2005年05月29日 (日) | Edit |
昨日に引き続き恥さらし第2弾。
昨日掲載部分でとりあえず「順番に」といいながら、天下りを前提にした人事システム批判が止まらなくなってしまい、にっちもさっちもいかずに話題を変えたものの、あの長妻主意書を引き合いに出して中央官庁と地方自治体の交流人事の非対称性を問題にするも再び愚痴が止まらなくなり、結局収拾がつかなくなって尻すぼみしていくさまを微笑ましくご覧ください。
今年2月ころ
(前回からの続き)
このカルチャーの議論を敷衍することで、キャリア集団の必要性や選抜過程の固定化も説明することは一見可能ですが、明確な定義を与えないままカルチャーの一言でまとめてしまうのは早計かもしれません。また、上述のとおりキャリア形成において制度とそれに対する態度決定は決して無視できない要素ではあるものの、webmaster様の議論に欠けている部分のみで議論を進めることは気が引けないでもありませんので、ツッコミどころを残しつつこの辺にしておきます。
そして、webmaster様の議論から抜け落ちている官僚のキャリア形成の特異性を指摘させていただくと、それが自己の組織内で完結しないということです。いろいろなパターンがあるのですが、一番典型的なパターンは旧自治省の地方自治体への出向です。webmaster様が例示されるような財務官僚が 20代で税務署長に就任するような人事慣行はなくなったかもしれませんが、地方自治体や警察本部には20代の幹部がゴロゴロいますhttp://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a156050.htm。さらに、この主意書の答弁では「若手職員を多くの部下を持つこととなる官職に任用することについては、いずれの府省においても、現段階で特段の見直しの必要はないと考えている」としており、webmaster様の例示とは逆の見解が示されているといえ、官僚のキャリア形成が地方自治体などの組織における人材形成を大きく阻害していることについての思慮が一切ありません。キャリア官僚であるwebmaster様の見解も、その意味でこの主意書のスタンスと軌を一にするものと思われます。
webmaster様が旧自治省や警察庁のような露骨な人事配置を行っていない官庁の方かもしれないので、地方自治体職員の立場から実態に即し、この問題点をいくつか指摘させていただきます。まず、旧自治省官僚のキャリアパスを例にとると、20代で都道府県の財政課長や税務課長などの地方財政に関連する部署の課長クラス、30代で同じく都道府県の総務部長などの庁内の統括的な部局長クラス、40代で副知事というのが一般的です。これは、キャリア官僚が20 代で補佐、30代で企画官、40代で参事官、課長と昇進するのですが、このスピードが地方自治体の昇進スピードに比べて著しく早い上に、中央省庁から地方自治体へ出向する場合は地方自治体におけるクラスを一階級上げるという慣行があるため、たたき上げの地方自治体職員より20~30歳も若く就任するという人事上の配慮によるものであり、また、地方自治体業務について広く見識を得るために総括的なポストに配置されることになります。
このことは、中央省庁からすればまさに上記の主意書にあるとおり「人材育成、相互理解の促進等の観点から意義を有するものとして行われているものであるが、各任命権者において、当該職員の経験年数に配慮するとともに、管理職として必要な心構えに関し十分な指導を行う等の措置を講ずることとしており、若手職員を多くの部下を持つこととなる官職に任用することにより弊害が生じているとは認識」するはずもなく、むしろ自らの組織構成員のキャリアアップのために有効な手段として重宝されるでしょう。しかし地方自治体側からすれば、組織のポストという限られたりソースを外部の人材に供給することになり、自らの組織構成員のキャリアアップの貴重な場を奪われてしまうのです。
地方自治体職員のキャリア形成は、このようにして中央省庁のキャリア形成によりかなり抑制されたものとなっております。逆に言えば、地方自治体職員のキャリアを中央省庁の官僚のキャリアよりも相対的に低く設定し、官僚を受け入れやすくするという地方自治体の措置によって、中央省庁はキャリア形成のコストを大きく抑えることが可能になっているのです。
さらに、中央省庁と地方自治体は「人事交流」という名目で職員をバーターでやりとりをするケースがほとんどですが、このとき中央省庁の官僚が地方自治体の管理職に任用されるのに対し、地方自治体職員は研修員や事務補助として最下層に位置づけられます(職員の年齢等によって一部例外はあります)。つまり、地方自治体は中央省庁の幹部養成機関として、中央省庁は地方自治体職員を事務補助の戦力として、それぞれの人材を受け入れているのであり、相互依存の関係にあるといえ、これを言い換えるなら、中央省庁は地方自治体から兵隊を刈り取りつつ地方自治体で幹部を養成しているのです。結果として当然、中央省庁は自らの構成員である官僚の管理職としてのスキルアップを低コストで調達するのに対し、地方自治体は職員を兵隊にとられた上に自らの構成員のスキルアップの場を中央省庁に提供することとなり、その格差は広がっていくことになります。
