2011年08月26日 (金) | Edit |
経済学者や政治学者の方々はよく「政治主導」という言葉を使われていて、職業政治家の皆さんも今月末にかけて「せいじしゅどう」という呪文を唱え続けるようですが、憲法学の方面からの議論というのも参考にすべきではないかということで、備忘録的に書いておきます。

 さて、古典的な権力分立というと、国家権力を立法・司法・行政の三つに分割した上で、それぞれを別々の機関に担当させることを提唱するものだと思われるかも知れない。しかし、これは、少々単純にすぎる考え方である。モンテスキュー自身は、そうした主張はしていない。
 18世紀前半のイギリスの政治体制をモデルとした彼の権力分立論は、『法の精神』の第2部第11篇で展開されている。同篇のの冒頭で彼は、国家権力を立法・司法・行政の三つに分類した上で、第一に、立法権と行政権を同一の人間ないし団体が持つべきではないとし、第二に、司法権と他の二権のいずれかも分離されていなければならないとし、第三に、同一の人間ないし団体が三権のすべてを独占すべきではないといっている。そうした独占を許すと、法に従った国政の運用が阻害され、自由を抑圧する専制政治が行われることになるからである。立法権と行政権が結びつけば、恣意的な法律を作った者が恣意的にそれを執行することになる

(略)

マディソンが指摘したように、権力分立に関して「モンテスキューが真にいおうとしたことは、……ある部門の全権力が、他の部門の全権力を所有する者と同じ手によって行使される場合には、自由なる憲法の基本原理は覆されるということ以上には出ない」というべきであろう。つまり、立法・行政・司法のうち、二つ以上の権力がすべて同一人ないし同一団体のものとなってはいけないというのが、権力分立論の眼目である。
pp.89-91

憲法とは何か (岩波新書)憲法とは何か (岩波新書)
(2006/04/20)
長谷部 恭男

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※ 以下、強調は引用者による。
もちろん、こうしたモンテスキューの思想までさかのぼって見習えという趣旨ではありません(見習うべき点は多いと思いますが)し、本書でも、イェール大学のブルース・アッカーマン教授の主張を引用して、

 要するに、アッカーマン氏の主張は、権力分立を語る際に、200年以上前のモンテスキューやジェイムズ・マディソンの議論にこだわってアメリカ型の権力分立を推奨するのは控えるべきであるというものである。モンテスキューやマディソンは、たしかにその当時における最新の知見に基づく政治理論であり、憲法理論であった。しかし、彼らは現代のわれわれの置かれている政治状況の分析と問題の解決については、さして頼りにならない。われわれは、現代の最新の政治学の知見に基づいて憲法理論を再構成する必要があるというわけである。

長谷部『同』p.97

とし、結局のところ、最高法規である硬性憲法の下での立法という二元的民主政(二元代表制ではありません。為念)を実現するためには、アメリカ型の大統領制ではなく、ドイツや日本の「制限された議院内閣制」が望ましいというのがアッカーマン教授の主張であると紹介します。

私もその主張にはおおむね同意するところですし、実際に日本国憲法では公務員の身分は政治的に保障されています。その趣旨は、よく誤解されているように公務員の雇用を保障するためのものではなく(結果的に雇用保障的に機能している面はありますが、それは後述のとおり民間の労働法制でも同様にみられる現象です)、立法と行政を同一の団体が支配することを防ぐという権力分立の眼目を確保するために不可欠な措置となっているわけです。

念のため、これも拙ブログでは何度も指摘しています(最近ではhamachan先生のエントリをご参照ください)が、戦前の天皇に奉仕する官吏・公吏を国民に奉仕させるため、現憲法では公務員を全体の奉仕者と規定(日本国憲法第15条第2項)した上で、それぞれ国家公務員法第75条第1項では「職員は、法律または人事院規則に定める事由による場合でなければ、その意に反して、降任され、休職され、または免職されることはない」とされ、地方公務員法では第27条各項で同様の規定が定められています。その目的は政治的・恣意的な処分を防ぐことによって行政の(特に執行の)中立性を保つためではありますが、その一方で、経済的・財政的理由による分限免職ができることもきちんと法律で定められています(国家公務員法第78条第4号、地方公務員法第28条第1項第4号)。この点は民間の労働法制でもほぼ同じ構成となっていて、それぞれ労契法第16条の解雇権濫用法理とその特則である整理解雇の4要件が(結果的に)対応しているわけです。

でまあ、カイカク好きな現政権や地方自治体の首長の皆さんは、「政権交代したら官僚は絶対服従だ」とか「上司の命令を聞かないやつはクビだ」とかおっしゃるわけですが、民間でもそんなことは許されないこととされているのに、公務員の世界では「せいじしゅどう」でそんな道理が通るとおっしゃるなら、その主張の方がよっぽど「公務員の常識は民間の非常識」のような気がします。戦前の諸政党によるカイカク競争で短命政権が続いたあげく、陸軍大臣が政治任用的に重用した一夕会の軍人が開戦を実力行使し、政治不信が広がる中でカイカクの機運に乗った国民がそれを支持したという苦い経験を踏まえて現憲法が制定されたわけで、またぞろ「官僚主導が諸悪の根源」という仮想敵を叩いて「政治主導でカイカクだ!」というのでは、現憲法が人事の面で権力分立を確保した一線をあっさり越えてしまうのではないかと危惧するところです。

(付記)
potato_gnocchiさんのところでも同じような論点のエントリがありました。

公務員組織の大転換。強固な身分保障をあえて捨てられるかどうか。強固な身分保障をなくせば、日本の行政組織は一気に変わる。身分保障以外の条件を引き上げることができる。民間よりきついという世間の常識にすれば、使命感を持った人材が集まる。そして国民が行政に対して一定の敬意を持つ。

(略)

 政治主導なのだから、政治家がなんでも決めていいのだ、なぜならば民意は自分のものだから。という考え方は危険な考え方です。仮に橋下知事はそんなことを毛ほども思わなかったとしても、いつも選挙の当落に汲々としている政治家は、政治的中立を蹂躙することで自分の選挙における立場を強くすることができるという欲望に勝てるでしょうか。あるいは、純粋なる正義感から出ているとしても、特定支持者のためにルールをゆがめたいと言う欲望に勝てるでしょうか。政治的中立と、それを支える公務員の身分保障を、政治主導と称して蹂躙することは、そのような汚れた社会への道を開くことになると思うのです。そして皮肉なことに、そのような汚れ方を嫌う人たちは、今その汚れの根源は公務員にあり、橋下氏はそれを打破してくれる正義の味方だと思って橋下氏を支持しているのではないかと思うのです。でもね、橋下氏の主張する仕組みが出来上がったときに、何が起こるのか、支持者たちは自業自得と思うことがなければ良いのですが

■[政治][行政]橋下知事のツイートに見る、政治主導への思い込み(2011-08-23)」(常夏島日記
人類が営々と築き上げてきた近代国家の基本原則ともいえる権力分立を崩壊させかねないわけですから、橋下府知事が「日本の行政組織は一気に変わる」というのはその通りなのでしょう。potato_gnocchiさんが指摘されるように「橋下氏の主張する仕組みが出来上がったときに、何が起こるのか、支持者たちは自業自得と思う」のを待って、また近代国家からはじめるべく改めて権力分立に取り組まなければならないというのでは、徒労感が募りますね。。。
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2011年08月21日 (日) | Edit |
前回エントリの続きになりますが、震災後に膨大な量の事務作業に追われる被災地自治体のみならず、世界でもトップレベルに公務員の少ないこの国で、震災対応は被災自治体ならできるというのチホーブンケン教の方々であって、表向きは構造改革によるシバキ主義を批判しながら自己責任論で増税忌避の隠れ蓑である一部のリフレ派の方々であって、所得再分配による受益と負担の乖離を認めないネオリベな方々なわけです。

