は絶対的に正しい。

 これに対して、古代日本は八百万の神の世界である。しかも、神の世界には階層があるという。和辻は、神々には①祀る神、②祀られると同時に祀る神、③祀られるのみの神、④祀りを要求する祟りの神、という4種類のタイプがあると指摘する。祀る神とは天皇、祀られると同時に祀る神とは天つ神のことである。天つ神には、天照大御神、日本武尊、月読、素戔嗚、大国主命など、神話に登場する多数の神が含まれる。興味深いのは、天つ神が天皇に命令を下す場合、最初からその正体がはっきりとしているわけではないということである。本書では新羅征伐の物語が紹介されているが、特定の天つ神が天皇に対して命令を下すのではなく、まずは不定の神が命令を下す。そこで天皇が神を祀ると、初めて神の名が顕れる。

 祀られると同時に祀る神は、自らも祀るわけだから、対象としての祀られる神が存在する。その神がまた祀られると同時に祀る神であれば、さらに祀りを行う。これを突き詰めると、最終的には祀られるのみの神に行き着くはずであり、この神こそが神々の源泉であるに違いない。ところが、和辻は尊貴性という点では、祀られると同時に祀る神の方が、祀られるのみの神よりも上であると主張する。祀られるのみの神と祀りを要求する祟りの神は、神話の世界ではどちらかというと傍流であり、主役はあくまでも祀る神と、祀られると同時に祀る神である。だとすると、究極的に祀られる対象とは何なのか?和辻の答えは、「特定できない」。それは全ての神々の根源でありつつ、それ自身いかなる神でもない。すなわち、神聖なる「無」である。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラームのように、絶対者を一定の神として対象化することは、実は絶対者を限定することである。他方、絶対者を無限定にとどめたところに、古代日本人の天真の大きさがあると和辻は言う。私は、究極の根源を「よく解らない」と曖昧にすることで、日本人は自分が完全無欠である錯覚に陥るのを防ぐことができたと考える。一方で、絶対的存在がないということは、そこに向かっていくところの対象となるもの、つまり目的がないということである。現代、日本の企業や組織が往々にしてその本来の目的を見失い、既存の秩序を維持することだけに走る保守性の一因はここにあるのかもしれない。また、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(3)】アメリカのイノベーションの過程と特徴」でも書いたように、イノベーションには明確な目的が必要だが、目的意識が低い日本人はイノベーションがどうしても苦手である。

 (2)全体主義においては、人々は誰もが神と同等の存在として創造される。よって、人々は皆平等である。この平等な人々がパワーを発揮することで集団全体を動かす。そのパワーの正統性の源泉となっているのは、人間の完全なる理性である。

 一方、古代日本の場合は、まず(1)で述べたように、神々の世界に階層性がある。この神々の世界の血縁的関係を現実世界にも適用することで、祭祀的・団体的統一を達成した。具体的には、一団の集団が自らの本当の祖先を祀るのではなく、祀られる神を自らの祖先として信じた(つまり、事実としての血縁関係は重要視されなかった)。天孫降臨の際の五伴緒(いつとものお)がそれぞれ中臣連忌部首等(なかとみのむらじいんべのおびと)の祖となり、天照大御神の玉より化生した天のホヒの命(みこと)の子、天津日子根の命が、多くの国造、連、県主、稲寸などの祖となった。さらに、部民という一般庶民もこの秩序に組み込んでいった。例えば、阿曇の連が海神の神を祖神として祀ったとすれば、部民と無関係に少数の貴族だけが祀っていたのではなく、阿曇の部民が団体的にこの祭祀を行っていたことを意味する。

 こうした階層的秩序において、上の階層の者が下の階層の者に命令を下すその正統性は、「全体性の権威」にあると和辻は述べている。絶対的な神を特定することができず、かといって個々の個人もパワーを持っているわけではないから、祭祀を通じて神々から部民までがつながった大掛かりな階層社会という仕組みの全体性そのものが正統性の源泉となるいうのは妥当であろう。和辻の分析によれば、祭祀的統一の時代は5世紀までであり、その後は政治的統一の時代に移行する。しかし、奈良時代に入っても天皇の権威、ひいては神々の権威に依拠する局面が多いことを踏まえると、祭祀的統一と政治的統一は連続性を持っており、「全体性の権威」が正統性の源泉であり続ける点は変わらない。

 ここで、「権力」と「権威」の違いを明確にしておきたい。権威とは地位に基づくパワーを指す。社会や組織において、それぞれの地位はそのポストに就いた人に対し、特定の役割を果たすことを要請する。その要請に従って人が発揮するパワーが権威である。だから、社会や組織の構造が変わらない限り、人が入れ替わっても権威は存続する。これに対して、権力とは地位に基づくパワーと個人の特性に依存するパワーが合体したものである。だから、「あの国王は強大な権力を発揮している」、「国王の交代で権力が減退した」という表現は正しい。ところで、全体主義の場合は、完全な平等主義が貫かれているから、そもそも地位という考え方がない。だから私は先ほど、「平等な”人々”がパワーを発揮する」と書いたわけである。

 全体主義における究極な平等とは異なり、階層社会である限り、必ず不平等は生じる。これは現代でも同じであって、人種、国籍、性別、年齢、出身地、宗教、価値観、親の地位、学歴、職業、婚姻状況などに違いがあるのには、それなりの理由があると考える。違いがあるのだから、階層社会における役割分担も異なる。大化の改新後に孝徳天皇が発した詔には、次のように書かれている。「聖の君が天に則って統治するというのは、天が万物を育成するように人民を育成すること、すなわち仁政に他ならなない。言い換えれば、仁政の理想は、人々が各々そのところを獲ること、つまり、各人がその本来のあり方を実現し得ることである」。要するに、様々な違いを持つ人々に十分な教育を施し能力を開発した上で、人々の違いに応じた適切な配置を実現すること、人々をその違いに応じた本分に集中させることこそが公正である。

 (3)全体主義とは、究極の個人主義である。個人の理性が絶対的に正しいのだから、個人が私的な利益を追求すれば、それはすなわち全体の利益を追求することに等しくなる。つまり、私が前面に出て公を名乗る。ただし、その正体はあくまでも私である。

 これに対して、古代日本ではどこまでも公の精神が追求された。天皇は国家のために、私を捨てて神々に仕える。私を捨てた天皇のために、貴族が私を捨てて天皇に仕える。私を捨てた貴族のために、部民が私を捨てて貴族に仕える。誰もが「他者のために」、「上の階層のために」と思って行動することで、社会全体を機能せしめる。この時の心構えが「清明心」であり、和辻が古代日本における人倫思想の3本柱の1つとしているものである。