このように、官僚のスキルアップがⅡ種Ⅲ種採用公務員や地方自治体の犠牲の上に成り立つものである以上、少なくとも公務員という業界においては批判されてしかるべきものです。あえて「社会的知覚の欠如」というような挑発的な言葉で批判させていただきましたが、老婆心ながらwebmaster様にこのような人事の実態をご理解いただきたいとの思いで失礼を承知の上書かせていただきました。このようなこともすでに折り込み済みだということであれば平身低頭お詫び申し上げます。その他、縦割り等の論点については今回の内容とちょっと距離がありましたので、機会があれば別途まとめてみたいと考えておりますが、とりあえずの意見表明とさせていただきたいと存じます。ここまでお目通しいただきましてありがとうございました。
昨日掲載部分でとりあえず「順番に」といいながら、天下りを前提にした人事システム批判が止まらなくなってしまい、にっちもさっちもいかずに話題を変えたものの、あの長妻主意書を引き合いに出して中央官庁と地方自治体の交流人事の非対称性を問題にするも再び愚痴が止まらなくなり、結局収拾がつかなくなって尻すぼみしていくさまを微笑ましくご覧ください。
今年2月ころ
(前回からの続き)
このカルチャーの議論を敷衍することで、キャリア集団の必要性や選抜過程の固定化も説明することは一見可能ですが、明確な定義を与えないままカルチャーの一言でまとめてしまうのは早計かもしれません。また、上述のとおりキャリア形成において制度とそれに対する態度決定は決して無視できない要素ではあるものの、webmaster様の議論に欠けている部分のみで議論を進めることは気が引けないでもありませんので、ツッコミどころを残しつつこの辺にしておきます。
そして、webmaster様の議論から抜け落ちている官僚のキャリア形成の特異性を指摘させていただくと、それが自己の組織内で完結しないということです。いろいろなパターンがあるのですが、一番典型的なパターンは旧自治省の地方自治体への出向です。webmaster様が例示されるような財務官僚が 20代で税務署長に就任するような人事慣行はなくなったかもしれませんが、地方自治体や警察本部には20代の幹部がゴロゴロいますhttp://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a156050.htm。さらに、この主意書の答弁では「若手職員を多くの部下を持つこととなる官職に任用することについては、いずれの府省においても、現段階で特段の見直しの必要はないと考えている」としており、webmaster様の例示とは逆の見解が示されているといえ、官僚のキャリア形成が地方自治体などの組織における人材形成を大きく阻害していることについての思慮が一切ありません。キャリア官僚であるwebmaster様の見解も、その意味でこの主意書のスタンスと軌を一にするものと思われます。
webmaster様が旧自治省や警察庁のような露骨な人事配置を行っていない官庁の方かもしれないので、地方自治体職員の立場から実態に即し、この問題点をいくつか指摘させていただきます。まず、旧自治省官僚のキャリアパスを例にとると、20代で都道府県の財政課長や税務課長などの地方財政に関連する部署の課長クラス、30代で同じく都道府県の総務部長などの庁内の統括的な部局長クラス、40代で副知事というのが一般的です。これは、キャリア官僚が20 代で補佐、30代で企画官、40代で参事官、課長と昇進するのですが、このスピードが地方自治体の昇進スピードに比べて著しく早い上に、中央省庁から地方自治体へ出向する場合は地方自治体におけるクラスを一階級上げるという慣行があるため、たたき上げの地方自治体職員より20~30歳も若く就任するという人事上の配慮によるものであり、また、地方自治体業務について広く見識を得るために総括的なポストに配置されることになります。
このことは、中央省庁からすればまさに上記の主意書にあるとおり「人材育成、相互理解の促進等の観点から意義を有するものとして行われているものであるが、各任命権者において、当該職員の経験年数に配慮するとともに、管理職として必要な心構えに関し十分な指導を行う等の措置を講ずることとしており、若手職員を多くの部下を持つこととなる官職に任用することにより弊害が生じているとは認識」するはずもなく、むしろ自らの組織構成員のキャリアアップのために有効な手段として重宝されるでしょう。しかし地方自治体側からすれば、組織のポストという限られたりソースを外部の人材に供給することになり、自らの組織構成員のキャリアアップの貴重な場を奪われてしまうのです。