正直なところ、政府の復興対策本部で日夜奮闘されている岡本全勝氏をこうした形で取り上げるのは心苦しいのですが、この記述をみたときの落胆といったらありませんでした。いやまあ、「霞ヶ関解体」を目ざす旧自治省官僚で「新しい公共」好きらしい岡本氏がこういうのはある程度予想はできたのですが。。。

(復興の担い手)
今後の被災地での復興の進め方について、誤解をしておられる方が、時々おられます。
例えば、「国に復興本部ができた。さらに復興庁ができたら、大胆な都市計画ができるのでしょうね。関東大震災の時の後藤新平のように。がんがんと、国が線を引いて、事業をして・・」というようにです。
いいえ、町の復興計画をつくるのは、住民であり首長であり、議会です。国の役人がしゃしゃり出て、大胆な計画をつくることはありません

「でも、市役所の職員も亡くなり、まちづくりの能力に欠ける市役所もあります。やはり国が出ていかなければ」とおっしゃる方もいます。
その趣旨は分かりますが、市町村が、県や国に対し「この点について助けて欲しい」と要望してもらわないと。住民や市役所の意向を抜きに、国が絵を描くわけにはいきません。都市計画の専門家が必要なら、送ります。財源が不安ならば、相談に乗ります。規制緩和が必要なら、相談に乗りましょう。それは国の責任です。

また、大胆な都市計画をすれば復興ができる、というわけではありません。その町が今後数十年にわたって、どのような産業で、雇用と賑わいを保っていくのか。教育や福祉など、どのように住民の安心を確保するのか。コミュニティをどのように保っていくのか。インフラ整備以上に、住民の暮らし(雇用と安心)が重要です。立派な道路やビルを造っただけでは、町の復興はありません。
もちろん、市町村長さんたちは、良くわかっておられます。(2011年7月10日)

災害復興1」(岡本全勝のページ


もちろん、市町村長は選挙によって選ばれる選良の方々ですから、選挙を勝ち抜くためには合理的無知を利用した戦術が有効であって、その結果晴れて当選された市町村長がチホーブンケンの旗を降ろすはずがありません。その一方で、そもそも自主財源を大幅に上回る事務を担っている地方自治体が自力で災害復旧できるわけがありませんから、「使い勝手のいい交付金を」などと言い出して、国や都道府県に「使い勝手がいいから少なくてもいいでしょ」という口実を与えてしまっているわけです。さらに、いわば組織の「山頂」にいる首長のいうことだけを聞いて「山に登ったぞ」と言い張るような現地対策本部やらもあるようでして、そんな方々に前回エントリで指摘したような実務上の問題点を伝えたところで「現場の判断を尊重します」と格好良く立ち去るのでしょうね。

このような基礎自治体にすべて任せればすばらしきチホーブンケンが実現するという「補完性の原理」によく似た言葉で、生活保護でいう「補足性の原理」という言葉があります。これも以前指摘したことの繰り返しになりますが、「補完性の原理」という建前がある限り、国も都道府県も一義的な責任を市町村に押しつけ、市町村が白旗を揚げるまで待って「市町村ができないっていうならしょうがねえな」と対応するということが可能になってしまいます。左派系の方がよく「地方分権は地方切り捨てだ。補完性の原理で地方に3ゲン(権限と財源と人間)を与えるべき」とかおっしゃいますが、「地方分権」が問題なのではなくてその根拠となる「補完性の原理」がそもそも自己責任を押しつけるものなわけで、ご自身の主張の矛盾に気がつかないのはまあいつものことですね。

念のため、マーストリヒト条約で脚光を浴びて以来、日本でも金科玉条のごとく信奉されてしまっていますが、キリスト教区の建前である「補完性の原理」なんて言葉は地方自治法のどこにも出てきません。シャウプ勧告で市町村を優先するとされているという主張もありますが、そのシャウプ勧告でも、

3 地方自治のためにそれぞれの事務は適当な最低段階の行政機関に与えられるであろう。市町村の適当に遂行できる事務は都道府県または国に与えられないという意味で、市町村には第一の優先権が与えられるであろう。第二には都道府県に優先権が与えられ、中央政府は地方の指揮下では有効に処理できない事務だけを引受けることになるであろう。

 われわれは、これらの原則を実際に適用するについては困難があることはこれを認める。多くの場合、事務を截然と区別することは賢明でもなく、また不可能でもあろう

 われわれは広汎な研究をすることはできなかったけれども、若干の試案を示して可能な解決方法を説明してみよう。

(略)

3 中央政府は災害復旧に対する財政上の全責任を引き受けてよいであろう。しかし、地方で統制している施設に関係した実際の仕事は地方団体が行うことができよう。現在は、中央政府はこの負担の一部を引き受けているが、都道府県および市町村もまた負担を負うている。天災は予知できず、緊急莫大の費用を必要とさせるものであるから、天災の勃発は罹災地方団体の財政を破綻させることになる。その結果、地方団体は、起債、非常予備金の設定、高率課税および経常費の節減を余儀なくされる。この問題は中央政府だけが満足に処理できるものである

4 中央政府が、補助金を交付したり、しなかったりして、地方当局にその仕事を与える傾向は減ぜられねばならない。(地方財政法第十乃至第二十二条参照)かかる活動の多くは、全責任と共に地方団体に与えるかまたは直接中央政府によって ― ある場合には出先機関によって ― 執行するようにできるであろう。
地方団体が中央政府の代行機関として働く活動範囲を狭めて、国と地方の事務を明確に分離することには大きな利益があるのであろう。たとえば、主として中央政府が引き受けるべき事務は統計作製の事務、または農地調整であり、地方に全面的に委譲できる事務は選挙管理または地方的計画立案である

シャウプ使節団日本税制報告書 付録A D 職務の分掌 (Division of Functions)


というように、災害は中央政府が財政上の全責任を引き受けていいとしているわけです。まあ、地方的計画立案は地方に全面的に委譲できるとしていますが、引用した部分だけでも「多くの場合、事務を截然と区別することは賢明でもなく、また不可能でもあろう」といいながら、「国と地方の事務を明確に分離することには大きな利益があるのであろう」とかいっていて、シャウプ勧告そのものの整合性に疑問が残るところですけども。

自己責任論が世論の支持を得るようになって初めて地方分権の議論が進んだという時代背景を考えれば、チホーブンケンの旗を掲げる限り自己責任論からは逃れられない構図になっているわけで、被災自治体に自己責任を押しつけてしまう現実よりも、チホーブンケンという理想が優先されているのが現状といえそうです。
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2011年08月21日 (日) | Edit |
震災発生後の雇用対策についてはこれまでもいろいろと疑問を呈してきましたが、緊急雇用創出事業では被災地の雇用を十分に創出することはできません。

実務なんぞやったこともない有識者とかいう連中が高邁な提言をしようが、政治家連中が「新しい公共」なんてほざこうが、緊急雇用創出事業は委託事業であって、都道府県や市町村が実施すべき内容でなければ事業立案できないし、事業立案しても委託先が想定されなければまともな積算もできず予算要求は通らないし、運良く予算要求を通っても、委託先を決定するにはよっぽどの理由がなければ随意契約なんかできないし、総合評価方式による入札やら企画競争による選考委員会を開催しなければならないし、そのために膨大な量の資料と関係者の日程調整をして会場を確保してホームページにアップして、説明会やら問い合わせに対応して委託先を決定して、委託先が決定したら契約書を作成して事業の進行管理やら労働者の従事状況の確認をして、年度末にはすべての事業の書類をチェックして完了確認しなければならないんですよ。それをどうやって現存の職員でこなせというのでしょうか?

