■スターリンの暗殺者「第五章 標的」20
【五章の主な登場人物】
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手
■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント
■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人 戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男
■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている
■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事
■ジャック・デュバル メジャーリーガー
■レティシア・レイク ハリウッドの女神
■ジョン・フォスター・ダレス アメリカ合衆国国務長官
■1953年2月12日 東京・代々木
「警視庁公安部が発見した男は、米軍基地の連続爆破犯、横須賀基地近くのバーを爆破し米兵を多数殺傷した犯人、李承晩暗殺未遂犯と断定してもいいだろう」
ロバート・パウエルはポール・バネンとマイケル・ダーンを前に、日本側から入った情報を詳細に説明した。
「警視庁公安部の刑事が、そのアパートにいったのは偶然だったということですか」と、マイケル・ダーンが訊いた。
「そうだ。たまたま別の件を調べていたらしい」
「その刑事が会った、在日朝鮮人のやくざ。身柄確保して尋問したい」と、ポール・バネンが言った。
「ところが、金山を確保しようと、警察が改めて松原組へいったところ、姿を消していた。組の誰もが行方は知らないと答えた」
「そのやくざは、間違いなく北朝鮮の組織とつながっているはずだ」と、ポール・バネンは苛立ちを隠さなかった。「その刑事は何だって、怪しんだ段階でアパートの男を逮捕しなかったんだ」
「周辺の調査を優先したのだろう。民主警察だから、証拠固めをしてからと考えたのかもしれん。もっとも、その刑事は戦前は特高警察で思想弾圧をしていたらしいがね」
「我々は、拷問も自白剤も躊躇しない」と、マイケル・ダーンが言う。
「確保してある北朝鮮工作員のふたり、その後、何か自白したかね」と、ロバート・パウエルは訊いた。
「先日までの情報以外、何も知らないようです。もっと情報を持っている人間を、確保すべきでした」
マイケル・ダーンは、ポール・バネンに当てつけるような言い方をした。
「彼らは、情報を集中しない。ひとりひとりは個別の断片的な指令しか受けないので、断片情報しか知らないのだ。すべての情報を握っている人間は、平壌にいる」と、ポール・バネンが言った。
「とすると、その男につながるルートは何もないということか」と、マイケル・ダーンが落胆したように言う。
「男の部屋からは、何も見つからなかった。指紋はいくつか出たが、データベースにヒットするものはなかった。ただ、警察の聞き込みの中で、いくつか判明したことがある」
ロバート・パウエルは、そこで言葉を切った。もったいぶっていると思うだろうが、その男に関しての手がかりはそれしかないのだ。ポール・バネンとマイケル・ダーンはロバート・パウエルの言葉を待っていた。
「複数の住人の証言によると、その男は二階に住んでいる花井光子と関係ができていた。花井光子は、アパートの近くで呑み屋を開いている。元はRAAの娼婦だった。警察は花井光子を連行して尋問した。女は男については何も知らなかったが、八日の日曜日に初めてふたりで出かけたと話した」
「どこへ?」
ポール・バネンが訊いた。自然と口に出たらしい。
「ふたりは水道橋駅で待ち合わせ、その周辺を隈なく歩いたらしい」
「あそこには、後楽園球場がある」と、ポール・バネンが言った。
「そうだ。女連れなら怪しまれずに周辺を調べられる」
「その女は?」と、マイケル・ダーンが口を挟んだ。
「二十四時間の監視を付けてある」と、ロバート・パウエルは答えた。
「俺も、そのチームに加えてもらおう」
