2025年1月11日 (土)

■スターリンの暗殺者「第五章 標的」20

【五章の主な登場人物】
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手
■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント

■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人  戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男

■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている

■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事

■ジャック・デュバル メジャーリーガー
■レティシア・レイク ハリウッドの女神
■ジョン・フォスター・ダレス アメリカ合衆国国務長官

 

■1953年2月12日 東京・代々木

「警視庁公安部が発見した男は、米軍基地の連続爆破犯、横須賀基地近くのバーを爆破し米兵を多数殺傷した犯人、李承晩暗殺未遂犯と断定してもいいだろう」
ロバート・パウエルはポール・バネンとマイケル・ダーンを前に、日本側から入った情報を詳細に説明した。

「警視庁公安部の刑事が、そのアパートにいったのは偶然だったということですか」と、マイケル・ダーンが訊いた。
「そうだ。たまたま別の件を調べていたらしい」
「その刑事が会った、在日朝鮮人のやくざ。身柄確保して尋問したい」と、ポール・バネンが言った。
「ところが、金山を確保しようと、警察が改めて松原組へいったところ、姿を消していた。組の誰もが行方は知らないと答えた」

「そのやくざは、間違いなく北朝鮮の組織とつながっているはずだ」と、ポール・バネンは苛立ちを隠さなかった。「その刑事は何だって、怪しんだ段階でアパートの男を逮捕しなかったんだ」
「周辺の調査を優先したのだろう。民主警察だから、証拠固めをしてからと考えたのかもしれん。もっとも、その刑事は戦前は特高警察で思想弾圧をしていたらしいがね」

「我々は、拷問も自白剤も躊躇しない」と、マイケル・ダーンが言う。
「確保してある北朝鮮工作員のふたり、その後、何か自白したかね」と、ロバート・パウエルは訊いた。
「先日までの情報以外、何も知らないようです。もっと情報を持っている人間を、確保すべきでした」
マイケル・ダーンは、ポール・バネンに当てつけるような言い方をした。

「彼らは、情報を集中しない。ひとりひとりは個別の断片的な指令しか受けないので、断片情報しか知らないのだ。すべての情報を握っている人間は、平壌にいる」と、ポール・バネンが言った。
「とすると、その男につながるルートは何もないということか」と、マイケル・ダーンが落胆したように言う。
「男の部屋からは、何も見つからなかった。指紋はいくつか出たが、データベースにヒットするものはなかった。ただ、警察の聞き込みの中で、いくつか判明したことがある」
 
ロバート・パウエルは、そこで言葉を切った。もったいぶっていると思うだろうが、その男に関しての手がかりはそれしかないのだ。ポール・バネンとマイケル・ダーンはロバート・パウエルの言葉を待っていた。

「複数の住人の証言によると、その男は二階に住んでいる花井光子と関係ができていた。花井光子は、アパートの近くで呑み屋を開いている。元はRAAの娼婦だった。警察は花井光子を連行して尋問した。女は男については何も知らなかったが、八日の日曜日に初めてふたりで出かけたと話した」
「どこへ?」
ポール・バネンが訊いた。自然と口に出たらしい。

「ふたりは水道橋駅で待ち合わせ、その周辺を隈なく歩いたらしい」
「あそこには、後楽園球場がある」と、ポール・バネンが言った。
「そうだ。女連れなら怪しまれずに周辺を調べられる」
「その女は?」と、マイケル・ダーンが口を挟んだ。
「二十四時間の監視を付けてある」と、ロバート・パウエルは答えた。
「俺も、そのチームに加えてもらおう」
立ち上がりながらポール・バネンが言った。現場に戻りたいのだ。国務長官の来日まで、もう十日を切っていた。

■1953年2月12日 東京・上野

男は酒やビールケースが積み上げられた三畳の部屋で、丸一日近くを過ごしていた。追跡を振り切った後、男は吾妻橋を超えた隅田川沿いでオート三輪を降りた。爆薬類を入れたトランクと狙撃用ライフルを収納した楽器ケースは、オート三輪の荷台に残したままだった。あの男に渡すよう連絡員に託す。

「あなたは、どこへ?」と、若い連絡員は言った。
その連絡員が部屋に飛び込んできて合言葉を口にした時、若すぎると男は思った。若いということは、経験不足ということだ。この仕事では、経験不足は致命的なこともある。しかし、よほど緊急だったのだろうと推察した。あの男は、緊急事態でない限り、万全の態勢を取るはずだ。しかし、若い連絡員が「どこへ?」と訊いたことで、改めて未熟さを感じた。

「必要があれば、連絡する」と男は言って、隅田川沿いを下りタクシーを拾った。もう一個の革のトランクには、手榴弾と短機関銃と大型拳銃、それに弾薬がたっぷり入っている。その分、重さは相当なもので、よくアパートから抱えてくることができたものだと思う。連絡員がいなければ、どちらかのトランクはあきらめねばならなかっただろう。連絡にオート三輪と人を寄こしたのは、あの男なりの配慮だったのだ。
 
しかし、衣類や細々としたものを入れていたボストンバッグも、あの男が現れなければ持ち出せたのだ。問題は、サイドポケットに入れておいた資料やメモだ。押収されたとすれば、こちらの狙いを読み解かれるかもしれない。だとしても、計画を中断するわけにはいかない。あの資料やメモ、雑誌が押収されたことを前提に計画を立て直すしかない。
 
隅田川沿いを下り再び橋を渡り、光子の店から少し離れた場所でタクシーを降りた。すでに夕暮れを迎えていた。トランクを提げて光子の店と反対の方向に向かい、路地に入った。路地裏沿いに光子の店に向かう。光子が開店の準備をしているのはわかっていた。
 
光子の店に隠れるのは賭けだったが、「平和荘」の様子を知りたかったのと、「灯台下暗し」という日本のことわざが浮かんだからだ。ただ、光子と梶のことはアパートの住人に知られている。梶につながる光子が、警察の監視対象になる可能性はあった。しかし、それを逆手に使えるかもしれない。
 
男の出現に、光子は驚いた顔をした。男は「匿ってくれないか」と言っただけだった。光子は物置にしている小部屋に男を匿い、「しばらく我慢して」と言った。
「ここに警察はきたか?」
「ううん」
「たぶん、今頃はアパートの住人が警察に聴取されている。きみとの関係も知られるだろう。とすると、きみはしつこく尋問される」
「どうすればいいの?」
「本当のことを言うんだ。私のことは何も知らない、それは本当だろ」
「そうね。この間のことは?」
「きみは尋問に慣れていないから、事実を言えばいい。私を匿っていること以外は----」
 
彼らは、後楽園球場のことを知るだろう。あのボストンバッグを押収された段階で、それは知られてしまったことだ。光子が話したところで変わりはない。その情報が奴らに渡ったことによって、ミスリードできる可能性がある。標的が何なのか、彼らは戸惑うだろう。男は計画を練り直した。
 
その夜、アパートに帰った光子は、警察署まで連行されて事情聴取されたという。アパートの住人たちは事情がわからないまま聴取され、逃亡していた殺人犯だとか、北朝鮮の工作員だったとか、地下に潜っていた共産党幹部だったとか、梶について様々な憶測が飛んでいた。
 
光子は、今日もいつもと同じように午後に店に現れ、準備を始めた。警察は、梶がいた部屋を封鎖しているが、警官が一名交代でいるだけで、刑事たちは引き上げたと光子は言った。問題は、梶との関係で光子が監視対象になっている可能性があることだった。ただし、光子を監視しているのなら、彼女が移動すれば監視している奴らも移動するはずだ。
 
二十四時間、ここにいるのはそれが限度だと男は思った。アパートを調べたのは、警視庁の人間だけだったという。昨日、アパートを飛び出した男を追ってきたのは、赤坂のアパートに出現した男なのか。あの男は「ヴォールクか」と口にした。あの男は、なぜ梶のアパートがわかったのだろう。
 
連絡員の話では、アパートの部屋を手配した男のところに刑事がきたので、急いで撤退を知らせにきたということだった。逃げる途中で振り向いた時、「ヴォールク」と言った男はふたりの男に追われていたようだ。遠くてはっきり確認できなかったが、あのふたりが刑事だとすれば、あの男も警察に追われている。
 
これまでの梶の動きは、ほぼ知られていると考えるべきだ。追っているとしたら、警察を始めとした日本の官憲、それに米国の情報組織、米軍の情報部やМPも考えられる。それ以外に、どんな存在があるだろう。ソ連の組織か。しかし、男はスターリンの命令を実行しているのだ。スターリンに反旗を翻す奴がソ連内にいるだろうか。
 
今夜、光子が店を閉めて帰った段階で、光子には知らせずに男は別の場所に移動するつもりだった。もう「平和荘」の様子を知る必要はない。今のところ、米軍関係、CIAの影は見えていない。だとすれば、目的の日まで、どこかで身を隠しておくのが最も賢明な判断だった。

■1953年2月12日 東京・新宿

「きみたちには、もう頼らないつもりだったのだが----」と、藤崎は言った。
新宿の渡辺の家で、四人の男は集まっていた。藤崎が吹き出しそうになったのは、渡辺が昨日の出来事を語り終わり、東金に「どうして、Wさんは、そのアパートにいたんですか?」と訊かれた時だった。

渡辺は、突然、しどろもどろになった。それまで理路整然と話していただけに、その変化は藤崎の笑いを誘った。上島も東金も理由がわからないまま、藤崎が笑うのにつられて笑みを浮かべた。
「そのことは、〈ヴォールク〉とは関係ないから」と、渡辺は答えるしかなかった。

「話しておいたら、どうだい」と、藤崎は促した。
渡辺が藤崎を見て、躊躇する。決断の早い男だったが、プライベートなこと、特に女のこととなると、照れてしまうのかもしれない。四十半ばの男のくせに、まるで少年のようにはにかんだ。

「代わりに話しておこう。彼は、満州時代の女性と再会したんだ。向こうは引揚げで苦労して、今もいろいろ大変らしいのだが、再会して焼けぼっくいに火が点いたらしい。その女性が、たまたま平和荘の二階に住んでいた」
「だから、その部屋からアパートの出入りを見張っていたんですね」と、東金が確認する。
「Fを刑事たちが追っている間に部屋から持ってきたのが、このバッグなんだな」と、上島は渡辺に確認するように言ってバッグを開いた。

中身を、すべてテーブルの上に出す。衣類を一点一点、点検する。衣類に何かがくるまれていることはなかった。サイドポケットを開くと、折りたたんだ紙と何枚かのメモ用紙が出てきた。さらに、「週刊朝日」と「月刊平凡」があった。上島は、それらを丁寧に広げる。雑誌はページを繰って、何かが挟まれていないかを確認した。栞のように一枚のメモが「月刊平凡」のグラビアページに挟まれていた。

「これを、見てみろ」と、折りたたまれた紙を広げて上島が言った。「後楽園球場の図面だぜ。配管、電気の配線までわかる」
全員が、その広げられた図面を見下ろした。
「後楽園球場は、二年前にナイター設備を設置する工事が行われた。これは、その時に起こした図面じゃないか。ナイターの照明灯が描き込まれている」と、渡辺が言った。

「すでに調べておいたってわけかい。手まわしがいい」と、上島が言った。
「東京大空襲の時、最初に作られたスコアボードが焼けちまった。それが三年ほど前、昭和二十四年に二代目のスコアボードが完成したんだ。もう一枚の図面は、その時のものらしい。スコアボードの構造が詳細にわかる」と、渡辺が説明する。
「スコアボードは、バックネットのVIP席の真正面になるのか」と、藤崎が訊いた。

「三年前のスコアボードの改修で、以前より位置が高くなっているらしい。試合中はスコアボード裏に係員がいて、ヒットが出たり、点が入ったりすると、数字のボードを入れ替える作業をやっている。選手交替だと、選手名のボードも入れ替えなきゃならない。けっこう忙しいぜ」と、渡辺が答えた。
「何人だ?」
「少なくとも、ひとりではないだろう」

「スコアボード裏から、観覧席にいる人物を狙撃する?」と、東金が言った。「〈ヴォールク〉なら、スコアボードの係員を殺してでも実行するでしょうね」
「標的は、この記事に出ている人物の可能性が高いな」と、上島が「週刊朝日」の頁を開いて見せた。
 
そのページの見出しには、「新国務長官、日米野球の親善試合を観戦予定」とあった。ジョン・フォスター・ダレス国務長官は二月二十一日に来日し、翌日に後楽園球場で予定されている日米代表チームの親善野球試合を観戦する予定、と記事は詳細を伝えていた。

「〈ヴォールク〉の狙いは、それか」と、渡辺が言った。
「国務長官を暗殺されたら、アイゼンハワー新大統領は朝鮮戦争の休戦交渉に入るどころじゃなくなりますね」と、東金が冷静に言った。
上島は、他のメモを一枚一枚丁寧に見ていた。手描きのメモを取り上げて、じっと見る。
「これは、〈ヴォールク〉が自分で確かめて描いた周辺の詳細な地図らしい。目印になるようなものも書き加えられている。Tよ、ここから何か読み取れるか」と、上島は東金に言った。
 
東金は手描きの地図を受け取り、じっと見つめる。球場を中央に置き、水道橋駅までのルートと白山通りや目白通りなど幹線道路も描かれている。二年前に池袋駅で起工式が行われた地下鉄丸の内線の工事地域も描き込まれていた。丸ノ内線の後楽園駅が完成すれば、水道橋駅より球場には近くなる。その工事中の地域の一角に「▽」マークが描き込まれていた。

「逃走ルートの検討をしたんでしょうかねぇ」と、東金は首をひねった。「地下鉄工事中のルートを通れば、追っ手を攪乱できるかもしれない」
「その可能性はあるな。ところで、『月刊平凡』に栞が挟まっていたけど、どんなページだった」と、藤崎は言った。

渡辺が、そのページを広げた。「ハリウッド女優と野球界のヒーロー結婚」と大きな見出しが踊っている。金髪の美人女優とニューヨーク・ヤンキースのユニフォームを着た大柄な白人男の写真が大きく載っている。

「レティシア・レイクとジャック・デュバルですよ。先日、結婚した。米国中の話題を独占しています。ジャック・デュバルがアメリカン・チームの一員として親善試合に出場するので、ついでに日本で新婚旅行だそうです。試合が終われば、京都奈良へいくらしいですよ。この記事にも出ています」と、東金が詳しく解説した。
「それで、〈ヴォールク〉はこの雑誌も確認していたのか。当然、その女優も試合当日は観戦するんだろうな」と、藤崎が言う。

