2008年11月30日 (日) | Edit |
前々回エントリでも書きましたが、最近は一次データを取り出す以外の目的でテレビの報道番組を見ないことにしているものの、休みの日はついテレビをつけてしまって、今朝の「ウェークアップ!ぷらす」で高橋進氏が「ミニパソコンなどの企業努力で実はモノが買いやすくなっている」とか「良いデフレ論」を論じていたり、さっき見た「開局55年記念番組 タモリ教授のハテナの殿堂?」では占いとかまじめに語ってたりしてて、休みの日なのに暗澹たる気分にさせられます。

で、その裏では「情報7daysニュースキャスター」とかで相変わらずビートたけしが霞ヶ関・官僚叩きに勤しんでいるわけで、今日は石破茂農水相が出演して「食料自給率が向上すればすべてが良くなる」とかいってるんです。

もうね、ワケがわかりません。

マスコミがその無責任な報道なんかを批判されると、「社会の木鐸」とか「国民が政府を監視する必要がある」とかたいそうなことをいって、その批判自体を批判し返す割に、なんで「食料自給率が向上すればすべてが良くなる」とかいう大ボラを批判するどころか賞賛してしまえるんですか?

経産省みたいに、自らの産業政策が存在意義を失ったことを取り繕うために日本を解体したがるのもはた迷惑ですが、農水省の場合は、比較優位を失った「産業としての農業」を安楽死させつつ、「公共財としての農業」をいかに維持するかという自らの使命を否定しようとするからタチが悪い。農業と一口に言っても、保水機能やら景観美化やらの環境保全機能と、そこから得られる果実を市場において取引するための生産機能とがあって、それらを一緒くたに論じることはできません。身も蓋もなくいってしまえば、フリーライドによって過小供給に陥る「公共財としての農業」を、比較優位を失った「産業としての農業」で維持することはできないわけです。

結局、「公共財としての農業」を維持するために外部性を内部化すると割り切ることができれば、補助金を与えたり関税を高くしたりして「公共財としての農業」を保護するしかないことは明白です。である以上、「産業としての農業」が比較優位を失っているにもかかわらず、そこに「産業としての農業」によるビジネスモデルという幻想を持ち込むのは明らかにミスリーディングでしょう。

もちろん、高級食材への特化(*1)や大規模経営によって農業という産業内での比較優位を作り出すことは可能でしょうが、それは農業という産業自体が比較優位を持つこととはまったく別の話です。「情報7daysニュースキャスター」でも大規模経営で儲かってウハウハのビジネスモデルが紹介されてましたけど、そんな大々的に紹介したらフリーランチはなくなってしまうんじゃないかとこっちがハラハラします。もとより、大規模経営によって生産性を向上させるということは、利益を増やす一方で農業従事者を減らして一人あたりの利益を増加させることにほかなりませんから、農村地帯の過疎はより一層促進されてしまう(*2)んですが、それも食料自給率向上でオールオッケーですかそうですか。

食糧自給率については飯田先生のご指摘がコンパクトにまとまっているので、要点のみ引用させていただきます。詳細は本文をご確認いただければ(というより、悪いこといわないのでこの本は読んでおくべきですね)。

外食で1000円の天ぷらそばを食べたとします。このとき、私たちが購入したのは何でしょう。奇妙な質問かもしれませんが、落ち着いて考えてみてください。そば屋さんに行って、そば粉と冷凍えびと揚げ油を渡されるということはありません-当然ですね。私たちが購入したのは原材料ではなく、完成品としての「天ぷらそば」です。そば屋で天ぷらそばを食べるということは、「店の人が原材料を調理してくれたものを、清潔な店内で食べ、店の人が後片付けをしてくれる」という一連の行為を購入することを意味します。

(略)

天ぷらそばを使って輸入品の多さを説明する授業は、今もなお小学校などでは定番のひとつだそうです。しかし、そのような授業によって、日本の経済活動に占める輸入の割合が非常に高いかのような誤解が生まれているならば、これは問題です。
pp.143-145

ダメな議論―論理思考で見抜く (ちくま新書)ダメな議論―論理思考で見抜く (ちくま新書)
(2006/11)
飯田 泰之

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そういえば、食料自給率が向上しないのは農水省のせいだと批判していた旧自治官僚氏現首相の統括秘書官でしたねえ。


(12月1日追記)
すなふきんさんのエントリにTBされたanhedoniaさんのエントリでの、

でも、日本の農地の広さと、日本人が食に投じるお金には上限があって、今後も減ることはあっても増えることはないのだから、補助金を出すのでなければ所得が増えることはない。
■[農][地方]農業は再生しない(2008-11-30 曇り)」(左思右想


というご指摘は、カロリーベースの食料自給率の矛盾を突くのに有効ですね。
上記の「情報7daysニュースキャスター」でも石破農水相が、

「ご飯一膳食べるだけで食糧自給率が8%上がるんです。ダイエットにもいいし、朝ご飯を食べると成績が良くなる(*3)から、ご飯を食べましょう!」

なんてことを何度も連呼してましたが、それって結局、カロリーベースの食糧自給率が下がったといっても、日本人が日本産の食材よりも外国産の食材を好むようになったことを示しているというだけのことですね。いくら食糧安保のために米を作れって言ったって、日本人がそれを食べないから米も余るしカロリーベースの食糧自給率も低くなっているんでしょ。