立ち上がりながらポール・バネンが言った。現場に戻りたいのだ。国務長官の来日まで、もう十日を切っていた。
■1953年2月12日 東京・上野
男は酒やビールケースが積み上げられた三畳の部屋で、丸一日近くを過ごしていた。追跡を振り切った後、男は吾妻橋を超えた隅田川沿いでオート三輪を降りた。爆薬類を入れたトランクと狙撃用ライフルを収納した楽器ケースは、オート三輪の荷台に残したままだった。あの男に渡すよう連絡員に託す。
「あなたは、どこへ?」と、若い連絡員は言った。
その連絡員が部屋に飛び込んできて合言葉を口にした時、若すぎると男は思った。若いということは、経験不足ということだ。この仕事では、経験不足は致命的なこともある。しかし、よほど緊急だったのだろうと推察した。あの男は、緊急事態でない限り、万全の態勢を取るはずだ。しかし、若い連絡員が「どこへ?」と訊いたことで、改めて未熟さを感じた。
「必要があれば、連絡する」と男は言って、隅田川沿いを下りタクシーを拾った。もう一個の革のトランクには、手榴弾と短機関銃と大型拳銃、それに弾薬がたっぷり入っている。その分、重さは相当なもので、よくアパートから抱えてくることができたものだと思う。連絡員がいなければ、どちらかのトランクはあきらめねばならなかっただろう。連絡にオート三輪と人を寄こしたのは、あの男なりの配慮だったのだ。
しかし、衣類や細々としたものを入れていたボストンバッグも、あの男が現れなければ持ち出せたのだ。問題は、サイドポケットに入れておいた資料やメモだ。押収されたとすれば、こちらの狙いを読み解かれるかもしれない。だとしても、計画を中断するわけにはいかない。あの資料やメモ、雑誌が押収されたことを前提に計画を立て直すしかない。
隅田川沿いを下り再び橋を渡り、光子の店から少し離れた場所でタクシーを降りた。すでに夕暮れを迎えていた。トランクを提げて光子の店と反対の方向に向かい、路地に入った。路地裏沿いに光子の店に向かう。光子が開店の準備をしているのはわかっていた。
光子の店に隠れるのは賭けだったが、「平和荘」の様子を知りたかったのと、「灯台下暗し」という日本のことわざが浮かんだからだ。ただ、光子と梶のことはアパートの住人に知られている。梶につながる光子が、警察の監視対象になる可能性はあった。しかし、それを逆手に使えるかもしれない。
男の出現に、光子は驚いた顔をした。男は「匿ってくれないか」と言っただけだった。光子は物置にしている小部屋に男を匿い、「しばらく我慢して」と言った。
「ここに警察はきたか?」
「ううん」
「たぶん、今頃はアパートの住人が警察に聴取されている。きみとの関係も知られるだろう。とすると、きみはしつこく尋問される」
「どうすればいいの?」
「本当のことを言うんだ。私のことは何も知らない、それは本当だろ」
「そうね。この間のことは?」
「きみは尋問に慣れていないから、事実を言えばいい。私を匿っていること以外は----」
彼らは、後楽園球場のことを知るだろう。あのボストンバッグを押収された段階で、それは知られてしまったことだ。光子が話したところで変わりはない。その情報が奴らに渡ったことによって、ミスリードできる可能性がある。標的が何なのか、彼らは戸惑うだろう。男は計画を練り直した。
その夜、アパートに帰った光子は、警察署まで連行されて事情聴取されたという。アパートの住人たちは事情がわからないまま聴取され、逃亡していた殺人犯だとか、北朝鮮の工作員だったとか、地下に潜っていた共産党幹部だったとか、梶について様々な憶測が飛んでいた。
光子は、今日もいつもと同じように午後に店に現れ、準備を始めた。警察は、梶がいた部屋を封鎖しているが、警官が一名交代でいるだけで、刑事たちは引き上げたと光子は言った。問題は、梶との関係で光子が監視対象になっている可能性があることだった。ただし、光子を監視しているのなら、彼女が移動すれば監視している奴らも移動するはずだ。