「米国政界のVIP、人気絶頂のハリウッド女優、それに米国野球界のヒーロー、三人が揃うってわけか」と、上島が指摘した。
「ジャック・デュバルってのは、米国のヒーローなのか。日本で言えば、誰だ?」と、渡辺が訊く。
「まったく、野球オンチなんだから。日本人選手で言えば、全盛期の川上哲治かな」と、東金が答えた。
「川上自体がよくわからん」と渡辺が言い、他の三人が笑った。

「ところで、『平和荘』の梶と名乗っていた男だが、二階に住んでいた女と関係ができていた。その女は警察でしつこく尋問された。その女を張っていれば、梶が現れるかもしれないと考える奴もいる」と、渡辺が言った。
「警察か」と、上島が訊いた。
「いいや、米軍関係者じゃないかと思う。昨夜から女を監視している連中の中に白人がいる」
「CIAか」と、藤崎が言った。「あいつら、日本の警察ほど甘くない」

「その女、何て名だ?」と、何気なく上島が訊いた。
「花井光子。アパートの近くで、呑み屋をひとりでやっている」
渡辺がそう答えた途端、上島が立ち上がった。渡辺を見つめる。

「いくつだ、その女」と、上島の顔色が変わっていた。
「二十代後半かな」
「その女のところへ連れてってくれ」と、上島は今にも飛び出しそうだった。
「何なんだ、その女」と、藤崎が訊いた。
「妹----、かもしれない」と、上島がじっと左手を見ながらつぶやいた。

■1953年2月12日 東京・上野

ポール・バネンは、花井光子がのれんを仕舞いながら、駐車した大型車を気にしている様子をビルの二階の窓から見ていた。夜の十一時を過ぎ、人通りは少なくなっているし、少ない外灯の周辺を除いて辺りは闇に包まれている。
 
昨夜から監視を始めたが、二十四時間経っても動きはなかった。そこで、ポール・バネンは、あえて監視を気付かせることにした。光子の店の正面に大型の米国車を駐車し、誰が見ても監視していることがわかるようにした。
 
酔客たちは店を出ると怪訝そうに大型車を見て、その中にふたりの白人が座っているのに気付き目を反らせた。中には、わざわざ店に戻る者もいた。おそらく、女将の光子に知らせているのだろう。
 
ここまで監視をあからさまにして、まったく動きがなかったら、光子は梶と名乗っていた男の居場所はおそらく知らない。また、店内に男が匿われている可能性もないだろう。もし、男が店内に匿われていたら、何らかの反撃に出るかもしれない。
 
大型車に乗っているふたりは、自分たちが囮であることを知っているし、充分に警戒をしている。ポール・バネン自身は、その大型車と店の入口の両方が見える斜め前の建物の二階に潜んでいた。一階が喫茶店で二階は喫茶店のオーナーの自宅だったが、その一室を提供させたのだ。
 
花井光子が店に戻ってから二十分が過ぎた。昨夜はのれんを仕舞うとすぐに店の灯りを落とし、アパートへ帰った。それに比べ、二十分という時間は長過ぎた。監視をあからさまにして四時間、客も帰り、店仕舞いをして、中で何をしているのか。ポール・バネンは無線機を取り出し、大型車のふたりを呼び出した。
「のれんを仕舞ってから時間がかかっている。警戒しろ」
「了解」
 
その時、突然、店の灯りが消えた。店の灯りに照らされていた周囲は、急に闇に包まれた。ポール・バネンが視線を移すと、外灯の淡い光の輪の外にはいたが、大型車は微かな光に浮かび上がっていた。まずい、とポール・バネンは思った。
「すぐに、車を出ろ」と、無線機に向かって叫んだ。
 
その時、ガラガラと大きな音を立てて店の入口の引き戸が開いた。その音に注意を引かれ、思わず目を移した時、店の奥の暗闇から何かが投げられた。ふたりは車から出ようと、運転席と助手席のドアを開けたところだった。その車のボンネットに何かが撥ねた。
「手榴弾だ」と、ポール・バネンは窓を開け放って怒鳴った。
ふたりは車の後方に走った。短機関銃の掃射音がした。その時、手榴弾が爆発した。
                                                                                                   ★
「まだ、外に大型の米国車が駐車している。中にいるのは白人ふたりだと、お客が教えてくれたわ」と、光子は言った。
「監視しているのだと教えているのだ。こちらをおびき出そうとしている」と、男は答えた。

「ここにいるのを知っているのかしら」
「いや、それがわからないから監視していることを、わかるようにしたのだろう」
「どうするの?」
「大型の米国車で白人が乗っている。つまり、米軍関係か、CIAか。どちらにしろ、手荒なことをやってくるかもしれないな。日本の警察とは違う」
 
男は、トランクを開いた。四十五口径の大型拳銃を取り出し、挿弾子を点検して挿入し、銃身をスライドさせて一発を薬室に送り込み、安全装置をかけ、背中の位置でベルトに挟んだ。予備の挿弾子を二個ジャケットの左右のポケットに入れる。右足のズボンの裾をまくり上げ、軍用ナイフをテープで脚に張り付けた。
 
短機関銃の弾倉をふたつ取り出し、上下を逆にしてテープでしっかりと固定する。ひとつの弾倉が空になれば引き抜き、上下を逆にして挿入すれば一秒で新しい弾倉を装着できる。ただ、大きくてかさばるので予備は持っていけない。手榴弾をコートの左右のポケットに一個ずつ入れ、短機関銃を右手で持って立ち上がる。二個をつなげた弾倉が長く下に伸びていた。
 
光子が目を丸くして、そんな男を見つめた。
「機先を制して、強行突破する」と、男は言った。「合図をしたら、店の灯りを消せ。その前に数分、目を閉じて暗闇に慣れさせておくんだ。灯りを消すとすぐに、入口の引き戸を大きな音をさせて開く。そのタイミングも教える。開いた後は、扉の横で身を伏せていろ」

「わかったわ」と、光子は答えた。
「ずいぶん落ち着いているんだな。死ぬかもしれないぞ」
「死んでもいいのよ。空襲でひとりぼっちになってから、ひどい生活をしてきたの。あなたに会って、初めて楽しい日々を送った」
男は、光子を見つめた。どんな人生だったかは想像できた。この前、ふたりで出かけた時の光子の表情が甦った。

「本当にひとりなのか。誰か身寄りはいないのか」
「もしかしたら、兄が生きているかもしれない。でも、会いたくなかった。自分が汚れてしまった気がして----」
「自分に恥じない生き方をしていれば、汚れるなんてことはない。きみは恥じてるか」
「ううん、あんな時代を生き抜いてきたことを誇りにしているわ」
「だったら、きみは汚れてなんかいやしない」

「あなたは?」
「同じさ。今までやってきたことを恥じちゃいない。生き抜くために必要だった」
光子が男を見た。嘘を見抜く目だった。そう、嘘は言っていない、と男は思った。
「では、目を閉じて、『消せ』と言ったら灯りを消し、『開けろ』と言ったら、引き戸を思いっきり開くんだ」
 
五分後、店の灯りを消し、その数秒後、引き戸を開いた。その瞬間、男は手榴弾のピンを引き抜き、大型車に向かって投げた。手榴弾がボンネットで撥ねた。ドアを開けて飛び出した白人たちが車の後方に走る。男はひとりの白人に向かって、短機関銃を掃射した。爆発が起き、車が炎上した。
                                        ★
渡辺が手配した車に四人で同乗し、新宿から上野方面に向かった。上島は、車の中でも気が逸っていた。花井光子。年頃からいっても、妹に間違いない。だが、一方で同姓同名の同じ年頃の女なのではないか、という疑いも湧き起こる。早く着かないか、と上島は後部座席で気ばかり焦らせていた。

「花井が、中野学校へ入る前の本名なんですか?」と、隣に座っている東金がのんびりした口調で言った。
「ああ」と上島は答えたが、東金の静かな口調で気が鎮まるようだった。
「じゃあ、Fさんは?」
助手席から藤崎が振り返った。
「もう忘れたよ」

「親族縁者は、みんな原爆でやられたからですか」
「そうだな。古い名前を思い出しても意味がない」
「もし、彼女が妹だったら、一緒に暮らすかい?」と、渡辺が運転しながら上島に訊いた。
「さあ、もう大人だし、どんな人生を送ってきたかもわからない。もしかしたら、俺には会いたくないと思っているかもしれない」
「どうして?」

「会いたいと思っていたら、何か連絡できるような手がかりを残していただろうし、探す方法はあった」
「兄は死んだと思っていたんじゃ----」と、東金が言った。
「わからん。ただ、生きているのなら、そのことだけは確認したいし、困っているのなら助けたい」
 
車が上野から田原町方面に入る。もうすぐ花井光子の店だった。もしかしたら、もう店は閉まっているかもしれないが、その時は「平和荘」にまわればいい。
その時、爆発音が聞こえた。
                                         ★
車が炎上し、その数メートル後ろで白人ふたりが倒れていた。ポール・バネンはコルト・ガバメントを取り出し、二階の窓から光子の店の入口に向かって装弾子に入っているだけの弾丸を撃ち込んだ。空になった装弾子をボタンを押して落とし、ポケットから新しい装弾子を取り出して装填した。銃身をスライドして薬室に弾丸を送り込む。

光子の店の中は、不気味な沈黙が続いている。車が炎上する音だけが聞こえた。倒れていた白人のひとりが身を起こした。ポール・バネンのいる窓を振り向き、拳銃を取り出した。ポール・バネンが部屋を飛び出し階段を駆け降りる途中で、拳銃を撃つ音が連続して起こった。
 
ポール・バネンが道に飛び出した時、炎上する車の後方から白人はまだ拳銃を撃ち続けていた。弾が切れたのか、その音が途絶えた。ポール・バネンの銃撃にも、店の中からは一切反撃はなかった。不自然だった。そんなに簡単に射殺されたとは思えない。こちらが様子を見にいくのを待っているのか。
 
炎上する車の明かりで、周囲は照らし出されている。悪いことに、かえって店の周辺は闇に沈んでいた。炎上する車の後方の白人は、店の入口に向かうには最も明るい場所を通過しなければならない。完全に姿を晒すことになる。ビルの物陰に身を隠したまま、ポール・バネンは焦った。
 
その時、一台のヘッドライトを消した車が大通りを走ってきた。店の五メートルほど手前で停車し、後部ドアが開いて男がひとり飛び出した。店に向かって走る。
                                         ★
暗闇の中で、男は光子の体を抱き上げた。銃弾が彼女の右の胸を撃ち抜いていた。すぐに肺に血液があふれだす。「扉の後ろで身を伏せておけ」とは言ったが、光子が被弾する確率は高かった。だが、男自身が引き戸を開けると手榴弾を投げるタイミングが遅れ、先に銃撃を受けたかもしれなかった。
 
かすかな後悔のようなものが、男の胸に湧き起る。他人に対してこんな感情が起こったのは、あの男に対してだけだった。同じ訓練所で出会った男。スターリンは別にして、あの男にだけは個人的な感情が湧き上がる時がある。男は、抱き上げている光子を見つめた。
「逃げて」と、光子が荒い息で言った。
 
男は、光子を横たえた。ひとりは炎上する車の後ろにいる。車にいたもうひとりは、おそらく無力化した。もうひとりは先ほど二階の窓から撃ってきたが、今はビルの一階の入口で身を隠している。短機関銃で連射し、その間に逃げるしかないだろう。だが、そのタイミングをどうするか。
 
その時、車の停まる音がした。見ると、日本人の男がひとり走ってくる。男は開いたままの戸口を飛び出し、先ほど銃撃してきた白人が身を隠しているあたりを連射した。短機関銃とはいえ、ダダダダダと連射する銃撃音は足をすくませる。そのまま走り、振り向いて連射し、弾丸を撃ち尽くすと弾倉を逆にして装填し、もう一度振り向いて連射した。
 
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。消防車かパトカーかはわからない。まるで、戦争が始まったような騒ぎだったのだ。近辺の人間は銃撃音を怖れて出てこないが、警察と消防に連絡がいっているのは間違いない。
 
男は弾を撃ち尽くした短機関銃を路地裏のゴミ置き場に放置し、狭い道を選んで駆け抜けた。追っ手をまき、あの男に連絡をしなければならない。まだ、決行の日まで十日もあるのだ。
                                             ★
「まずいな。引き上げよう」と、渡辺が言った。
上島が飛び降り、光子の店に走って向かった時、店の中から飛び出した男が短機関銃を乱射しながら逃げていった。男が連射した物陰から飛び出した白人が、振り返っては連射する男を追っていくと、上島が店に入るのが見えた。

「おそらく、この店を監視していたCIAと梶という男がぶつかった」
「Uさんは?」と、東金が言った。
「俺たちのルールは、彼もわかってる。自分で何とかするさ」

渡辺はそう言うと、エンジンをかけたままだった車をUターンさせた。炎上する車の向こうからひとりの白人がやってくるのが見えた。白人がこちらに向けて何か叫び、銃を構えた。渡辺は急発進させ、スピードを上げる。銃声がして、リアウインドが砕けた。

「あの男、ストップと言ったんだ」と、東金がつぶやいた。「それで、妹さんだったんでしょうか?」
「会えてるといいな」と、藤崎が言う。
「銃撃戦に巻き込まれて、女は大丈夫だったかな」と、渡辺が言った。「俺たちには、不運がつきまとっているのかもしれない」
                                          ★
上島は店に入ると、土間に横たわる女に気付いた。暗くて顔もよくわからない。スイッチを探して灯りを点けると、女が呻いた。女の顔を見て、ハッとする。十代の頃の面影は残っていたが、すっかり変わっていた。和服の右胸に血の染みが広がっている。大口径の銃で撃たれていた。
「光子、俺だ。浩平だ」
 
その声に反応して、光子が目を開けた。上島が見えているのだろうか。
「兄さん?」と、光子が言った。
光子は右手を上げようとしている。その手を上島は握った。
「父さんも母さんも焼け死んだ----」と、弱々しい声で光子が言った。「私、ひとりで生きてきたの」
「わかってる。何も言うな」
 
サイレンの音が近くなった。店を覗き込んだ白人が何かつぶやいて立ち去った。上島は光子を抱き上げ、店の外へ出た。消防車が一台停まり、炎上する車に放水しようとしていた。パトカーから降りてきた警官が、上島を取り囲んだ。

「救急車を呼んでくれ」と、上島は怒鳴った。
肺が出血であふれたのか、光子はゴホッという息と共に血を吐いた。

 

2025年1月 4日 (土)

■スターリンの暗殺者「第五章 標的」19

【五章の主な登場人物】
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手
■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント

■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人  戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男