地方自治体職員のキャリア形成は、このようにして中央省庁のキャリア形成によりかなり抑制されたものとなっております。逆に言えば、地方自治体職員のキャリアを中央省庁の官僚のキャリアよりも相対的に低く設定し、官僚を受け入れやすくするという地方自治体の措置によって、中央省庁はキャリア形成のコストを大きく抑えることが可能になっているのです。
さらに、中央省庁と地方自治体は「人事交流」という名目で職員をバーターでやりとりをするケースがほとんどですが、このとき中央省庁の官僚が地方自治体の管理職に任用されるのに対し、地方自治体職員は研修員や事務補助として最下層に位置づけられます(職員の年齢等によって一部例外はあります)。つまり、地方自治体は中央省庁の幹部養成機関として、中央省庁は地方自治体職員を事務補助の戦力として、それぞれの人材を受け入れているのであり、相互依存の関係にあるといえ、これを言い換えるなら、中央省庁は地方自治体から兵隊を刈り取りつつ地方自治体で幹部を養成しているのです。結果として当然、中央省庁は自らの構成員である官僚の管理職としてのスキルアップを低コストで調達するのに対し、地方自治体は職員を兵隊にとられた上に自らの構成員のスキルアップの場を中央省庁に提供することとなり、その格差は広がっていくことになります。
このように、官僚のスキルアップがⅡ種Ⅲ種採用公務員や地方自治体の犠牲の上に成り立つものである以上、少なくとも公務員という業界においては批判されてしかるべきものです。あえて「社会的知覚の欠如」というような挑発的な言葉で批判させていただきましたが、老婆心ながらwebmaster様にこのような人事の実態をご理解いただきたいとの思いで失礼を承知の上書かせていただきました。このようなこともすでに折り込み済みだということであれば平身低頭お詫び申し上げます。その他、縦割り等の論点については今回の内容とちょっと距離がありましたので、機会があれば別途まとめてみたいと考えておりますが、とりあえずの意見表明とさせていただきたいと存じます。ここまでお目通しいただきましてありがとうございました。
2005年05月28日 (土) | Edit |
実は以前bewaadさんの所http://www.bewaad.com/にメールしたことがあって、一応取り上げてももらったんであるが、あまりにとりとめもなく長いメールだったため、bewaadさんに論点を整理させてしまうという迷惑千万な次第。
さらにいろいろと言い足りないと気がはやって再メールさせていただくという暴挙に出たものの、さすがに2回も取り合ってくれるほどbewaadさんも甘くはなかった。
というわけで、このブログに全文曝しときます(決してネタがないからじゃないんですけど次の展開への伏線にでもなろうかと)。あまりに長いので今回は初めてメールしたときのものの前半をアップ。次回は後半、さらに次々回にその再メールを曝す予定。
・・・恥さらしとはこのことだよなぁ。
今年2月ころ
初めてメールいたします。ハンドルネームをマシナリとさせていただきます。よろしくお願いいたします。
私はとある県の地方公務員です。ご多分に漏れず疲弊しきった地元経済について考えているうちにリフレ派の考え方に興味を持ち、Hotwiredの稲葉振一郎さんの連載からたどって貴サイトを発見し、圧倒的な量と質を兼ね備えた思索に感服しながら拝見させていただいております。
さて、キャリア問題についての議論を拝見させていただいた際、人事に関する社会的な知覚の乏しさがこれほどよく表れている文章も珍しいと感じたので、ちょっと話に絡ませていただきたくメールいたしました。冒頭のご挨拶は決して当てこすりではなく正直な感想として書かせていただいておりますが、このキャリア問題については、議論の質の高さとは別の次元で貴サイトに通底する「実践的な視点の欠如」がもっとも集約された議論となっているのではないかと感じております。以下、そのような視点から、webmaster様の主張について思うところを指摘させていただきます。なお、言葉が至らない点やお気に障るような記述があるかもしれませんが、webmaster様も「高付加価値産業の地域分布:地方分権を考える際の材料の1つとして」でご指摘されていらっしゃるように、地方在住者の低付加価値に免じてご容赦いただければ幸甚に存じます。
まず、webmaster様がキャリア問題について議論する際の進め方についてですが、巷間よくあるような下世話な議論をキャリア反対派の論理として一定程度体系立たせて設定されていらっしゃいます。自説と対立する立場の主張をある程度の形にすることは、ブログのような場で自説の正当性を主張する際には必要な作業ではあるものの、その設定の仕方にバイアスがかかったり捨象が行われることもまたやむをえないことはいうまでもありません。[共有地の喜劇]:第 8幕での4点程度の整理までは妥当かもしれませんが、その後第9章から第12章までの各点についてのブレイクダウンがあまりに浅薄な印象を否めません。