現代の日本人の好みに合う食材をすべて国内で賄うなんてことは予算制約上も生産可能フロンティア上も不可能なわけで、だからこそ外国産の食材が輸入されていて、しかもそれはあくまでエンゲル係数の範囲内での代替でしかない。そのエンゲル係数内に占める国産食材のシェアを拡大できたところでそもそも予算制約を超えることはできないし、そういう現状で農業所得が低くなっている農家の一人あたり所得を増やすということが、補助金なしで可能かどうか冷静に考えてみるべきでしょう。

さらに、そうやって先進国である日本との取引によって貴重な外貨を稼いでいる途上国のことを考えれば、「地産地消」なんて鎖国政策を「リベラル」な方々が支持する理由がわかりませんね。




*1 この比較優位は、高所得者の選好を利用していることになるので、総需要の増加による経済成長が前提であることはいうまでもないですね。
*2 個人的には過疎化が進むのはやむをえないと思いますが、自給率向上マンセーの方々は一方では地方分権教だったりするので、理解できません。
*3 これもよく出されるデータですが、朝ご飯をしっかり食べている子供は、規則正しい生活ができる家庭に暮らしている可能性が高く、そのような家庭では教育への投資も大きいだろうと予想されるので、「朝ご飯を食べる」というパラメータは成績と家庭環境の相関を示す代理変数にはなり得ても、それ自体が成績にどれだけ影響しているかはかなり微妙な問題でしょう。

2008年11月25日 (火) | Edit |
すなふきんさん経由のanhedoniaさん経由で、とある地方自治体のアイディアが秀逸な件について。

 かつては十数戸あった集落が、過疎・高齢化の進行により1世帯3人にまで減ってしまった畑地区において、この地に移住し、自活自立に挑戦しながら自治会長(区長)として頑張っていただける方を全国から募集します。

 条件が厳しくとも、この場所だからこそ成り立つ生活スタイル、また、ビジネスや経済活動が必ずあるはずです。

 今回は、この地で何らかのビジネスや経済活動を営みながら、集落の一員となり、消滅の危機に瀕している集落を救ってくれる方を募集します

 あなたの力で、集落を再生・活性化させてみませんか!

 以下の募集要項をご参照の上、積極的にご応募ください。
おーい 誰か自治会長をやってくれませんか?「京丹後市丹後町畑地区自治会長を全国から募集します」(2008年11月19日)」(京都府京丹後市


「今回は」というのがかなり気になりますが、こちらの市長さんは総理府のキャリアですね。

 京丹後市のもつ魅力はまだまだ語り尽せませんが、「丹後王国」や先人たちが残してくれた自然環境・遺産や歴史・文化など、新しい時代に求められる魅力、宝を本当にふんだんに有しています。私たちは、このような新しい時代の価値を豊かに育み、日本全国にこれらを魅力的に発信することのできる、そして、住み、訪れる人々には「お互いに生かしあい、支えあい、たすけあって生きる」風にあふれる、笑顔と喜びの『まほろば』・『新・丹後王国』の創造をめざしてまいります。

京丹後市長 中山 泰
市長プロフィール」(京都府京丹後市
※ 強調は引用者による。


「お互いに生かしあい、支えあい、たすけあって生きる」というスローガンを掲げる市長と、それを疑うことなく全うしようとする市職員の熱意と情熱がここに結合したようです。

こういう「無能な働き者」らしい市長さんは、「総合戦略課」という部署を置き、キラリと光るアイディアで実績を上げた「無能な働き者」のやり手職員をかき集めて、日々市民の声に耳を傾けていたに違いありません。そして、地元のことを一番わかっている自治体が考えついた成果が、例えば冒頭のぐっどあいでぃあ(※1)なんでしょう。

市長「限界集落からまた人が出て行ってしまったな。何とかならないか(というか、何とかしなければ選挙でカッコがつかないなあ)。」

部長「市民の声を聞いてみるというのはどうでしょう。その中で何かいいアイディアがあるかもしれませんし、市民の声を吸い上げることが地方分権につながります。まずは早速アンケートを実施してみます。」

職員心の声「(アンケートやってみたけど、あまり限界集落に関係ある意見はなかったな。でも、市長と部長の肝いりだし、何かやらないとまた何か言われるし、俺のやり手職員のプライドにも傷がつく。あ~あ、誰かU・Iターンとか来てくれないかなあ・・・あ、そうだ! ただU・Iターンするだけじゃインパクトがないから、『自治会長募集』とかいってみたらおもしろいそうだ!さすが俺!)」

職員「部長、スローライフの見直しという流れの中で、これからは地域の連帯や共生がキーワードになると思います。地域の連帯の要といえば自治会長なので、これを公募すれば必ず応募者がいるはずです。さらに、何かビジネスモデルを実践することを条件にすれば、住民も増えて地方分権もできてビジネスも成り立って一石二鳥、いや一石三鳥です!」

部長「それはぐっどあいでぃあだ!早速市長にお伺いしよう」

市長「よし、それで大々的にPRして広く公募するように(そうすればマスコミにも取り上げられて、選挙でカッコがつくし)。」

※ 勝手な想像です。


という思惑が錯綜する様が目に浮かびます。

勝手に想像しておいて突っ込みを入れるというのも気が引けるけど、実態もおそらくこれと大差はないはず。自治体の首長とか職員が考えていることってのは結局自分の地域のことだけであって、それは「他の地域がどうなろうが、その地域に住んでいる人がどうなろうが、自分の管轄地域さえなんとか体裁を整えていればそれでいい」というエゴに過ぎない。それをもっともらしく言い換えたのが「地域のことは地域で決める」という地域セクショナリズムなんですが、行政の縦割りとか批判する人に限ってこういうところにルーズ(※2)だったりするのがなんとも・・・