■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている

■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事

■ジャック・デュバル メジャーリーガー
■レティシア・レイク ハリウッドの女神
■ジョン・フォスター・ダレス アメリカ合衆国国務長官


■1953年2月10日 東京・田原町

もう十日以上、藤崎は浅草から上野あたりにかけて、不動産屋を中心に聞き込みをして「平和荘」を探していた。浅草国際劇場のチラシに「平和荘」と書かれていたというだけの手がかりである。だいたい、そのチラシが謎の楽団員が落としたものかどうか。しかし、手がかりは、それしかなかった。
 
そして、昨日、ようやく田原町にある「平和荘」を見つけた。近辺で聞き込んでみると、背の高い痩せた楽団員らしき男が住んでいるという。そこで、藤崎は張り込んでみることにした。ひとりでの張込みは限界がある。それでも、藤崎は「平和荘」を見張った。
 
上野浅草に近いので藤崎は再び労務者の姿になり、山谷のドヤ街に潜り込んだ。その姿なら、酒瓶を持って空地に積み上げた土管に座り込んでいても不審には思われなかった。もっとも、昼間から酒瓶を置いて座っている藤崎に、気味悪そうな視線を向け大まわりしていく通行人は多かった。
 
アパートに入っていく渡辺を見かけた時、藤崎は驚いた。一瞬、そのアパートに住んでいる楽団員は、渡辺のことじゃないのかと錯覚した。しかし、そんなはずはないと打ち消し、渡辺が出てくるのを待った。渡辺が出てきたのは、一時間後だった。藤崎は渡辺の後を尾け、上野が近くなったところで声をかけた。

「Fさん」と、渡辺は振り返って声を挙げた。
「さっき、平和荘から出てきたな」
藤崎がそう言うと、渡辺は不思議な表情をした。しまったという反応の後、照れたように顔をそむけ、表情を隠そうとするように下を向く。長い付き合いの中でも、見たことのない渡辺の態度だった。
「見てたのか?」と、渡辺が言った。「まずいところを見られちまった」
藤崎には、どういうことか判断がつかなかった。渡辺は何を隠しているのだろう。
「女のところからでも出てきたのか?」と、冗談のつもりで藤崎は言った。
渡辺の反応を見て、藤崎は冗談が的を射たのを知った。まさか----、渡辺に女ができたのだろうか。

「私を見張ってたんですか?」
「まさか。〈ヴォールク〉の手がかりかもしれないものを見つけたら、浅草近辺の平和荘が浮かんできた。探し出して、張ってたんだ」
「どんな手がかり?」
「バンドマンに化けて米軍基地に潜入した男が、浅草国際劇場のチラシを落としていた可能性がある。そのチラシに『平和荘』とメモしてあった。誰かにアパートの名前を教えられ、持っていたチラシにメモしたのかもしれない」
「そう言えば、アパートの一階奥に去年十二月からバンドマンらしき男が住んでいると言っていた。三十半ばで痩せていて、背が高い----」
「誰が言っていたんだ?」
「先日、満州時代の昔なじみに再会したんだ。その女が言ってた」
「昔の恋人かい」
「まあ、ちょっとしたいきさつがあった女ですよ。満州で亭主を殺され、引揚げの途中で子供も死なせて----」
渡辺はそう言うと、照れ笑いをした。

「所帯を持つのか?」
「あいつは『うん』とは言わないな」
なぜ、と訊きそうになったが、藤崎は口に出さなかった。それぞれの事情があるのだ。言いたくなれば、渡辺の方から口にするだろう。
「そのバンドマンらしい男だが」と、藤崎は言った。「顔を確認したい」
「わかった。明日、午後から二階の部屋で張ろう。女の部屋だが、窓から出かけていく姿は確認できる。男は、午後遅く、場合によっては夕方から出かけて、夜遅く、時には明け方に帰ってくるらしい。それと、アパートに住んでいる近くで呑み屋をやっている女と関係ができたようだと言ってましたね」
「それは、男女の関係?」
「ええ」

それは〈ヴォールク〉らしくないことだな、と藤崎は思った。もしかしたら、人違いなのかもしれない。

■1953年2月11日 東京・上野

上野から御徒町にかけてを縄張りとする松原組の事務所は、昭和通りに面した三階建てのビルだった。玄関前にはチンピラ風の若い男がふたり立っていた。新城が警察手帳を見せ山村と中に入ろうとすると、「サツが何の用事だ」とひとりが言った。

「金山はいるか?」と、新城が言った。
「いますよ。何の用っすか」と、別のひとりが答えた。
「訊きたいことがある」と、山村が言う。
若い男は黙って事務所に入り、しばらくすると出てきて「どうぞ」と言った。事務所に入ると正面に神棚があり、その下に大きな机と背もたれのある椅子があった。机の前にソファがあり、そこに男がひとり座っている。四十くらいだろうか、ストライプの派手なスーツを着て幹部らしい貫禄を見せていた。

「金山さんかい?」と、山村は訊いた。
「何の用ですか」
「鶯谷のキャバレーの支配人に、アパートの部屋を借りさせたらしいな」と、山村は単刀直入にいくことにした。
「俺みたいなのは、大家に嫌われるんでね」
「だが、自分じゃ住んじゃいない」
「又貸ししちゃいけねぇんで?」
「今、誰が住んでる?」
「楽団の野郎らしいですね」
「あんた、在日朝鮮人か?」と、新城が口を挟む。
「それが、何か関係あるんっすか」
「そっちの関係で頼まれたんじゃないのか」と、新城が突っ込む。
「そっちの関係って、何です?」
「金日成のお役に立とうという連中さ」
「さあ、そんな連中は知りませんね」
 
山村は新城に目くばせした。
「そうかい。わかった。役に立ったよ」と言って、山村は腰を上げた。
山村は新城を促して部屋を出たが、ビルの前で立ち止まり、少しして再び玄関ドアを開けた。正面の机の上にあった電話の受話器をつかんで、金山が喋っていた。山村を振り返り、驚いて受話器を置く。

「誰に電話した?」と、山村は言った。
「知ったこっちゃねえよ」と、金山は不貞腐れたように言う。
「新城、タクシーをつかまえろ」と山村が言うと、新城は飛び出していった。
昭和通りに出ると、新城が流しのタクシーを止めて警察手帳を見せているところだった。山村はタクシーに乗り込み「平和荘」の場所を教えた。
「金山は『警察がきた』と、誰かに知らせたに違いない」

アパートの部屋には、電話を引いていないはずだ。金山から電話を受けた誰かは、どうやって「平和荘」の男に知らせるのか。タクシーを飛ばせば間に合うかもしれない、と山村は思った。

■1953年2月11日 東京・田原町

藤崎は「平和荘」二階の柿沢恵子の部屋にいた。渡辺が一緒だった。柿沢恵子は、渡辺と藤崎が午後にやってくると、「どこかで時間をつぶすわ」と言って出かけていった。狭い部屋で、顔をつき合わせていたくなかったのだろう。
 
藤崎は窓を少し開けて下を見た。アパートの玄関は見えないが、玄関の前の道が見える。アパートから出た人間の背中が確認できた。大通りへ出るために角を曲がる時、顔が確認できる位置だった。
 
三十分ほどした頃、大きな音を立ててオート三輪がアパートの前にやってきた。大通りの方へ向けて駐車する。若い男が長い脚を蹴上げるようにして運転席から飛び降りた。安物のジャンパーに幅広のズボンを履いている。慌てているようだった。
 アパートの玄関を走り込んだのが想像できた。渡辺が扉を開けて二階の廊下を確認した。
「二階にはこない。一階の部屋へいったんだ」と、渡辺が言った。

その時、一階の部屋の扉が開く大きな音が聞こえてきた。藤崎は部屋を飛び出した。階段を駆け降りると、奥の部屋の扉が開いていた。若い男が大きな革のトランクを抱えて立っていた。部屋の中から背の高い男が楽器ケースと革のトランクを提げて出てきた。廊下は暗く、男の顔ははっきり見えなかった。
「ヴォールクか」と、藤崎は言った。
「貴様、誰だ」と、男は答えた。
 
その時、渡辺が階段を駆け降りてきた。若い男が革のトランクを前に押し出すようにして藤崎に向かってきた。その勢いに押されて、藤崎は階段まで下がる。若い男は勢いをつけてトランクを振りまわした。その後ろを楽器ケースと革のトランクを持って背の高い男が駆け抜ける。

背の高い男が外に出ると、若い男は革のトランクを扉の外へ置いた。振り向き、扉を背にしてジャンパーのポケットから小型拳銃を取り出した。少し開いた玄関扉の向こうで、背の高い男が荷物をオート三輪の荷台に積み込むのが見えた。
 
若い男が小型拳銃を発射した。パンと、乾いた音がして階段の手すりの木っ端が散る。藤崎は身を伏せ、渡辺は階段を駆け上った。オート三輪のエンジン音が聞こえた。若い男はもう一度、威嚇するように拳銃を撃ち飛び出す。藤崎が表に出た時には、若い男が運転するオート三輪が大通りへ向かう路地を曲がるところだった。
 
藤崎は追った。渡辺が少し遅れる。大通りに出ると、藤崎は左右を見渡した。オート三輪は、浅草方面へ向かっていた。交通量は多い。
 
その時、藤崎の目の前でタクシーが停まった。後部ドアが開き、横須賀で出会ったふたりの刑事が降りてくるのを見た瞬間、藤崎は大通りに飛び出し、走ってくる車の間を縫って横断した。立て続けに、急ブレーキの音がした。
 
渡り切った藤崎が振り向くと、路地から出てきた渡辺が野次馬のような顔をして立っていた。ふたりの刑事が大通りを横断しようとして、やってくる車に向かって〈停まれ〉というように両手を上げている。藤崎は振り返ると、全速力で走り出した。
                                                                                                       ★
田原町の「平和荘」に近づいた時、タクシーの中から山村は藤崎一馬の姿を確認した。「平和荘」の方向から何かを追って走ってきたように見えた。
「あの男の前に停めろ」と、山村は藤崎一馬を指さして運転手に怒鳴った。
 
タクシーが停まり、新城が飛び出し、山村も続いた。藤崎がふたりに気付き、車の往来が多い大通りに飛び出した。強引に横切っていく。車の急ブレーキの音が続いた。クラクションが鳴り、急ブレーキをかけた車が再び走り出す。
 
藤崎を追って大通りに出た新城が、両手を上げて車を停める。藤崎のように跳ねられてもいい勢いで走り出すことはできなかった。新城が停めた車の前を、山村は走った。それでも、向かってくる車を気にして動きを止める。
 
大通りを渡り切り、藤崎が向かった方に走り、路地を曲がった。最初の四辻で見渡したが、藤崎の姿はない。次の四辻まで走り、再び左右を確認する。どこにも藤崎の姿はなかった。新城が息を切らせて走ってきた。
「ダメだ。まかれた。『平和荘』に戻る」と言って、山村は大通りの方へ引き返した。

アパートの前には、ふたりの女とひとりの男が立っていた。男は、神崎辰之助だった。神崎は山村の顔を見て、眉間に皴を寄せた。何かを思い出そうとするようだった。やがて、山村を思い出したのか、背中を向けてアパートの中に戻った。

「警察だ。何があった?」と、山村はふたりの女に訊いた。
「私、一階に住んでる者だけど」と、中年の女が一歩前に出て言った。「誰かが駆け込んできて、一階奥に住んでいた人と飛び出していったみたい。その後を誰かが追っかけてったのかしら。パーンって音が二度したわ」
 
話し好きだというタクシー運転手の妻なのだろう。若い女は、二階に住んでいるSKDの踊子だろうと見当を付けた。
「あなたは、何か見た?」と、新城が若い女に訊く。
「何も。何だか騒がしかったから出てきただけ」と、女は答えた。
「一階奥に住んでたのは、楽器ケースを提げた男かな」と山村が問うと、ふたりの女はうなずいた。
 
二階の西端の部屋の窓が少し開いていた。男の姿がチラリと見えた。進藤栄太だった。山村の姿を確認したようだ。
「中を見よう」と、山村は新城に言ってアパートの玄関扉を押した。
新城が続き、ふたりの女も入ってきた。若い女はそのまま階段を昇ったが、中年女は一階の廊下に立ち、山村たちを見ていた。山村は階段の手すりが削りとられているのに気付いた。硝煙の匂いも立ち込めている。

「拳銃を発射したようだな」
「拳銃ですか」と、新城が意味もなく繰り返した。
一階奥の部屋は、扉が開いたままになっていた。山村は中を覗いた。片隅に布団が畳まれているが、何もない部屋だった。

「本署に連絡して、鑑識課の出動を要請してくれ。指紋、その他を調べてほしい」と山村は新城に言うと、靴を脱いで部屋に上がった。
押し入れを開いてみた。何もなかった。藤崎の姿を見付けたので、とっさにタクシーを止めてしまったが、この部屋にいた男を追っていたとすると、そちらの逮捕を優先すべきだったかなと山村は悔やんだ。やはり、藤崎はこの部屋にいた男の目的を阻止しようと動いているのだろうか。

「あんた、ここの住人か?」と、廊下にいる新城の声が聞こえた。
「そうよ。二階に住んでるわ」
山村が廊下に出てみると、三十半ばに見える女が階段を昇ろうとしていた。
「何かあったの?」と、女が言った。
                                                         ★
渡辺は、柿沢恵子の部屋で身を潜めていた。藤崎の後を追い大通りに出たところで、タクシーから降りたふたりの男が藤崎を追い始めた。たぶん藤崎から聞いた刑事たちだろうと、動きを止めた。大通りを強引に横断した刑事たちが藤崎を見失ったのを確認し、アパートに帰った。物音に驚いたのか、ふたりの女と初老の男がアパートの玄関前に出ていた。
 
渡辺は何度かきているうちに顔を合わせた中年女と初老の男に会釈をしてアパートに入り、一階奥の扉が開いたままの部屋を覗いた。部屋の隅にボストンバッグがポツンと置かれていた。押し入れを確認する時間はなさそうだった。渡辺はバッグを取ると、すぐに階段を昇り恵子の部屋に戻った。しばらくすると、恵子がもどってきた。

「何があったの。下で刑事にいろいろ質問されたわ」と、恵子が言った。
「住人ひとりずつ調べるつもりかな」
「そうかも。ひとりかと訊かれたから、お客がいる、と答えておいた。いけなかった?」
「いや、大丈夫だ。調べられて困ることはない。それから、このバッグ、預かっておいてくれないか。明日には受け取りにくる」
 
渡辺が差し出したボストンバッグを受け取ると、恵子は押し入れを開き中に置いた。その時、扉をノックする音がした。恵子が返事をすると、「警察です。少しうかがいたいことが----」と言った。恵子が扉を開けた。
「あなたには、先ほどうかがいました。お客がいるということでしたので」と、若い刑事が部屋の中を覗くようにした。