 他者のために行動するには、自分の心の中に私的な利害を求めるやましさがないことを証明しなければならない。よって、清明心は正直を要求する。正直とは、他者に対して自らの透明度を上げることである。そして、私を捨てて自らに仕える者には、上の者は慈愛で応える。これが3本柱の2つ目である。慈愛とは、人々を等しく大切に思う気持ちである。単なる愛は、愛の対象を取捨選択するため偏頗的である。ここで、私を捨てた部民は空虚なままだと思われるかもしれない。だが、天皇が神々に仕えると同時に、部民に対して仁政を施すため問題はない。

 だが、既に古代日本において、公を貫徹させることは困難であった。大化の改新は公地公民制を敷き、その後律令国家が整備される過程で実施された班田収授法は公の精神を前面に打ち出したものであったが、平安時代に入ると私的な土地である荘園が生まれた。この荘園を基盤として台頭してきたのが藤原氏である。ところが、藤原氏の私は、朝廷の公を遂に食いつぶすことはなかった。藤原氏が本当に権力を握りたければ天皇を廃すればよいのに、実際には外戚関係によって天皇家に入り込んだにすぎなかった。仁政の理想の規範が、私利を是認するイデオロギーの出現を阻止したと和辻は述べている。

 (4)全体主義においては、私の理性は他者の理性に等しく、さらに全体の意思に等しいため、民主主義と独裁が両立するという現象が起きる。いや、私の意見が全体の意思に等しいのであれば、他者の意見との調整を行うという高コストな民主主義はもはや必要ではない。よって、全体主義はコストが低い独裁を選択することになる。

 古代日本の場合、「全体性の権威」に正統性の源泉を持つ階層社会が成立し、人々は差異に応じて本分を与えられたわけだが、決して下の階層の人間は上の階層からの命令に唯々諾々と従い、天皇の命令がストレートに階層社会の末端にまで伝わったわけではない。仮にそうだとすれば、正統性の源泉は天皇にあると言わなければおかしい。そうならなかったのは、人々に自由意思が認められていたからだと考えるのが適切であろう。

 本書を読んで初めて知ったのだが、十七条の憲法は果たして聖徳太子が策定したものなのかと疑問を呈する人たちがいるようだ。というのも、十七条の憲法の中身をよく読むと、例えば国司の制度のように、大化の改新とその後に実現された様々な政策のことを知っていなければ書けないことが含まれているからだという。和辻はこの説を否定して、十七条の憲法は大化の改新に先立って聖徳太子が策定したものだという立場をとる。さらに、十七条の憲法の精神が大化の改新に受け継がれ、一見すると壬申の乱で大化の改新が頓挫したかのようであるが、実は天武天皇は大化の改新の熱心な支持者であったと見る。そして、大化の改新は、続く持統天皇、文武天皇によってさらに推進され、記紀編纂の時期に完成したと分析する。

 その十七条の憲法の最後は、「独断は不可である。衆と論じ合わなくてはならぬ。衆と論弁することによってのみ理を得ることができる」とされている。これは、盛んに議論して事理を通ぜしめようという第1条の考えと同じである。十七条の憲法は官吏の心構えを説いたものであるが、その精神は大化の改新にも受け継がれており、改新後の詔勅では、「不可独制(独り制〔おさ〕むべからず)」と君主の独断を牽制している。ちなみに、現実世界だけでなく、神々の世界でも、例えば処罰を決める際には会議を開いていたと和辻は指摘している。

 一般化すれば、下の階層にいる者は、上の階層から命令を受け取った場合、それが上の階層の独断とならないように、自ら発言し、ともに議論する。もちろん、この議論は公の精神に基づいていなければならない。これにより、上の階層は、単に地位が要求する職務の遂行にとどまることなく、より自律的になり、自らの考えを充実させることが推奨されている。これが、和辻の言う3本柱の最後の柱である「社会的正義」である。「全体性の権威」に支えられた階層社会は不平等である。しかし、それぞれの地位に就いた人々には、自分なりの意思を持ち、それを表明する自由がある。私はこれを「権威の中の自由」と呼ぶことにしよう。

 (※)今まで、本ブログやブログ別館で「権力の中の自由」という言葉を用いてきたが、権力と権威の違いを踏まえると、「権威の中の自由」の方が適切であると思い直した。

 私は、政治学における「権威主義」という言葉にやや疑問を感じている。開発独裁国家の政治形態が権威主義であると言う場合、トップの座にある特定の個人の強力なパワーによって開発が進められているので、「権威主義」ではなく「権力主義」と呼ぶべきである。また、日本は権威主義的だと言われることがあるが、純粋な権威主義においては、階層社会を構成する個々の地位が要請する役割を、その地位に就く人が粛々と遂行するものである。だが、実際の日本では、今見たように上下の自由な議論がよしとされ、下の階層の意見が上の階層の命令を高度化する。よって、私は日本の政治は「穏健な権威主義」と呼ぶのがふさわしいと考える。

 ここからは、本書を読んで私が今後答えなければならないと感じた論点の整理である。

 第一に、和辻が挙げた古代日本の人倫思想の3本柱は清明心、慈愛、社会的正義であった。実は、平等という倫理も重視されており、概念的には慈悲が無差別平等を説き、現実的には班田収授法が土地という生産手段の平等を実現した。だが、既に見たように、日本が階層社会である限り、完全な平等は実現できない。この問題は現在にまで持ち越されている。自由・平等を普遍的価値と信じる人は不平等を是正すべきだと主張するものの、私はどんな手を尽くしても解決不能だと考える。では、不平等を完全に放置してよいのか?「この措置を施せば結果的に不平等が生じても容認できる」と言える措置とは何か?を考えなければならない。(2)で触れた仁政の理想を踏まえると、教育に関しては平等を貫かなければならない気がする。

 第二に、本書ではタテの関係は出てくるが、ヨコの関係は皆無に等しい。タテの関係を簡略的に示すと、「絶対的な無⇒祀られると同時に祀る神⇒祀る神(天皇)⇒貴族⇒部民」となる。そして、(4)で見たように、上下の階層間で公の精神に基づいた議論を行い、上の階層が下の階層の意見を踏まえ考えを洗練させることが正義だとされた。では、ヨコの関係はどうであったか?本書では、記紀に登場する征服戦争において、日本人は異民族に勝利しても西洋人のように虐殺せず、融和を図ったと書かれているのみである。『日本倫理思想史』は全4巻で、実は私は既に全巻を読んでおり、第2巻でヨコの関係が出てくるようなので、第2巻に関する記事で整理を試みたいと思う。社会人類学者の中根千枝氏が言うように、日本はタテ社会が強いと言われる。だが、私はヨコの関係も強いという仮説を持っており、その検証が必要である。