被災した市町村に他の市町村とか都道府県が支援するという動きももちろんありますが、民間企業でも社内の書類の書式やら決裁ルートやらはそれぞれ独自に設定されているはずですし、地方自治体は地方自治法だけではなく独自の条例や規則などで事細かに事務の進め方が決められているので、自治体職員だからといってすぐに被災市町村の事務ができるわけではありません。長期的に被災市町村へ派遣されているのはごく一部の職員だけで、ほとんどの職員は1週間~1か月程度で交代しますから、予算編成や企画立案のような中核的な事務を支援することは困難です。

いずれにしても、提言して予算を付ければ済む話では決してありません。そうした現状でもできることからこつこつと取組は進んでいますが、被災地の現実はそれを待ってはくれないのです。
hamachan先生経由ですが、そうした「古い公共」の現場を知ってか知らずか、「新しい公共」が現場で活動してそれが奨励されればされるほど、「古い公共」の積極的な雇用政策が顧みられなくなっていく一端が紹介されています。

「どの部屋に誰がいるのかもわからない。
もう久ノ浜には戻れないだろうし、
ここでしばらく生活をしていくわけだから、
久ノ浜の人たちとのコミュニティづくりを、
新たにし直さなきゃと考え、
全世帯のポストにアンケート用紙を配布しようと思っていたんです」

彼は250世帯分のアンケート用紙を持っていた。
ここでの慣れない新生活を互いに支えあうため、、
久ノ浜の人の部屋番号と名前と連絡先を書いた、
名簿を作ろうとしていたのだ。

今、久ノ浜に必要なのは、
また放射能被害や津波被害のある可能性がある、
場所の清掃活動なんかじゃなく、
そこで復興支援の名のもと、花火を上げることじゃなく

いわき市内の中心部に移って、
ここでの暮らしに慣れようとしている被災者の人たちの、
コミュニティづくりを支援してあげることじゃないか


(略)

自分たちは津波被害にあっていなくても、
周囲が津波被害にあってしまえば、
もはや自分たちの生活は成り立たない。
しかし家は被害がないため、
避難所に行くことも、仮設に移ることもできないし、
義援金も津波被害者のようにいっぱいもらえるわけではない。

こうした中途半端な立場に置かれた被災者が、
ボランティアの清掃活動を横目に、
今後の暮らしに希望を見出せず、苦悩しているのだ。

津波被害者だけが被災者ではない。
津波被害地区だけが被災地ではない。


そこを履き違えて、震災から5ヵ月が過ぎた今も、
被災地の“目に見える”支援ばかりしていると、
すぐそばにいる被災者の心の闇を見逃しかねなくなる。

ボランティアが被災者の自立を阻害する?!~震災5ヵ月後のボランティアのあり方を問う(2011年 08月 17日)」(つぶやきかさこ

※ 以下、強調は引用者による。


ボランティアの自己満足によって地元の仕事が奪われていくことや、仕事を失ったにもかかわらず直接被災しなかったために支援を受けられない方の存在についてはこれまでにも指摘してきました。地方公務員としてもそのような状況を把握していないわけではないと思います。ただ、行革に加えて災害で人員の減った中で、これまでは災害復旧や仮設住宅の設置といった緊急避難的な事務にリソースを充てなければならなかったため、上記のような手続を要する事務はどうしても後回しになった点は否めません。仮設住宅の設置がほぼ完了した今後はそうした事務にもある程度のリソースを割り当てることが可能になるでしょうが、絶対的な人員不足の中ではその効果も限定的となるでしょう。

緊急避難的な状況を脱した被災地で生じている現実は、震災前から進められていた「小さな政府」路線の帰結でもあります。社会保障や積極的労働市場政策による所得再分配を担保するため、フロー財源と人件費を確保しなければ「復興」どころか衰退していくのが地方自治の現場であるという現実に、「新しい公共」などという美辞麗句に踊らされることなく目を向ける必要があると思います。

まあ、善意さえあれば正規の手続なんか要らないというのが「新しい公共」ならば、「古い公共」の出る幕はないのかもしれませんが。

「善意の悪用残念」 自称医師事件で関係者困惑 宮城 2011.8.20 02:02 MSN産経ニュース
 医師を名乗ったとして19日、県警生活環境課と石巻署から医師法違反(名称の使用制限)の疑いで逮捕された米田吉誉(よしたか)容疑者(42)には、石巻市内で活動するボランティアらからは困惑する声も上がった。

 米田容疑者が活動拠点としていた同市の石巻専修大で、東京都の音楽家、林真史さん(47)は、「震災当初、ボランティアの間で『病院は被災者のため』という意識があり、医師にかかるには抵抗があった。少しの傷ならボランティア同士で治そうとして、医師を名乗ったのかも」と米田容疑者の心情を推し測った。

 林さんによると、震災当初は大学の広大な敷地がテントで埋まるほど多数のボランティアが集まっていた。

 米田容疑者は逮捕前の産経新聞の取材に「どさくさに紛れて医師を名乗った」と語っている。

 一方で米田容疑者を疑いの目で見る人もいた。石巻市災害ボランティアセンターの受付をしていた神奈川県の抱井(かかい)昌史さん(30)は「(活動拠点の)キャンピングカー内で何をしているか分からなかった。怪しいといううわさはあった」と話した。

 さらに、米田容疑者が代表を務める団体は、日本財団から100万円の支援金を受給している。同財団は「もし容疑が本当であれば、善意のボランティアを支援する制度が悪用されて残念」とした。

これが「古い公共」で起きた事件であれば「チェックの甘さが問われる」とか叩かれるところですが、

県立宮古病院・偽医師事件:「やむをえないリスク」知事が見解 /岩手(2010年5月11日毎日新聞)

 医師と偽った無職の女が県立宮古病院に勤務しようとした事件を巡り、達増拓也知事は10日の定例会見で「医師免許がない人が働くことはあってはならないが、食い止めるチェック機能は働いた」と述べ、県医療局や病院側に問題はなかったとする見解を示した。

 さらに「相手の意向に沿う形でしか交渉できず、今回のようなリスクもやむを得ない」と説明した。

医師不足問題については「全国的に公的に(医師の偏在を)是正する仕組みが必要だ。早く実現するよう政府への働き掛けを強めたい」と語った。また、事件については「県民の期待が裏切られ、非常に残念だ。憤りを感じている」と述べた。【山口圭一】


いやいやいや、自分らの対応のまずさを棚にあげて「問題はなかった」なんて安易な総括をする一方で、さらっとこんなことになるから医師強制配置論実現を政府に迫らなければ!なんて、一体どの面下げて言っているのかという話ですけれども、この場合はさすがに憤りを感じるならまず自分たちの間抜けさ加減に対してであるべきではないんですかね?
逆にここまで抜け穴だらけのずさんな対応をしてきてこれが当たり前のことをやった、何ら問題はなかったと総括されるというのであれば、現行のシステム自体が幾らでも無駄金使い放題を許容しているということになってしまいますけれども、こんな低レベルの相手に毎回200万以上も無駄金を使い込んで平然としていられるほど岩手県の財政も裕福であるとも思えないのですがどうでしょうか?