「何か?」と言いながら、渡辺は立った。
「先ほど、下の部屋の人が飛び出していったようなんですが、何か気が付いたことは?」
「特に何も」
「さしつかえなければ、名前と住所を教えていただけますか」
「渡辺三郎。住所は新宿----」と、渡辺は正直に答えた。
「こちらの柿沢さんとは?」
「古いなじみです。満州時代のね」
「わかりました」と、刑事はあっさりと引き上げた。
隣の神崎の部屋をノックする音が聞こえてきた。

■1953年2月12日 東京・田原町

神崎辰之助は、最初、山村の顔がわからなかった。十二年も前のことだ。お互いに歳を取った。戦後の動乱を経て、記憶も薄れかけていた。しかし、山村の顔の中に十二年前の特高刑事の面影を見出した途端、昔のことが一気に甦ってきた。
 
ゾルゲ事件。昭和十六年秋、特高警察がスパイ網の一斉検挙に踏み切り、憲兵隊も協力した。リヒャルト・ゾルゲはドイツ人でドイツの新聞社の東京特派員であり、駐日ドイツ大使からも厚い信頼を得ていた。しかし、若い頃からの共産主義者で、秘かにソ連のスパイとして活動していた。
 
ゾルゲのスパイ網が政権中枢にまで及んでいたことは、朝日新聞記者で近衛内閣の嘱託だった尾崎秀実が逮捕され、同じく近衛内閣の嘱託であり元老・西園寺公望の孫である西園寺公一が参考人として取り調べを受けたことでもわかる。ゾルゲと尾崎は上海時代からの知り合いで、ふたりは昭和十九年に死刑になった。
 
しかし、神崎にとっては苦い思い出だった。神崎には、当時、十九になる娘がいた。妻を亡くし、男手ひとつで育てたひとり娘だった。娘は新聞社の事務員として勤めていたが、そこで若い記者と恋仲になり、神崎の知らないうちに結婚の約束をしていた。
 
その若い記者が尾崎秀美の後輩であったことから、スパイ網の一員として逮捕され取り調べを受けた。そのことを娘から初めて知らされ、神崎は焦った。娘の婚約者がソ連のスパイ網の一員だったかもしれないというのは、憲兵である自分にとっては致命的な事態になりかねなかった。
 
しかし、神崎はそんなことより娘への愛情が勝り、別のスパイ事件で協力した時に知り合った特高刑事の山村に事情を話し、娘の恋人の様子を教えてもらおうとした。だが、逆に山村は若い記者に婚約者がいること、その父親が憲兵であることを自白を迫るための脅しに使った。黙秘を続けていた若い記者は追い詰められ、移送の途中に五階の窓を割って身を投げた。
 
娘は恋人の自殺を知ると、神崎をなじり家を出ていった。神崎が調べると、母ひとり子ひとりだった恋人の実家でその母と暮らし始めていた。しかし、昭和二十年三月十日の東京下町大空襲で恋人の母と共に焼け死んだ。神崎は娘と再会することもなく、ひとりぼっちになった。
 
それ以来、神崎はまともな暮らしはしてこなかった。元憲兵と知ると、誰もが非難する目で見た。闇屋を始めて、何度も警察に捕まった。度胸だけはあったので闇屋の中でも頭角を現し、時にはやくざや三国人とも渡り合った。いつの間にか、贅沢をしなければ食っていける金が溜まり、今は安アパートで何の目的もなく暮らしている。
 
そんなところへ、また、あの刑事が現れたのだ。さすがに顔を合わすのを避けたのか、聞き込みには若い刑事を寄こした。一階奥の部屋に住んでいた、三十半ばの背の高い男。あの男が何をしたのだろう。山村は、目の色を変えて探しているらしい。

だが、山村に協力する気はない。あの背の高い男が花井光子の店に匿われているらしいことも、自分だけの胸にしまっておこう。食事がてら、毎夜のように光子の店に神崎は顔を出していた。昨夜も神崎はカウンターの隅で飲んでいた。
 
光子の店の小上がりの奥には、物置として使っている三畳ほどの小部屋がある。手洗いの方からまわらないと上がれないが、一度、神崎はその部屋から酒瓶を運び出すのを手伝ったことがあった。手洗いのドアの向かいに三畳の部屋への扉があった。
 
昨夜、一度、手洗いに立った時、神崎の動きを心配そうに見つめる光子の視線に気付いた。他の客が手洗いを使っても気にしなかったのは、彼らは梶という男を知らないからだ。だが、神崎は知っている。そんな気持ちが、光子の視線に現れていた。この奥にあの男はいる、と神崎は確信した。それは、憲兵時代に培ったカンだった。
                                          ★
あの刑事だ、と進藤栄太は窓から見た山村の姿を浮かべた。こちらを見て気付いたに違いない。栄太が住んでいるのを調べて、やってきたのだろう。また、俺を屈服させるためにやってきたのか、と栄太は思った。
 
昨日、一階に住んでいた梶という男について、すべての部屋の住人に刑事が聞き込みにきた。だが、山村は若い刑事を寄こしただけで、自分は姿を見せなかった。一階奥の部屋には、鑑識課の人間たちと一緒にずっといたらしい。栄太を無視したことで、栄太は山村への怒りを募らせた。

ああ、俺は気が狂いそうだ、と進藤栄太は米軍の流出品を扱う店で手に入れた軍用ナイフを目の前にかざした。

 

2024年12月28日 (土)

■スターリンの暗殺者「第五章 標的」18

【五章の主な登場人物】
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手
■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント

■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人  戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男

■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている

■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事

■ジャック・デュバル メジャーリーガー
■レティシア・レイク ハリウッドの女神
■ジョン・フォスター・ダレス アメリカ合衆国国務長官


■1953年1月25日 東京・吉原

渡辺三郎が中国大陸へ渡ったのは、昭和三年、十九歳の時だった。母ひとり子ひとりの家庭で育ち、天涯孤独の身の上になったのがきっかけだった。母親は浅草の老舗のすき焼き屋に仲居として勤めて渡辺を育て上げ、四十年の短い生涯を終えたのだった。
 
子供の頃、学校から帰ってもひとりぼっちだった渡辺は、自然と六区を遊び場として育った。そんな渡辺を可愛がってくれたのは、踊子や楽団員や劇場の裏方たちだった。渡辺は芝居小屋の裏口から入れてもらい、レビューや軽演劇を見て育った。
 
そんな中、踊子たちを連れて歩く粋な楽団員に憧れて自分でも楽器をやりたくなり、十五歳の時に中古のアルトサックスを手に入れた。金に困った楽団員が質草に入れて、流してしまったものだった。
 
熱心に練習した結果、楽団のリーダーに紹介してもらい、荷物運び、いわゆる〈坊や〉として採用された。それでも、バンドメンバーが休んだり、欠員になった時はステージに上がるようになり、十八歳になった頃は正式メンバーになっていた。
 
順調だったバンドマン生活に区切りをつけて大陸に渡る決心をしたのは、何か大きなことをやりたいという漠然とした気持ちに背中を押されたからである。ただし、とりあえずは上海に渡ってジャズバンドのメンバーになり、資金を稼ぐところから始めた。
 
当時の上海は各国の租界がある国際都市で、イギリス人、アメリカ人、フランス人、白系ロシア人なども暮らしていた。上海は〈東洋の巴里〉とも言われ、ショービジネスが盛んで、ナイトクラブには様々な国の人間が着飾ってやってきた。

バンドマンとして、毎夜、ナイトクラブのステージに立っていた渡辺は様々な人間と知り合った。危険な匂いをさせた裏の世界の人間もいたし、表の世界で生きている人間でも正体がよくわからない人物もいた。
 
危険な〈魔都〉でもあった上海では路地で死体に出くわすこともあったが、若き渡辺は危険な香りに心を躍らせた。そんな豪胆さが気に入られたのか、斎藤という日本人から仕事を手伝わないかと誘われた。
 
斎藤は何をしているのかわからない人間だったが、いつもパリッとしたスーツを着こなし、様々な美女を連れてナイトクラブに姿を現した。斎藤の席には、イギリス人、アメリカ人、フランス人、ドイツ人、白系ロシア人、中国人などがやってきて、しきりに何かを話し込んでいった。
 
斎藤が渡辺を誘った仕事とは、阿片の密売だった。インドシナから運んでくる阿片を中国で売りさばくのである。斎藤は日本軍と関係があり、阿片売買で得た資金は関東軍に上納しているらしかった。
 
斎藤に誘われた危険を伴う仕事は、渡辺の冒険心を満足させた。上海には青幇や紅幇といった黒社会の組織が存在し、阿片の取引では常に命の危険を感じた。青幇や紅幇は愛国的秘密結社の一面を持ち、日本軍と結び付いている斎藤の組織をつけ狙ったのだ。
 
渡辺は二十代を上海で過ごし、様々な経験をした。各国の諜報員たちの駆け引きも見たし、日本の軍人たちの横暴も目撃した。抗日組織に属する中国人の襲撃にも遭遇した。阿片の密売にも飽きた頃、斎藤が紹介してくれたのが甘粕正彦だった。
 
甘粕正彦は憲兵大尉だった関東大震災の時、アナーキストの大杉栄と伊藤野枝、それに甥の少年を惨殺する事件を起こし、服役後、巴里に渡った。帰国後、満州で甘粕機関を設立し、阿片の売買にも携わり、満州事変でも暗躍した。渡辺が会った時には〈満州の夜の帝王〉と呼ばれており、数年後には満州映画協会の理事長に就任した。
 
渡辺は甘粕正彦に信頼され、満州に移った。様々な仕事を任され、人脈も多彩を極めた。対ソ情報工作を担当するF機関を設立した藤崎一馬を甘粕から紹介されたのは、昭和十五年のことだった。「この男を助けてやってくれないか」と言われたのだ。
 
特務機関員にしては藤崎は誠実な男で、甘粕のような怪物じみた不気味さはまったくなかった。藤崎のそんなところが気に入ったが、反面、危うさを感じることもあり、渡辺の方がずっと年上だったことから、保護者めいた意識が芽生え、長く付き合うことになった。また、渡辺の蓄積した情報と人脈がF機関の大きな財産になった。

大陸で過ごした二十年近くの間、渡辺に身を固めようかと思わせた女は何人かいた。しかし、その度に〈おまえは畳の上では死ねない男だ〉という声が聞こえ、いつも渡辺の方が身を引くことになった。女たちは、いつの間にか自分の前から去った渡辺に理由を聞けず、〈飽きられたのだ〉と諦めるしかなかった。
 
今夜、渡辺がそんな女のひとりと再会したのは、まったくの偶然だった。渡辺は上野のクラブでの仕事を終えた後、バンド仲間に誘われて吉原を冷やかすのに付き合った。派手なネオンが通りを彩り、女たちの嬌声が響く街だった。戦後、公娼制度に対する批判が起こり、赤線地帯の存続も怪しくなっており、一度見ておくかという気持ちになったのだ。
 
ある娼館の前に、その女はいた。道を通る客に声をかけていた。濃い化粧をしていたし、十数年の年月が過ぎていたが、渡辺にはすぐにわかった。昭和十五年、満州の新京のナイトクラブ。二十代だった女は、女給として働いていた。柿沢恵子。満鉄社員に懇願され、結婚したはずだった。
 
じっと見つめる渡辺を不審そうに見返した恵子は、急に顔色を変え店の中に走り込んだ。こんなところで会いたくはない。それはわかる。しかし、渡辺は恵子を追って店に入った。
「いらっしゃいませ」と、女将らしい中年女が言った。
「今、ここに入った女に会いたい」と、渡辺は言った。
「お上がりになるので?」と、女将が言う。
「ああ」
「こちら、みどりさんの部屋にご案内して」と女将が言うと、老女が出てきて渡辺を二階に導いた。

廊下の片側はガラス窓で、片側に部屋が並んでいた。ガラス窓を通して、外のネオンの赤や青の光が点滅していた。老女が「こちらでございます」とひとつの扉の前に立ち、中に向かって「みどりさん、お客様」と声をかけた。渡辺は扉を開いて、何も言わず部屋に入った。

「やっぱり、きたのね」と、渡辺に背中を向けたまま恵子が言った。
「無粋だと思ったんだが----」
「見なかったことにしてほしかった」
「気になってな」
「身の上話を聞きたいの?」
「なんで、こうなってるのかは気になる」
「満州奥地からの引揚げよ。想像できるでしょ」
「ああ」
「主人はソ連兵に殺され、私は何人もに犯され、一歳の長女は途中で死んで、三歳の長男は中国人に売ったわ。ようやく九州の港にたどりついた時、ソ連兵に強姦されて妊娠していないか調べられた。引揚げというと、みんな、そんな目で見たわ」
「それで、ここか」
「あんたも蔑む?」
「まさか」
「それでも、ここへは通いよ。それだけが意地みたいなもの」
「通い?」
「亭主や子供と暮らしながら、通いできている人もいるわ」
 恵子は、投げやりな言い方をした。

■1953年2月1日 東京・銀座

銀座四丁目の山野楽器の前は、文字通り黒山の人だかりだった。店頭に置かれたテレビジョンを取り囲んで数百人が集まっている。NHKが本放送を開始するのは、午後二時からだが、人々は待ちかねていた。
 
男は、そんな群衆に紛れて小さなテレビジョンの画面を見つめた。二時からは開局式の中継で、緒方竹虎官房長官、大野伴睦衆議院議長が挨拶を述べることになっている。三時から三十分間は、フィルムで撮影されたニュースが流れる予定だ。新聞には「米大統領就任式実況」と出ていた。
 
アイゼンハワーの動く姿を確認したくて、男はわざわざ人混みの中に出てきたのだった。いや、目的はジョン・フォスター・ダレス国務長官だ。就任式の時点ではまだ国務長官ではないが、おそらくアイゼンハワーの周囲にいるはずだ。その動いている姿を確認しておきたかった。最も、直近の姿である。
 
ダレス国務長官の訪日の日程は、すでに公表されている。二十二日の日米親善試合の観戦では、十二時半に後楽園球場に入り、控室でアメリカン・チームを激励し、午後一時前に観覧席に就く。三十分観戦し、横須賀へ向かうことになっていた。北朝鮮工作員組織が調べ出したものだ。
 
試合そのものは二時間以上かかるだろうが、三十分間、観覧席に座っているダレス国務長官は格好の標的になるだろう。その他は、ほとんど車で移動しているか、厳重に警戒された場所で会談している。
 
ダレス国務長官の写真も映像も見てはいるが、ソ連諜報部が保有していたのは、せいぜいが一年近く前のものだった。特に動く姿は、三年前、朝鮮戦争が勃発する数日前に訪日した時のニュース映像が最新のものだった。それが、テレビジョンのおかげで、十日前の姿が見られる。男は、NHKの放送開始を待った。

