2018年10月19日
和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』(再読)―全体主義と古代日本の人倫思想の違い
日本倫理思想史(一) (岩波文庫) 和辻 哲郎 岩波書店 2011-04-16 Amazonで詳しく見る |
全体主義については、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(1)】前提としての啓蒙主義、全体主義、社会主義」などを参照していただきたい。本書を読むと、古代日本の人倫思想は全体主義と紙一重のようにも感じる(だから、前回「和辻哲郎『日本倫理思想史(1)』―日本では神が「絶対的な無」として把握され、「公」が「私」を侵食すると危ない」という記事を書いた)。だが、本書を改めて読んでみて、両者の違いを4点指摘してみたいと思う。
(1)全体主義のルーツをたどっていくと、啓蒙主義に行き着く。そして、啓蒙主義の時代には理神論が生まれた。これは、唯一絶対、完全無欠の神が人間を創造するところまでは神が関与するが、それ以降は人間の営みに委ねられるという立場である。この理神論を杓子定規に解釈すると、唯一絶対、完全無欠の神の特徴を人間が受け継いだという考え方が生じる。つまり、人間は皆、唯一絶対、完全無欠の理性を有している。だから、人間は絶対的に正しい。
これに対して、古代日本は八百万の神の世界である。しかも、神の世界には階層があるという。和辻は、神々には①祀る神、②祀られると同時に祀る神、③祀られるのみの神、④祀りを要求する祟りの神、という4種類のタイプがあると指摘する。祀る神とは天皇、祀られると同時に祀る神とは天つ神のことである。天つ神には、天照大御神、日本武尊、月読、素戔嗚、大国主命など、神話に登場する多数の神が含まれる。興味深いのは、天つ神が天皇に命令を下す場合、最初からその正体がはっきりとしているわけではないということである。本書では新羅征伐の物語が紹介されているが、特定の天つ神が天皇に対して命令を下すのではなく、まずは不定の神が命令を下す。そこで天皇が神を祀ると、初めて神の名が顕れる。
祀られると同時に祀る神は、自らも祀るわけだから、対象としての祀られる神が存在する。その神がまた祀られると同時に祀る神であれば、さらに祀りを行う。これを突き詰めると、最終的には祀られるのみの神に行き着くはずであり、この神こそが神々の源泉であるに違いない。ところが、和辻は尊貴性という点では、祀られると同時に祀る神の方が、祀られるのみの神よりも上であると主張する。祀られるのみの神と祀りを要求する祟りの神は、神話の世界ではどちらかというと傍流であり、主役はあくまでも祀る神と、祀られると同時に祀る神である。だとすると、究極的に祀られる対象とは何なのか?和辻の答えは、「特定できない」。それは全ての神々の根源でありつつ、それ自身いかなる神でもない。すなわち、神聖なる「無」である。
ユダヤ教、キリスト教、イスラームのように、絶対者を一定の神として対象化することは、実は絶対者を限定することである。他方、絶対者を無限定にとどめたところに、古代日本人の天真の大きさがあると和辻は言う。私は、究極の根源を「よく解らない」と曖昧にすることで、日本人は自分が完全無欠である錯覚に陥るのを防ぐことができたと考える。一方で、絶対的存在がないということは、そこに向かっていくところの対象となるもの、つまり目的がないということである。現代、日本の企業や組織が往々にしてその本来の目的を見失い、既存の秩序を維持することだけに走る保守性の一因はここにあるのかもしれない。また、以前の記事「【現代アメリカ企業戦略論(3)】アメリカのイノベーションの過程と特徴」でも書いたように、イノベーションには明確な目的が必要だが、目的意識が低い日本人はイノベーションがどうしても苦手である。
(2)全体主義においては、人々は誰もが神と同等の存在として創造される。よって、人々は皆平等である。この平等な人々がパワーを発揮することで集団全体を動かす。そのパワーの正統性の源泉となっているのは、人間の完全なる理性である。