順番に見ていきますが、まず第9章でwebmaster様は天下りを廃止した場合の対案を示してそれぞれの弊害を検証されています。しかし、天下りがキャリア官僚の退職後の待遇に関わる問題である以上、人員の退出・受入を通じた組織の維持・運営の問題としてとらえることが不可欠であり、そのためには天下りと新規採用とをリンクさせて考える必要があるのではないでしょうか。すなわち、一定の年齢で早期に退職することが、それに続く世代のキャリア官僚のキャリア形成にどのような影響を与えているかという視点が、webmaster様の議論には欠けていると思います。キャリア官僚であるwebmaster様がそのような視点をもてなかった理由を邪推するに、キャリア官僚の年次を決して逆転させない(最近はそうでない事例も増えつつあるようですが)ことが不文律となっていることとも関連しますが、出世欲以外のモチベーションしか持ち得ないカルチャーが、中央省庁の「組織の記憶」として脈々と受け継がれていることが問題なのだと考えます。カルチャーという漠然とした言い方になってしまいますが、ここでは理論化できない感情レベルの要素を持つ価値体系程度に定義させていただくとして、そのような制度に対応する態度決定が行動様式を規定するという点において、キャリア形成のモチベーションの一つとして看過できないものです。webmaster様のような議論の進め方では往々にして切り捨てられがちな部分ではありますが、そのような議論は、官僚であるwebmaster様が職務を通じて会得したであろう「理論のみで考える」という官僚の作法に則った思索の結果であると評価することが可能であり、さらにそれが冒頭に指摘した「社会的知覚」の欠如が感じられる遠因ともなっております。
その証左として、早期退職を維持することのデメリットとしてwebmaster様が指摘されている「老害」とは、いったいどのような弊害を指しているのかが不明です。同期採用が自分の上司になったり、自分が出世するポストがなくなることで、仕事へのモチベーションを失ってしまうことが問題なのでしょうか。それとも、仕事を続ける気がないのに仕事をさせられてしまうことがイヤなのでしょうか。そしてそのような官僚によって政策決定過程がゆがめられてしまうのでしょうか。いずれにしても、長年の経験で高度な政策形成能力を培ったいい年の大人が考えることにしてはあまりにナイーブに過ぎますし、政策形成を旨とする組織の運営としてもあまりに稚拙といわざるをえません。官僚であり続けるというモチベーションが国家の運営というような省庁の本来の設置目的から乖離していないのなら、同期採用の後塵を拝することになろうと、そのために低い役職に甘んじなければならないとしても(その役職がよっぽどの閑職なら話は別ですが)、与えられた職務の範囲で尽力するでしょう。やや脱線しますが、i種採用のキャリア官僚とはじめから幹部になれないii種・iii種採用の最大の違いは、決して「能力」の差ではなく、そのような諦観を所与のものとできるかどうかです。あるいは、意志決定過程の上層部に、定年間近の「感覚の古い」官僚がいて賞味期限の切れた政策を好むという問題があるのであれば、そもそも年功序列で昇進して同期採用の生き残りがトップに上り詰めるという前提から否定しなければならず、その場合天下りの問題は生じないことになります。また、官民問わずある程度の規模の組織において総合職や事務職といった職責上の区分があるにせよ、そのような組織すべてに上記のようなカルチャーがあるとは限りません。逆に言えば、(webmaster様が示された内容は不明ですが)「老害」等による弊害が発生すると組織運営が滞るので、それを未然に防ぐためのモチベーションを従業員に与え(若手の登用や中高年の専門職化等)、さらに「老害」を生むカルチャーが形成されないような組織運営上の措置(分社化や権限の現場への付与等)を講じるはずです。
天下りの禁止を求める背景には、天下り先に政府の予算がいびつな形で優先的に配分されたり、退職金などで私腹を肥やすという「いいとこ取り」に対するやっかみもありますが、「老害」を防ぐような組織運営もしないで「天下りしないとやっていけない」というような理論を持ち出す感覚や、それを醸成する官僚組織のカルチャーに対する不信感があります。経済学の言い振りを借りて「カルチャー」を「期待」と言い換えるなら、デフレ期待がデフレを招くように「天下り期待」が天下りを必要とするともいえましょう。多少逆説的ではありますが、天下りを当然視するカルチャーを廃し、天下りを前提にしたキャリア形成を否定して初めて、それぞれの職員が各々の持ち場で力を発揮するモチベーションを与える組織運営が可能になるのではないでしょうか。
(次回に続く)
さらにいろいろと言い足りないと気がはやって再メールさせていただくという暴挙に出たものの、さすがに2回も取り合ってくれるほどbewaadさんも甘くはなかった。