■1953年2月5日 東京・田原町

進藤栄太は〈山村を抹殺しないことには、自分の人生が取り戻せない〉と思い詰めていた。仕事には、もう三日もいっていない。〈失敗した人生だった〉という思いが消えず、虚しさだけが迫ってくる。狭い部屋で寝転んで、天井の木目ばかり見つめていた。
 
扉を叩く音がした。気が付くと、外は暗くなっている。返事をしないでいると、「開けるよ」と言って、三浦良太が顔を出した。片手に新聞紙で作った紙袋を持っている。油の染みがついていた。
「コロッケ、買ってきた」と、良太は紙袋を掲げた。
「食べたくないんだ」
「だけど、今日は何も食べてないでしょ」
「オヤジさん、何か言ってたか?」
「風邪がひどいって、言っておいた」
「もう辞める、と言ってもいいんだ」
「どうして?」
「どうでもいいんだ」

良太は困った顔をした。その顔を見ると、栄太は後ろめたく感じる。素直な子に育ったな、と思う。飢え死にしそうだった良太の姿が浮かんできた。この子だけが、俺が生きた証かもしれない、という思いが湧き起こる。

「おじさん、どうして僕を助けてくれたの?」と、唐突に良太が言った。
「放っておけなかった」
「でも、僕だけじゃなかったでしょう。毎日、子供たちは死んでた」
「全員は救えない。運命がおまえを選ばせた」
「運命?」
「良太、しっかり生きろ。己に恥じることだけはするな」
「己に恥じること?」

「人に誇れることをいくらやったところで、一度、己に恥じることをすると、自分を許せなくなる。自己蔑視に耐えられない」
「おじさんは、僕を助けてくれたじゃない」
「もっと、多くの子供を助けるべきだった」
「『鐘の鳴る丘』みたいに?」
「そうだな。おまえも俺なんかに育てられずに、あんなところで仲間たちと一緒に育った方がよかったかもな」
「そんなことない。おじさんの方がよかった」と、良太はムキになって言う。
 しかし、そんな言葉を聞いても、栄太から虚しさは消えなかった。

■1953年2月8日 東京・田原町

花井光子は、いそいそと準備を整えた。日曜日で店は休みだ。先週、梶と約束した初めてのふたりでの外出。ふたりで出かけるところを見られるのを嫌った梶は、目的地での待ち合わせを選んだ。水道橋駅の白山通り口で十二時に会うことになっている。梶は、朝から出かけたらしい。
 
着物姿で扉を開いて廊下に出ると、ちょうど斜め向かいの部屋の柿沢恵子が扉を開けているところだった。振り返った恵子が軽く会釈をする。光子も頭を下げた。自然と笑みが浮かぶのは、梶と会うという心の昂りのせいだろうか。光子の笑みにつられたのか、恵子も笑顔を返して部屋に入った。
 
そう言えば、このところ、柿沢恵子の顔付が変わった。もう何年も顔を合わせているが、いつも暗く沈んだ表情だった。ほとんど話をしたこともなかったし、どういう身の上の人なのかも知らなかったが、下の噂好きなタクシー運転手の妻が聞きたくもない話をしたことがある。
「あの人、吉原の店へ通いで出てるのよ。満州からの引揚げだって。ご主人を殺されて、子供も死んで、何とか帰ってきたみたい。やっぱり、ソ連兵にあれかしら。それで、そんな商売----」
「そんな話、やめなさいよ。本当かどうかわからないんだから」と、光子は注意した。
 
もし、その話が本当なら、自分も変わらないと思った。終戦後の混乱の中で女がひとりで生き抜く大変さは、光子も骨身に沁みていた。自分は数年で足を洗うことができたが、恵子は人生を投げている風があって、自暴自棄になっているのかもしれない。
 
しかし、先日の午後、四十半ばの男が柿沢恵子の部屋を訪ねてきたのを見かけた。客がくるのさえ初めてだったし、まして男が訪ねてきたのを見かけた時は驚いた。顎髭を生やし、ちょっと派手な上着を着て、梶のものと同じような楽器ケースを提げていた。
 
光子が階段を昇った時、男は柿沢恵子の部屋の扉を叩いていた。「帰って」と、部屋の中から恵子の声が聞こえた。「ちょっと、話したい」と男は言い、部屋の外で待っていた。光子は自分の部屋に戻り、廊下の様子をうかがっていたが、結局、恵子の部屋の扉は開かなかったようだった。
 
その男は、翌日の午後にもやってきたが、やはり恵子の部屋の扉は開かなかった。しかし、三日めの午後に男がやってきた時、恵子は扉を開き「しつこい人ね」と言った。だが、言葉とは裏腹に喜びがにじみ出ていた。
 
光子も、今、好きな男ができた喜びに浸っていた。梶は何も言わず、ただ光子を抱くだけだが、そこに光子を気遣う気持ちを感じていた。梶には今まで、そんな関係になった女がいなかったのではないか。女を抱くのは、初めてではない。しかし、光子に対する戸惑いと困惑が梶から伝わってくる。この人は私のことが好きなのだ、と光子は確信した。
 
そんなことを思い出しながら廊下で立ってると、向かいの部屋から神崎が出てきた。神崎については入居したばかりの頃に噂好きのタクシー運転手の妻から聞いたのだが、元憲兵で戦後は闇屋として儲けアパートが完成した時から住んでいるという。その後、神崎は光子の店へ毎夜のように飲みにきた。食事を作るのが面倒なのだろう。今では、すっかり常連だ。
 
神崎は光子を見ると、怪訝な表情をした。光子がぼんやりと廊下に立っていたからだろう。光子は挨拶をし、あわてて階段を降りた。今からいけば、約束の時間よりずっと早くに着いてしまいそうだが、部屋で時間をつぶす気にはなれなかった。
 
水道橋駅での待ち合わせは、梶が言い出したことだった。今度、日米親善の野球の試合があるのだという。後楽園球場、それに後楽園競輪場もある、少し歩けば自然の残る小石川後楽園もある、その周辺を散策してみたいのだ、と梶は言った。

■1953年2月9日 東京・浅草
 
井上涼子は、吾妻橋が見えるいつものフルーツパーラーで中田佳枝と向かい合っていた。ガラスの向こうを、今日も多くの人が通り過ぎていく。舞台は夕方からなので、稽古の前までに国際劇場に入ればいい。

「昨日、松竹音楽舞踏学校の九期生の入学試験だったの。知ってた?」と、佳枝が言った。
「知ってたわ」
「予科三十人の募集に、千人が応募したんですって」
「凄い倍率」
「私たちの時って、どうだったかしら」
「もうちょっと少なかったと思うけど----」と、涼子はまだ四年しか経っていないのに遠い昔のように感じながら答えた。
「ところで、テレビジョン、もう見た?」
「銀座で見たわ」
「私たちも、いつか出られるかしら」
「どうかしら。ラインダンスは露出が多いから。それに、テレビで見られるようになったら、お金払って劇場にこなくなるかも」
「そうね。それは困るわね」

その時、涼子は梶がやってくるのに気付いた。また、吾妻橋の袂で欄干に身をもたせかけて川面に視線を落とした。しばらくすると、橋を渡ってきた男が梶の横で同じように欄干にもたれて川面を見たが、すぐに立ち去った。以前に同じようなことを見た記憶が甦る。

「どうしたの?」と、佳枝が訊いた。
「うん、何でもない」
「ところでさ、レティシア・レイク、とうとう今月二十日に日本にくるのよ。先月末に結婚してハネムーンよ」
「ハネムーン?」
「新婚旅行のこと」
「何だ」
「相手のジャック・デュバルが野球のアメリカン・チームで出場するので、そのついで。親善試合が終わったら、京都奈良へまわるんですって。月刊平凡で特集してるわ。来日したら、密着取材するみたいね」
「いいわねぇ」
「あんたも結婚したいの?」
「どうかなあ」
 
そう答えながら、涼子は梶の面影を浮かべた。しかし、梶と花井光子の仲をアパートの住民は全員が気付いていた。

■1953年2月10日 東京・田原町

山村は進藤栄太の住所を調べて、田原町の大通りから一本入った場所に建つ「平和荘」を見つけた。少し離れた場所からアパートを確認し、近くの交番を訪ねた。交番の巡査に「平和荘」のことを訊くと、巡査は「平和荘」の大家の家で調べた入居者たちの名前が入った区割り地図を取り出した。

「定期的に担当地域を一戸ずつ訪問し、家族構成などを確認しております。アパートは単身者が多く、不在の場合が多々あるので、大家あるいは管理する不動産屋を通じて入居者の名前、性別、年齢、職業など、わかっているものは聞き出し、記入しております」と、中年の巡査は答えた。

年の頃は四十半ばか。戦前からの警察官らしい。戦後、警察組織が大きく改革されて再編成され、戸惑ったクチかもしれない。戦前の威張っていた巡査は、「おい・こら警官」などと言われる時代だ。戦後は、民主警官でなければならない。

巡査が出してきた区割り地図を見ると、「平和荘」の一階のひと部屋には四人家族が住んでいて詳細に記入されているが、もうひと部屋は空いたままだった。二階には、井上涼子、花井光子、柿沢恵子、進藤栄太、三浦良太、神崎辰之助の名前があった。

「神崎辰之助?」と、山村は声を挙げた。
「ああ、その人物ですか。五十過ぎでひとり暮らしですな」と、巡査が言う。
「知っている人かもしれない」
「そうでしょうなあ。戦前は憲兵だったらしいですからな。その人とは、話をしたことがありますわ」
「一階奥は、空き部屋ですか?」
「いや、先日、その一階の奥さんに聞きましたが、去年の暮れに埋まったそうです。亭主がタクシー運転手をしとるんですが、話し好きでしてな。入ったのは、三十半ばのバンドマンと言ってました。次の定期訪問の時に、大家に確認する予定です」と、巡査は答えた。
 
バンドマンという言葉が引っかかった。立川基地が爆破された時、バンドマンに化けて基地に潜入したらしい男がいた。基地に入る時には他のバンドマンや踊り子と一緒にトラックに乗っていたが、帰りのトラックにはいなかった。爆発地点から少し離れた場所の鉄条網が張り巡らされたフェンスが破られており、そこから脱出したと推察された。
 
調べておいた方がいいかもしれないな、と山村は思った。今日は進藤栄太を調べるという個人的用件だったので、新城は同行していない。それでも、山村は「平和荘」の大家の住所を訊き出し、訪ねてみることにした。大家は、大通りに店を構える酒屋だった。
 
山村は大通りに面している交番を出て、酒屋の方へ歩いていった。すぐ近くである。店の前で使用人が空き瓶を整理していた。店の前面には、味噌や醤油や日本酒の入った大樽が置いてある。小学校の高学年らしい子供が、一升瓶を持ってお遣いにきていた。
「醤油は三合でいいのかい」と、店名が入った前掛けをした店の主人らしい五十がらみの男が確認した。
「うん。それと、味噌を二百匁」と、子供が言った。

主人は慣れた手つきで樽の栓を抜き、一合枡で醤油を受け、漏斗を差し込んだ一升瓶に三度注いだ。その間、こぼれて入った分はおまけなのだろう。味噌の方は樽の蓋を開け、へらで味噌をすくうと薄い竹の皮に載せ、近くの秤で重さを計測し、竹の皮で包み込んだ。手際がよく、山村は見とれた。
「おかあさんが、帳面につけといてって」と、子供が言う。
「ああ、田中さんだね。いいよ」と主人が答えると、子供は一升瓶を抱え味噌の包みを提げて出ていった。

「何か、ご用で?」と、主人が山村を振り返った。
山村は警察手帳を見せ、訊きたいことがあると告げた。主人が不安そうな顔をした。刑事がきた時の誰もが見せる表情だ。
「さっき、交番で平和荘の入居者名簿を見せてもらったんだが、一階奥の部屋が埋まったそうだね。どういう人が入ったの?」
「ああ、あれですか。去年の十二月初旬に、上野のキャバレーの支配人がきてね。そのキャバレーの寮扱いで借りたいというので貸しましたよ。しばらく空いてたんでね」
「寮扱い?」
「女給やボーイを募集する時に、部屋付きだと決まりやすいそうですよ」

「契約書は?」
「うちは面倒で、そういうことやってないんです。不動産屋も通さないことが多くてね。手数料取られるしね。知り合いの紹介なんかでね。紹介した人が、また紹介してくれたり。引っ越す人が後釜連れてくることもあるね。家賃さえ、キチンキチンと入れてくれればいいからね」と、主人は笑ってごまかすように言った。
「でも、そのキャバレーの支配人の連絡先はわかるでしょう」
「ちょっと待っててください」と主人は言って奥に引っ込み、しばらくして名刺を持って出てきた。
「これです」と差し出した名刺を見て、山村は手帳に書き写した。
「ああ、それから、神崎辰之助さん、古い知り合いかもしれないんだ。いつ頃から入ってるの?」と、山村は気軽に訊いた。
「神崎さんね、アパート完成した時からだね。闇屋やってたらしいね。今は貯めた金と恩給で、優雅にやってんじゃない」と、主人は羨ましそうに言った。

 山村はそのまま上野へ出て、名刺にあったキャバレーを探した。夕方の五時前だ。開店の準備をしている時間だろう。そこは、上野というより鶯谷に近い場所だった。大きなダンスホールを持つキャバレーだ。店の前を掃除している制服姿のボーイに支配人の名前を告げると、酒やビールのケースが山積みされた廊下を抜け、奥の小部屋にいた支配人のところに案内された。

「警察の方が何か? うちは、きちんと法律守ってやってますよ」と、支配人は警戒する様子だった。
「わしは、風俗営業を取り締まってるわけじゃない。あんたに訊きたいことがあってね」と、山村は言った。
「何ですか?」と、支配人はさらに警戒をする風だった。
 叩けばホコリが出る男だな、と山村は直感した。

「田原町の平和荘の部屋を、キャバレーの寮として借りたね」
「ええ、それが何か?」
「今は、誰が入ってる?」
「ああ、それね。実は知らないんです」
「なぜ?」と、山村は表情を厳しくした。
「頼まれたんですよ。うちの寮ってことで、近くのアパート借りてくれって」
「誰に?」
「昔の知り合いです。そいつ、在日でね、部屋貸してもらえないこともあるらしくて」
「韓国? 朝鮮?」
「国籍は北じゃないかな」
「入居者によると、三十半ばのバンドマンが住んでるらしいが」
「そうですか。又貸しでもしたかな」
「その知り合いの連絡先は?」
「上野の松原組の事務所で訊いてくださいよ。金山と言います」
「やくざか」
「終戦直後は、ずいぶん派手に暴れてましたね」
 