岩手県立宮古病院、実は意外に斜め上だった(らしい)真相(2010年5月12日 (水))」(ぐり研ブログ

ことほど左様に手続というのは重要であって、それをおろそかにすると大変な問題とされるのですが、石巻の事件で助成金を100万円不正に受け取ったらしい容疑者に対して、東京の音楽家の方は「心情を推し測った」そうで、なんて寛容なのだろうと羨ましくもなりますね。
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2011年08月16日 (火) | Edit |
ちょっと前の記事になってしまいましたが、例の「御用○○」についてYosyanさんのところで興味深い指摘がありました。まずは大辞泉の定義を引いて

 「論」てほどたいそうなものではなく、どっちかと言うか感想とか雑感みたいなものです。御用学者の定義は比較的明瞭で、これは大辞泉からですが、

時の政府・権力者などに迎合して、それに都合のよい説を唱える学者。


 これは実感とも合います。ただ注意は必要と感じています。ある問題に対する学説は、それこそ学者ごとにあるとしても良いぐらいです。人と少しでも違う学説を立てる事こそ学者である存在価値としても良いかと思っています。誰かの学説に完全服従してしまったら、それはもう学者とは言えません。もちろん大きな学説の支持グループは形成されますが、その中でも小異を懸命に立てるのが学者だと思っています。
 テンコモリある学説ですから、その学説が「政府・権力者」に同じか非常に近い時もありえます。逆に「政府・権力者」が学説を全面的に取り上げる事もあります。「政府・権力者」の主張を支持したからと言って、それで御用学者であると言うのは慎みたいところです。そんな扱いをすれば、いかなる学者の学説でも「政府・権力者」が取り上げた途端に御用学者になってしまいます。

御用学者論(2011-08-09)」(新小児科医のつぶやき
※ 以下、強調は引用者による。

と、単純に「政府・権力者」の主張を支持したことをもって「御用学者」とするのは慎重であるべきと指摘されます。この点は、以前拙ブログでも指摘したことがありますが、

それはそうとして、かみぽこ氏の事実誤認かよく分かりませんが、

具体的には、官僚の設定する「議題」に
「お墨付き」を与える役割を果たしている

「御用学者」

を審議会から一掃することだ。

そして、政治学・経済学などの
最先端の研究に携わる、
海外の大学での
PhD(博士号)取得者などを
審議会に送り込む
ことである。
「同上」
※ 強調は引用者による。


とかいいながら、

民主党は、既に昨年の
日銀正副総裁人事において、
小泉改革にかかわった
「御用学者」の
副総裁への起用案に
不同意している

「同上」
※ 強調は引用者による。


だそうですが、民主党が不同意した伊藤隆敏先生はハーバード大でPh.Dを取得されていますよ(Wikipedia:伊藤隆敏)。それとも、一回でも政府の審議会などに参加してしまったら「御用学者」と呼ばれるというのであれば、定義により審議会には「御用学者」しかいなくなってしまいますけどね(5/18追記:ついでに、伊藤先生は小泉内閣での諮問会議議員ではなく安倍内閣になってから任命されたので、「小泉改革にかかわった」というのも厳密には間違いですね)。

まあかみぽこ氏ご自身がPh.Dを取得されているからこそのご発言であるように思いますが、そのような「圧力」は「政治主導」の下では肯定されるのでしょうかねえ。

官僚支配っていつの話でしょうか(2009年05月17日 (日))
※ 以下、赤字強調は引用時。

かみぽこ氏の論理によれば、霞ヶ関・日銀・地方公務員が諸悪の根源らしいこのご時世では、政府の審議会なんぞに呼ばれた時点で「御用学者」のそしりは免れなさそうで、それでも敢えてその要請に応えている諸先生方には頭の下がる思いです。この辺はあまり実りのある議論の余地はなさそうですし、Yosyanさんもそこから議論を進めて、独自に「御用学者」を定義されます。

私が考える御用学者の定義は、

自分の考え、信念を横に置いて、「政府・権力者」の意見に付和雷同する学者

こういう御用学者が批判されるのは、「政府・権力者」の手助けをして、自分の利益を図っている点もあるでしょうが、それよりも学者として自分の意見を曲げている点と私は考えています。真の学者であれば、たとえ世界中を敵に回しても自分の学説を堂々と主張し続けるはずです。そこまでは言いすぎでも、自分が正しいと信じる限り、これを曲げるような意見決定に関与するのを避けようとすはずです。

御用学者はそうではなく、むしろ積極的に「政府・権力者」の意見に迎合します。こういう学者は学者としての本分を売り渡しているわけですから、その報いとして御用学者のレッテルを貼り付けられるのだと考えています。ただかなりの蔑称ですから、貼り付ける時には少しでも慎重でありたいものです。

御用学者論(2011-08-09)」(新小児科医のつぶやき

Yosyan 2011/08/09 09:05
京都の小児科医様

 >自分の考え・信念をもって、「政府・権力者」の意見に付和雷同する学者もおられると思います。


付和雷同とは「一定の主義・主張がなく、安易に他の説に賛成すること」であり、付和雷同する事と「考え・信念をもって」は並立し難い概念と私は考えております。この辺は言い出せばキリが無いのですが、今日はそういう意味で付和雷同を使ったつもりです。


私もYosyanさんの定義は概ね妥当なものと考えるところですが、コメント欄には拙ブログで引用したかみぽこ氏と同じ主張をされる方もいらっしゃいますし、Yosyanさんの関係する医療方面の審議会はもしかするとそのような実態があるのかもしれません。ただし、特に労働政策審議会のような労働政策を審議する審議会は、ILOの三者構成原則に基づいて公益側、労働者側、使用者側の三者の代表により政策が審議されていて、「公」の立場から参加される学者の方々がすべて「御用学者」であると断じるのはあまりに乱暴ではないかと思います。政府の審議会に呼ばれたとしても、「自分の考え、信念を横に置いて、「政府・権力者」の意見に付和雷同する学者」であることが明らかである場合を除いては、安易に「御用学者」とレッテルを貼ることは慎むべきではないかと思います。

まあ、もちろん、ご自身が時の政治家に都合のいい説を供給すると明言されている場合は除きますが。

もちろん、高橋洋一氏は官僚としてのキャリアを積まれていて、

私はテクノクラートなんです。政治家から「こういうことをしたいんだけど」と言われたら、要望を聞いてベストなプランを作り、法案まで書いてあげる。でも、そこまで。そこから先は政治家の仕事。政治決定にまで官僚が首を突っ込むべきではないというのが私の考えです。
政治家にしてみれば、したいことを言えば、ポッと政策が出てくるんだから便利だったと思います。おかげで「ドラえもん」と呼ばれることもありました。
「同」
※強調は引用者による。


というスタンスの方なので、高橋洋一氏は政治家からの要望とそれに対するプランの提示という「現実」に日々接してこられた方ですから、塾講師をされていた小島先生が接してこられた「現実」とは相容れないのかもしれません。

数学と現実(2009年01月06日 (火))

こう明言されている方が現在は某大学で教授職に就いていらっしゃって、その肩書きをかざしながら官僚時代に政治家の要望に添って作成したとおぼしき自説を振り回していらっしゃるのは、「御用・・」いやいや、安易にレッテルを貼ることは慎みたいと思います。
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2011年08月12日 (金) | Edit |
日付が変わってしまいましたが、昨日で震災から5か月が経過して、すっかりお盆モード突入です。私自身はごく普通の無宗教な日本人ですので、「先祖の精霊を迎え追善の供養をする期間」と大上段に構えるでもなく、昨年亡くなった叔父さんをはじめ先祖のお墓参りをして、親族と久しぶりに会おうと思っています。ただ、隣県で被災した親族には会えなさそうですし、当地での今年のお盆は特別なものになります。

遺体なき葬儀「初盆前に」被災地で次々…岩手(2011年8月10日 読売新聞)

 東日本大震災の被災地で、遺体のない葬儀が相次いで執り行われるようになった。

 「せめて初盆前にきちんと供養したい」と、行方不明のままの身内の死亡届を出し、葬儀をあげる遺族が増えているためだ。「死を受け入れたくない」という気持ちを抑え、区切りをつけるための苦渋の選択だ。