というわけで、このブログに全文曝しときます(決してネタがないからじゃないんですけど次の展開への伏線にでもなろうかと)。あまりに長いので今回は初めてメールしたときのものの前半をアップ。次回は後半、さらに次々回にその再メールを曝す予定。
・・・恥さらしとはこのことだよなぁ。
今年2月ころ
初めてメールいたします。ハンドルネームをマシナリとさせていただきます。よろしくお願いいたします。
私はとある県の地方公務員です。ご多分に漏れず疲弊しきった地元経済について考えているうちにリフレ派の考え方に興味を持ち、Hotwiredの稲葉振一郎さんの連載からたどって貴サイトを発見し、圧倒的な量と質を兼ね備えた思索に感服しながら拝見させていただいております。
さて、キャリア問題についての議論を拝見させていただいた際、人事に関する社会的な知覚の乏しさがこれほどよく表れている文章も珍しいと感じたので、ちょっと話に絡ませていただきたくメールいたしました。冒頭のご挨拶は決して当てこすりではなく正直な感想として書かせていただいておりますが、このキャリア問題については、議論の質の高さとは別の次元で貴サイトに通底する「実践的な視点の欠如」がもっとも集約された議論となっているのではないかと感じております。以下、そのような視点から、webmaster様の主張について思うところを指摘させていただきます。なお、言葉が至らない点やお気に障るような記述があるかもしれませんが、webmaster様も「高付加価値産業の地域分布:地方分権を考える際の材料の1つとして」でご指摘されていらっしゃるように、地方在住者の低付加価値に免じてご容赦いただければ幸甚に存じます。
まず、webmaster様がキャリア問題について議論する際の進め方についてですが、巷間よくあるような下世話な議論をキャリア反対派の論理として一定程度体系立たせて設定されていらっしゃいます。自説と対立する立場の主張をある程度の形にすることは、ブログのような場で自説の正当性を主張する際には必要な作業ではあるものの、その設定の仕方にバイアスがかかったり捨象が行われることもまたやむをえないことはいうまでもありません。[共有地の喜劇]:第 8幕での4点程度の整理までは妥当かもしれませんが、その後第9章から第12章までの各点についてのブレイクダウンがあまりに浅薄な印象を否めません。
順番に見ていきますが、まず第9章でwebmaster様は天下りを廃止した場合の対案を示してそれぞれの弊害を検証されています。しかし、天下りがキャリア官僚の退職後の待遇に関わる問題である以上、人員の退出・受入を通じた組織の維持・運営の問題としてとらえることが不可欠であり、そのためには天下りと新規採用とをリンクさせて考える必要があるのではないでしょうか。すなわち、一定の年齢で早期に退職することが、それに続く世代のキャリア官僚のキャリア形成にどのような影響を与えているかという視点が、webmaster様の議論には欠けていると思います。キャリア官僚であるwebmaster様がそのような視点をもてなかった理由を邪推するに、キャリア官僚の年次を決して逆転させない(最近はそうでない事例も増えつつあるようですが)ことが不文律となっていることとも関連しますが、出世欲以外のモチベーションしか持ち得ないカルチャーが、中央省庁の「組織の記憶」として脈々と受け継がれていることが問題なのだと考えます。カルチャーという漠然とした言い方になってしまいますが、ここでは理論化できない感情レベルの要素を持つ価値体系程度に定義させていただくとして、そのような制度に対応する態度決定が行動様式を規定するという点において、キャリア形成のモチベーションの一つとして看過できないものです。webmaster様のような議論の進め方では往々にして切り捨てられがちな部分ではありますが、そのような議論は、官僚であるwebmaster様が職務を通じて会得したであろう「理論のみで考える」という官僚の作法に則った思索の結果であると評価することが可能であり、さらにそれが冒頭に指摘した「社会的知覚」の欠如が感じられる遠因ともなっております。
その証左として、早期退職を維持することのデメリットとしてwebmaster様が指摘されている「老害」とは、いったいどのような弊害を指しているのかが不明です。同期採用が自分の上司になったり、自分が出世するポストがなくなることで、仕事へのモチベーションを失ってしまうことが問題なのでしょうか。それとも、仕事を続ける気がないのに仕事をさせられてしまうことがイヤなのでしょうか。そしてそのような官僚によって政策決定過程がゆがめられてしまうのでしょうか。いずれにしても、長年の経験で高度な政策形成能力を培ったいい年の大人が考えることにしてはあまりにナイーブに過ぎますし、政策形成を旨とする組織の運営としてもあまりに稚拙といわざるをえません。官僚であり続けるというモチベーションが国家の運営というような省庁の本来の設置目的から乖離していないのなら、同期採用の後塵を拝することになろうと、そのために低い役職に甘んじなければならないとしても(その役職がよっぽどの閑職なら話は別ですが)、与えられた職務の範囲で尽力するでしょう。