支配人がそう言ったのをしおに、山村はキャバレーを出た。五時を過ぎ、外はもう暗くなっていた。ネオンが点ったキャバレーの看板を山村は見上げた。明日にでも新城を連れて出なおすか、と考えた。それに、「平和荘」に住む神崎辰之助に会うかどうかも迷っていた。

2024年12月21日 (土)

■スターリンの暗殺者「第五章 標的」17

【五章の主な登場人物】
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手
■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント

■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人  戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男

■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている
■神谷恂一郎 F機関で最も若くムードメーカーだったがシベリアで死亡

■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事

■ジャック・デュバル メジャーリーガー
■レティシア・レイク ハリウッドの女神
■ジョン・フォスター・ダレス アメリカ合衆国国務長官

 

■1953年1月10日 東京・新宿

藤崎が地下に潜り、潜伏先もわからなくなった。連絡を待つしかない。四日前、〈ヴォールク〉と推測できる人物と遭遇したと藤崎から連絡があった。しかし、背の高さは目立ったが逆光で顔を確認できず、横須賀にいた男かどうかは判然としないということだった。その後、藤崎からの連絡は途絶えている。

「Fは、〈ヴォールク〉が狙撃場所を確保するために殺した女の殺害犯として指名手配された。隣の部屋の女に目撃されたそうだ。指紋を残したから、もし軍の記録と照合されたら身元が割れる可能性があると言っていた」と、渡辺は言った。

上島と東金は、黙ったままだ。俺たちは藤崎に大きな借りがある、と渡辺を含めた三人は思っている。戦後八年になろうという今もなお、ソ連に抑留されたままの人たちがいた。終戦の翌年、初めての引揚げ船で戻れたのは藤崎のおかげだった。それから七年、やくざなバンドマンをやっている渡辺は別にしても、上島と東金は堅実な生活を確立していた。

彼らは帰国して家族の消息を訪ねたが、東京の下町空襲で上島の家族は全員が行方不明だった。可愛がっていた妹の消息もわからなかった。東金は故郷の水戸に家族が生存しているのを知ると連絡はせず、ひとりで東京暮らしを始めた。三十五歳になる今も、家庭を持つ気はないらしい。それは、元々天涯孤独だった渡辺も同じだ。あんな経験をした俺たちは孤独に生きていくしかない、と思い定めた。
 
渡辺は藤崎の故郷である広島まで出かけ、藤崎の家族や親類を探した。しかし、手がかりはなく、親族は全員が亡くなった可能性もあった。藤崎が日本人としての帰国を諦めた理由がわかった気がした。いっそ、ロシアで新しい家族ができればいいのに、と渡辺は願った。
 
占領時代、藤崎は何度も日本に戻ってきたらしい。しかし、初めて藤崎から連絡があったのは、帰国して三年目の昭和二十四年春のことだった。どうしても得たい情報があり、渡辺の昔のコネクションを通じて調べてほしいという。
 
藤崎が依頼してきたのは、満州時代に関東軍と密接に結び付いた特務機関を運営し、阿片の売買で資金を稼ぎ、戦後は右翼の大物として政財界に影響を持つ男の意向だった。その男がソ連との国交回復をどう考えているのか、それを藤崎は知りたがった。
 
その情報を渡すために藤崎と会う時、渡辺は上島と東金を呼んだ。やってきた藤崎は、彼らに連絡を取ったことを怒ったが、やがて昔の仲間への懐旧の念が怒りを上まわった。藤崎も上島たちの現状を気にかけていたのだ。その時、渡辺たちは、藤崎の情報収集が日本の国益に反しない限り協力すると約束した。
 
それから三年経ち、今回の藤崎の任務には危険が伴うが、〈ヴォールク〉の目的を阻止することは日本を裏切ることにはならないと、彼らは藤崎に協力してきた。しかし、米軍基地の爆破、米兵が集まる酒場の爆破、李承晩への狙撃を防ぐことはできなかった。
 
連続テロによって米国を激怒させ、朝鮮戦争を長期化させるというスターリンの狙い。そのために〈ヴォールク〉は動いているはずだ。さしあたり、渡辺たちは〈ヴォールク〉の次の標的を探らねばならない。藤崎も、それを探索しているはずだった。
 
最も可能性が高いのは、今月二十日の米国大統領の就任式以降に来日するだろうアメリカ政府高官の暗殺だった。アイゼンハワーは国務長官にジョン・フォスター・ダレスを正式に任命すると明言している。任命されれば、さっそくダレスは日本と韓国を歴訪するはずだ。あるいは、ダレスの訪日訪韓の前に、国務次官あたりが先乗りとしてやってくるかもしれない。
 
米国政府および米国民を激怒させ「北朝鮮・中国に報復を」と叫ばせるためには、標的は政権中枢の高官である方が効果的だ。やはり、国務長官レベルの人物の暗殺か、と渡辺は思った。しかも、その暗殺が明確に北朝鮮の仕業だとわからせなければならない。

李承晩の暗殺未遂事件は韓国でも大きく報道されたが、目撃情報から犯人は日本人ではないかと疑われ、真相は明らかになっていない。明確に朝鮮戦争の敵対国、つまり北朝鮮か中共による暗殺未遂だとは断定できない。

「Fの身元も顔も、当局に知られたと判断すべきだろうな」と、上島がつぶやいた。
「動きにくくなりますね」と、東金が言う。
「連絡を待つしかないが、俺たちを巻き込みたくないと思っているだろうから、連絡があるかどうか----」と、渡辺が言った。
「とにかく、普段通りの生活をして、待っているしかあるまい。ハバロフスクで彼の帰還を信じて待っていた時のように」と、上島が遠い昔を思い出す目をして言った。

「遥かな昔のことのように思えるな」
渡辺は、今の日本に生きていることが信じられない気持ちだった。

■1953年1月11日 東京・霞が関

藤崎一馬という男の情報は、軍の記録以外には何もなかった。横須賀のバーの爆破の後、山村はその男と会話をした。その後、米国大使館の近くから尾行を続けた。ソ連に抑留され生死不明という、その男は一体、何の目的で動いているのか。
 
似顔絵から若林良枝のアパートにいたのは、あの男だと断定していいだろう。横須賀のバーテンも似顔絵を見て「後から入ってきた日本人」と証言した。とすると、米軍基地連続爆破、横須賀基地周辺のバーの爆破、李承晩狙撃がつながっているということか。山村はあの男が犯人だとは思えなかったが、状況証拠、目撃者の証言が、あの男が若林良枝殺害犯だと示していた。

「あの男を探す手がかりは、何もないですね」と、新城が言った。
「ソ連と北朝鮮が動いているのは、間違いない。内調も公安調査庁も、対外情報を担当する外事課の人間が忙しく動いているらしい」と、山村は新城を見た。
「国内の治安を担当する我々よりは、海外情報に精通しているはずですからね」

「ソ連と北朝鮮の狙いは、何だ。米軍基地を爆破し、米兵がたむろするバーを爆破して何十人も殺した。今度は、韓国大統領の狙撃だ。そこに共通する狙いは?」
「朝鮮戦争の休戦条件を有利にすること?」
「そうかな。逆のことばかりやっている気がする。李承晩は休戦に絶対反対の立場を表明している。国連軍が休戦に応じるなら、韓国軍だけで戦争を続けかねない勢いだ。韓国側からの南北統一を訴えている」
「現実的ではないですね」

「頭がおかしいのさ。共産革命を信じていた戦前の共産党員みたいだ。どいつも夢みたいなことばかり言っていた」
新城が山村を見た。まるで歴史の証人を見るような目だ。
「山村さん、もしかして小林多喜二を取り調べたんですか?」
山村はジロリと新城を睨んだが、何も答えなかった。
「そんな噂が聞こえてきたんですよ」
「そんなことはどうでもいい。わしは少し情報収集してくる」

山村はそう言い残し、オーバーコートを取り部屋を出た。玄関を出たところで、通りの向こうに立っていた男が反応するのがわかった。進藤栄太だった。山村を張っていたのだろうか。山村が歩き出すと、対面の歩道を左足を引きずりながら尾いてくる。
 
やはり、わしが狙いだったのか、と山村は思った。ここまで執着するとは思っていなかった。妄執のようなものを感じる。用心した方がいいのかもしれない。そういえば、新城が進藤栄太の住所がどうとか言っていた気がする。それを確認し、進藤栄太の現状を調べておこう、と山村は考えた。

■1953年1月11日 東京・浅草

男は、吾妻橋のたもとで隅田川の水面を見つめていた。向こう側から渡ってきた連絡員が、男の横の欄干に身をもたせかけ同じように水面を見下ろした。連絡員が小さなメモを滑らせてきた。すかさず受け取り、手の中に納めた。連絡員は何も言わず、欄干を離れて歩いていった。
 
男はゆっくり散歩するように吾妻橋を離れ、隅田川沿いに上流に向かって歩いた。川沿いのベンチに腰を下ろし、手のひらを広げる。一センチ四方に折りたたまれた紙片があった。丁寧に広げると小さな文字で書かれている。暗号文だったが、決められた法則を当てはめると、連絡文になった。

〈赤坂に現れた男は元対ソ情報工作の特務機関員で、現在はソ連の諜報員と推察される。警察は藤崎一馬という名前を突き止め、女の殺害犯人として手配。藤崎の狙いは不明〉

男が北朝鮮工作員組織に調査依頼した報告だった。あの時、誰かがアパートの階段を駆け上がってくる音がして、男は銃を収納した楽器ケースを持って部屋を飛び出した。それで、計画が狂ったのだ。
 
狙撃手が北朝鮮関係者であることを示す証拠を、部屋に残すはずだった。今から思えば、先に置いておけばよかったのだ。間抜けなことだった。部屋に入った時に反射的に女を殺してしまい、一瞬の後悔が何かを狂わせた。
 
もっとも、金日成バッジを落としてくるというのも間抜けな発想だな、と男は苦笑いをする。スターリンは、そんなことまで自分で指示した。スターリンの計画では、次の標的は今までとはまったく違う。警備も厳重だろうし、どこまで近づけるかわからない。大統領就任式の後には、標的の来日の日程も決定するはずだ。日程とスケジュールが決まらないと、下調べも準備も進められない。
 
奇妙にあいた空白の時間。そんな時間が男は苦手だった。何かに向かって着々と計画を進めていく。あの訓練所に入れられた十代半ばの頃から、そんな生き方をしてきた。血と暴力に彩られた二十数年。命じられたことを着々と果たしてきたら、いつの間にか数えきれない人間の命を奪っていた。
 
初めて人を殺したのは、十二歳の時だった。殺すつもりはなかった。自分の身を守るために大勢の相手と戦っていたら、相手のひとりが死んでいた。ロシア人と言っても外見がまったく違う朝鮮族の男はいじめられ、ものごころついた頃から独りだった。戦うことが生き抜くことだった。その結果、大勢の人間を殺すことになった。
 
あの娘を殺す必要は、なかったのだ。しかし、〈ヴォールク〉の習性は、部屋に侵入すると同時に娘の頸を折った。声も立てずに娘は死に、その死体の横で男は銃を組み立て、フロントガラスに狙いを定めてトリガーを絞った。防弾ガラスであることは、わかっていた。
 
しかし、あの男はどうしてあそこに飛び込んできたのか。「ヴォールク」と、あの男は口にした。ソ連の諜報員だとすれば、どういう目的で〈ヴォールク〉を追ってきたのだろうか。皮肉なことに、娘を殺害した犯人として警察に追われることになったようだ。男は身代りになった男の顔を、もう一度思い出そうとした。

■1953年1月22日 東京・赤坂

藤崎一馬はソフト帽を目深に被り、黒いセルロイド縁の四角いメガネをかけ、口ひげを生やしていた。メガネがフォックスタイプだったら、まるでトニー谷である。ソロバンをリズム楽器のようにカチャカチャと鳴らし、英語と日本語をチャンポンにして喋る芸が受けて、今、人気絶頂のコメディアンだ。
 
ソフト帽に合わせ、グレーの背広にグレーのオーバーコートという服装に戻っていた。ドヤを出て、今は新橋の旅館に長期出張中の広島の会社員という触れ込みで滞在していた。いわゆる連れ込み宿としても営業しているらしく、藤崎のような長期滞在の客にも無関心で、深夜に帰っても文句を言われない。
 
李承晩狙撃の日以来、藤崎はわずかな情報を頼りに〈ヴォールク〉の行方を追っていた。横須賀と赤坂で見た男の身体的な特徴はつかんだ。CIAが動いているために、ソ連の諜報組織は動きが取れなくなっていたが、何とか連絡を取り、その後の情報を入手した。
 
ただし、北朝鮮工作員たちの動きからしか〈ヴォールク〉の動向はうかがえなかった。ソ連の諜報組織と北朝鮮工作員組織は連携を取っていたが、〈ヴォールク〉に関する情報については北朝鮮工作員組織内に箝口令が出たようだった。
 
何か手がかりはなかったかと、あのアパートでのことを何度も甦らせ確認したが、せいぜい男が楽器ケースを持ち、バンドマン風の雰囲気を漂わせていたことくらいだった。楽器ケースには、狙撃用のライフルが入っていたのだろう。
 
藤崎は、男が実際にバンドマンとして働いている可能性は少ないと思ったが、米軍基地にバンドを送り込むプロモーターを当たり、基地で爆破があった時に出演していたバンドを調べることにした。そんな情報は渡辺に聞けばすぐにわかるのだが、もう彼らの力は借りないことにした。
 
今度の使命は、今までとはまったく違う。確かに、フルシチョフが言ったように、藤崎の仕事はまるでジャーナリストのようだった。十二年前のゾルゲ事件で何人もの新聞記者や特派員が逮捕されたように、ジャーナリストはスパイの隠れ蓑になりやすいし、ジャーナリストがスパイにならないかと勧誘されることも多い。
 
藤崎は占領下の日本に潜入し、占領軍が矢継ぎ早に指示する改革案や憲法案、各政党の動向や離合集散、インフレの状況、労働運動の実態、旧軍人グループの策動、旧内務官僚たちの警備警察復活の動きなど、様々な分野の情報をフルシチョフの元に届けた。
 
しかし、今度の使命では命を落とす可能性がある。すでに米兵と日本人女性を合わせて数十人が死んでいるし、李承晩狙撃事件では関係のない若い娘が殺された。〈ヴォールク〉を阻止するためには、彼を殺すことが手っ取り早い解決法だ。〈ヴォールク〉と対峙した時から、藤崎はそのことを覚悟した。
 
プロモーターの証言で、藤崎はクリスマス・イブの立川基地と大晦日の横須賀基地に出演していた「ダンシング・キャッツ」というバンドがいたのを知った。二度の爆発事件に遭遇しているのは、そのバンドだけだった。そのバンドと〈ヴォールク〉に何らかの関係があるとは思えなかったが、どんなささいな手かがりでもすがりたい気持ちだった。
 