 「生きているかもと諦めきれず、歩いて探し回った。でも、生きている自分たちの区切りにと決心し、お盆までに葬儀をあげたかった」

 岩手県大槌町の川崎広さん(54)は7月12日、遺体が見つからない母親のセツさん(当時75歳)、義理の妹の恵美子さん(同41歳)の死亡届を出し、8月7日に葬儀をあげた。

 2人は自宅で津波に襲われ、いまだに遺体も遺品も見つかっていない。「どこかに出かけているだけのような気がして。死亡届を出したら二度と会えないと認めるようでつらかった」。ずっと死亡届の提出をためらってきたが、弟の広次さん(51)らと話し合い、初盆を前に供養することにした。「俺らも前に進めん。母ちゃんたちもそうかもしれん」

 葬儀でまつられたセツさんの遺影は、広次さんの結婚式の時の写真だ。葬儀の後、穏やかにほほ笑んだ遺影と位牌(いはい)を抱いて静かに話した。「これで、一歩は進めた気がします」

 震災で行方不明になって3か月を過ぎた被災者については、自治体が家族からの死亡届を受理し、法的に死者とする措置が取られている。大槌町は7月1日から死亡認定の受け付けを始め、8月6日現在で434人が受理された。

 町内の大念寺や江岸寺では7月中旬頃になり、それまでほとんどなかった行方不明者の葬儀が全体の半分ほどを占めるようになった。死亡届を出さずに葬儀だけあげる遺族もいる。

 大念寺の大萱生(おおがゆう)修一副住職(52)は「初盆で心の整理をしたいと葬儀をあげる人もいれば、どこかで生きているのではと引っかかり、ためらう人もいる。あの日をじっくり受け入れていけばいい」と話した。

※ 強調は引用者による。


この住職がおっしゃるとおり、被災して家族を失い身も心も傷ついた方々は、いつかは区切りをつけるためにも、じっくりと現実と向き合って受け入れていくしかありません。このお盆には、私も震災で亡くなられた方の冥福を祈って合掌したいと思います。
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2011年08月08日 (月) | Edit |
あまりこの件を取り上げるのは気が進まないのですが、

東海テレビ不適切テロップ、3日間で抗議1万件

東海テレビ放送(名古屋市)が4日に放送した情報番組「ぴーかんテレビ」で、岩手県産米のプレゼント当選者について不適切なテロップを誤って流した問題で、同社に6日夜までに寄せられた抗議の電話やメールが1万件を超えた。

 同社によると、6日は電話が午後6時までで約260件、メールが同9時までで約1600通に上った。放送日からの3日間では、電話約1300件、メール約9000通に達した。多くが岩手県など東北地方からで、抗議や関係者の厳正な処分を求める内容がほとんどという。

 同社は5日夕の特別番組で、問題の経緯を公表し、謝罪したが、愛知、岐阜、三重県の放送エリアだけだったため、6日夜、特別番組の概要と、岩手県庁などを役員が訪問して謝罪したことを同社のホームページに掲載した。
(2011年8月6日23時33分 読売新聞)
※ 以下、強調は引用者による。


で、「同社のホームページ」に「事実関係のご報告」というのが掲載されています。

1)なぜ常識を欠いた不謹慎なテロップが放送現場に存在したのか?

  • 問題のテロップは・・・
  •  [1]CG制作を担当する50代の男性スタッフにより作成された。
     [2]CG制作担当者が、実際に当選者の名前を記入する前の仮のものとして「ふざけた気持ち」で作成してしまったものだった。
     [3]CG制作担当者に渡す発注書には、不謹慎な文言は記載されていなかった。
  • 8月3日(水)(=放送前日)にテロップ画面をタイムキーパー(以下TK)が確認、その場で訂正を依頼した。しかし、CG制作担当者はそれを訂正の依頼と認識せず、そのまま放置した。
  • 8月4日(木)(=放送当日)朝、TKが問題のテロップを再度確認し、改めて訂正を依頼したが、CG制作担当者はこの時点でも「訂正の依頼と認識せず」放置した。
  • 「訂正」を巡るスタッフ間の理解の食い違い、テロップをチェックすることになっているディレクターに、問題のテロップの存在が伝わらなかったことで、チェック機能が働かなかったという管理体制の甘さにより、常識を欠いた不謹慎なテロップが、放送の最終段階まで残ることになってしまった。


【お詫び】「ぴーかんテレビ」内での不適切な表現の放送について」(東海テレビ放送株式会社

「怪しいお米 セシウムさん」という意味不明な文章が「ふざけた気持ち」で書かれたのであれば、「ふざけんな!」というだけで済むだけかもしれませんが、そういう「気持ち」の方がむしろ本音ではなかったのではないかと勘ぐってしまいます。つまり、ごく一部ではあっても、その「気持ち」が視聴者の本音を衝いてしまったために、こうした騒動になってしまう面もあるのではないかと。もし、本当に「ふざけた気持ち」だけだったのであれば、こんな風評被害なんかは起きなかったはずです。

被災の松使う「送り火」取りやめ 放射性物質に不安の声2011.8.6 14:06 MNS産経ニュース

 京都市で16日に行われる「五山送り火」の一つ「大文字」の護摩木として、東日本大震災の津波で流された岩手県陸前高田市の松を使う計画が、放射性物質の汚染を不安視する声を受け、取りやめになったことが6日、関係者への取材で分かった。

 大文字保存会は京都に松を運ばず、陸前高田市で迎え火として使う方向。代わりに、遺族が祈りの言葉などを書き込んだ松の護摩木を写真撮影して別の木に書き写し、大文字で燃やすよう調整している。

 京都市文化財保護課や同保存会によると、報道などで知った市民から7月に入り、「放射能汚染が心配」などの声が寄せられた。松から放射性物質は検出されなかったが、保存会は議論の末、8月に入って取りやめを決めた。

はてなブックマーク - 【放射能漏れ】被災の松使う「送り火」取りやめ 放射性物質に不安の声 - MSN産経ニュース

aliaki
発案者の人のブログhttp://huji.hinamaturi.lolipop.jp/?eid=1437065 によると相当ひどい誹謗中傷がよせられたようで… 彼らにとっては東日本全体が’穢れ’なんでしょーね。 2011/08/06


こうした反応が広がっているのは、福島県を「フクシマ」などと記述して放射性物質の危険性を必要以上に煽りまくったマスコミや、それに乗じて自説を展開しようとする評論家や一部の学者連中が、被災地を「穢れ」たものとして認識する国民感情を醸成したからではないでしょうか。東海テレビのスタッフも、そういう認識が広がる中で生活していたからこそ「怪しいお米 セシウムさん」などと常軌を逸した言葉を思いついてしまうのでしょうし、CG製作担当者が「それを訂正の依頼と認識」しなかったような指示しか出さなかったタイムキーパーも同じ認識だったのだろうと邪推します。

東海テレビや保存会の方が謝るのは分からないではないんですが、彼らもそうした「圧力」や「利害関係」の中で活動しているわけですから、ここで問題になるのはその「圧力」や「利害関係」の中身なのだろうと思います。危機を煽って冷静な判断を奪っている何者かが、マスコミやネット界隈には数多く徘徊しているように思います。東海テレビのスタッフや保存の会に苦情を寄せる市民がそういう行動をとってしまうような認識を広めた方々にこそ、被災地の方々に謝っていただきたいのですけれどもね。
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2011年08月07日 (日) | Edit |
最近は現地の動きが個別具体的になってきてしまったので、匿名ブログとしては見聞きしたことをそのまま書くわけにいかないのが苦しいところですが、先日報道で取り上げられた取組がありましたので備忘録的にメモしておきます。