 現代に限った話だが、企業内ではジョブローテーションという日本特有の人事慣行があり、これが部門間の協業に役立っているという側面がある。また、企業間の関係に目を向けると、業界団体を通じて同業他社同士が競合関係を超えて協業することも多い。

 第三に、第二と関連するが、日本のヨコ関係が裏目に出ることもある。企業内のヨコ関係が強すぎるがゆえに部門間の壁や派閥争いが生じる場合がある。企業間のヨコ関係が強すぎると内輪グループになってしまい、新規参入者、外資系企業、異業種企業を排除してしまう。ここで問うべきは次の2つである。1つ目は、ヨコ関係に問題が生じた場合、関係を修復するためにどんな倫理を持つべきか?また、どれほど関係修復を試みても解り合えない人・組織というのはあるわけで、関係修復を諦めてもよい/諦めるべき場合とはどういう場合か?という問いである。もう1つは、反目し合っている人や組織の上に立つ者はどんな倫理を持って彼らに接するべきか?現世界の頂点に立つ天皇は様々な反目の上に立っている存在と言えるが、いかにして十七条の憲法にあるような和の精神を保っていらっしゃるのか?という問いである。

 第四に、本書では、古代から形成されてきた公の精神が、政治に私の精神を持ち込もうとした藤原氏を跳ね返したという話が出てきたが、日本の歴史全体を見ると、私の領域が徐々に広がっていった歴史と言える。社会が現状維持を目指しているならば、公に徹していれば十分である。(3)で見たように、それぞれの階層が完全なる公の精神を発揮し、相互に補完関係にあれば、社会は安定する。だが、社会が成長を目指すならば、私が必要になってくる。

 ただし、私の精神だけでは相手の利益をお互いに奪い合うだけだから、公の精神を貫いた場合と同様に、社会は成長しない。私と公がセットになって初めて社会は成長する。「公の精神で社会全体の価値をこれだけ拡大させた。そのうち、自分は私の精神でこれだけいただいていく」といった具合に人々が行動する時、社会は成長する。この公と私のバランスは非常に繊細である。私が少しでも公に先行する、すなわち「私が先にこれだけいただだく。それを投資して社会全体の価値をこれだけ創出する」という場合、社会は価値をリスクにさらす。また、公が私に先行した場合でも、私の取り分が不当に大きければ、社会を害する。この公と私のせめぎ合いが日本の歴史の中でどのように繰り広げられてきたのか、その謎を解いてみたい。

 第五に、日本も戦前にファシズムを経験している。既に見たように、全体主義と古代日本の人倫思想には相違点があるが、仮に天皇を絶対視し、既存の階層社会を破壊して国民を総動員すれば、全体主義に近くなる。「近くなる」と書いたのは、(3)で述べたように、本来の全体主義では、私が前面に出て公を名乗るものである。ところが、日本の場合は、国体思想という、戦時中も戦後も、右派も左派もそれが一体何だったのかをほとんど誰一人として説明できなかった思想を基盤とし、公が私を完全に放逐することによってファシズムが成立した。全体主義と日本のファシズムの違いとは何か、また日本のファシズムが生まれた過程とは一体どのようなものであったのかを考察することも今後の私の課題である。
2018年10月15日

『一橋ビジネスレビュー』2018年AUT.66巻2号『EVの未来』―トヨタに搾り取られるかもしれないパナソニックの未来


一橋ビジネスレビュー 2018年AUT.66巻2号: EVの将来一橋ビジネスレビュー 2018年AUT.66巻2号: EVの将来
一橋大学イノベーション研究センター

東洋経済新報社 2018-09-14

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 旧ブログで随分昔にエルピーダが破綻した原因を分析したことがあるのだが、今振り返ってみると、文量が多い割には大したことを言っていなかったと反省している。下記の参考記事の中では、エルピーダが破綻したのは、顧客に接している川下のメーカーでさえ気づいていないような顧客のニーズを先取りし、そのニーズに合致した製品アーキテクチャを提案するようなことをしなかったがゆえに、川下のメーカーに強い影響力を及ぼすことができず、むしろ川下メーカーの言いなりになって利幅が極端に縮小してしまったことが原因だとしている。

 《参考記事》
 今さらだけど、エルピーダ破綻の7原因(仮説)を個人的に検証(1)~円高説は違う
 今さらだけど、エルピーダ破綻の7原因(仮説)を個人的に検証(2)~シナリオなきPC分野への進出
 今さらだけど、エルピーダ破綻の7原因(仮説)を個人的に検証(3)~スマイルカーブの嘘
 今さらだけど、エルピーダ破綻の7原因(仮説)を個人的に検証(4)~産活法という縛り
 今さらだけど、エルピーダ破綻の7原因(仮説)を個人的に検証(5終)~復活のカギは”インテル化”?
 《メモ書き》DRAM、パソコン、ノートブック、タブレットPC、スマートフォン関連の市場規模データなど

 だが、実際には、様々な用途に展開できる素材メーカーを除いて、特定の部品を製造する川上のメーカーが川下のメーカーに対して強い影響力を及ぼすことができるというのは稀である。それこそ、(もうこの言葉はすっかり古くなってしまったが)ウィンテル連合ぐらいしかない。それに、川上のメーカーが強くなりすぎると、川下のメーカーの戦略が同質化してしまう。なぜなら、川下のメーカーはどこも、川上のプレイヤーの同じ部品を使い、その部品が想定する製品アーキテクチャに従って製品を製造するからだ。川下のメーカーの戦略が同質化しても構わないのは、最終顧客が皆同じものを所有・消費していても問題ない場合に限られる。