このぐっどあいでぃあは問題の設定の仕方、それに対する処方箋の実施方法、どれをとっても「究極の自己中心主義」でしかないんですが、それこそがチホーブンケンにほかなりません。さらに、そのぐっどあいでぃあを考え出した過程そのものが悪しき民主主義の典型ともいえるわけで、つくづく「地方自治は民主主義の学校」とはよく言ったものですな。



※1 ぐっどあいでぃあの内容については、上記のすなふきんさん、anhedoniaさん経由のThscさんのご指摘に付け加えることはありません。
※2 縦割りが例えば、柔軟で適切な対応を阻害したりムダな公共事業をやっているという原因になるという批判は受け入れやすい一方で、地域セクショナリズムが他の地域の住民の便益を奪っていたり負の外部経済性をばらまいていたりすることには、あまり表だった批判はありませんよね。


2008年11月19日 (水) | Edit |
夜のニュースを見ても気分が悪くなるだけなので、特に古舘伊知郎がキャスターを始めたころからほとんど見てなくて、朝のニュースで前の日のことを知ることが多く(それもみのもんたが進出してきてどっちにしろ気分が悪くなるので、結局NHKくらいしかみないようになっています)て、今知ったんですがこんなことが起きてしまったとは・・・ご冥福をお祈りします。

 さいたま市と東京都中野区で、元厚生事務次官宅が相次いで襲われ、2人が死亡、1人が重傷を負った事件。手口が似通っており、旧厚生省年金局長を務めた点など2人の元次官の経歴にも共通点が多い。年金問題が背景となったテロ事件なのか
(略)
 ◇年金不信、頂点に

 年金局は厚生労働省内で「年金局モンロー(孤高)主義」と呼ばれ、医療制度を担当する保険局と並んでエリートが集う部局として知られる。しかしこの数年、年金行政に対する国民の不信は頂点に達した感がある。

 04年、社会保険庁職員による芸能人や政治家らの年金記録のぞき見問題が発覚。その後、職員が練習に使うゴルフボール代にまで保険料が流用されていたムダ遣いや国民年金保険料の不正免除の問題などが相次いだ。07年には年金記録漏れ問題が広がりを見せ、08年には年金記録の改ざん問題が明るみに出た。厚労省は「運用の問題で、年金制度は関係ない」(幹部)と言うが、一連の不祥事は、年金制度そのものへの信頼を揺るがせた

 全国民共通の基礎年金という、現行制度の基盤は85年の年金改革で作り上げられた。吉原氏が年金局長時代、山口氏は年金課長として仕え、ともに85年改革をリードした。日本の公的年金の基本は「負担した者が報われる」社会保険方式だ。しかし、政府・与党は今、低所得の人の給付や保険料を税で補てんする制度改正の検討に入った。燃え広がった国民の年金不信を沈静化するには「不本意だが、これしかない」(厚労省幹部)と追い込まれた末の決断で、年金不信の出口は見えないままだ

毎日jp(毎日新聞)「クローズアップ2008:元厚生次官宅・連続襲撃 手口、類似点多く」

※ 強調は引用者による。


この記事の無責任ぶりはなんなんだ? 現時点で関連性を特定することはできないとしても、あれだけ年金制度を悪者に仕立て上げたマスコミが他人事のように気取っていられるとでも思っているんだろうか? なんとお気楽な稼業なことか!
もちろん、ジャーナリスト出身者らしく国会議員の権威を使って制度に関係のない些末なことばかりジャーナリスティックに取り上げて、「ミスター年金」とか呼ばれていい気になっているらしい民主党の長妻議員とかいうジャーナリストのお手本のような方も無関係ではあるまい。「テロ」という言葉を軽々に使うことははばかられるものの、売り上げなり視聴率なり支持率を上げるために、彼ら自身が先頭に立って霞ヶ関とか官僚とかの公的セクターを次々に血祭りに上げてきたわけで、その当事者が元事務次官に対する「テロ」を批判できるはずはない。

 山口さんは厚生官僚時代、主に年金畑を歩いた。基礎年金導入など年金制度の改革が行われた際には、年金課長だった。さらに、年金局長として、現在の年金制度の骨格を固めた。

 吉原さんも、年金局長や社保庁長官を歴任し、年金行政のエキスパートだった。年金局長時代の一時期、山口さんが年金課長として仕えていた。

 厚労省と社保庁をめぐっては、様々な不祥事が発覚している。特に年金のずさんな記録管理や、制度上の不備が大きな問題となっていることは確かである

 だが、理由が何であれ、テロは決して容認できない

 行政を対象にした暴力は、近年増加している。
(略)
 行政関係者がテロを恐れて職務を執行できないようでは、健全な社会とは到底言えまい
YOMIURI ONLINE(読売新聞)「元厚生次官襲撃 テロは断じて許されない(11月19日付・読売社説)」
※ 強調は引用者による。


事件が起きてからこんなこといわれたって、「ぼくもりゆうがなんであれてろはけっしてようにんできないとおもいます。(棒読み)」としか聞こえない。健全な社会からどんどん逸脱させているのはどこの誰なんだよ!