大船渡の仮設団地 北上市が支援員配置…岩手

困り事相談、清掃 沿岸自治体手助け
 岩手県北上市は、沿岸地域の仮設住宅団地の運営を支援する事業を始める。

 大船渡市の仮設住宅団地など39か所に支援員を配置し、困りごとや要望の連絡相談、清掃や除雪、コミュニティーづくりなどを行う。自治体がほかの自治体で事業を実施するのは極めて珍しい。北上市は「被災者支援になるとともに、被災自治体に余力が生まれて復興、前進につながる」と意図を説明する。

 北上市は、県の緊急雇用創出事業を利用して支援員約70人を現地で新規雇用し、団地の規模に応じて1~3人配置する。支援員は談話室や集会所などに常駐し、行政情報の発信や困りごと・要望などの連絡相談、交流イベントやサロンの開設などを行う。総事業費は1億7800万円。

 市沿岸地域被災者支援プロジェクトチームの小原学班長によると、県やNPOとの話し合いの中で、沿岸自治体の職員が通常業務に加えて震災復興に伴う仕事があり、手いっぱいの状態だという話が出たのがきっかけ。「北上市が、仮設住宅団地の運営の一部を肩代わりできれば、沿岸自治体職員の負担を減らせる」「県の緊急雇用創出事業を使えば、被災地に雇用が生まれる」と具体化した。

 北上市では委託先を8月3日まで公募、支援員の配置は9月1日~来年3月末になる予定。小原班長は「大船渡市と連絡をとりながら、被災者のコミュニティーづくりや生活課題の解決を手助けしたい。支援員には、高齢者や主婦らを考えている」という。

 一方、支援を受ける大船渡市では7月中に仮設住宅がすべて完成し、8月中旬には入居できる予定。同市都市計画課は「震災復興で次から次に仕事があり、職員の手が足りないのが実情。北上市の申し出はとてもありがたいし、地元の雇用にもつながるので助かる」としている。

(2011年7月27日 読売新聞)
※ 以下、強調は引用者による。


これがCash for Work(CFW)の動きの具体例となっていまして、記事によれば、被災された方々に雇用の機会を提供すると同時に、被災した沿岸市町村の行政機能を側面から支援する役割も持っていとのことです。雇用の場そのものが流されて、役場も流されてしまっている被災地では、いくら政府が「緊急雇用創出事業で雇用を確保」なんていっても、肝心の役場に事業化する事務体制が大きく損なわれていますし、そもそも事業を予算化するためには事業の実現可能性を含めて議会に説明しなければならず、雇用する場がないのにどうやって実施するのかという点を説明しきれずに予算化を断念するというのもよくある話です。そうした状況からすれば、雇用する場を仮設住宅に求め、被災した市町村役場に代わって近隣市町村がその事務を代行し、おそらく事業実施主体も被災市町村以外から選定することになるというこの取組は、被災地自治体にとっては朗報となるでしょう。

しかし、どんな取組にもメリットとデメリットがあるもので、仮設住宅に自治組織があった場合に、支援員の業務をどこまでとするかという線引きが難しくなります。これは、支援員の賃金をどの水準とするかにも関係します。被災前に雇用保険の被保険者だった方は、実質的に失業状態にあれば失業給付(基本手当)を受給することができますので、失業給付よりも低い賃金では働くインセンティブがありません。実際に、被災地のハローワークでは失業認定の日は混雑していても検索機には人がまばらという状況で、緊急雇用創出事業求人はおろか一般の求人でも、数か月求人を出しっぱなしで応募がないということはざらにあります。

したがって、賃金水準と失業給付のバランスと、それを決定する業務内容をどうするかという点をクリアにしていく必要があると思われます。といっても、仮設住宅の支援員を失業給付以上の賃金水準とすると、元々自治組織でボランティアで動いていた方とのバランスが難しくなります。さらにいえば、仮設住宅に入った方にはそうして支援策が講じられるにもかかわらず、地震の直接の被害がなかった地区の住民は後回しになっています。沿岸部で津波の被害を受けなかった地区というのは、水産業や製造業といった産業基盤のない中山間地域であって、そもそも買い物が困難だったり医療・介護施設の不足した地域だったわけで、震災への対応が優先されてしまうとその状況はさらに悪化してしまうことになります。仮設住宅では人件費をかけて支援員を置いてケアをする一方で、中山間地域は震災前よりも悪化した状況の中で支援策が講じられないという事態になりかねず、住民同士の利害が対立してしまうことが懸念されます。

要すれば、拙ブログでもしつこく指摘しているとおり、所得再分配の現物給付が絶対的に不足しているこの国で、被災自治体が震災復興にそのリソースをつぎ込めば、直接被害を受けなかった地域はより厳しい状況に置かれることとなります。となると、結局「復興」とはどういう状態を指すのか?という問題に立ち返ってしまうわけで、もともと過疎化が進んで公共サービスが貧弱だった地域にどれだけの水準の公共サービスを提供するのかが問われているわけです。

まあ、この点を真剣に考えなくて済むマジックワードが、チホーブンケンやらチーキシュケンで「地元が決めれば皆ハッピー」というお気楽なスローガンでもありますが、そのスローガンが好きな方に限って、全国で納められた税金や中央政府が発行する国債を当てにして「使い勝手のいい交付金」を求めるという、理解しがたい矛盾を平気で主張されるわけで、そりゃもちろん、地域で必要な財源をいくらでもくれるなら「使い勝手のいい交付金」かもしれませんが、足りるかどうかも分からない財源を交付して、「後は地元でよろしく」なんてのは、地元の利害調整の現場でもみくちゃになりながら仕事をしている自治体職員からすれば使い勝手が悪いことこの上ないはずです。

その結果が、たとえばこれです。

焦点/自治体職員の病気休暇増加(2011年08月01日月曜日 河北新報)

 東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた岩手、宮城、福島3県の自治体で、病気休暇を取得した職員が増加傾向にあることが31日、河北新報社の調べで分かった。震災に伴う業務量の増加や仕事へのストレスなどが、体調を崩す要因とみられる。

◎激務、心身に負担/石巻4割増

<PTSD発症>
 震災による死者が100人を超す主な21市町を対象に調査した。4月から6月までの3カ月間に、何らかの理由で病気休暇の取得を申請した職員の延べ人数は表の通り。
 前年同期より取得者が「増えた」と答えた自治体は10市町で、ほぼ半数を占めた。「減った」は5市町、「同数」は2市町だった。岩手県大槌町など4市町は、庁舎が津波にのまれてデータ自体が流失し、比較ができなかった。
 「増えた」と回答した自治体の多くで、震災による心的外傷後ストレス障害(PTSD)や、業務の負担増による過労などを理由に挙げた
 宮古市で病気休暇を取得した4人はすべて、PTSDやうつ病、過労による休暇だった。昨年より4割増となった石巻市でも、震災が直接の原因でPTSD、うつ病を抱えた職員が数人いた。
 前年比減少か、横ばいだった自治体も、多くは「業務が落ち着いたころに疲れが出てくるのではないか」と懸念を抱いている。

(略)

◎対策乗り出す各自治体/釜石、問診票配り面接

 自治体職員の疲労感が増すに従い、被災地の市町も対策に乗り出している。
 病気休暇の取得者数が前年比で4割も増加した石巻市は6月、約80人の管理職を対象に、メンタルヘルス研修を兼ねた面談を始めた。
 「家族が行方不明になった部下もいたが、家族を捜しに行かせてやれなかった」「通院しながら職務を続けている職員もいる」
 3人の管理職とL字型に向き合い言葉を交わすのは、東北大大学院教育学研究科(臨床心理学)の若島孔文准教授。現場の職員たちへのケア方法を伝えるとともに、自身が抱える問題についても話し合った。
 若島准教授は「災害時の行政職員の職務は、救助や捜索を担う自衛隊などとは異なり、住民の否定的な反応を受けやすい。その分、精神的負担も大きくなってしまう」と説明する。
 その上で「心と体の疲れは連動している。長丁場となる災害業務では週2日の休みを徹底させることが肝心」と訴える。