 最近で言うと、電子マネーぐらいしか思いつかない。ソニーの子会社がFeliCaチップを製造しており、これが現在ほぼ全ての電子マネーで採用されている。日本は電子マネー大国であり、電子マネーが乱立している。だが、電子マネーのビジネスモデルは、加盟店と消費者を結ぶプラットフォーム型であり、クレジットカードと共通である。通常、プラットフォーム型のビジネスモデルは、小売におけるAmazon、スマートフォンアプリビジネスにおけるGoogleやAppleのように、ごく少数のプレイヤーに収斂する傾向がある。実際、海外では、保有する決済カード枚数が2枚程度以下というところが多い(経済産業省「キャッシュレス・ビジョン」〔2018年4月〕を参照)。私は、JR東日本が本気を出せば、Suicaで電子マネー市場を制覇できると思っていたが、JR東日本に商売っ気がないため、現在のような電子マネー百花繚乱の状態になっている。

 話をエルピーダに戻そう。私は、エルピーダが破綻した原因を3つに整理し直した。

 ①エルピーダは産業活力再生特別措置法(産活法)の適用により公的資金の注入を受けることで、「DRAM市場で世界一になる」という縛りをかけられ、多角化によるリスク分散ができなかった。当時の半導体市場は、NAND型フラッシュメモリ(東芝が強かった)など利益率が高く急成長している分野があったのに、エルピーダが産活法の適用外の分野に進出するためには経済産業省と折衝をしなければならず、手を出すことができなかった(※)。
 ②PC向けDRAMにせよ、モバイル(スマートフォン)向けDRAMにせよ、需要の伸びが急すぎる上に先行きが不透明であり、適切な設備投資を行うことができなかった。
 ③エルピーダはNEC、日立製作所、三菱電機の3社のDRAM事業を統合して作られた企業であるが、3社それぞれに設備投資や生産工程に関する”思想”があっていちいち調整に時間がかかり、なお一層設備投資が遅れた(湯之上隆氏は『日本型モノづくりの敗北―零戦・半導体・テレビ』の中で、この思想のことをを「秘伝のタレ」と呼んでいる)。

 (※)ちなみに、経営破綻したエルピーダは2013年にアメリカのマイクロンによって買収され、マイクロン子会社のマイクロンメモリジャパンとなったわけだが、マイクロンメモリジャパンはDRAMに加えてちゃっかりNAND型フラッシュメモリも製造している。

 ここからがようやく本号の話である。EV(電気自動車)の肝となるのはリチウムイオン電池(LIB、以下「LIB」と表記する場合は車載用リチウムイオン電池を指すものとする)である。トヨタ自動車はパナソニックと提携して、パナソニックの子会社からLIBを調達することにした。個人的には、このトヨタ―パナソニック連合に、かつてのPC/スマートフォンメーカー―エルピーダの関係を重ね合わせてしまうのだが、以下の3つの理由により、パナソニックが直ちにエルピーダの二の舞になる可能性は低いだろうと考えている。

 ①LIBを製造するパナソニック・オートモーティブ&インダストリアルシステムズ(AIS)社は、コックピットやADASシステムなどを手がけるオートモーティブ事業、電子部品・電子材料・半導体などを手がけるインダストリアル事業、車載用LIBを中心に、産業用蓄電システムや民生用電池などを手掛けるエナジー事業という3グループで構成される。それぞれの2017年度の売上高は、オートモーティブ事業が9,288億円、インダストリアル事業が9,452億円、エナジー事業が5,625億円と、エナジー事業の規模は他の2事業より小さい。当然、パナソニックの連結決算に占めるLIBの割合は非常に低い。DRAM一本足打法であったエルピーダとはまるで違う。

 ②エナジー事業の2021年度の売上目標は、2017年度比で約2.5倍の1兆4,000億円となっており、AIS社全体の過半数を占める。同じ期間にオートモーティブ事業は10数%増、インダストリアル事業は約30%増の成長率が見込まれていることと比較すれば、エナジーの伸び率は圧倒的である。だが、EVの需要は各国の政策や規制(例えば、アメリカのZEV規制、ヨーロッパのCO2規制、中国のNEV規制など)の影響を強く受けるため、需要の伸びを予測することは、PCやスマートフォンのそれを予測するよりははるかに容易である。

 ③AIS社は、オートモーティブシステムズ社、デバイス社、エナジー社、マニュファクチュアリングソリューションズ社が合併してできた企業である。これらの企業は全てパナソニックの社内分社であり、NEC、日立製作所、三菱電機という全く異なる3社が合併してできたエルピーダとは違う。もっとも、大企業ともなると、同じグループ会社であっても、会社が違えば別会社のように見えることも少なくない。ただ、AIS社の場合、LIBの製造を含むエナジー事業はエナジー社から引き継がれたものであり、その生産計画や設備投資をめぐって、他の社内分社からの出身者との間で軋轢を生んだり、面倒な調整が必要になったりすることは考えにくい。

 とはいえ、パナソニックにもリスクはある。下図は、以前の記事「『一橋ビジネスレビュー』2018年SPR.65巻4号『次世代産業としての航空機産業』―「製品・サービスの4分類」修正版(ただし、まだ仮説に穴あり)」で用いたものの再掲である。

○図①
製品・サービスの4分類(②各象限の具体例)

○図②
【修正版】製品・サービスの4分類(各象限の具体例)

 <象限①>に位置する家電は、今や圧倒的に新興国の企業が優勢であり、日本のメーカーはどこも壊滅的な状況に陥った。そこで、<象限②>に移行することで生き残りを図っている。ただし、日本の家電メーカーは家電事業を完全には捨てていない。少なくとも、日本市場においては、現在も各社が新製品を市場に投入し続けている。

 おそらく、日本の家電市場を担当しているのは若手のマネジャーが中心だと思われる。日本市場という成熟した市場は、よく言えば市場規模が読みやすいが、悪く言えばこれ以上の顧客ニーズがどこにあるのかが解りにくい。こうした状況に若手マネジャーを置くことで、顧客ニーズを深耕するというマーケティングの難しさを実感させるとともに、製品企画から設計、製造、販売、アフターサービスまでの一連のマネジメントを経験させる。そして、将来的には家電以外の事業でのマネジメントを任せるというキャリアプランを描いていると推測される。

 また、以前の記事「『構造転換の全社戦略(『一橋ビジネスレビュー』2016年WIN.64巻3号)』―家電業界は繊維業界に学んで構造転換できるか?、他」で書いたように、海外に工場を作った場合には、ある事業から撤退すると決めても、現地社員の雇用を維持しなければならないなどの理由から、工場を簡単に閉鎖できるわけではない。繊維業界に倣えば、10年単位という長いスパンで物事を見なければならない。この点も、中国を中心に、製造のほとんどを海外で行っている日本の家電メーカーが依然として家電事業を続けている理由の1つであろう。