やや脱線しますが、i種採用のキャリア官僚とはじめから幹部になれないii種・iii種採用の最大の違いは、決して「能力」の差ではなく、そのような諦観を所与のものとできるかどうかです。あるいは、意志決定過程の上層部に、定年間近の「感覚の古い」官僚がいて賞味期限の切れた政策を好むという問題があるのであれば、そもそも年功序列で昇進して同期採用の生き残りがトップに上り詰めるという前提から否定しなければならず、その場合天下りの問題は生じないことになります。また、官民問わずある程度の規模の組織において総合職や事務職といった職責上の区分があるにせよ、そのような組織すべてに上記のようなカルチャーがあるとは限りません。逆に言えば、(webmaster様が示された内容は不明ですが)「老害」等による弊害が発生すると組織運営が滞るので、それを未然に防ぐためのモチベーションを従業員に与え(若手の登用や中高年の専門職化等)、さらに「老害」を生むカルチャーが形成されないような組織運営上の措置(分社化や権限の現場への付与等)を講じるはずです。
天下りの禁止を求める背景には、天下り先に政府の予算がいびつな形で優先的に配分されたり、退職金などで私腹を肥やすという「いいとこ取り」に対するやっかみもありますが、「老害」を防ぐような組織運営もしないで「天下りしないとやっていけない」というような理論を持ち出す感覚や、それを醸成する官僚組織のカルチャーに対する不信感があります。経済学の言い振りを借りて「カルチャー」を「期待」と言い換えるなら、デフレ期待がデフレを招くように「天下り期待」が天下りを必要とするともいえましょう。多少逆説的ではありますが、天下りを当然視するカルチャーを廃し、天下りを前提にしたキャリア形成を否定して初めて、それぞれの職員が各々の持ち場で力を発揮するモチベーションを与える組織運営が可能になるのではないでしょうか。
(次回に続く)
2005年05月09日 (月) | Edit |
やはり、この2週間は福知山線の事故が最大の関心事でした。多数の犠牲者の方々のご冥福をお祈りいたします。
さて、
叩けるときに全部叩いとけといわんばかりのJR西バッシングが繰り広げられております。マスコミも叩く勘所を間違えるとあとで痛いしっぺ返しを食うだろうに、その辺にしておいた方がいいのではないかと老婆心ながら考えてしまいます。
何のことかというと、例のJR西の社員が事故当日やその直後にボーリングしたり宴会していたという報道です。会社の体質を問うという姿勢は大事ですが、あまり些末なことにフォーカスを当てすぎると肝心なことがおろそかになるというのは当然の理。
ここで問題とすべきは、「あの車両がなぜ猛スピードであのカーブに突っ込んでいったのか」、「その背景にあった事情(過密ダイヤ?車体の欠陥?)は何か」、「それはどのようにすれば改善できるのか」というところだろうに、「その背景にあった事情」の一要因であるJR西という会社の体質ばかりをバッシングしても、その前の「あの車両がなぜ~」とその次の「どうすれば改善できるか」という問題の解決にはあまり直結しないと思われるわけです。
もっと具体的に言えば、
「事故車両に乗り合わせていた運転手が救助活動もしないで出勤してそのまま運転した」
といえば確かに責任放棄にも聞こえるけど、
「事故車両に乗り合わせた運転手は、その場の状況において自らの役割は必要とされていないと確認して、自らの運転業務に影響が出ないよう速やかに出勤し、その後の担当車両の運行に支障は生じなかった」
といえば、緊急事態において的確に判断したとも評価は可能なのです(念のため、もちろん「その場の状況において自らの役割は必要とされていないと確認して」の部分は私の勝手な推測なので、本当にそう評価すべきかどうかは別として、可能性としてはあるということ)。
実際問題として、一路線で大惨事が起きたからといってその他の路線が機能停止する(マスコミがいうように全社員が自分の仕事も放り出して待機したり、現場に駆けつけて救助活動を行うということはそういうこと)ようではそもそも鉄道事業体としての体をなしていないわけで、その他の路線は粛々と安全運行を徹底するだけでいいはず。むしろ、他の路線での事故再発防止のため、安全確認などのために他の路線の人員を拡充することだって対応としてはあり得るわけで、事故車両に乗っていた運転手を出勤させたことは、JR西の人員が限られている中では決して間違った判断とも言い切れないだろう。ボーリング大会や宴会も業務に影響のない範囲で行われていたのなら、実害はなかった限りにおいて許容されてもいいのではないかと思う。
誤解しないでほしいのは、遺族の感情に対する配慮が要らないといっているわけじゃないということ。遺族や周辺住民に対する配慮は最大限必要だろうし、ボーリング大会や宴会がそれを逆なでするというのなら、その範囲で自粛することも必要だろう。でも、その「範囲」ってどこまでなの?っていう疑問がどうしても残るのです。