長丁場だからこそ平時のプロフェッショナルの兵站が必要だということは拙ブログでも指摘しておりましたが、現実はやはりそう簡単にはいかないわけで、こうした問題はこれからも正面から対処していかなくてはなりません。もしかすると、公務員の人件費は削るべきでムダな公務員なんか辞めさせろと常々主張されている方々にとっては、どんな形であれ被災地の公務員が減っていくことは望ましいのかもしれませんが、それで日常生活に支障が出るのは被災地の住民生活であるという現実もお忘れなきよう。ついでにいえば、被災地の住民生活は日本という国の経済社会システムの一部であって、東京電力が福島に原発を設置していたことに象徴されるように、その地域が機能しなくなることは日本の経済社会システムにとっても少なからず影響があることにもご留意ください。
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2011年08月03日 (水) | Edit |
前回エントリで取り上げた雇用関係以外にも、個別の政策分野はそれぞれの立場からの評価があると思いますが、それらすべての政策を実現するための財源については、相変わらず増税か反増税かという単純な議論が繰り広げられています。誰からとるか、いくらとるかも大事ですが、それを誰に配分するのか、現金・現物をどれだけ配分するのかも同じくらい大事です。増税か反増税かで議論する方々の視界からは後者の論点がすっぽり抜け落ちているようで、まあ、おそらく後者の論点を言い出したら、国民負担率が先進国でも最低水準にあって、先進国並みの所得再分配が行われていない実態を正面から論じなければなりませんから、その点には言及したくてもできないのでしょうね。

実をいえば、私自身も以前は単純に考えていたんですが、橋本内閣で消費税率をアップしたことがその後の不況の要因であるとの主張があります。しかし、過去30年程度の租税負担率の推移を見てみましょう。

国民負担率(対国民所得比)の推移」(財務省)

すると、好景気のときに負担率が上がっていて、不景気のときには負担率が上がっていて、累進課税によるビルドインスタビライザーが教科書どおりに機能しているとみることができます。逆にいえば、累進率が引き下げられた1990年代半ば以降はビルドインスタビライザーの機能は低下していて、2007年までの景気回復期でもバブル期の1990年に記録した27.7%には及ばない24.5%に留まっています。

つまり、租税負担率は長期トレンドで低下傾向にあるわけで、一方、社会保障負担率は一貫して上昇しています。これらを合わせた国民負担率は、1990年にいったん38.4%とピークを迎えた以降1994年まで低下し、その後増減を繰り返しながら長期トレンドで上昇して、福田-麻生内閣時に40.6%とピークを迎えます。ここで民主党政権に移行して、2011年は再び1990年とほぼ同水準の38.8%となり、晴れてOECDで下から7番目の低負担率の国となっているわけです。

えーと、これをもって「増税が不況を招く」という主張はどのように解釈すればよいのでしょうか。社会保障負担率が一貫して上昇しているのは、その給付である社会保障支出が一貫して上昇していることを担保しているので、原則的に景気には中立と考えられます。ただし、厳密には、保険料収入の上昇より給付の上昇の方が多く、その不足分を一般会計で借入をして繰り入れているので、税収を通じて景気にも影響があります。租税負担率は上記のとおりビルドインスタビライザーとして機能しているようですし、教科書的には「租税負担率は景気安定効果を発揮している」といえそうですが、浅学な私には「橋本内閣の消費税率アップで不況を招いた」とか「増税すれば震災不況だ」という主張がどう説明されるものかよくわかりません。偉い経済学者の方に解説をお願いしたいところです。

もっといえば、バブル景気まっただ中の1988年に消費税が導入されましたがネットでは減税となり、その後3年間日本経済はバブル景気が持続しました。一方1997年の消費税率アップの際は、アジア通貨危機を反映して租税負担率はむしろ低下しており、これは、村山内閣時に先行減税が行われていたので、税収は中立だった上にビルドインスタビライザーが機能したからではないかと。

1 消費税の導入


 大平内閣(昭和53年-昭和55年)の「一般消費税」構想や、中曽根内閣(昭和57年-昭和62年)の「売上税」構想の挫折を経て、竹下内閣(昭和62年-平成元年)は、消費税の導入を政権最大の課題とした。昭和63年12月、「消費税法」(昭和63年法律第108号)が「税制改革6法」の1つとして成立し、平成元年4月に、税率を3%とする消費税が導入された3。消費税は、ほとんど全ての国内取引(商品とサービス)と外国貨物に課税される4。消費に対して広く薄く負担を求めることで、所得課税中心の戦後税体系を見直す端緒が開かれた。
 消費税の導入にあたっては、所得税、法人税等の大幅な減税が実施されたため、ネットでは2.6兆円の減税となった5。しかし、食料品などの生活必需品を含めて一律に課税される点や低所得者層の負担が重い「逆進性」への反発は大きかった。
事業者の納税事務負担を軽減するための諸制度(帳簿方式、事業者免税点制度、簡易課税制度、限界控除制度)は、新税の円滑な導入に役立った。しかし、零細・中小事業者への手厚い措置は、消費税の一部が事業者の手元に残るとされる「益税」への批判を招いた。
(略)


3 平成9年の税率引き上げ


(略)
 日本社会党委員長を首班とする自社さ連立政権である村山内閣(平成6年-平成8年)は、所得税を減税して消費税率を引き上げる「所得税法及び消費税法の一部を改正する法律」(平成6年法律第109号)を、平成6年11月、第130回国会で成立させた。所得税は、累進構造が緩和され、人的控除の見直しによって課税最低限度が引き上げられた。消費税は、新たに導入した地方消費税を含めて5%(国4%、地方1%9)に税率が引き上げられ、益税批判に対処するため、中小事業者への特例措置が大幅に縮減された(巻末別表A)。具体的には、① 限界控除制度の廃止、② 事業者免税点制度の範囲縮小、③ 簡易課税制度対象の縮小と精緻化が実施された。また、事業者の運用益を更に抑制するため、年4回の申告納税が必要となる事業者の範囲が拡大された。
 所得減税は平成7年度から実施される一方、消費税率の引き上げを含む消費税法改正の施行は、平成9年4月となった。この改正では、先行する減税と社会保障支出の増加によって、国民負担はほとんど変化しなかった10。なお、税率については、平成8年9月までの検討条項が設けられており、平成8年6月、橋本内閣(平成8年-平成10年)は、法定された5%(国4%、地方1%)での実施を閣議決定した。


3 消費税の導入と改正については、竹下登・平野貞夫監修『消費税制度成立の沿革』ぎょうせい,1993, pp.299-449;森信茂樹『日本の消費税』清文社,2000,pp.29-92;渡辺裕泰「消費税法の沿革と改革上の諸課題」『租税法研究-消費税の諸問題-』34号,2006.6,pp.81-101.などを参照した。
4 税の性格上非課税とされた金融・不動産取引と、政策的配慮から非課税とされた医療・福祉・教育の一部を除く、ほぼ全ての取引が課税対象となった。
5 所得税(3.3兆円)、法人税(1.8兆円)、相続税(0.7兆円)、個別間接税の調整(3.4兆円)の減税合計は9.2兆円に及び、消費税の導入(5.4兆円)と課税の適正化(1.2兆円)の合計は6.6兆円に過ぎなかったことから、ネットでは2.6兆円の減税となった。
(略)
9 厳密には、地方消費税の税率は、国の消費税率の25%とされている(地方税法第72条83)。税率3%の導入当初は、全て国税とされ、25%相当が消費譲与税として地方へ移転されていた。
10 所得税・個人住民税(3.5兆円)、相続税(0.3兆円)、社会保障支出の増加(0.5兆円)で、減税・受益の合計は4.3兆円。消費税率の引き上げ(4.1兆円)と消費税の課税強化(0.3兆円)の合計は4.4兆円。