一方、古代日本の場合は、まず(1)で述べたように、神々の世界に階層性がある。この神々の世界の血縁的関係を現実世界にも適用することで、祭祀的・団体的統一を達成した。具体的には、一団の集団が自らの本当の祖先を祀るのではなく、祀られる神を自らの祖先として信じた(つまり、事実としての血縁関係は重要視されなかった)。天孫降臨の際の五伴緒(いつとものお)がそれぞれ中臣連忌部首等(なかとみのむらじいんべのおびと)の祖となり、天照大御神の玉より化生した天のホヒの命(みこと)の子、天津日子根の命が、多くの国造、連、県主、稲寸などの祖となった。さらに、部民という一般庶民もこの秩序に組み込んでいった。例えば、阿曇の連が海神の神を祖神として祀ったとすれば、部民と無関係に少数の貴族だけが祀っていたのではなく、阿曇の部民が団体的にこの祭祀を行っていたことを意味する。
こうした階層的秩序において、上の階層の者が下の階層の者に命令を下すその正統性は、「全体性の権威」にあると和辻は述べている。絶対的な神を特定することができず、かといって個々の個人もパワーを持っているわけではないから、祭祀を通じて神々から部民までがつながった大掛かりな階層社会という仕組みの全体性そのものが正統性の源泉となるいうのは妥当であろう。和辻の分析によれば、祭祀的統一の時代は5世紀までであり、その後は政治的統一の時代に移行する。しかし、奈良時代に入っても天皇の権威、ひいては神々の権威に依拠する局面が多いことを踏まえると、祭祀的統一と政治的統一は連続性を持っており、「全体性の権威」が正統性の源泉であり続ける点は変わらない。
ここで、「権力」と「権威」の違いを明確にしておきたい。権威とは地位に基づくパワーを指す。社会や組織において、それぞれの地位はそのポストに就いた人に対し、特定の役割を果たすことを要請する。その要請に従って人が発揮するパワーが権威である。だから、社会や組織の構造が変わらない限り、人が入れ替わっても権威は存続する。これに対して、権力とは地位に基づくパワーと個人の特性に依存するパワーが合体したものである。だから、「あの国王は強大な権力を発揮している」、「国王の交代で権力が減退した」という表現は正しい。ところで、全体主義の場合は、完全な平等主義が貫かれているから、そもそも地位という考え方がない。だから私は先ほど、「平等な”人々”がパワーを発揮する」と書いたわけである。
全体主義における究極な平等とは異なり、階層社会である限り、必ず不平等は生じる。これは現代でも同じであって、人種、国籍、性別、年齢、出身地、宗教、価値観、親の地位、学歴、職業、婚姻状況などに違いがあるのには、それなりの理由があると考える。違いがあるのだから、階層社会における役割分担も異なる。大化の改新後に孝徳天皇が発した詔には、次のように書かれている。「聖の君が天に則って統治するというのは、天が万物を育成するように人民を育成すること、すなわち仁政に他ならなない。言い換えれば、仁政の理想は、人々が各々そのところを獲ること、つまり、各人がその本来のあり方を実現し得ることである」。要するに、様々な違いを持つ人々に十分な教育を施し能力を開発した上で、人々の違いに応じた適切な配置を実現すること、人々をその違いに応じた本分に集中させることこそが公正である。
(3)全体主義とは、究極の個人主義である。個人の理性が絶対的に正しいのだから、個人が私的な利益を追求すれば、それはすなわち全体の利益を追求することに等しくなる。つまり、私が前面に出て公を名乗る。ただし、その正体はあくまでも私である。
これに対して、古代日本ではどこまでも公の精神が追求された。天皇は国家のために、私を捨てて神々に仕える。私を捨てた天皇のために、貴族が私を捨てて天皇に仕える。私を捨てた貴族のために、部民が私を捨てて貴族に仕える。誰もが「他者のために」、「上の階層のために」と思って行動することで、社会全体を機能せしめる。この時の心構えが「清明心」であり、和辻が古代日本における人倫思想の3本柱の1つとしているものである。
他者のために行動するには、自分の心の中に私的な利害を求めるやましさがないことを証明しなければならない。よって、清明心は正直を要求する。正直とは、他者に対して自らの透明度を上げることである。そして、私を捨てて自らに仕える者には、上の者は慈愛で応える。これが3本柱の2つ目である。慈愛とは、人々を等しく大切に思う気持ちである。単なる愛は、愛の対象を取捨選択するため偏頗的である。ここで、私を捨てた部民は空虚なままだと思われるかもしれない。だが、天皇が神々に仕えると同時に、部民に対して仁政を施すため問題はない。