二十四時間、ここにいるのはそれが限度だと男は思った。アパートを調べたのは、警視庁の人間だけだったという。昨日、アパートを飛び出した男を追ってきたのは、赤坂のアパートに出現した男なのか。あの男は「ヴォールクか」と口にした。あの男は、なぜ梶のアパートがわかったのだろう。
連絡員の話では、アパートの部屋を手配した男のところに刑事がきたので、急いで撤退を知らせにきたということだった。逃げる途中で振り向いた時、「ヴォールク」と言った男はふたりの男に追われていたようだ。遠くてはっきり確認できなかったが、あのふたりが刑事だとすれば、あの男も警察に追われている。
これまでの梶の動きは、ほぼ知られていると考えるべきだ。追っているとしたら、警察を始めとした日本の官憲、それに米国の情報組織、米軍の情報部やМPも考えられる。それ以外に、どんな存在があるだろう。ソ連の組織か。しかし、男はスターリンの命令を実行しているのだ。スターリンに反旗を翻す奴がソ連内にいるだろうか。
今夜、光子が店を閉めて帰った段階で、光子には知らせずに男は別の場所に移動するつもりだった。もう「平和荘」の様子を知る必要はない。今のところ、米軍関係、CIAの影は見えていない。だとすれば、目的の日まで、どこかで身を隠しておくのが最も賢明な判断だった。
■1953年2月12日 東京・新宿
「きみたちには、もう頼らないつもりだったのだが----」と、藤崎は言った。
新宿の渡辺の家で、四人の男は集まっていた。藤崎が吹き出しそうになったのは、渡辺が昨日の出来事を語り終わり、東金に「どうして、Wさんは、そのアパートにいたんですか?」と訊かれた時だった。
渡辺は、突然、しどろもどろになった。それまで理路整然と話していただけに、その変化は藤崎の笑いを誘った。上島も東金も理由がわからないまま、藤崎が笑うのにつられて笑みを浮かべた。
「そのことは、〈ヴォールク〉とは関係ないから」と、渡辺は答えるしかなかった。
「話しておいたら、どうだい」と、藤崎は促した。
渡辺が藤崎を見て、躊躇する。決断の早い男だったが、プライベートなこと、特に女のこととなると、照れてしまうのかもしれない。四十半ばの男のくせに、まるで少年のようにはにかんだ。
「代わりに話しておこう。彼は、満州時代の女性と再会したんだ。向こうは引揚げで苦労して、今もいろいろ大変らしいのだが、再会して焼けぼっくいに火が点いたらしい。その女性が、たまたま平和荘の二階に住んでいた」
「だから、その部屋からアパートの出入りを見張っていたんですね」と、東金が確認する。
「Fを刑事たちが追っている間に部屋から持ってきたのが、このバッグなんだな」と、上島は渡辺に確認するように言ってバッグを開いた。
中身を、すべてテーブルの上に出す。衣類を一点一点、点検する。衣類に何かがくるまれていることはなかった。サイドポケットを開くと、折りたたんだ紙と何枚かのメモ用紙が出てきた。さらに、「週刊朝日」と「月刊平凡」があった。上島は、それらを丁寧に広げる。雑誌はページを繰って、何かが挟まれていないかを確認した。栞のように一枚のメモが「月刊平凡」のグラビアページに挟まれていた。
「これを、見てみろ」と、折りたたまれた紙を広げて上島が言った。「後楽園球場の図面だぜ。配管、電気の配線までわかる」
全員が、その広げられた図面を見下ろした。
「後楽園球場は、二年前にナイター設備を設置する工事が行われた。これは、その時に起こした図面じゃないか。ナイターの照明灯が描き込まれている」と、渡辺が言った。
「すでに調べておいたってわけかい。手まわしがいい」と、上島が言った。
「東京大空襲の時、最初に作られたスコアボードが焼けちまった。それが三年ほど前、昭和二十四年に二代目のスコアボードが完成したんだ。もう一枚の図面は、その時のものらしい。スコアボードの構造が詳細にわかる」と、渡辺が説明する。
「スコアボードは、バックネットのVIP席の真正面になるのか」と、藤崎が訊いた。
「三年前のスコアボードの改修で、以前より位置が高くなっているらしい。試合中はスコアボード裏に係員がいて、ヒットが出たり、点が入ったりすると、数字のボードを入れ替える作業をやっている。選手交替だと、選手名のボードも入れ替えなきゃならない。けっこう忙しいぜ」と、渡辺が答えた。