HALTANさんがおっしゃるような事態とは違う意味で「パンとサーカス」が社会的な問題を引き起こしているかもしれないというのに、今回の事件が起こってすら改心することはないというのか。

後は地上波局もますます再放送や映画・海外ドラマなどの二次利用もので埋める時間が増えるんだろうし(個人的にはその程度の地味な編成の方が好みだが)、U局や衛星(CATV)系局と大して変わらない編成になった頃にやっと「もうパンとサーカスは止めよう」と改心す・・・ればいいんだけどねえ・・・orz
[社説・コラム]天声人語氏が「自由な言論」(パンとサーカス)を謳歌しているあいだにも朝日新聞の広告収入も部数もどんどん減っていく(2008-11-14)」(HALTANの日記
※ 強調は引用者による。



2008年11月13日 (木) | Edit |
ここ数日地方分権チックな話題が目白押しなんで、とりあえずメモ代わり。

 大阪府の橋下徹知事は12日の定例記者会見で、京都、滋賀、三重の3府県知事と建設反対の意見を表明した大戸川ダム(大津市)に代わる治水の具体策について「府県側からは提示しない」と述べ、河川管理者である国土交通省側からの反論を待つ方針を示した。
(略)
 天ケ瀬ダムなどの詳細なデータは「滋賀県の嘉田由紀子知事が持っている」とし、具体的な裏付けがあるとした。

 4府県意見に対し、国土交通省側が具体的なデータを示して反論することも予想される。橋下知事は「先にデータを提示すると、国が前提を変えたデータを出して(議論を)ひっくり返すことがこれまでもみられた」と警戒。このため府県側から先に具体策を発表せず、国・府県間の協議が本格化するまで「手持ちのカードは残しておく」考え。
NIKKEI NET(日経ネット)「大阪府知事、大戸川ダムの代替策「府県から出さず」(更新:11月13日)」


「具体的な裏付けがあるとし」ているわりに、前提を変えたデータごときでひっくり返されるような反対意見ってそもそもどうよ?と思うのは、俺が下っ端チホーコームインだからなんでしょう。民主主義の選挙で選ばれた知事さんたちはには、俺ごときには見えない現場をご覧になっているに違いありませんから、チホーコームインなんぞがそのご見識を理解できるはずもありません。

 大阪など4府県知事が大戸川ダム(大津市)の建設中止を事実上求める共同意見を発表したことについて、大阪府の橋下徹知事は12日、「国は机上で超理想的な治水の話をしている。国や役人は計画にこだわるが、僕らは現実に府民や県民の状況を見て、できることを順番にやっていく」と国を批判。共同意見にあらためて理解を求めた。

 また近畿地方整備局が「ダムを中止するなら周辺整備の予算は出せない」と主張していることには「近畿整備局には民主的コントロールが及ぶヘッドを置くべきだ。『ダムがなければ後は知りませんよ』と言えば、政治家なら(選挙に)落ちる」と批判した。
47NEWS(よんななニュース)「橋下知事「国は机上で超理想論」 ダム建設で(2008/11/12 11:52)」


「机上で超理想的な」話じゃなくて、「現実に府民や県民の状況を見て」いるわけですからさすが現場主義は違いますね。

と思ったら、こちらは弁護士知事さんのところじゃなくて、叩き上げ知事さんのところですが、

 「知事は自分のマニフェストの達成と、住民の命を引き替えにするつもりか」。大戸川にほど近い自宅で、ダム対策協議会の南部正敏会長(67)は怒りをあらわにした。

 南部会長は、ダム計画のきっかけとなった1953年の水害を目の当たりにしている。「堤防が決壊して、家の前が一面、白い海のように水浸しになった」。災害を繰り返さないよう、ダム建設を推進してきた。
京都新聞「ダム翻弄、苦渋40年 大戸川中止要望 地元住民、落胆と怒り(2008年11月12日(水))」


・・・あれ?

そういえば、大阪府のお隣の旧自治省知事さんは、

 井戸知事は東京都内で12日夕、「反省し、おわび申し上げたい」と謝罪したが、「一極集中が進む東京での大災害に事前に備えることが関西復興の一つの方途。発言の真意を理解してもらいたい」と釈明するにとどまり、発言そのものは撤回していなかった。

 この日の記者会見で井戸知事は冒頭、「『チャンス』という言葉が県民をはじめ、多くの皆さまに誤解を与え、ご心配をおかけしていることを心からおわびします」と謝罪。さらに、「今まで撤回という言葉に少しこだわっていた」と心境について語り、批判が相次いだことに「このようなことになろうとは夢にも思っていなかった」と述べた。

 また、「東京を中心とする関東の方には発言を巡り、大きな心配をかけてしまった」とも話し、辞職については、「(震災復興などに)先頭に立って取り組んできた自負がある」と否定した

 発言は、11日に和歌山市であった近畿ブロック知事会議で、関西経済活性化を巡る議論の最中にあった。13日午前までに県庁には抗議を中心に電話やメールが800件以上寄せられた。
YOMIURI ONLINE(読売新聞)「兵庫・井戸知事「震災チャンス」発言を撤回(2008年11月13日)」


旧自治省の方々のご活躍ぶりは目を見張るものがありますが、近畿ブロックといえば、道州制の推進にも力の入っているところですし、つい本音が出たなんてことではなく、現場をご覧になっているからこそのご発言なのでしょう。

でまあ、日銀によるシニョレッジが期待できない中で、政府が財政政策として埋蔵金を使って総需要を喚起しよう(※1)というナントカ給付金でも、常々現場をご存じとおっしゃる首長さん方に大役が回ってきたそうで、皆さんさぞ武者震いされているところかと。なんと言っても「現場のことは現場が一番わかっている」からこその補完性の原理ですからね。