そして、今、藤崎は銀座のクラブに出演している「ダンシング・キャッツ」のステージを見ている。一階フロアの隅のテーブルだ。ステージでは、少女が「私の青空」を歌っていた。魅力的な美しい声だった。バンド専属のルーシー・立花という少女歌手だ。バンドマスターはチャーリー・立花だそうだから、親子なのだろう。
 
ステージが終了しバンドが引っ込むと、藤崎はボーイを呼んで「楽屋へいきたいんだが----」と言いながら百円札を差し出した。ボーイは百円札を目にも止まらぬ速さでしまい込み、「楽屋は、そこのドアから入ればいけます」と指さした。藤崎は立ち上がり、ドアを開けて楽屋への廊下に出た。
 
楽屋のドアを開けると一斉にバンドメンバーが振り返ったが、誰も不審そうな様子を見せなかった。誰もがステージ衣装を着替えている最中で、一瞬振り返ると、そのまま着替えに戻った。ルーシー・立花は、衝立の奥にいるようだった。

「ちょっと訊きたいことがあるのだが----」と、大きな声で藤崎は言った。
「何だい?」と、バンマスのチャーリー・立花が答えた。
「去年のクリスマス・イブの立川基地の爆発の件と、大晦日の横須賀の爆発の件で質問があるんだ」と、藤崎は続けた。
 
チャーリー・立花と隣に立っていた男----確かトランペットを吹いていたジェームス・鈴木と言った----がギョッとしたように藤崎を見た。
「あんた、警察かい」と、ジェームス・鈴木が言った。
「いや、違う」
「じゃあ、何でそんなこと訊く?」と、チャーリー・立花が言う。
「爆破犯人が、バンドマンに化けて潜入したのは知っているな」
 
チャーリー・立花は、藤崎をじっと見つめた。やがて、深くうなずく。
「あんた、米軍関係者だな」と、チャーリー・立花は言った。「CIAかキャノン機関か、そんなとこ?」
「どんなことでもいいんだが、何か気付いたことはなかったかな?」と、藤崎はチャーリー・立花の思い込みを否定せずに質問した。
「私、気付いたわ」と、衝立の向こうから少女の声がした。

着替えを終えたルーシー・立花が衝立の奥から姿を現した。ステージ衣装を脱ぐと、幼さが目立つ。裾を折り返したブルージーンズと、厚手のセーター姿だった。胸の部分に太いストライプが入っている。

「何を気付いたの?」と、藤崎は訊いた。
「立川の時、基地に入るトラックの荷台にいた人が、楽屋から出ていくのを見たわ。そのままいなくなり、帰りのトラックには乗っていなかったの」
「どんな男だった?」
「痩せて背が高い人。楽器ケースを持って楽屋を出てったまま」

「その人のことで、何か気が付かなかった?」
「大晦日の日も見かけたような気がした。横須賀基地のフェンスのそばに立ってた」
「本当かい」
「たぶん、同じ人」
「その男のことで、何か憶えていない?」

ルーシー・立花は、困った顔をした。やがて立ち上がると、衝立の奥へいきバッグを持って帰ってきた。バッグの中から一枚の紙を取り出し、藤崎に差し出す。藤崎は受け取って、その紙を開いた。浅草国際劇場のチラシだった。

「それ、その人が座っていたあたりに落ちてたの」と、ルーシーが言った。
「その人が座っていたあたりって?」
「立川基地へいく時に乗ってたトラックの荷台。その人が降りた後、それが落ちてたの。スリーパールズの写真が載ってるから、そのままもらってたの」と、罪を告白するようにルーシーは言った。

「これ、もらってもいいかな?」
藤崎がそう言うと、ルーシーはうなずいた。拾ったものを持っていたことに、後ろめたさを感じているのだ。
「これは落ちていたんだろ。だったら、拾ったきみは何も悪いことはしていない」
藤崎がそう言うと、ルーシーに笑みが戻った。
「これは役に立ちそうだ。助かるよ」と、藤崎は励ますように言った。
 
藤崎は、そのチラシの片隅に小さく「平和荘」とメモしてあるのに気付いていた。

■1953年1月23日 東京・代々木

「大統領就任式は、無事に終わった」と、ロバート・パウエルは言った。「翌日、大統領は正式にジョン・フォスター・ダレスを国務長官に任命した。といっても、トルーマン政権でダレスは国務省顧問として、実質的な国務長官の仕事をしてきた。来日して吉田に再軍備を求めたのも彼だし、講和を進めたのも彼だ。日本をソ連、中共、北朝鮮の共産国家と戦う最前線の防波堤にする。彼は、そう考えている。それに、弟で我々の副長官であるアレン・ダレスがCIA長官に就任する」

ワシントン・ハイツのCIAセーフハウスの最も広い部屋には、十人ほどが会議できる楕円形のテーブルがある。今、そのテーブルに向かっているのは、八人だった。ロバート・パウエル以外は現場のエージェントたちだ。ポール・バネンとマイケル・ダーンの顔も見える。

「新国務長官は、さっそく活動を始めた。アイゼンハワー大統領は、朝鮮戦争の終結を公約に掲げて当選した。フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト大統領が十二年と三カ月、トルーマン大統領がほぼ八年だから、共和党から大統領が出たのは二十年ぶりだ。だから、支持者たちのために新大統領は公約実現を最優先するだろう。しかし、基地の爆破、米兵へのテロが続いている。北朝鮮とソ連の関与が考えられるが、ソ連諜報組織そのものの直接的関与は確認できない。我々は〈ヴォールク〉と呼ばれる男を探り出した。彼は北朝鮮工作員組織のバックアップを受けている。横須賀基地近くのテロは〈ヴォールク〉の犯行と思われるが、この〈ヴォールク〉ももうひとりの日本人も手がかりがなく、三週間近く経っても見つけ出していない」と、ロバート・パウエルは続けた。

「もうひとりの日本人については、警視庁公安部からの情報が内調を通じてもたらされたのではなかったですか」と、マイケル・ダーンが言った。
「そうだ。李承晩狙撃事件の狙撃場所として特定されたアパートの部屋で、そこを借りていた女性が殺害された。残っていた指紋から、旧陸軍の記録にあった藤崎一馬という男が浮かび上がり、殺人犯として指名手配されている」

「その男は何者です」と、マイケル・ダーンが訊く。
「スパイ養成所だった陸軍中野学校一期生で、満州で対ソ情報工作担当のF機関のリーダーだった。終戦直前、ソ連に潜入し、ソ連の対日参戦の情報をもたらせたが、関東軍総司令部はそれを謀略と判断した。それ以降、ソ連に抑留されたと見られる」
「李承晩狙撃は、その男が?」と、ポール・バネンが口を挟む。
「いや、私は違う見方をしている。狙撃手は、おそらく〈ヴォールク〉だ。藤崎は狙撃場所を割り出して、その部屋へ向かい〈ヴォールク〉と遭遇したものと思われる」

「藤崎は、横須賀でも爆破現場に遭遇しています」と、他の誰かが言った。
「つまり、〈ヴォールク〉と呼ばれるテロリストが犯行を行う場所に、二度、藤崎は現れたわけだ。ポール、どう分析する?」
ロバート・パウエルがポール・バネンを名指しして訊ねたのは、肉体派であるポール・バネンの頭脳を試す意図だった。

「〈ヴォールク〉に北朝鮮組織のバックアップがあるなら北朝鮮から派遣されたテロリストで、朝鮮戦争の後方基地である在日米軍を狙っていると解釈するのが普通でしょう。藤崎は、おそらくソ連側に取り込まれ、ソ連のエージェントとして動いている。彼の動きから推察すると、〈ヴォールク〉のテロを止めようとしているように見える。つまり、ソ連が北朝鮮のテロを阻止する動きをしていることになる。北朝鮮に跳ね上がり、つまり戦争継続派がいて、ソ連の休戦推進派がそれを止めようとしているのではないか。そう推察しますね」

畏れ入った、とロバート・パウエルは思った。単なるゴリラではなかったか。頭脳も働かせることができるのだ。
「ポール、分析官になる気はないか?」
「ないね。現場の方が面白い」と、ポール・バネンはにべもない。
「なぜ、〈ヴォールク〉は李承晩を狙った?」
「私に訊いているのか?」と、ポール・バネンが皮肉な口調で言う。
「そうだ」と、ロバート・パウエルは答えた。

「〈ヴォールク〉の狙いは、休戦交渉をつぶすことじゃないかな。米軍基地の爆破、米兵の殺傷、韓国大統領の暗殺未遂、どれも休戦とは反対の方向だ。李承晩は徹底抗戦派で、韓国軍だけになっても戦争を続けると主張している。それを狙撃したが失敗した。李承晩は、ますます徹底抗戦を主張するだろう。私の分析は、そんなところです」
ますます畏れ入った、とロバート・パウエルは思った。ロバート・パウエルは人の能力を認めるのには躊躇しなかった。ポール・バネンの分析官としての能力は充分だった。

「李承晩の狙撃は、あえて失敗したということか?」
「そうだと思います」
「そこで、〈ヴォールク〉の次の標的だ」
「それが、本題ですな」と、マイケル・ダーンがようやく口を挟めたという感じで言った。
「そう、本題だ。〈ヴォールク〉は、ダレス国務長官を狙う可能性が高い。先日、ダレス国務長官は、訪日・訪韓の予定を発表した。議会での承認手続きもあるから、就任一か月後の二月二十一日、土曜日、羽田に到着。翌日、日米親善試合を観戦し、月曜日に吉田首相と会談。その日のうちに韓国に飛び、火曜日に李承晩と会談する」

「護衛は?」と、マイケル・ダーンが言った。
「シークレット・サービスが同行するが、我々も動員されるだろう。しかし、我々の仕事は、事前に危険な要素を排除することにある。つまり、〈ヴォールク〉を探し出し、取り除く。生死に関わらずだ」
「〈ヴォールク〉の手がかりは、ほとんどない」と、ポール・バネンが言った。
「藤崎を探し出し監視を行えば、〈ヴォールク〉にたどりつくかもしれん」と、マイケル・ダーンが言った。

「国務長官が観戦する日米親善試合って?」と、誰かが訊いた。
「あのジャック・デュバルも参加するアメリカン・チームと、日本のプロ野球の代表選手が後楽園球場で戦うんだ。国務長官はアメリカン・チームを激励し、試合を観戦する予定になっている」と、ロバート・パウエルは答えた。
「試合開始は午後一時でしたね。試合中が一番危険だな」と、ポール・バネンが指摘する。
「ただし、国務長官は試合終了まではいない。三十分ほどで中座する。横須賀基地を訪れ、先日、死亡した兵士を悼み、入院中の兵士を見舞う。どうせ、野球はアメリカン・チームが勝つだろう」

「とすると、観戦中の三十分が最も危険だな。移動していないのは、その時だけだろう。動く標的より、静止した標的は狙いやすい。狙撃か、爆破か。一時開始で三十分は観覧席にいるのがわかってるのだから、時限装置付きの爆薬でも狙える。〈ヴォールク〉は、巻き添えなど気にしない。横須賀では日本人の女たちが死んだし、李承晩狙撃では部屋の女性を殺した。国務長官の席はどうなってます?」
「VIP席だ。天覧試合でヒロヒトが座る席らしい」と、ロバート・パウエルは〈ヒロヒト〉に力を込めて答えた。「周囲は徹底的に調べる。爆薬を仕掛けるのは無理だ」
「だとすれば、狙撃か」と、ポール・バネンはつぶやいた。

 

2024年12月14日 (土)

■スターリンの暗殺者「第四章 終戦前夜」16

【四章の主な登場人物】
■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋
■上島隆平 F機関の利け者 
■東金光一 F機関の事務方
■神谷恂一郎 F機関で最も若くムードメーカー
■アンドロイ・アフメーロフ ソ連内務人民委員部(NKVD)所属の間諜
■イリヤ・モシンスキー ソ連内務人民委員部(NKVD)ハバロフスク支局長
■イワノビッチ・スモクトノフスキー ソ連政治局員
■ニキータ・フルシチョフ ソ連政治局員
■大木大尉 虎頭要塞守備隊長・砲兵隊長

 

■1945年8月5日 ソ連・ハバロフスク
 
上島は入口の鉄扉にもたれて、部屋にいる三人の様子を眺めた。渡辺は所在なさそうに二段ベッドの下の段に腰かけ、足をブラブラさせている。向かいに置かれた二段ベッドの下の段には、東金が寝そべっていた。神谷は向かいあって置かれた二段ベッドの間の狭い隙間の奥の壁の前に立ち、じっと斜め下を見つめていた。
 
彼らは捕らえられた後、別々の部屋でひとりにされ、二日間、尋問もなく放置された。それが、昨日の午後八時になって、この部屋へ集められた。盗聴器などを念入りに探した後、監視用の機器はないと判断し、上島は拘束された後の状況をそれぞれから確認した。誰もが、放置されているのは心理的に追い込む手だと感じたという。
 
今朝になってスープと黒パンだけの食事が出たが、また一時間ほど放置されている。藤崎だけが、どこかで尋問を受けているのだろうか、と誰もが気にしていた。しかし、それを言葉にすれば、藤崎への信頼を裏切る気がして、誰も藤崎の名を出せないのだ。上島は、初めて会った時の藤崎の若々しく溌剌としていた顔を思い出そうとした。
 
その時、鉄扉が開いてNKVD将校の制服を着たアンドレイ・アフメーロフが入ってきた。その瞬間、上島は自分たちが罠にはまったのを知った。やはり、焦る藤崎を思いとどまらせるべきだった、と悔やむ気持ちが湧いてきた。いや、悔やんでも仕方がない。あの時、藤崎と運命を共にすると決めたのだ。

「やっぱり、信用できない奴だったな」と、渡辺が口を開いた。
その言葉を無視して、アンドレイは上島の方を向いた。
「あなた方が得た情報は、本物です。上島さん、あなたは自分の目で兵士たちが集結しているのを見たでしょう」と、アンドレイが言った。「その情報を持って、藤崎さんが虎頭要塞の守備隊に向かって急いでいます。いや、もう着いた頃でしょう」
 
全員がアンドレイを見た。神谷は奥から扉近くに出てきた。
「あなたたちには本当のことを言っておくと、藤崎さんとは約束しました。だから、話しにきたのです」
 
上島は、渡辺と目を合わせた。アンドレイが始めようとしている話の内容が予想できなかった。藤崎は、アンドレイと何らかの取引をしたのだろうか。
「最初に言っておきますが、支局長のイリヤを殺したのは藤崎さんだと了解してもらっています。あなたたちは尋問されることはないと思いますが、藤崎さんがそう納得しているのだから、余計なことは言わないようにしてください」
上島は、再び渡辺と目を合わせた。