「何人だ?」
「少なくとも、ひとりではないだろう」
「スコアボード裏から、観覧席にいる人物を狙撃する?」と、東金が言った。「〈ヴォールク〉なら、スコアボードの係員を殺してでも実行するでしょうね」
「標的は、この記事に出ている人物の可能性が高いな」と、上島が「週刊朝日」の頁を開いて見せた。
そのページの見出しには、「新国務長官、日米野球の親善試合を観戦予定」とあった。ジョン・フォスター・ダレス国務長官は二月二十一日に来日し、翌日に後楽園球場で予定されている日米代表チームの親善野球試合を観戦する予定、と記事は詳細を伝えていた。
「〈ヴォールク〉の狙いは、それか」と、渡辺が言った。
「国務長官を暗殺されたら、アイゼンハワー新大統領は朝鮮戦争の休戦交渉に入るどころじゃなくなりますね」と、東金が冷静に言った。
上島は、他のメモを一枚一枚丁寧に見ていた。手描きのメモを取り上げて、じっと見る。
「これは、〈ヴォールク〉が自分で確かめて描いた周辺の詳細な地図らしい。目印になるようなものも書き加えられている。Tよ、ここから何か読み取れるか」と、上島は東金に言った。
東金は手描きの地図を受け取り、じっと見つめる。球場を中央に置き、水道橋駅までのルートと白山通りや目白通りなど幹線道路も描かれている。二年前に池袋駅で起工式が行われた地下鉄丸の内線の工事地域も描き込まれていた。丸ノ内線の後楽園駅が完成すれば、水道橋駅より球場には近くなる。その工事中の地域の一角に「▽」マークが描き込まれていた。
「逃走ルートの検討をしたんでしょうかねぇ」と、東金は首をひねった。「地下鉄工事中のルートを通れば、追っ手を攪乱できるかもしれない」
「その可能性はあるな。ところで、『月刊平凡』に栞が挟まっていたけど、どんなページだった」と、藤崎は言った。
渡辺が、そのページを広げた。「ハリウッド女優と野球界のヒーロー結婚」と大きな見出しが踊っている。金髪の美人女優とニューヨーク・ヤンキースのユニフォームを着た大柄な白人男の写真が大きく載っている。
「レティシア・レイクとジャック・デュバルですよ。先日、結婚した。米国中の話題を独占しています。ジャック・デュバルがアメリカン・チームの一員として親善試合に出場するので、ついでに日本で新婚旅行だそうです。試合が終われば、京都奈良へいくらしいですよ。この記事にも出ています」と、東金が詳しく解説した。
「それで、〈ヴォールク〉はこの雑誌も確認していたのか。当然、その女優も試合当日は観戦するんだろうな」と、藤崎が言う。
「米国政界のVIP、人気絶頂のハリウッド女優、それに米国野球界のヒーロー、三人が揃うってわけか」と、上島が指摘した。
「ジャック・デュバルってのは、米国のヒーローなのか。日本で言えば、誰だ?」と、渡辺が訊く。
「まったく、野球オンチなんだから。日本人選手で言えば、全盛期の川上哲治かな」と、東金が答えた。
「川上自体がよくわからん」と渡辺が言い、他の三人が笑った。
「ところで、『平和荘』の梶と名乗っていた男だが、二階に住んでいた女と関係ができていた。その女は警察でしつこく尋問された。その女を張っていれば、梶が現れるかもしれないと考える奴もいる」と、渡辺が言った。
「警察か」と、上島が訊いた。
「いいや、米軍関係者じゃないかと思う。昨夜から女を監視している連中の中に白人がいる」
「CIAか」と、藤崎が言った。「あいつら、日本の警察ほど甘くない」
「その女、何て名だ?」と、何気なく上島が訊いた。
「花井光子。アパートの近くで、呑み屋をひとりでやっている」
渡辺がそう答えた途端、上島が立ち上がった。渡辺を見つめる。
「いくつだ、その女」と、上島の顔色が変わっていた。
「二十代後半かな」
「その女のところへ連れてってくれ」と、上島は今にも飛び出しそうだった。
「何なんだ、その女」と、藤崎が訊いた。
「妹----、かもしれない」と、上島がじっと左手を見ながらつぶやいた。
■1953年2月12日 東京・上野