 政府・与党が12日、景気対策として1人当たり1万2000円を支給する「定額給付金」の概要を決め、所得制限を設けるかどうかを市区町村の判断を委ねる方針を示したことに対し、県内の首長からは「国は無責任だ」との批判や戸惑いの声が聞かれた

 甲斐市の保坂武市長は「制度自体を国が決めたものなのだから、国が責任を持って給付基準を決めて実施すべきだ。そうでないと自治体側が混乱してしまう」と批判。「判断が分かれた場合、自治体によって不公平になってしまうこともあり得る」と述べた。

 早川町の辻一幸町長は「本当に景気浮揚効果があるのか。財源の2兆円を経済の立て直しに使った方がよっぽど有効で、ザルに水をかけるようなものだ」と疑問を示した。山梨市の中村照人市長は「基準をどこにおいていいか分からず、無責任だ。市町村に委ねられても困る」と国の姿勢を批判した。

 一方、甲府市の宮島雅展市長は「現段階ではコメントできる状況ではない」と慎重な姿勢。富士河口湖町の渡辺凱保町長と山中湖村の高村忠久村長も「国から正式に連絡が来てから話したい」とした。甲府市のある職員は「判断が一番難しい部分を自治体に投げてきた。政府は責任を放棄している」と憤りを隠せない様子だった。

YOMIURI ONLINE(読売新聞)「定額給付金の所得制限判断 自治体「迷惑」(2008年11月13日)」


・・・あれれ??




※1 「ヘリコプターマネー」といってバラ撒きだと批判されている方がいらっしゃいますが、「ヘリコプターマネー」の意味は、金融政策が擬似的に所得再分配的に機能することで、総需要が拡大して景気が好転するという経路を比喩的に表現したものかと思ってましたが違うんでしょうか?
バーナンキ本人はそんなこと言っていないらしいですし。

2008年11月10日 (月) | Edit |
すなふきんさんのTBで思い出したんですが、以前こんな喩えを使ったことがあります(俺のほうが昔から使ってるぞとか、私が初めに考えたんですわという方がいらしたら、勝手に使って申し訳ございません)。

htmlだとうまく表現できませんが、

1/2+1/3=?

という問題を見て、「答えは2/5だ!」というAさんがいたとしましょう。Aさんの解き方は、

「見たまんま分母と分子をそれぞれ足す」

という実にわかりやすいものです。しかし、言うまでもなく答えは「5/6」ですね。これをAさんにわかってもらうためには、

「分数というのはそもそも比率を表しているので、比率の和を求めるためにはそれらを共通する一定の比率に表現し直さなくてはならなくて、そのために分母同士を掛け合わせることが必要となる。このとき、分数それ自体にお互いの分母をかけるためには分子にもお互いの分母をかける必要があるので、その操作の結果、分母は2×3、分子は3+2となるから、答えは5/6となる」

とグダグダ説明しなければなりません。
しかし、自分の解き方が最善だと信じるAさんは
「そんなのおかしい!」
というかもしれません。

ここで、Aさんが「おかしい!」という異議申し立てには、
(1)その計算方法がおかしい
(2)その表記の仕方がおかしい
という二重の意味が含まれている可能性があります。

前者の場合なら、Aさんに算数を勉強してもらえれば最終的には理解されるでしょう(※1)。

しかし、後者が含まれている場合、さらにややこしい状況になるかもしれません。というのも、Aさんがもし算数の考え方そのものを理解できたとしても、「自分が間違ったのは分数の書き方が紛らわしいからだ」とか「そんな紛らわしい書き方をしているのが悪い」などと、異議申し立てが延々続いてしまうからです。

このような考え方に基づいて上記の二つの意味を書き換えてみると、
(1')その計算方法がおかしいから、と思ったら、どうやら自分が理解してなかったようなので、まじめに勉強しよう(FA)
(2')その表記の仕方がおかしいから、自分には理解できないんであって、ということは分数の書き方そのものが悪くて、そんな書き方をしているとこれからも間違える人が出てきて困るし、百害あって一利なしだったらその書き方を決めた奴が悪くて、諸悪の根源は書き方を決めた奴と現在の分数表記の方法なんだから、分数表記そのものの書き方を変えて、ついでにそれを決めた奴を罰してしまえ!(FA)
となるように思います。

俺が何を喩えようとしたかはご想像にお任せします。




※1 Aさんの解き方がわかりやすいとして絶大な支持を得てしまうなんてことは考えないことにします。

2008年11月09日 (日) | Edit |
いよいよ旧自治省ラインが始動したようです。これが岡本氏を総括秘書官に抜擢した理由だったんでしょうか。

 もともと、分権委は2次勧告に向けて、都道府県と業務が重なる「二重行政」として8府省15系統の出先機関の統廃合を検討している最中だった。とくに、道路特定財源の無駄遣いが明るみに出た整備局や、事故米の不正転売事件で業者の不正を見逃した農政局は「問題ある出先機関」(分権委関係者)の象徴的存在になっていた。

 一方、首相としては先月下旬に衆院解散の先送りを決断したことで、9月の所信表明演説で主張した「霞が関の抵抗があるかもしれない。私が決断する」を実行に移す必要が出てきた