だが、既に古代日本において、公を貫徹させることは困難であった。大化の改新は公地公民制を敷き、その後律令国家が整備される過程で実施された班田収授法は公の精神を前面に打ち出したものであったが、平安時代に入ると私的な土地である荘園が生まれた。この荘園を基盤として台頭してきたのが藤原氏である。ところが、藤原氏の私は、朝廷の公を遂に食いつぶすことはなかった。藤原氏が本当に権力を握りたければ天皇を廃すればよいのに、実際には外戚関係によって天皇家に入り込んだにすぎなかった。仁政の理想の規範が、私利を是認するイデオロギーの出現を阻止したと和辻は述べている。
(4)全体主義においては、私の理性は他者の理性に等しく、さらに全体の意思に等しいため、民主主義と独裁が両立するという現象が起きる。いや、私の意見が全体の意思に等しいのであれば、他者の意見との調整を行うという高コストな民主主義はもはや必要ではない。よって、全体主義はコストが低い独裁を選択することになる。
古代日本の場合、「全体性の権威」に正統性の源泉を持つ階層社会が成立し、人々は差異に応じて本分を与えられたわけだが、決して下の階層の人間は上の階層からの命令に唯々諾々と従い、天皇の命令がストレートに階層社会の末端にまで伝わったわけではない。仮にそうだとすれば、正統性の源泉は天皇にあると言わなければおかしい。そうならなかったのは、人々に自由意思が認められていたからだと考えるのが適切であろう。
本書を読んで初めて知ったのだが、十七条の憲法は果たして聖徳太子が策定したものなのかと疑問を呈する人たちがいるようだ。というのも、十七条の憲法の中身をよく読むと、例えば国司の制度のように、大化の改新とその後に実現された様々な政策のことを知っていなければ書けないことが含まれているからだという。和辻はこの説を否定して、十七条の憲法は大化の改新に先立って聖徳太子が策定したものだという立場をとる。さらに、十七条の憲法の精神が大化の改新に受け継がれ、一見すると壬申の乱で大化の改新が頓挫したかのようであるが、実は天武天皇は大化の改新の熱心な支持者であったと見る。そして、大化の改新は、続く持統天皇、文武天皇によってさらに推進され、記紀編纂の時期に完成したと分析する。
その十七条の憲法の最後は、「独断は不可である。衆と論じ合わなくてはならぬ。衆と論弁することによってのみ理を得ることができる」とされている。これは、盛んに議論して事理を通ぜしめようという第1条の考えと同じである。十七条の憲法は官吏の心構えを説いたものであるが、その精神は大化の改新にも受け継がれており、改新後の詔勅では、「不可独制(独り制〔おさ〕むべからず)」と君主の独断を牽制している。ちなみに、現実世界だけでなく、神々の世界でも、例えば処罰を決める際には会議を開いていたと和辻は指摘している。
一般化すれば、下の階層にいる者は、上の階層から命令を受け取った場合、それが上の階層の独断とならないように、自ら発言し、ともに議論する。もちろん、この議論は公の精神に基づいていなければならない。これにより、上の階層は、単に地位が要求する職務の遂行にとどまることなく、より自律的になり、自らの考えを充実させることが推奨されている。これが、和辻の言う3本柱の最後の柱である「社会的正義」である。「全体性の権威」に支えられた階層社会は不平等である。しかし、それぞれの地位に就いた人々には、自分なりの意思を持ち、それを表明する自由がある。私はこれを「権威の中の自由」と呼ぶことにしよう。
(※)今まで、本ブログやブログ別館で「権力の中の自由」という言葉を用いてきたが、権力と権威の違いを踏まえると、「権威の中の自由」の方が適切であると思い直した。
私は、政治学における「権威主義」という言葉にやや疑問を感じている。開発独裁国家の政治形態が権威主義であると言う場合、トップの座にある特定の個人の強力なパワーによって開発が進められているので、「権威主義」ではなく「権力主義」と呼ぶべきである。また、日本は権威主義的だと言われることがあるが、純粋な権威主義においては、階層社会を構成する個々の地位が要請する役割を、その地位に就く人が粛々と遂行するものである。だが、実際の日本では、今見たように上下の自由な議論がよしとされ、下の階層の意見が上の階層の命令を高度化する。よって、私は日本の政治は「穏健な権威主義」と呼ぶのがふさわしいと考える。
ここからは、本書を読んで私が今後答えなければならないと感じた論点の整理である。