 多くの家電メーカーは<象限②>に移行した際、IT、金融、原発、インフラ系を選択した。その中で、自動車に注力しようとしているパナソニックは異色である。パナソニックにとっての第一の関門は品質管理である。自動車業界は<象限②>の中でおそらく最も品質管理が厳しく、その自動車業界の中でも最も品質管理に厳しいトヨタをパナソニックは選択した。パナソニックがトヨタの要求する品質レベルにどれだけ耐えられるかがポイントとなる。

 もちろん、家電でも品質管理は重要である。しかし、家電と自動車では品質管理の厳しさが段違いである。家電が不良品であっても、せいぜい発火してユーザーが火傷を負う程度である(それでも重大な問題ではある)。たまに家電が爆発するケースが報告されるが、これは経年劣化や、消費者による誤った使い方が原因であることがほとんどである。ところが、自動車が不良品の場合は人の命にかかわる。だから、自動車業界は、不良品率を100万分の3.4以下に抑えるシックスシグマを超えて、「不良品ゼロ」を要求してくる。さらに、自動車がユーザーによって改良されても事故を起こさないというレベルの品質を実現しなければならない。

 LIBはEVの心臓部である。仮に、LIBの欠陥が原因で大量リコールが発生すれば、AIS社は巨額の損失を負うことになる。AIS社は、LIBの製造を含むエナジー事業の2021年度の売上目標を、2017年度比で約2.5倍の1兆4,000億円に設定している。もしこの計画が実現するならば、なおさらリコール時の損失リスクは拡大する。パナソニックの2017年度の連結営業利益は3,805億円である。グループ全体で2021年度にどの程度の営業利益を目標としているかは解らないが、4年で大きく伸びる予測を立てているとは考えにくい。よって、急成長したLIBがリコールの原因となった場合、リコールによる損失がパナソニックの連結営業利益を全部食いつぶす可能性すらある。だから、パナソニックの各事業は、収益力を少しずつでもよいから高めて、その積み重ねでリコールのリスクを吸収できる財務基盤を作っておかなければならない。

 第2の関門は価格である。トヨタ―パナソニック連合では、AIS社がセル製造を、トヨタがセルのパックを担当する関係にある。東洋経済オンラインの「パナソニックの車載電池がなぜ世界の自動車メーカーに選ばれるのか」という記事では、次のような社員の声が紹介されていた。
 「電池開発は、システム全体が最適化するように調整をとりながら進めていく、いわば究極の『すり合わせ工業製品』です。そこに難しさと同時に、『付加価値の源泉』があります。世界の自動車メーカーが電気自動車へと舵を切っていますから、今後ますます車載電池の重要性と市場が高まっていくことは間違いありません(以下略)」
(※太字下線は筆者)
 だが、トヨタの認識は違う。本号から引用する。
 寺師(※トヨタ取締役副社長):1個1個の電池そのものは、たぶん電池会社のほうが強いのですが、これをパックにして車に搭載し、どう制御するかという領域では、自動車会社の技術なしには成り立たないでしょう。効率良く電池を並べつつ、うまく冷却していかに劣化を食い止めるかなど、パックの部分はかなり技術力の勝負になると思います。
(寺師茂樹、米倉誠一郎、延岡健太郎、藤本隆宏「利用シーンに適した電動車で多様なモビリティサービスを展開する」)
 つまり、トヨタはセルはモジュール化すると見越して外部調達する一方で、セルのパック化は制御系との擦り合わせが必要だと考えている。これは当然と言えば当然で、EVの価格の大部分を占めるのがLIBである。LIBの本体=セルが擦り合わせを必要とするならば、LIBの価格ならびにEVの価格はいつまで経っても高止まりしたままで、EVが普及しない。だから、トヨタをはじめとする自動車メーカーは、セルをモジュール化して価格を下げてほしいと願っている。

 こうした事情に、トヨタ特有の取引慣行が加わる。本ブログで何度か書いたことがあるが、トヨタは部品の製造を下請企業に外注する際、いきなり下請企業と交渉には入らない。まずは、自社でその部品を作ってみて、部品の製造にいくらかかるのか計算する。そして、下請企業にはそのコスト以下の価格で作らせる。このやり方がうかがえる記述が本号にあった。
 寺師:ある電池を使えと一方的に言われるよりも、「こんな電池をつくると、電動車の燃費がもっと良くなる」と、車側の視点でモノを言うためにも、最初のうちは自分たちで電池をつくらないといけません。(同上、太字下線は筆者)
 だから、AIS社はトヨタに価格面で相当叩かれているに違いない。トヨタは品質に対して非常に厳しいのと同時に、車の価格が大衆の手の届くものになるかどうかをものすごく気にする。AIS社はこのような厳しい状況の中で利益を確保しなければならない。

 ところで、本号の「自動車の電動化を取り巻く業界動向と問われる競争力」(佐藤登)という論文に「スマイルカーブ」が登場し、LIBに関しては電池製造、モジュール化がカーブの底にあたるため最も利益率が低く、パックシステムはカーブの右上にあり利益率が高いという説明があった。だが、このスマイルカーブは恣意的に操作できるため、あまりよいツールではない。LIBを単体で取り上げれば前述のようなカーブになる。しかし、部品製造から最終組立までにフォーカスしてスマイルカーブを描けば、LIBは部品であるからスマイルカーブの左上に位置し、利益率が大きいことになる。自動車メーカーに関しても同様で、部品製造から最終組立までのスマイルカーブにおいては、自動車メーカーは右上に位置するから利益率が高い。ところが、自動車産業全体、すなわち、部品製造からアフターマーケットまでを視野に入れてスマイルカーブを描くと、自動車メーカーはカーブの底に位置し、利益率が低いことになってしまう。

 値下げの圧力は海外からもやってくる。注意すべきは中国のCATL(寧徳時代新能源科技)の存在である。AIS社はトヨタにとってのファーストサプライヤであるとともに、ホンダのセカンドサプライヤである(ホンダのファーストサプライヤはBEC〔ブルーエナジー:ホンダとGSY[ジーエス・ユアサ・コーポレーション]の合弁〕)。それ以外の自動車メーカーにもLIBを納入しており、その数は2018年3月時点で12社74モデルに上るという(CarWatch「パナソニック AIS、2021年度には売上高2兆5000億円。自動車部品メーカートップ10へ」〔2018年6月1日〕より)。