 首相周辺は「役所はどんな理屈を作ってでも抵抗する。トップがはっきりと宣言するしか方法がない」と、首相の指導力を見せる意義を解説する。総務省関係者も、指示のタイミングを、分権委の今後の議論を考慮し「2次勧告の約1カ月前」に設定したという。
Yahoo!ニュース「首相指示 整備・農政局の統廃合を トップダウン演出(11月7日8時3分配信 産経新聞)
※ 強調は引用者による。

二重行政とかに対する批判の矛盾は拙ブログでも以前指摘しておりますが、実務上の制度的な問題としてはsunaharayさんが指摘されるとおりだと思います。

しかしこれまで出先機関が担っていたものというのが,第一次分権改革のときに限定されたはずの「国の直接執行事務」で,現在義務付け・枠付けの緩和でかなり苦労している自治事務よりも義務付けが厳しい,ということを考えると,これを自治体に権限移譲しても自由度が増えるわけでもないし,また誰が責任を取るんだという問題も不明確になってしまうのではないかと思われます。出先機関が非効率,というかきちんと機能していない,という問題があるならば,それはまさに「国の責任」で解決するべき問題だと思うわけですが。
(略)
勧告を12月にまとめるってまぢですか。まあ人の移行や財源については読売の記事にあったとおり別に委員会なんかを作って議論する,ということなんでしょうけど。しかし自治体にとって規模の経済も範囲の経済もないような仕事が法定受託事務として激増するということは避けるべきではないかと。それは別に自治体の裁量が増えるわけでもないし,効率化に資するわけでもないので,そういうのを分権って言ってみても仕方ないのではないかと思うのですが…。「都道府県でも同様の仕事があり」とあるのと同じように都道府県や市町村がやってない仕事もたくさんあるわけで,もしこれが既定方針として動かないのであれば,せめて両者を切り分けて,後者については出先機関を統合してみるなり,国の責任で効率化するべきだと思ったりするところです。
■[研究][観察]原則廃止へ…?(2008-11-06)」(sunaharayの日記
※ 強調は引用者による。

行政学者であるsunaharayさんですらこういう経済学的な疑念を持たれるようなことがまかり通るのも、選挙で不利だという政権与党の事情があるんでしょう。

昨今の「改革ブーム」を正しく把握するためには、細川・村山の非自民政権が打ち上げた「保守政権の既得権益の打破」とか「政府の過剰な規制を緩和して民間活用」という流れがバブル崩壊後に世論の支持(※1)を得てしまったため、橋本内閣で政権を取り戻すために自民政権もその流れを継承せざるを得なかった、という経緯を踏まえる必要があると思います。そのような理解に立っていえば、非自民政権から続く流れを何とか「構造改革」として形にしなければならなかった自民党にとって、まさに「小泉改革」なるものが必要だったんだろうと。

ただし、これについて見方を変えれば、「小泉改革」は結局「改革ブーム」の後始末に過ぎなかったともいえるように思います。政府の本来の役割は、市場の効率性と公平性を確保するために民間セクターに対する規制を通じた政策を行うことですが、規制緩和の流れの中でそれが否定されてしまいました。さらに日銀は、手段のみならず目的についての独立性までをも手に入れてしまい、ワケのわからない利上げを繰り返しています。しかし一方で「改革ブーム」だけは現在に至るまで持続しているという状況で、政権与党には公的セクターをいじるしか手段は残されていないのです。

で、結局小泉政権が最後に何をしたかというと、

「小泉改革の総仕上げ」っていうことになってるけど、そもそも「小泉改革」ってなんだったのよ?ってのがきちんと整理されているとはいえない中で、その総仕上げとしての「行革推進法」だって中身は整理されていない。
(略)
思い起こしてみれば、新規国債30兆円以下を掲げながら政権を執り、竹中・木村ショックといわれる金融不安を引き起こし、郵政民営化で貯蓄離れを促進し、公務員5%純減ときて、行革推進法案が総仕上げって、結局民間に手を入れようとしたらデフレ下で不況が促進されてしまったので、これ以上民間の「構造改革」はマズイということで最後は公務員を叩いておいて格好をつけただけですな。
食う寝るところに住むところ(2006/03/12(日))
※ 強調は引用時。

ということなんですよね。これを引き継いだ安倍政権が地方分権改革推進委員会を設置したり、福田内閣が国家公務員改革を断行しようとしたのも、政府本来の「市場システム維持のための規制」が封印されているという流れで理解するとわかりやすいと思います。

で、今回の麻生内閣も、リーマン・ショックで景気が悪化する中で、政権を維持するためには景気対策を打ち出しなければならず、限られた政策手段をフルに活用した姿勢を見せるためにも、公的セクターをいじっておかないと格好がつかないんでしょう。地方分権のコストは公的セクターだけじゃなくて民間セクターにもかなりの負担をしていただく必要があるんですが、選挙対策でやっているだけの政治家がそんなこというはずありませんし。地方分権って、国と地方両方の公務員をいじめることができて、その上「二重行政の排除で効率化」して税金も減って(※2)、選挙対策としては一石三鳥ですね。

戦前強大な権力を誇った内務省の本流の流れをくむ旧自治省(都道府県幹部)は、日本を解体して自分のグリップの効く地方に権限を移したくてしょうがないところですから、政治がタッグを組むには最善の相手なんでしょうなあ。