なんだか昭和天皇崩御のときの自粛ブームにも似た一種のヒステリアを想起してしまうので、この問題はあまり突っ込まないことにしておきましょう。
それよりさっき上げた3点の後半2点について考えてみると、JR西の安全措置の貧弱さの根元はマスコミがいうようなJR西の安全軽視の体質とかよりもっと根が深いと個人的には思う(「あの車両がなぜ~」という問題は素人の俺が論じるにはあまりにテクニカルなので専門家にお任せします)。
経営の視点からすると私鉄との競争もあるだろうし、投資に見合う収益があれば安全措置はもっと進むわけで、具体的には利用者のニーズが「早くきめ細かく運行するより安全な方がいい」というところにあったのなら、もしかしたらこの事故は起きなかったかもしれない。国鉄がJR各社に分割民営化されて私企業となった以上、効率的な経営を進めるのは株主に対する責任としてもっとも優先されるべきものであり、そこに安全対策をおろそかにする経営上の判断があったとしても、それは株主、ひいては収益をもたらす利用者のニーズに従っただけという抗弁が成り立つ余地はある。
結果として事故を起こした以上、株主にも利用者にも多大な損失を与えたとしてその経営判断は糾弾されるべきではあるとしても、今後の事故再発防止のためには、JR西の経営陣が株主や利用者に対する姿勢を改めることが不可欠ではないかと思われます。
もう一つ、労組の問題。あの「国労」を前身とするJRの労組は、現在では国労や労協などの強硬派は少数となり、親使用者的(はっきりいえば御用組合)のJR労組(JR西ならJR西労組、JR東ならJR東労組)が多数派となっています。ここに至った経緯があまりにも複雑なので詳細は省略しますが、国鉄民営化のどさくさに紛れてJRの経営陣は国労の穏健派を取り込んでJR労組を御用組合化としました。他方、労組法上の団交のルールからいえば使用者側はすべての併存組合と個別に交渉を行う義務があるものの、事実上多数派組合、すなわちJR労組との妥結内容がすべての労働者に適用されることなります。つまり、JRの経営陣はJR労組と蜜月関係にある限り、国鉄時代に苦しめられた労働争議の心配をすることなく経営の効率化に専念できるようになったわけです。
と、ここまでくれば雪印でおなじみのとおり、経営者の意を汲む御用組合が労働者を牛耳っている企業においては、労働者による内部のチェック体制がどんどん崩壊していくのが世の常。ここからは個人的な推測になりますが、国鉄時代に国労でさんざん労働者の権利を主張していた40~50代の社員がJR西労組の中核となって労働者に睨みを利かせる中で、中堅となる30代の社員もおらず、民営化後に入社した20代の社員がものをいえる状況ではなかったのだろうと思う。これはマズイと思っても、安全対策を犠牲にした過密ダイヤやATCの設置の遅れ、もっと些末なことならボーリング大会の中止とか(あ、ここでつなげてしまった)いえる雰囲気ではなかったのかもしれません。
もし、マスコミがそれをもって「JR西の体質」云々というなら、俺も理解できる。しかし、労組が「車掌は会社に嘘の証言を強要された」とか「日勤教育がどうのこうの」とか言ったり、経営者側が社員のボーリング大会とか宴会を「非常に情けない」とかいいながら公表するのをみると、どうも経営者側と労働者側の暴露合戦、責任のなすりつけ合いにしか見えないんである。マスコミがそれに乗って騒いでいるだけなら、そろそろ目を覚ました方がいい。
さて、
叩けるときに全部叩いとけといわんばかりのJR西バッシングが繰り広げられております。マスコミも叩く勘所を間違えるとあとで痛いしっぺ返しを食うだろうに、その辺にしておいた方がいいのではないかと老婆心ながら考えてしまいます。
何のことかというと、例のJR西の社員が事故当日やその直後にボーリングしたり宴会していたという報道です。会社の体質を問うという姿勢は大事ですが、あまり些末なことにフォーカスを当てすぎると肝心なことがおろそかになるというのは当然の理。
ここで問題とすべきは、「あの車両がなぜ猛スピードであのカーブに突っ込んでいったのか」、「その背景にあった事情(過密ダイヤ?車体の欠陥?)は何か」、「それはどのようにすれば改善できるのか」というところだろうに、「その背景にあった事情」の一要因であるJR西という会社の体質ばかりをバッシングしても、その前の「あの車両がなぜ~」とその次の「どうすれば改善できるか」という問題の解決にはあまり直結しないと思われるわけです。
もっと具体的に言えば、
「事故車両に乗り合わせていた運転手が救助活動もしないで出勤してそのまま運転した」
といえば確かに責任放棄にも聞こえるけど、
「事故車両に乗り合わせた運転手は、その場の状況において自らの役割は必要とされていないと確認して、自らの運転業務に影響が出ないよう速やかに出勤し、その後の担当車両の運行に支障は生じなかった」