 一方で、CATLは中国で生産を行う自動車メーカーを中心にLIBを納入している。中国企業だから安かろう悪かろうと侮ってはならない。日産自動車の中国工場もCATLを調達先としている。つまり、CATLの品質は日本企業も認めている。調査会社テクノ・システム・リサーチによると、2018年度のLIBの出荷量シェアは首位のAIS社18%に対して、CATLは17%になる見通しである(日本経済新聞「電池競争、新星は臆さない 中国CATLが台頭」〔2018年3月14日〕より)。今後、両社の激しい競争が予想されるが、AIS社は高付加価値化で差別化するという(電子デバイス産業新聞「車載電池に賭けるパナソニック」〔2018年8月10日〕より)。だが、日産が既にCATLの品質を認めているという現状で、それ以上の高付加価値化が何を意味するのかは定かではない。EVを普及させたい自動車メーカーのニーズは、むしろ低価格化である。

 価格を下げるには生産量を拡大する必要がある。しかし、PCやスマートフォンが急速に世界中に普及し、DRAMの生産量も急増して価格が急落したのに比べると、EVは前述の通り各国の政策に強く制約されることから、それほど急速には普及しない。つまり、大量生産でコストを下げるという方法だけでは限界がある。となると、セルの製品アーキテクチャを擦り合わせ型からモジュール型へと抜本的に変更し、コストを大幅に下げるしかない。

 怖いのは、東京大学大学院経済学研究科教授の藤本隆宏氏が著書『日本のもの造り哲学』(日本経済新聞社、2014年)で指摘したように、中国企業は擦り合わせ型の製品をモジュール型に換骨奪胎するのが上手いということである。もちろん、中国も全ての擦り合わせ型製品をモジュール型に変換できるわけではない。擦り合わせ型の代表である自動車は、まだ換骨奪胎に成功していない(それでも、中国の自動車市場のうち、地場系は約4割のシェアを占めるに至っている)。だが、仮にCATLがLTBのモジュール化に成功したら、AIB社は行き場を失う可能性がある。AIB社が擦り合わせ型や高付加価値化にこだわって価格を下げようとしなければ、それはかつて本業=家電事業がたどった道であり、再び中国企業に敗北を喫するかもしれない。

日本のもの造り哲学日本のもの造り哲学
藤本 隆宏

日本経済新聞社 2004-06

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2018年09月28日

『世界』2018年10月号『安全神話、ふたたび/沖縄 持続する意志』―辺野古基地が米中のプロレスで対中戦略から外れたら沖縄は「他国の紛争に加担しない権利」を主張してよい


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 反原発、反辺野古の特集である。原発に関しては、2008年3月の段階で、地震調査研究推進本部が長期評価によって、15m級の津波が福島原発を襲う可能性があることを指摘していたにもかかわらず、当時の東京電力の経営陣が土木学会にさらなる検証を求めるとともに、2009年6月末に設定されていた保安院のバックチェック(このチェックを通らないと原発の稼働を継続できない)の締め切りを骨抜きにするために、保安院や原子力安全委員会に圧力をかけていたという記事があった(海渡雄一「原発事故の責任は明らかにされつつある」)。

 また、辺野古基地についても、まず活断層があるため、基地には適さないという主張がある。さらに、ケーソン護岸(防波堤のこと)を建設する地盤が極めて脆弱で、仮に基礎地盤改良工事やケーソン護岸の構造変更が必要になると、これは埋立承認願書の「設計の概要」の変更に該当するから、公有水面埋立法に基づく知事の承認が条件となり、知事がNOと言えばその時点で工事は頓挫するという(北上田毅「マヨネーズなみの地盤の上に軍事基地?」)

 本ブログでこれまでも書いてきたように、日本は多重階層社会である。それをラフスケッチするならば、「神⇒天皇⇒立法府⇒行政府⇒市場/社会⇒企業/NPO⇒学校⇒家庭」となる。下の階層は上の階層に唯々諾々と従うのではなく、しばしば上の階層に対して諫言することが許される。決して、上の階層を打倒するのが目的ではなく、上の階層の仕事を充実させ、もって下の階層の自由や裁量を拡大することが目的である。これを私は、カギ括弧つきの「下剋上」と呼んでいる。「下剋上」がある場合、最上位の階層の権力が最下層の隅々にまで、何の疑いもなく行き渡るということはない。「下剋上」によって、階層社会の各所で絶妙な調整がなされる。個別に見れば部分最適にすぎないのだが、それらが集合すると社会全体が漸次的に進歩する。これが日本社会の特徴であり、私は権力主義と区別して、「穏健な権威主義」と命名する。

 これが日本国内で完結していれば問題ないのだが、アメリカが絡んでくると話が違ってくる。アメリカは神よりも上位に位置づけられる。そして、アメリカが最上位で絶対的な権力を握っている場合は、「下剋上」は機能しなくなる。「辺野古基地移転は唯一の解である」、「原発再稼働は唯一の解である」(これは自民党ではなく、旧民主党の野田元首相の言葉である)という言説の裏には、アメリカから強い圧力を受けて思考停止に陥っている日本人の姿がある。

 米軍基地に関してはアメリカの意向が強く働いていることは容易に想像がつく。原発については色々と言われていて、

 ①公的には核兵器を持たないことを表明している日本は、非核国家の中で最大量の分離プルトニウムを抱え込んでいるが、仮に原発停止にもかかわらず六ケ所処理工場で使用済み核燃料の再処理を続ければ、世界中の核開発能力のある国々に誤ったメッセージ(「日本は秘密裏に核兵器を開発しているのではないか?」という疑念)を送ることになる。

 ②日本がもし原電を放棄すれば、日立製作所―GE、東芝―ウエスティングハウス連合によって支えられているアメリカの原子力産業が原発を世界中に輸出するという計画に狂いが生じ、近年原発の開発に注力し、アジアやアフリカに原発を輸出しまくろうとしている中国やロシアの原子力技術すなわち核技術が、いずれ日本やフランスを抜くことを危惧している。

 ③とはいえ、世界的に軍縮と核兵器廃絶が進行している現在では、核の平和的利用である原発を積極的に推進する理由がなく、IAEA(「アメリカの犬」と言われている)は原発を普及させながら核不拡散のための監視体制を強化するという難事業を抱え込んでおり、そのために多大な資金を必要としている。一方で、当のアメリカでは、シェールガス革命と再生可能エネルギーの普及、廃棄物処理計画の見直しと規制基準の刷新という節目を迎え、稼働中の原発以外は凍結状態で今後は尻すぼみが予想され、GEは既に主力を火力と再生可能エネルギーに切り替えた(東芝と組んだウエスティングハウスは経営が崩壊していたのは周知の通り)。そこで、IAEAの資金源として期待されているのが、日本の原発による電気料金である。まず、日本の原発ムラが電気料金を吸い上げ、それを世界の原発マフィアが吸い上げる。