ポール・バネンは、花井光子がのれんを仕舞いながら、駐車した大型車を気にしている様子をビルの二階の窓から見ていた。夜の十一時を過ぎ、人通りは少なくなっているし、少ない外灯の周辺を除いて辺りは闇に包まれている。
昨夜から監視を始めたが、二十四時間経っても動きはなかった。そこで、ポール・バネンは、あえて監視を気付かせることにした。光子の店の正面に大型の米国車を駐車し、誰が見ても監視していることがわかるようにした。
酔客たちは店を出ると怪訝そうに大型車を見て、その中にふたりの白人が座っているのに気付き目を反らせた。中には、わざわざ店に戻る者もいた。おそらく、女将の光子に知らせているのだろう。
ここまで監視をあからさまにして、まったく動きがなかったら、光子は梶と名乗っていた男の居場所はおそらく知らない。また、店内に男が匿われている可能性もないだろう。もし、男が店内に匿われていたら、何らかの反撃に出るかもしれない。
大型車に乗っているふたりは、自分たちが囮であることを知っているし、充分に警戒をしている。ポール・バネン自身は、その大型車と店の入口の両方が見える斜め前の建物の二階に潜んでいた。一階が喫茶店で二階は喫茶店のオーナーの自宅だったが、その一室を提供させたのだ。
花井光子が店に戻ってから二十分が過ぎた。昨夜はのれんを仕舞うとすぐに店の灯りを落とし、アパートへ帰った。それに比べ、二十分という時間は長過ぎた。監視をあからさまにして四時間、客も帰り、店仕舞いをして、中で何をしているのか。ポール・バネンは無線機を取り出し、大型車のふたりを呼び出した。
「のれんを仕舞ってから時間がかかっている。警戒しろ」
「了解」
その時、突然、店の灯りが消えた。店の灯りに照らされていた周囲は、急に闇に包まれた。ポール・バネンが視線を移すと、外灯の淡い光の輪の外にはいたが、大型車は微かな光に浮かび上がっていた。まずい、とポール・バネンは思った。
「すぐに、車を出ろ」と、無線機に向かって叫んだ。
その時、ガラガラと大きな音を立てて店の入口の引き戸が開いた。その音に注意を引かれ、思わず目を移した時、店の奥の暗闇から何かが投げられた。ふたりは車から出ようと、運転席と助手席のドアを開けたところだった。その車のボンネットに何かが撥ねた。
「手榴弾だ」と、ポール・バネンは窓を開け放って怒鳴った。
ふたりは車の後方に走った。短機関銃の掃射音がした。その時、手榴弾が爆発した。
★
「まだ、外に大型の米国車が駐車している。中にいるのは白人ふたりだと、お客が教えてくれたわ」と、光子は言った。
「監視しているのだと教えているのだ。こちらをおびき出そうとしている」と、男は答えた。
「ここにいるのを知っているのかしら」
「いや、それがわからないから監視していることを、わかるようにしたのだろう」
「どうするの?」
「大型の米国車で白人が乗っている。つまり、米軍関係か、CIAか。どちらにしろ、手荒なことをやってくるかもしれないな。日本の警察とは違う」
男は、トランクを開いた。四十五口径の大型拳銃を取り出し、挿弾子を点検して挿入し、銃身をスライドさせて一発を薬室に送り込み、安全装置をかけ、背中の位置でベルトに挟んだ。予備の挿弾子を二個ジャケットの左右のポケットに入れる。右足のズボンの裾をまくり上げ、軍用ナイフをテープで脚に張り付けた。
短機関銃の弾倉をふたつ取り出し、上下を逆にしてテープでしっかりと固定する。ひとつの弾倉が空になれば引き抜き、上下を逆にして挿入すれば一秒で新しい弾倉を装着できる。ただ、大きくてかさばるので予備は持っていけない。手榴弾をコートの左右のポケットに一個ずつ入れ、短機関銃を右手で持って立ち上がる。二個をつなげた弾倉が長く下に伸びていた。
光子が目を丸くして、そんな男を見つめた。
「機先を制して、強行突破する」と、男は言った。「合図をしたら、店の灯りを消せ。その前に数分、目を閉じて暗闇に慣れさせておくんだ。灯りを消すとすぐに、入口の引き戸を大きな音をさせて開く。そのタイミングも教える。開いた後は、扉の横で身を伏せていろ」
「わかったわ」と、光子は答えた。
「ずいぶん落ち着いているんだな。死ぬかもしれないぞ」