※1 「世論が『実現されるべき』と考える世界」にデフレの解消というようなマクロの金融政策が含まれていなかったことからも明らかなように、「世論が『実現されるべき』と考える世界」そのものが妥当性を持つという保障保証は一切無いという、いわゆる世間知の問題も大きいでしょうけど。
※2 効率性重視のはずのアメリカが二重行政を容認していて、政府支出の対GDP比も日本と変わりないんですけど。
第2-1-1図 OECD諸国の一般政府支出の規模(対名目GDP比)(2004年)」(平成17年度版 年次経済財政報告書

2008年11月02日 (日) | Edit |
いやまあ、経済学にもいろいろあって、一応主流といわれている新古典派の周辺にも行動経済学とかの新しい流れがあったりするわけで、現在でも新たな理論が構築されているのが一般の経済学に対する印象を複雑にしてしまっているんではないかと思います。大恐慌という大事件の発生に伴ってケインズが不完全雇用を前提としたマクロ経済学を提起したり、古くはコースやヴェブレンにまでさかのぼる制度派経済学なんてのもあれば、毛色の変わったところでは統計学の手法を取り入れてデータマイニングから理論の裏付けを得ていく計量経済学も現代の経済学では重要な研究分野です。現実に対するアプローチというだけでもこれだけの多様性があって、さらにこれらの「主流派」のバックボーンを共有する経済学者によっても言うことが違っているんですから、ある経済学者がまともなことを言っているかどうかは、ちょっとやそっと経済学を勉強したくらいでは理解できるわけではありません。

でも、これって経済学に限ったことでもなんでもなくて、法律の世界でも、例えば「整理解雇の4要件」か「4要素」かで判例が揺れていたりしていて、それはオイルショック後の部門整理を巡る判例(※1)に現れた「整理解雇の4要件」が、近年の労働市場の流動化などの変化の中で判断基準が変わっていくことを反映したものだったりするわけで、まあ世の中が変われば、それを説明して考えていくための理論というのは移ろっていくわけです。

経済学の話に戻すと、俺自身は新古典派方面しか勉強してないんですが、経済学に特有の事情として「経済学部」とか「経済学者」という肩書きを持つ方の中には未だに○系をまじめに議論している集団もあったりするわけで、そこまでいくと現実に対するアプローチの違いどころじゃなく、世界観とかイデオロギーまで超えていかないといけないので、そういう世界観を持つ方でない限りなかなか理解が難しい。

前置きが長くなりましたが、こういう俺自身のバックボーンもあって、基本的には新古典派経済学の研究者の方々であればまるで正反対のことを言っていてもそれぞれの立場なりを理解できないわけでないものの、やっぱり信頼度というものはある。その中でもかなり信頼度が高いのが、拙ブログでもちょくちょく引用させていただいている権丈先生(ご本人は制度派だとおっしゃっていたような)で、ここまではっきり言ってもらえるととても心強いです。

成長のためには労働の移動とか産業構造の転換、いろいろなものを国全体で考えていかなければいけないと思っております。ただ、そうなってくると、移動や転換のコストの負担をどこに負わせるかというところで、一国全体で経済全体のことを考えていくのであれば、そこで生まれたパイというのは国全体で分配するのが当然だと思いますし、地方分権という名のもとに成長のためのコスト面を余り地方に負わせない形にしておかないと、コストは地方が負担したけれど果実は中央が得るのみというのでは、地方にはちょっとつらい状況が生まれてくるな、いや、現実にそうなっていると思っております。
(略)
私は、最後のラストリゾートとしての公助のところに多くの人たちが入っていかないような仕組みを何とかしてつくることが一番大事で、そういう根本的なところの年金の制度、そして医療保険制度というものの費用負担問題のところをしっかりとやり、そして雇用をしっかりと全国に……。もうはっきり言って、「地方を活性化する」とか、「中産階級を生む」とかというのは、意図的にやらないとできっこないんです。中産階級をこの国でつくるぞとか、地方に雇用をつくるぞということを意図的にやらないとできるわけがない。それを意図的にやるということはある意味規制をすることなんですけれども、規制をどんどんと撤廃していったりすると、中央に資本や人とかいろいろなものが集まった社会になり、その一方で地方分権という形で財政の負担を地方に回すというのは、私はちょっと理に合わない動きがここ数年というか、ずっと続いているのを感じております。
勿凝学問190 「地方を活性化する」とか「中産階級を生む」とかというのは意図的にやらないとできっこないんです――社会保障国民会議第7回議雇用年金分科会(9月8日開催)での発言(2008年10月29日)(注:pdfファイルです)」(Kenjoh Seminar Home Page
※ 強調は原文。


一応俺も実務家の端くれとしてhamachan先生にもかなりの信頼度を置いているわけですが、そのhamachan先生も呼応されているように、国全体で考えなければいけない規制の問題が単にそれを緩和して分権化させるだけで解決するわけがありません。

念のため、俺も分権化がすべて悪いといいたいんじゃなくて、分権化するための移行プロセスの問題とか、そのための手続きをどう設定するかとか、政府間財政移転が効率的であるためにはどういうインセンティブを与えるべきかとか、そういった分権化することで生じる新たな問題をすべて考慮した上で、それでもなお地方分権が何らかのメリットをもたらすなら、当然進めるべきでしょう。でも、今の議論が全然そうなっていないから、特に現場でその辻褄合わせをさせられる身としては黙っていられないのです。