第一に、和辻が挙げた古代日本の人倫思想の3本柱は清明心、慈愛、社会的正義であった。実は、平等という倫理も重視されており、概念的には慈悲が無差別平等を説き、現実的には班田収授法が土地という生産手段の平等を実現した。だが、既に見たように、日本が階層社会である限り、完全な平等は実現できない。この問題は現在にまで持ち越されている。自由・平等を普遍的価値と信じる人は不平等を是正すべきだと主張するものの、私はどんな手を尽くしても解決不能だと考える。では、不平等を完全に放置してよいのか?「この措置を施せば結果的に不平等が生じても容認できる」と言える措置とは何か?を考えなければならない。(2)で触れた仁政の理想を踏まえると、教育に関しては平等を貫かなければならない気がする。
第二に、本書ではタテの関係は出てくるが、ヨコの関係は皆無に等しい。タテの関係を簡略的に示すと、「絶対的な無⇒祀られると同時に祀る神⇒祀る神(天皇)⇒貴族⇒部民」となる。そして、(4)で見たように、上下の階層間で公の精神に基づいた議論を行い、上の階層が下の階層の意見を踏まえ考えを洗練させることが正義だとされた。では、ヨコの関係はどうであったか?本書では、記紀に登場する征服戦争において、日本人は異民族に勝利しても西洋人のように虐殺せず、融和を図ったと書かれているのみである。『日本倫理思想史』は全4巻で、実は私は既に全巻を読んでおり、第2巻でヨコの関係が出てくるようなので、第2巻に関する記事で整理を試みたいと思う。社会人類学者の中根千枝氏が言うように、日本はタテ社会が強いと言われる。だが、私はヨコの関係も強いという仮説を持っており、その検証が必要である。
現代に限った話だが、企業内ではジョブローテーションという日本特有の人事慣行があり、これが部門間の協業に役立っているという側面がある。また、企業間の関係に目を向けると、業界団体を通じて同業他社同士が競合関係を超えて協業することも多い。
第三に、第二と関連するが、日本のヨコ関係が裏目に出ることもある。企業内のヨコ関係が強すぎるがゆえに部門間の壁や派閥争いが生じる場合がある。企業間のヨコ関係が強すぎると内輪グループになってしまい、新規参入者、外資系企業、異業種企業を排除してしまう。ここで問うべきは次の2つである。1つ目は、ヨコ関係に問題が生じた場合、関係を修復するためにどんな倫理を持つべきか?また、どれほど関係修復を試みても解り合えない人・組織というのはあるわけで、関係修復を諦めてもよい/諦めるべき場合とはどういう場合か?という問いである。もう1つは、反目し合っている人や組織の上に立つ者はどんな倫理を持って彼らに接するべきか?現世界の頂点に立つ天皇は様々な反目の上に立っている存在と言えるが、いかにして十七条の憲法にあるような和の精神を保っていらっしゃるのか?という問いである。
第四に、本書では、古代から形成されてきた公の精神が、政治に私の精神を持ち込もうとした藤原氏を跳ね返したという話が出てきたが、日本の歴史全体を見ると、私の領域が徐々に広がっていった歴史と言える。社会が現状維持を目指しているならば、公に徹していれば十分である。(3)で見たように、それぞれの階層が完全なる公の精神を発揮し、相互に補完関係にあれば、社会は安定する。だが、社会が成長を目指すならば、私が必要になってくる。
ただし、私の精神だけでは相手の利益をお互いに奪い合うだけだから、公の精神を貫いた場合と同様に、社会は成長しない。私と公がセットになって初めて社会は成長する。「公の精神で社会全体の価値をこれだけ拡大させた。そのうち、自分は私の精神でこれだけいただいていく」といった具合に人々が行動する時、社会は成長する。この公と私のバランスは非常に繊細である。私が少しでも公に先行する、すなわち「私が先にこれだけいただだく。それを投資して社会全体の価値をこれだけ創出する」という場合、社会は価値をリスクにさらす。また、公が私に先行した場合でも、私の取り分が不当に大きければ、社会を害する。この公と私のせめぎ合いが日本の歴史の中でどのように繰り広げられてきたのか、その謎を解いてみたい。
第五に、日本も戦前にファシズムを経験している。既に見たように、全体主義と古代日本の人倫思想には相違点があるが、仮に天皇を絶対視し、既存の階層社会を破壊して国民を総動員すれば、全体主義に近くなる。「近くなる」と書いたのは、(3)で述べたように、本来の全体主義では、私が前面に出て公を名乗るものである。ところが、日本の場合は、国体思想という、戦時中も戦後も、右派も左派もそれが一体何だったのかをほとんど誰一人として説明できなかった思想を基盤とし、公が私を完全に放逐することによってファシズムが成立した。全体主義と日本のファシズムの違いとは何か、また日本のファシズムが生まれた過程とは一体どのようなものであったのかを考察することも今後の私の課題である。