といえば、緊急事態において的確に判断したとも評価は可能なのです(念のため、もちろん「その場の状況において自らの役割は必要とされていないと確認して」の部分は私の勝手な推測なので、本当にそう評価すべきかどうかは別として、可能性としてはあるということ)。
実際問題として、一路線で大惨事が起きたからといってその他の路線が機能停止する(マスコミがいうように全社員が自分の仕事も放り出して待機したり、現場に駆けつけて救助活動を行うということはそういうこと)ようではそもそも鉄道事業体としての体をなしていないわけで、その他の路線は粛々と安全運行を徹底するだけでいいはず。むしろ、他の路線での事故再発防止のため、安全確認などのために他の路線の人員を拡充することだって対応としてはあり得るわけで、事故車両に乗っていた運転手を出勤させたことは、JR西の人員が限られている中では決して間違った判断とも言い切れないだろう。ボーリング大会や宴会も業務に影響のない範囲で行われていたのなら、実害はなかった限りにおいて許容されてもいいのではないかと思う。
誤解しないでほしいのは、遺族の感情に対する配慮が要らないといっているわけじゃないということ。遺族や周辺住民に対する配慮は最大限必要だろうし、ボーリング大会や宴会がそれを逆なでするというのなら、その範囲で自粛することも必要だろう。でも、その「範囲」ってどこまでなの?っていう疑問がどうしても残るのです。
なんだか昭和天皇崩御のときの自粛ブームにも似た一種のヒステリアを想起してしまうので、この問題はあまり突っ込まないことにしておきましょう。
それよりさっき上げた3点の後半2点について考えてみると、JR西の安全措置の貧弱さの根元はマスコミがいうようなJR西の安全軽視の体質とかよりもっと根が深いと個人的には思う(「あの車両がなぜ~」という問題は素人の俺が論じるにはあまりにテクニカルなので専門家にお任せします)。
経営の視点からすると私鉄との競争もあるだろうし、投資に見合う収益があれば安全措置はもっと進むわけで、具体的には利用者のニーズが「早くきめ細かく運行するより安全な方がいい」というところにあったのなら、もしかしたらこの事故は起きなかったかもしれない。国鉄がJR各社に分割民営化されて私企業となった以上、効率的な経営を進めるのは株主に対する責任としてもっとも優先されるべきものであり、そこに安全対策をおろそかにする経営上の判断があったとしても、それは株主、ひいては収益をもたらす利用者のニーズに従っただけという抗弁が成り立つ余地はある。
結果として事故を起こした以上、株主にも利用者にも多大な損失を与えたとしてその経営判断は糾弾されるべきではあるとしても、今後の事故再発防止のためには、JR西の経営陣が株主や利用者に対する姿勢を改めることが不可欠ではないかと思われます。
もう一つ、労組の問題。あの「国労」を前身とするJRの労組は、現在では国労や労協などの強硬派は少数となり、親使用者的(はっきりいえば御用組合)のJR労組(JR西ならJR西労組、JR東ならJR東労組)が多数派となっています。ここに至った経緯があまりにも複雑なので詳細は省略しますが、国鉄民営化のどさくさに紛れてJRの経営陣は国労の穏健派を取り込んでJR労組を御用組合化としました。他方、労組法上の団交のルールからいえば使用者側はすべての併存組合と個別に交渉を行う義務があるものの、事実上多数派組合、すなわちJR労組との妥結内容がすべての労働者に適用されることなります。つまり、JRの経営陣はJR労組と蜜月関係にある限り、国鉄時代に苦しめられた労働争議の心配をすることなく経営の効率化に専念できるようになったわけです。
と、ここまでくれば雪印でおなじみのとおり、経営者の意を汲む御用組合が労働者を牛耳っている企業においては、労働者による内部のチェック体制がどんどん崩壊していくのが世の常。ここからは個人的な推測になりますが、国鉄時代に国労でさんざん労働者の権利を主張していた40~50代の社員がJR西労組の中核となって労働者に睨みを利かせる中で、中堅となる30代の社員もおらず、民営化後に入社した20代の社員がものをいえる状況ではなかったのだろうと思う。これはマズイと思っても、安全対策を犠牲にした過密ダイヤやATCの設置の遅れ、もっと些末なことならボーリング大会の中止とか(あ、ここでつなげてしまった)いえる雰囲気ではなかったのかもしれません。
もし、マスコミがそれをもって「JR西の体質」云々というなら、俺も理解できる。しかし、労組が「車掌は会社に嘘の証言を強要された」とか「日勤教育がどうのこうの」とか言ったり、経営者側が社員のボーリング大会とか宴会を「非常に情けない」とかいいながら公表するのをみると、どうも経営者側と労働者側の暴露合戦、責任のなすりつけ合いにしか見えないんである。マスコミがそれに乗って騒いでいるだけなら、そろそろ目を覚ました方がいい。
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