「消費税を巡る議論」国立国会図書館 ISSUE BRIEF NUMBER 609(2008.2.28.)(注:pdfファイルです)2ページ


つまりは、これまでネットでの税収の長期的トレンドはほぼ一貫して低下し続けていたわけで、「増税」といえる増税はこれまではなかったといえそうです。それでもオリンピック後の不況、2次にわたるオイルショック、バブルの崩壊、リーマンショックと不況は繰り返されていて、増税なんかよりもっとほかの要因を気にした方がよさそうな気がします。

こうした歴史的経緯には一切触れずに増税を「財務省の陰謀」とかいう方もいらっしゃいますが、その税収でより豊かな暮らしを享受できるのは低所得者層だったり、その方々に社会保障の現物給付を行う公的セクター(私もその一員です)や医療・福祉分野に従事する労働者なんですね。高橋洋一氏もその機能を認める「官庁内閣制」(行政学的には「官庁内閣制」というより「省庁代表制」の方がこの趣旨に合いそうです)の下では、これらすべての関係者も財務省の陰謀に荷担しているというのでしょうね。それならそれで、おおっぴらに財務省に肩入れしましょう。税収増の恩恵を受ける低所得者層や社会保障の現物給付を行う労働者がおおっぴらに支持すると、もはや陰謀論ではなくなってしまいますが。

まあ、最近は陰謀論に限界を感じたのか一部では「御用一般人」といういい方もされているようですが、それぞれに立場があって生活している普通の国民を指していうのであれば、その言語センスにはついていけそうもありません。普通の言葉で言えばそれぞれの立場にあるただの利害関係者が主張しているだけであって、それを調整するのが政治や行政の役割なのだろうと思いますが、昨今の政治状況ではそれがすっ飛ばされる傾向にあります。そうした中で利害も関係なく主張している方ももちろんいますが、それは政権奪取戦略によって合理的無知をエクスプロイトされた被害者ともいえそうです。それを「御用一般人」などと蔑視するのは、政権奪取戦略に勝らずとも劣らないこうとうせんりゃくですね(棒読み)
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2011年08月03日 (水) | Edit |
さて、前回エントリで骨子案を取り上げた基本方針が決定したとのことで、骨子案と比較してみました。

②雇用対策
()被災地におけるきめ細やかな雇用対策の実施により、仕事を通じて被災者の生活の安定を図り、被災地の復興を支えることが重要である。このため、復旧・復興事業等による確実な雇用創出、被災した方々の新たな就職に向けた支援、雇用の維持・生活の安定を政府を挙げて進める「「日本はひとつ」しごとプロジェクト」を推進する。
また、新たな雇用機会創出のため、雇用創出基金を活用するとともに、被災地域の本格的な雇用復興を図るため、産業政策と一体となった雇用面での支援を実施する。
さらに、雇用対策をより効果的なものとするとともに、復旧・復興事業における適正な労働条件の確保や労働災害の防止等のため、被災地域におけるハローワーク等の機能・体制の強化等を行う。
()被災地域における人口減少・少子高齢化に対応するため、第一次産業等の生涯現役で年齢にかかわりなく働き続けられる雇用や就労のシステムを活用した全員参加型・世代継承型の先導的な雇用復興、兼業による安定的な就労を通じた所得機会の確保等を支援する。若者・女性・高齢者・障害者を含む雇用機会を被災地域で確保する。
()女性の起業活動等の取組みを支援するため、被災地におけるコミュニティビジネスの立ち上げの支援、農山漁村女性に対する食品加工や都市と農山漁村の交流ビジネス等の起業化の相談活動、経営ノウハウ習得のための研修等の取組みを支援する。
()被災地の人口構造や職業構造の特性に留意し、個人事業者や商店等の復興による雇用を目指す。

東日本大震災からの復興の基本方針(平成23年7月29日、pdfファイルです)」(東日本大震災復興対策本部)pp.12-13
注:以下、機種依存文字をそのまま引用しています。

骨子案になかったものとして、()と()が追加されているようですが、これって雇用対策なのかなという疑問はなきにしもあらず。またぞろ「コミュニティビジネス」とかいって希少資源の付加価値を高めて利潤を稼ぎなさいとおっしゃるようですが、希少資源が広く分布しない以上成功例はごく限られるわけで、それでもって雇用が生み出されるというのは、一部の成功例を強調してその他の失敗例をなかったことにするナントカ商法の匂いを感じてしまうのですが、まあ、現政権はもともとそういうところですから。
さらには、あれだけハローワークを余剰人員扱いして民間でもできると騒いでいたのがウソのように「被災地域におけるハローワーク等の機能・体制の強化等を行う」という文言が最後まで残ったようです。もともと被災地のハローワークは、平成18年6月30日閣議決定:「国の行政機関の定員の純減について」に基づいて粛々と統廃合・人員削減が進められていましたから、「被災地における」と限定しているところがミソなのでしょう。まずは先進国でももっとも貧弱な積極的労働市場政策が見直されたことは喜ばしいのですが、もちろん公務員人件費が諸悪の根源とされる昨今で正職員が増えるわけはありませんから、非常勤職員や臨時職員という官製ワーキングプアの方が増えてしまうのだろうと懸念されるところです。

それにしても、()は具体的に何をしようとしているのかさっぱりわかりません。「全員参加型・世代継承型の先導的な雇用復興」とか「兼業による安定的な就労」ってどこを縦読み?

さらに、あれ?職業訓練がなくなっている?・・・と思ったら、職業訓練は次の「教育の振興」を挟んで次の項目で取り上げられています。

④復興を支える人材の育成
()被災地における当面の復旧事業に係る人材のニーズや、震災後の産業構造を踏まえ、介護や環境・エネルギー、観光分野等の成長分野における職業訓練の実施や、訓練定員の拡充、産業創出を担う人材の育成等を行う。
()被災地において、グローバル化や産業の高度化など、地域社会・地元産業のニーズに応え、我が国の復興を牽引する人材を育成するため、大学改革を進めるとともに、大学、高等専門学校、専門学校、高等学校等における先進的な教
育の実施や産学官連携の取組みを支援する。
()被災地における地域産業の高度化や新産業分野での専門的人材育成に資する実践的なキャリア・アップの仕組みや育成プログラムの整備等を推進する。

「同」p.14


職業訓練が人材育成に位置づけられたことは、ある意味で学校教育と同様の扱いとなったといえるのかもしれませんが、これまでの職業訓練の扱いを踏まえると微妙な感じもします。オイルショック後の職業訓練は、企業内教育のサポートとして位置づけられながらリーマンショック後に離職者訓練として拡充されていましたが、成長分野や新産業分野の人材育成に結びつけられることで、デンマークなどで行われるモビケーション(職業移動を支援する職業訓練)が制度化される可能性もありそうです。具体的な制度設計に注目してみたいところです。

といっても、被災地の状況は悠長に制度設計など待っていられる状況ではありませんので、会計検査院やらオンブズマンの後出しジャンケンに恐れおののきながら、今ある制度の中でやりくりするしかないのでしょう。そもそも、民意にしか支持基盤を持たない現政権がまともな制度設計を「政治主導」できるかということ自体が、大いに疑問ではありますが。。。
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