などといった形でアメリカからの圧力を受けている。

 辺野古基地は、中国が虎視眈々と狙っている尖閣諸島を含む第一列島線を防衛するための基地である。中国は、尖閣諸島の奪取時期について、2020年まで、または2020年から10年の間、あるいは2035年から2040年代にかけて、といくつかの目標を立てている。一方、米海兵隊が「航空計画2016」の中で示した辺野古基地の主要施設の工程によると、滑走路着工が2024年度とされる一方で、2026年度以降の計画は明らかではない。住民による反対運動、先ほど一例として挙げたケーソン護岸の設計上の問題などによって、計画から少なくとも3年は遅れていると言われる。だが、米海兵隊の計画の中で、普天間基地の返還が2025年度以降となっている点を見ると、2020年代後半には辺野古基地を完成させたいところだろう。

 仮に中国が2020年までに尖閣諸島を奪取するのであれば、アメリカは日本の尻を叩いて、尖閣諸島の防衛には使えない基地を一生懸命建設しているという非常にバカバカしい話になる。では、中国が2020年から10年の間に奪取する計画であるとすると、アメリカ側も辺野古基地の完成時期を2020年代後半と見ているわけで、攻撃と防御の時期がほぼ一致する(※1)。これではまるで八百長試合である。なお、最後の2035年から2040年代にかけて奪取するというプランであるが、中国の最終目標は、建国100年にあたる2049年までに世界の覇権を取り、アメリカを第二列島線より東側に閉じ込め、太平洋をアメリカと中国で二分することである。尖閣諸島は中国が太平洋に進出するための第一歩であるが、その第一歩が2035年から2040年代では、絶対に最終目標に間に合わない。よって、3番目の計画は現実味がないと考える。

 (※1)中国が尖閣諸島を奪取するのは2020年からの10年間と予測するのは、この後にも出てくるアメリカのシンクタンク「プロジェクト2049研究所」である。同シンクタンクが発表した報告書には、「共産党政権取得100周年の2049年は1つの節目。2030年からは約20年の時間がある。20年間も経てば、国際社会からの非難が弱まるだろう」と中国の声を代弁しており、中国は最も遅くても2030年には尖閣諸島を奪取したいと考えているようである。ということは、尖閣諸島奪取の現実的な目標時期は2020年代後半に設定されている可能性が高い。

 要するに、中国には本気で尖閣諸島を奪取する気がないのではないかというのが最近の私の考えである。そもそも、もしも中国が真剣にアメリカから覇権を奪い取る気であれば、「100年戦略」の中身をマイケル・ピルズベリーに『China 2049』ですっぱ抜かれたり、アメリカのシンクタンク「プロジェクト2049研究所」によって、中国が台湾に侵攻する時期(2020年まで)や尖閣諸島を奪取する時期(2020年からの10年間)を特定されたりはしないだろう。普通は、そういう情報は何が何でも絶対に秘密にし、裏で軍事力を拡充して、ある日突然アメリカに攻撃を仕掛ける。秘密情報をリークしそうな人物や組織があれば、中国が国家の威信にかけて全力で潰すものである。ところが、今の中国がやっているのはそれとは逆であり、当然のことながらアメリカは対抗策を講じてくる。言い換えれば、中国がやっているのはアメリカとのプロレスである。

 もう少し具体的に言えば、本ブログでも何度か書いたように、二項対立的な関係にある2つの大国は、本当に武力衝突をすると壊滅的な被害を被るため、それを避けるためのメカニズムを持っている。すなわち、2つの大国が二項対立の関係にあると同時に、それぞれの大国の内部にも二項対立が存在する。アメリカは反中派と親中派、中国は反米派と親米派を抱えている。表向きは反中派と反米派が激しく争っているものの、実は裏では親中派と親米派が手を握っている。これにより、両大国が正面衝突するリスクを下げている。

 辺野古基地について言えば、表向きはアメリカの反中派がその建設を進め、中国の反米派が沖縄の市民を動かして建設に反対しているという構図である。しかし、ここからは大胆な推測だが、実は既に親中派と親米派の間で何らかの約束が結ばれているのではないかと考える。それは、アメリカが中国に対して、「東シナ海は中国にやる。その代わり何かよこせ」と主張するものかもしれないし、中国がアメリカに対して、「尖閣諸島は取らない。その代わり何かよこせ」と主張するものかもしれない(「何かよこせ」の「何か」が具体的に何であるかは、私の想像力不足ゆえに書くことができない)。重要なのは、いずれの約束が成立した場合であっても、辺野古基地はもはや中国を刺激することはできないということである。したがって、辺野古基地は、米軍が世界中の戦争・紛争に関与するための一中継地点という位置づけに変質する(※2)。

 (※2)普天間基地から辺野古基地に移設されるのは海兵隊のみであり、私が本記事で予測したのとは違って、やはり中国が本当に尖閣諸島を狙ってくる場合、辺野古基地の海兵隊は動かず、尖閣諸島を防衛するのは海上自衛隊の役割であるという指摘がある。一方で、辺野古基地は普天間基地の代替滑走路に加えて、弾薬庫や大型港湾施設、弾薬搭載エリアを有しており、普天間基地からの機能縮小どころか機能拡大になっているとも言われる。それゆえ、翁長前沖縄県知事は、辺野古基地のことを辺野古”新”基地と呼んだ。

 「原発再稼働は唯一の解である」という言説に対しては、再生可能エネルギーや水素エネルギーといった新たなエネルギーが提示されている。前述の通り、日本に対して原発を維持するよう圧力をかけているアメリカ国内ですら、再生可能エネルギーが推進されている。再生可能エネルギー、すなわち太陽光、風力、波力・潮力、流水・潮汐、地熱、バイオマスなどを資源をとするエネルギー、さらに水素エネルギーのうち、どれが次世代の主役になるのかは、現時点では全く見えていない。これも私の大胆な予測なのだが、実は次世代エネルギーの柱となるのは、これらのうちいずれでもない可能性があるということである。

