「花山法皇の娘」のあまりに"壮絶すぎる最期" 恋愛に奔放だった法皇は母子と関係を持つが…
花山法皇の皇女の悲惨な死
1024年12月、花山法皇の皇女がお亡くなりになりました。亡くなったと言っても、病で亡くなるといった「畳の上での死」ではありませんでした。ご遺体は、夜中、犬に喰われるという悲惨なものでした。
『小右記』(藤原実資の日記)によると、花山法皇の娘として生まれた皇女は、藤原彰子に仕えていました。彰子は藤原道長の娘であり、後に一条天皇の皇后となり、後一条天皇を産んだ女性です。
それにしても、皇女がなぜ彰子の邸宅で女房として仕える身となったのでしょうか。その要因は、花山法皇の放埒な女性関係にあったとされます。
986年、花山天皇は宮中を出て、出家・退位します。出家して法皇となったものの、女性関係は華やかでした。摂政・太政大臣にまで上り詰めた藤原伊尹の娘である九の御方(9女との説がある)と恋愛関係になり、花山法皇は伊尹の娘の邸宅・東の院に出入りするようになります。
すると花山法皇は、東の院にいた伊尹の娘(九の御方)に仕える女房にも手を出しました。花山法皇の愛情は、次第にこの女房に移っていったようです。
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