「死んでもいいのよ。空襲でひとりぼっちになってから、ひどい生活をしてきたの。あなたに会って、初めて楽しい日々を送った」
男は、光子を見つめた。どんな人生だったかは想像できた。この前、ふたりで出かけた時の光子の表情が甦った。
「本当にひとりなのか。誰か身寄りはいないのか」
「もしかしたら、兄が生きているかもしれない。でも、会いたくなかった。自分が汚れてしまった気がして----」
「自分に恥じない生き方をしていれば、汚れるなんてことはない。きみは恥じてるか」
「ううん、あんな時代を生き抜いてきたことを誇りにしているわ」
「だったら、きみは汚れてなんかいやしない」
「あなたは?」
「同じさ。今までやってきたことを恥じちゃいない。生き抜くために必要だった」
光子が男を見た。嘘を見抜く目だった。そう、嘘は言っていない、と男は思った。
「では、目を閉じて、『消せ』と言ったら灯りを消し、『開けろ』と言ったら、引き戸を思いっきり開くんだ」
五分後、店の灯りを消し、その数秒後、引き戸を開いた。その瞬間、男は手榴弾のピンを引き抜き、大型車に向かって投げた。手榴弾がボンネットで撥ねた。ドアを開けて飛び出した白人たちが車の後方に走る。男はひとりの白人に向かって、短機関銃を掃射した。爆発が起き、車が炎上した。
★
渡辺が手配した車に四人で同乗し、新宿から上野方面に向かった。上島は、車の中でも気が逸っていた。花井光子。年頃からいっても、妹に間違いない。だが、一方で同姓同名の同じ年頃の女なのではないか、という疑いも湧き起こる。早く着かないか、と上島は後部座席で気ばかり焦らせていた。
「花井が、中野学校へ入る前の本名なんですか?」と、隣に座っている東金がのんびりした口調で言った。
「ああ」と上島は答えたが、東金の静かな口調で気が鎮まるようだった。
「じゃあ、Fさんは?」
助手席から藤崎が振り返った。
「もう忘れたよ」
「親族縁者は、みんな原爆でやられたからですか」
「そうだな。古い名前を思い出しても意味がない」
「もし、彼女が妹だったら、一緒に暮らすかい?」と、渡辺が運転しながら上島に訊いた。
「さあ、もう大人だし、どんな人生を送ってきたかもわからない。もしかしたら、俺には会いたくないと思っているかもしれない」
「どうして?」
「会いたいと思っていたら、何か連絡できるような手がかりを残していただろうし、探す方法はあった」
「兄は死んだと思っていたんじゃ----」と、東金が言った。
「わからん。ただ、生きているのなら、そのことだけは確認したいし、困っているのなら助けたい」
車が上野から田原町方面に入る。もうすぐ花井光子の店だった。もしかしたら、もう店は閉まっているかもしれないが、その時は「平和荘」にまわればいい。
その時、爆発音が聞こえた。
★
車が炎上し、その数メートル後ろで白人ふたりが倒れていた。ポール・バネンはコルト・ガバメントを取り出し、二階の窓から光子の店の入口に向かって装弾子に入っているだけの弾丸を撃ち込んだ。空になった装弾子をボタンを押して落とし、ポケットから新しい装弾子を取り出して装填した。銃身をスライドして薬室に弾丸を送り込む。
光子の店の中は、不気味な沈黙が続いている。車が炎上する音だけが聞こえた。倒れていた白人のひとりが身を起こした。ポール・バネンのいる窓を振り向き、拳銃を取り出した。ポール・バネンが部屋を飛び出し階段を駆け降りる途中で、拳銃を撃つ音が連続して起こった。
ポール・バネンが道に飛び出した時、炎上する車の後方から白人はまだ拳銃を撃ち続けていた。弾が切れたのか、その音が途絶えた。ポール・バネンの銃撃にも、店の中からは一切反撃はなかった。不自然だった。そんなに簡単に射殺されたとは思えない。こちらが様子を見にいくのを待っているのか。
炎上する車の明かりで、周囲は照らし出されている。悪いことに、かえって店の周辺は闇に沈んでいた。炎上する車の後方の白人は、店の入口に向かうには最も明るい場所を通過しなければならない。完全に姿を晒すことになる。ビルの物陰に身を隠したまま、ポール・バネンは焦った。