 歴史を振り返ってみると、人類は何度かエネルギー革命を経験している。最も古いのは今から約50万年前の火の発見である。約5,000年前には、火に加えて家畜エネルギーが用いられるようになった。紀元前後から1800年頃までは薪炭や風力がエネルギーとして用いられた。その後19世紀頃には石炭がこれに取って代わり、20世紀に入ると石油エネルギーが中心となった。ポイントは、新しいエネルギーが広まる時には、必ずそのエネルギーを大量に使用する新しい技術の発明が伴っている、ということである。これはとりわけ19世紀以降に顕著である。石炭エネルギーが広まったのは蒸気機関の発明のおかげである。石油エネルギーが広まったのはエンジンの発明のおかげである(四国電力「エネルギー年表―エネルギー利用の歴史―エネルギーを考えよう―キッズ・ミュージアム―」を参考にした)。

 再生可能エネルギーあるいは水素エネルギーを消費する新技術としては、電気自動車(EV)や燃料電池自動車(FCV)が候補として挙げられる。しかし、ガソリン自動車がEVやFCVに代わったところで、消費されるエネルギー量は新興国における自動車の普及スピードに依存しており、爆発的な増加は見込めない。アメリカは、再生可能エネルギーあるいは水素エネルギーを大量に消費する新技術の開発を進めている最中なのかもしれない。もしくは、再生可能エネルギー、水素エネルギーとは全く異なる新しいエネルギーを模索しているのかもしれない。いずれにせよ、アメリカは前述の①~③とは別の理由で、こうした取り組みの成果が出るまでは、日本人の目を原発に釘づけにしておこうとしているとも考えられる。

 これを日本側から見れば、自国の防衛にとって何の利益にもならず、下手をすれば安保法制によって基地から世界各地へと出向く米軍の後方支援をしなければならないかもしれない辺野古基地と、ランニングコストや事故リスクが非常に高いにもかかわらず、将来何らかのエネルギーによって一気に取って代わられる可能性が高い原発を抱え込むことになる。こうした動きに反対するには、2つの方法を想定することができる。

 1つは、原発推進派、辺野古基地移設容認派の国会議員を輩出している地域で反対デモや集会を展開することである。現在、反原発派、反辺野古派の人々は、その原発がある地域や辺野古基地周辺で反対運動を行っている。しかし、こうした局部的な動きは、アメリカを絶対視するその地域の行政によって簡単に封じ込められる。それに、反対運動を取り上げるのは地方のマスコミのみであり、他地域の国民がその動きを知る機会はない。

 多くの国会議員はHP上で自身の政策を説明しているが、実は原発や辺野古基地に関しては明言を避けている。軍事オタクと呼ばれる石破茂氏ですら、HPでは辺野古基地には一切言及していない。となると、誰が原発推進派、辺野古基地移設容認派であるかを知る手がかりは、国会議事録に求められる。それぞれの国会議員の発言を分析し、誰が原発推進派、辺野古基地移設容認派であるかを特定する。そして、彼らの選挙区に乗り込み、そこで反対運動を行う。反対運動は、できるだけ全国各地に散らばるようにする。すると、各地のメディアが注目し、やがて全国メディアが取り扱ってくれる可能性が出てくる(ただし、原発に関しては、メディアの収益源が電力会社の広告料であるから、反原発運動には触れないかもしれない)。

 原発が立地する地域や沖縄からやってきた反対派に、全国各地の国民は戸惑い、反対派と軋轢を起こすに違いない。全国各地で混乱が起き、自治体が動揺すると、政府も黙ってはいられない。政府が混乱を収拾することができなければ、内閣支持率が低下し、内閣は総辞職に追い込まれる。新しく選ばれた首相はこの時点で国民の審判を受けていないため、野党から早期の衆議院解散総選挙を求められる。しかし、与党に対して不信感を募らせている国民は与党に投票せず、政権交代が実現する。新しい内閣は、反原発、反辺野古を掲げる。

 ただ、悲しいかな、政権が代わったところで、アメリカを最上位に頂いた瞬間に思考停止するのは、どの政治家であっても同じである。旧民主党の野田元首相も、原発ゼロを閣議決定したのに、アメリカの圧力に屈してあっさりと撤回した。だから、「原発再稼働は唯一の解である」と言ってしまった。したがって、このアプローチは労力の割に得られるものがほとんどない。

 アメリカを動かすにはもう1つのアプローチを使うしかない。それは、国連を使うことである。国連人権委員会で人権の救済を訴えることである。翁長前沖縄県知事は国連人権委員会で何度か演説を行っており、2015年9月に行われた演説が、「基地建設反対運動の正義」(星野英一)の中で紹介されていた。国連人権委員会は世界中の様々な人権問題を扱っているため、演説者に許される時間は1分程度と非常に短い。この1分の間に、具体的にどのような人権が侵害されているのかを訴求しなければならない。記事を読む限り、2015年9月の翁長前知事の演説はこの点が弱い気がした。裁判所に対して、「この人は法律違反だから裁いてください」とお願いするようなものであり、これでは裁判所も相手にしてくれない。相手の何がどういう法律のどの条文に違反するのかを明確にすることで初めて、裁判所は動くことができる。

 先に述べたように、仮に辺野古基地が対中戦略から外れて、米軍が世界中の戦争・紛争に関与するための拠点としての機能を持つものだとすれば、沖縄の人々は自然とアメリカの戦争・紛争に関与していることになる。そこで、「他国の紛争に加担しない権利」があると主張し、2016年11月に採択された「平和への権利」と紐づけるというアプローチが考えられるだろう。原発に関しては、「平穏に生活する権利」、「自然を享受する権利」などが侵害されていると訴求する。前者は憲法13条の幸福追求権から導かれる人格権の一部に該当するとされ、また後者は北欧に古くからある慣習法である。そして、次のエネルギー革命を待たずとも、”つなぎ”のエネルギーでもよいから、原子力から別のエネルギーへと移行する世界的な流れを作っていく。

 ここで重要なのは、実は1分間の演説そのものではなく、事前・事後の根回しである。慰安婦問題が国連人権委員会でこれほどまでに盛んに取り上げられるようになったのは、NGOなどが国連関係者に対し、長期にわたって相当粘り強く根回しをしたからである。慰安婦問題を扱うNGOが国連関係者を何度も訪れるだけの資金をどうやって集めたのかは不思議である。ただ、反原発や反辺野古の方が賛同者は多いはずであり、それだけ資金集めもしやすいであろう。反辺野古に関しては、「辺野古基金」なるものが存在しており、これまでに7億円近い資金を集めたようだから、その一部を国連関係者向けの活動費に回せばよい。



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