なんというか、ある制度が別の制度に移行するためには、その移行プロセスや最終目標に至る手続きというコストがかかるもんですが、その点についての考慮が全くないんですよね。コーゾーカイカクとかチホーブンケンは保守政党である自公政権によって進められましたが、その一方でリベサヨがそれを支持したのもよく知られたこと。あくまで管見ではありますが、そういった移行プロセスのコストを過小評価したのが○系で、東欧諸国が最終目標に達する前にその移行プロセスのコストでつぶれてしまったのが20世紀の最大の教訓ではないかと思います。ところが、そういった陣営自体がまったくそれを学んだ形跡がないというのがhamachan先生の嘆きではないかと。

10年前、現実の経済危機に対する感性と認識において、右側の方が状況を鋭く受け止め、問題の捕捉が正確であり、対応策においても社会科学的な説得力が旺盛だった。左側には危機に対して社会科学的に対応する論壇がなく、それを期待されたアカデミーは、米国資本による日本侵略にも無頓着で不感症であり、全く関心を払っていなかった。
(略)
左側(岩波アカデミー)の脱構築言説は、単に思想オタクが趣味で遊興するための薀蓄玩具となり、現実の社会問題や経済問題に対応する有効な社会科学の実質と性格を失い、そのため、一般大衆は現実問題に向き合ってメッセージを届ける右側の説得力に包摂された。これが石原都政と小泉改革を媒介した日本の思想的真実である。左翼は社会に無関心だった。
石原慎太郎『NOと言える日本経済』 - 十年前の右側の説得力(2008-10-16 23:30)」(世に倦む日日

(追記)念のため、上記引用部分、とりわけ赤字強調部分についてはまったく「異議なしっ!」なのですが、他の部分や、当該ブログの他の記事等については、いささか党派性が強く感じられます。それらの部分についてまで私が同意しているという趣旨ではありません。
左翼は社会に無関心だった(2008年10月21日 (火))」(EU労働法政策雑記帳
※ 強調は原文。

この記事で挙げられている他の記事から具体的に引用させていただくと、

で、こういう市民的近代化主義者たちは、(後藤氏の言うところの)開発主義国家体制を、前近代的で非市民社会的なものとみなして目の敵にしたわけです。また、(同じく後藤氏の言うところの)企業主義統合、つまり日本型雇用による企業内労働市場への労働者の包摂を、前近代的な集団主義と個の未確立の悪用だと考え、これを西欧の福祉国家型と並ぶ独自の階級馴化と大衆社会統合の一類型と把握することがなかった、と批判します。

で、80年代には知識人の間で階級闘争の視点がどんどん後退し、90年代になってそこにソ連の崩壊がきて、ますます「市民」志向が強まり、結局「マルクス主義的知識人の少なからぬ部分がそうした実体として市民タイプの主張に共感し、新自由主義との共闘をためらわない「左派」が広く出現した」「彼らの中心的関心は開発主義国家体制の破壊に向けられており、それが実際に可能であるならば、保守派との連携を含めたいていのことには目をつぶるという感覚であったと推察される」という事態になったわけです。あえて人物論的に言えば、アルバイトスチュワーデスに反対した労働者にやさしい亀井静香を目の仇にし、冷酷な個人主義者小泉純一郎にシンパシーを隠さなかったということですな、日本のサヨク諸子は。
リベじゃないサヨクの戦後思想観(2006年11月30日 (木))」(EU労働法政策雑記帳
※ 強調は引用者による。

ということになるんではないかと思います。

ただし、このhamachan先生の指摘をよく見ると、その理論的な背景に経済学の理論が見え隠れしていることに気がつきます。これも権丈先生の指摘ですが、

そして口にするのも憚られることなのであるが、かつて世界を東西の真っ二つに分けて、今につづく人類同士のいがみ合いの思想的基盤を与えたのも、やはり経済学だったのである。
勿凝学問20 ノーベル経済学賞と学問としての経済学、そしてノーベルが思いを込めた平和賞(2004年10月26日脱稿)」(Kenjoh Seminar Home Page

こういう対立の根底に経済学の思想があって、それが社会のあり方を大きく左右することが事実である以上、「経済学なんて机上の空論」とか「数式のモデルで社会を分析するなんてできるわけがない」とか「アメリカ型資本主義の破綻」なんて批判する暇があったら、まともな経済学を勉強することが大事なんではないかと思う次第。権丈先生の経済学者としての矜持はこういう言葉に表れるんですね。

「平等・格差は問題だ、貧困問題は深刻だと言うくらいで、世の中動くもんじゃない。18 世紀の半ばに産業革命が起こってすぐから、深刻な貧困問題を訴える社会運動家は、ずっといた。だけどな、格差問題、貧困問題を解決するためには、所得の再分配が必要なわけで、その再分配政策が大規模に動きはじめるのは、高所得者から低所得者に所得を再分配するその事実が、成長や雇用の確保を保障するということを経済理論が説明することに成功したときからだ。現状の所得分配に対する固執はいつでもどこでもとてもおそろしく強く、格差は問題だ、貧困問題は深刻だと言うくらいで、所得分配のあり方が大きく動くほど、世の中は甘くないんだよ」
勿凝学問189 「乏しきを憂えず等しからざるを憂う」ようなできた人間じゃないよ、僕は 日本財政学会シンポジウムでのワンシーン(2008年10月29日)(注:pdfファイルです)」(Kenjoh Seminar Home Page
※ 強調は引用者による。





※1 東洋酸素事件(東京高判昭54・10・29)で示された判断ですが、この判例では一切触れられていない労働組合の対立が裏にあるという点で、労働運動には示唆的な判例です。
資料シリーズNo.29 『解雇規制と裁判』(2007年6月11日)」(独立行政法人 労働政策研究・研修機構