その時、一台のヘッドライトを消した車が大通りを走ってきた。店の五メートルほど手前で停車し、後部ドアが開いて男がひとり飛び出した。店に向かって走る。
★
暗闇の中で、男は光子の体を抱き上げた。銃弾が彼女の右の胸を撃ち抜いていた。すぐに肺に血液があふれだす。「扉の後ろで身を伏せておけ」とは言ったが、光子が被弾する確率は高かった。だが、男自身が引き戸を開けると手榴弾を投げるタイミングが遅れ、先に銃撃を受けたかもしれなかった。
かすかな後悔のようなものが、男の胸に湧き起る。他人に対してこんな感情が起こったのは、あの男に対してだけだった。同じ訓練所で出会った男。スターリンは別にして、あの男にだけは個人的な感情が湧き上がる時がある。男は、抱き上げている光子を見つめた。
「逃げて」と、光子が荒い息で言った。
男は、光子を横たえた。ひとりは炎上する車の後ろにいる。車にいたもうひとりは、おそらく無力化した。もうひとりは先ほど二階の窓から撃ってきたが、今はビルの一階の入口で身を隠している。短機関銃で連射し、その間に逃げるしかないだろう。だが、そのタイミングをどうするか。
その時、車の停まる音がした。見ると、日本人の男がひとり走ってくる。男は開いたままの戸口を飛び出し、先ほど銃撃してきた白人が身を隠しているあたりを連射した。短機関銃とはいえ、ダダダダダと連射する銃撃音は足をすくませる。そのまま走り、振り向いて連射し、弾丸を撃ち尽くすと弾倉を逆にして装填し、もう一度振り向いて連射した。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。消防車かパトカーかはわからない。まるで、戦争が始まったような騒ぎだったのだ。近辺の人間は銃撃音を怖れて出てこないが、警察と消防に連絡がいっているのは間違いない。
男は弾を撃ち尽くした短機関銃を路地裏のゴミ置き場に放置し、狭い道を選んで駆け抜けた。追っ手をまき、あの男に連絡をしなければならない。まだ、決行の日まで十日もあるのだ。
★
「まずいな。引き上げよう」と、渡辺が言った。
上島が飛び降り、光子の店に走って向かった時、店の中から飛び出した男が短機関銃を乱射しながら逃げていった。男が連射した物陰から飛び出した白人が、振り返っては連射する男を追っていくと、上島が店に入るのが見えた。
「おそらく、この店を監視していたCIAと梶という男がぶつかった」
「Uさんは?」と、東金が言った。
「俺たちのルールは、彼もわかってる。自分で何とかするさ」
渡辺はそう言うと、エンジンをかけたままだった車をUターンさせた。炎上する車の向こうからひとりの白人がやってくるのが見えた。白人がこちらに向けて何か叫び、銃を構えた。渡辺は急発進させ、スピードを上げる。銃声がして、リアウインドが砕けた。
「あの男、ストップと言ったんだ」と、東金がつぶやいた。「それで、妹さんだったんでしょうか?」
「会えてるといいな」と、藤崎が言う。
「銃撃戦に巻き込まれて、女は大丈夫だったかな」と、渡辺が言った。「俺たちには、不運がつきまとっているのかもしれない」
★
上島は店に入ると、土間に横たわる女に気付いた。暗くて顔もよくわからない。スイッチを探して灯りを点けると、女が呻いた。女の顔を見て、ハッとする。十代の頃の面影は残っていたが、すっかり変わっていた。和服の右胸に血の染みが広がっている。大口径の銃で撃たれていた。
「光子、俺だ。浩平だ」
その声に反応して、光子が目を開けた。上島が見えているのだろうか。
「兄さん?」と、光子が言った。
光子は右手を上げようとしている。その手を上島は握った。
「父さんも母さんも焼け死んだ----」と、弱々しい声で光子が言った。「私、ひとりで生きてきたの」
「わかってる。何も言うな」
サイレンの音が近くなった。店を覗き込んだ白人が何かつぶやいて立ち去った。上島は光子を抱き上げ、店の外へ出た。消防車が一台停まり、炎上する車に放水しようとしていた。パトカーから降りてきた警官が、上島を取り囲んだ。
「救急車を呼んでくれ」と、上島は怒鳴った。
肺が出血であふれたのか、光子はゴホッという息と共に血を吐いた。