「イリヤ殺しを認めてくれたからというわけではありませんが、藤崎さんには情報を関東軍に伝えてもいいと脱出を認めました。ただし、二十四時間以内に帰ってくるという条件です。帰ってこない場合は、あなたたち四人を銃殺にしますと伝えました。藤崎さんが帰ってきた場合は、あなたたちは助命され収容所に送られます。藤崎さんは、軍事法廷で長年のソ連に対する諜報工作やイリヤ殺しの罪で裁かれます」
「Fさんだけ?」と、神谷が声を挙げた。
「そうです」
「俺たちは収容所?」と、渡辺が腕を伸ばして立ちあがりながら言った。「あんた、俺たちを捕らえるためにはめたのか」

渡辺は扉近くまで出てきた。アンドレイに近づくが、アンドレイはたじろがなかった。渡辺は顔をアンドレイに寄せた。瞬間、渡辺は身を引くと、右腕を大きく振った。だが、アンドレイは俊敏な動きで渡辺の右手をかわし、右足で渡辺の両脚を払った。渡辺がよろける。両手を鉄扉について、何とか倒れるのを防いだ。

「やっぱりな。相当、やるらしい」と、渡辺が言った。
「試されるのは嫌いです」と、アンドレイが答えた。
東金もベッドから立ち上がり、扉の方に出てきた。扉前の狭いスペースに、アンドレイ、上島、渡辺、東金、神谷の五人が睨み合うように立った。

「俺も試したくなった」と、神谷が右手の拳をアンドレイの顔の前に掲げた。
「嫌いだと言ったでしょ」と、アンドレイが言う。
「Kよ、やめておけ。アンドレイ、おまえの狙いは何だ」と、上島が訊いた。
「話せません。想像するのは勝手です」

「勝手に想像しよう。まず、おまえはNKVDの極東支局長の座を狙っていた。そこで、日本の諜報員に支局長が殺されたことにして、後釜を狙った。情報を日本軍に伝えるために藤崎を解放したのは、重大情報が漏洩した事実を作るためだ。誰かに漏洩の責任を追及するのだろう。つまり、クレムリン内の権力闘争が関係している」
 
アンドレイが拍手をする真似をした。
「藤崎さんも同じことを言っていました。あなた方の考え方は、似ている。皆さん、優秀だ。ところで、藤崎さんは今日の夕方までに帰ってくると思いますか?」
「あいつは、帰ってくるよ」と、上島が断言した。

「帰ってくれば、あなたたちは死なないですむが、藤崎さんにはおそらく銃殺刑の判決が下される」
「銃殺?」と、神谷が怒鳴った。「この卑劣な露スケ野郎」
「差別言葉は、品がありませんよ」
「うるさい」と、神谷は今にも暴れ出しそうだった。
「あの人は、必ず帰ってきます。そういう人なんです」と、冷静に東金が口を開いた。
 
全員が、その静かな言葉に聞き入った。上島は、東金の穏やかな顔を見た。藤崎に対する信頼は微塵も揺るがない。東金の表情に、そんなことを感じた。沈黙が続く。しばらくして、アンドレイが静寂を破った。

「帰りたくても帰れない、ということもあります。たとえば、藤崎さんが我が国に寝返ったと思われ、二重スパイの疑いで拘束されることだって考えられます」
「貴様」と、冷笑を浮かべるアンドレイを上島は睨んだ。


■1945年8月5日 満州・虎頭

「話を聞こう」と、大木大尉が言った。
大木大尉の個室だった。テーブルと椅子。隅にベッド。壁のフックに軍刀が下がっている。拳銃は腰のケースにしまってある。司令官からは藤崎の逮捕拘留、総司令部までの護送を命じられたが、大木大尉は藤崎の両脇を抑えようとした通信兵ふたりを制し、「話を聞かせてくれ」と言って藤崎を自分の部屋へ導いた。

「私は、焦っていた」と、藤崎は話し始めた。
ソ連の対日参戦は間違いないと考え、その期日を早急に確認したいとソ連の諜報員アンドレイを罠にはめて寝返らせたところから、アンドレイがもたらせた情報につられ全員でハバロフスクまで潜入したこと、それが逆に罠だったことを話した。

「つまり、そのアンドレイという男は、イリヤという支局長に死んでほしかった、重要な情報が漏れてほしかった、しかし、その情報が日本側に信用されないでほしかった、ということか」
「そうとしか考えられない」
「そして、おまえが帰らないと四人は殺される。おまえが帰れば、イリヤ殺しの罪を着せられ銃殺刑になるかもしれない」

「そうだ。アンドレイは私を帰らせないように、二重スパイの嫌疑がかかるようにした。そうすれば、私は関東軍に拘束され、四人は殺される」
「ソ連が攻め込んでくるまで、おまえが拘束されていればいいということか」
「どっちにころんでも、アンドレイの狙いは外れないのさ」
「その男の目的は何なのだ?」

「あの国は、共産党政治局の仲間内で殺し合いばかりしてきた。いつ、自分が粛清されるかわからないような状況が続いている。どいつもこいつも足の引っ張り合いだ。スターリンに疑われないでいることが、生き抜くための知恵だ。そんなことが関係しているのだろうと想像しているがね」
「俺には、わけがわからん世界だな」

「だから、私はハバロフスクへ帰らなければならない」
「わかった。ここを出ていけばいい」
「あんたは、命令違反をすることになる」
「かまわんさ。あんたの情報だと、もう二、三日すれば、それどころじゃなくなる。ここは対ソ連の最前線基地だ。ソ連軍と戦うために作られた要塞さ。最後に役に立つなら、この馬鹿デカイ要塞も無駄じゃなかったことになる。華々しく戦ってやるさ」

「靖国で会おう、というのが特攻隊員の別れの挨拶だと聞いた」
「そうだ。靖国で会おう。あんたは、いないかもしれないが----」
そう言って、大木大尉は鉄扉を大きく開いた。


■1945年10月30日 ソ連・モスクワ

藤崎に対する尋問は長く続いた。F機関が保存していた書類が、すべてソ連軍に押収されたからだった。五年間に及ぶソ連に対する情報工作が把握されていた。最も厳しく追及されたのは、イリヤ・モシンスキー殺害に関することだった。情報を得るためにイリヤ・モシンスキーを尋問し殺害したことで、藤崎は軍事法廷で裁かれることになった。

あれから二カ月以上が経っている。藤崎はハバロフスクのNKVD極東支部に戻り、上島たち四人と再会した。彼らは取り調べのためにモスクワへ移送され、NKVD本部の拘留所に収容された。五人は同房に収容されたので、改めて結束が強まった。
 
八月九日未明、ソ連軍は満州、南樺太、千島列島に侵攻した。その三日前、八月六日には広島に原爆が落とされ、ソ連軍が侵攻した九日の朝、長崎にも原爆が投下された。だが、日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏を受け入れたのは、ソ連参戦の衝撃が大きかったからだ。
 
日本がポツダム宣言を受諾し、アメリカの戦艦ミズーリ号上で九月二日に降伏文書の調印が行われた後までソ連は侵攻を続け、千島列島を完全に占領した。日本では連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー率いる占領軍による占領が始まった。それらの情報は、少し遅れてではあったが、藤崎たちのところにも入ってきた。
 
藤崎が衝撃を受けたのは、広島に落とされた原爆のことだった。原子爆弾といわれても現実感がなかったが、次第にその惨状が伝わってきた。十万人が一瞬で殺され、投下から二カ月経っても死者は増え続けていた。藤崎は、広島市の中心街で育った。一族が全滅している可能性があった。
 
軍事法廷が近づいたある日、藤崎は呼び出され尋問室に入れられた。一時間ほど放置された後、鉄扉が開き入ってきたのは、NKVD将校の制服姿のアンドレイ・アフメーロフだった。
「久しぶりです」と、アンドレイは言った。
 
藤崎の顔をじっくりと見る。藤崎は返事をせず、アンドレイを見返した。日本が負けた今、アンドレイに会っても何の感慨も湧かなかった。自分の焦りから、アンドレイの罠に陥ることになった。そのため、上島や渡辺、神谷、東金を巻き添えにしてしまった。そのことばかりが悔やまれた。

「日本は連合軍、マッカーサーに占領されてしまいました。戦犯の追及が始まったらしいですよ。民衆は食糧不足で、この冬には一千万人の餓死者が出ると言われています」
「何をしにきた」
「念押しです。イリヤ殺しはあなたの仕業ということのね」
「一度取引したんだ。武士に二言はない」
「あなた方、日本人はよくその言葉を使う。自分を武士と思っているのですね」
 
藤崎は、じっとアンドレイを見つめた。沈黙が続き、アンドレイが焦れた。
「他の四人はシベリアの収容所送りの予定ですが、それはあなた次第だ。あなたが何も言わなければ、その判決になる。しかし、余計なことを言えば、銃殺刑の判決に変わってしまうかもしれない」
「私がすべてを負って処刑されればいいのだろう」
「そういうことですね」
「では、死にゆく人間に、おまえの目的を話す気はないか」

アンドレイは、藤崎の提案を考えているようだった。しばらくして、意を決したように口を開く。
「何も知らずに死んでいきたくはないということですか。では、お話しできるところだけ説明しましょう。内務人民委員部は警察行政として秘密警察から国境警察、また収容所管理、対情報工作まで包括していましたが、ドイツとの戦争中にべリア長官は保安組織だけを独立させました。国家保安人民委員部、通称NKGBです。NKGBは、国内治安、対情報工作、国境警備、強制労働収容所管理、ゲリラ工作などを受け持つことになりました。これが、戦後、NKGBは国家保安省、NKVDは内務省に昇格しました。誰がどこの組織を掌握するか、それが大変に重要なことだったのです」

「一方にいるのはベリヤか。ベリヤはその国家保安省と内務省の両方を掌握した。絶大な権力だ」
「戦争中、軍の中にも対情報工作、破壊工作を担当する部署がありました。ビクトル・セミョーノビッチ・アバクーモフ将軍が率いた〈スメルシュ〉です。『スメルト・シュピオナム』、つまり『スパイに死を』という意味。通常、同じ目的を持つ、ふたつの組織は対立する。まあ、少なくとも協力関係にはならないものです」

「おまえの背後にいたのは、アバクーモフ将軍か。要するに、対外情報工作部門の支配権を巡る争いだったのだな」
「ご想像におまかせします」と、アンドレイは笑みを浮かべて言った。「私が話せるのは、ここまでです」
 
翌日の十月三十日、軍事法廷で五人は裁かれ、藤崎は銃殺刑、他の四人はイルクーツクの強制収容所送りと決まった。藤崎は多くの政治犯が射殺された、悪名高いルビヤンカ監獄に収監されることになった。法廷を出る時、上島たち四人は黙って視線を送ってきた。藤崎は、ひとりひとりに詫びるようにうなずくと、廷吏に促されて部屋を出た。

■1946年12月1日 ソ連・シベリヤ

収容所にきて一年が過ぎた。二度めの冬である。シベリアの大地に沈む夕陽を見ながら、上島はため息をついた。夕陽の中に藤崎の顔が浮かんだような気がした。銃殺刑が確定したのは、もう一年以上前のことだ。すでに、この世にはいないだろう。

この一年で大きな変化があった。神谷が死に、上島は指を失った。元気なのは渡辺だけだ。東金も悪い咳をしている。元々白い顔が青白くなった。ここで、いつまで生きなければならないのか、それを考えると絶望し、自殺する人間もいた。
 
だが、上島たちは同じ収容所の同じ部屋で暮らせただけ、他の捕虜たちよりはましだったかもしれない。絶望しそうになったら、仲間の励ましがあった。しかし、そんな中で神谷は肺炎をこじらせ、あっさり息を引き取ってしまった。四人の中では一番若く、まだ二十七歳だった。
 
その時、警備のソ連兵がやってきた。顔は知っているが、話したことはない。労働する上島たちの横で、いつも銃を構えて立っている。時には、苛立つようにロシア語で大声を上げ、収容者に暴力をふるうこともあった。

「集会所の小部屋へいけ」と、ソ連兵は言った。
「何だ」
「いけばわかる」
 
上島は不審に思いながら集会所に向かった。どうせ、いい話など期待はできない。どういう難題が待っているのか、上島は覚悟を決めて集会所の脇にある小部屋のドアを開いた。部屋のテーブルに向かって腰を下ろしていた藤崎が立ち上がった。

「生きていたのか」と、上島は叫んだ。
「痩せたな」と、藤崎が言った。
「ここにいる全員が栄養失調だ」
 その時、藤崎がボロボロの毛糸の手袋をした上島の左手に目を落とした。
「その手----」
「これか。待遇改善を要求したら、戸外の懲罰用の小屋にひと晩放置された。凍傷だ。指二本失くした」

「すまん」
「おまえが謝ることではない」
「俺が焦って、ロクに調べもせずアンドレイの話にのったからだ」
「忘れろ」
「他の三人は?」
「Wは元気だ。Tはちょっと悪い咳が出ている。----Kは今年の二月、肺炎をこじらせて死んだ」
藤崎が、上島を黙って見つめる。それから、ゆっくりと腰を折って椅子に座った。
「そうか----」と、しばらくして囁くように言った。
 
上島は、落胆した藤崎に声がかけられなかった。藤崎はF機関の全員に、いつでも死ねる覚悟を強いていた。それでいて、ギリギリまで生き抜くことを考えろと言っていた。死の覚悟は必要だが、無駄に死ぬことはない。藤崎が諜報組織の長として不向きだったのは、あまりに情が深いことだった。

「遅かったか」と、しばらくして藤崎が言い顔を上げた。「帰国できるんだ。今月、初めてシベリアからの引揚げ船が出る。八日には舞鶴に到着する予定だ。その船にきみたち全員が乗れることになった」
 
藤崎の言い方が淡々としていたので、上島はその内容をあっさりと受け取った。帰国できる。本来なら驚きと喜びが湧き起こるはずだった。しかし、なぜ、藤崎はそんなことができたんだ。ここへ伝えにきたことも、ソ連の許可がなければできないことだ。
「俺たちを帰国させるために、今度はどんな取引をした?」
上島は藤崎の向かいの椅子に腰を下ろした。

銃殺刑の判決が出てルビヤンカ監獄に収監されてから、藤崎は食事を与えられ、運動のために一日一時間ほど独房から出されるだけだったという。処刑がいつ行われても取り乱すまいと気を張っていたが、そんな状態が六カ月も続くと、次第に自分の気力が萎えていくのがわかった。
 
その男がやってきたのは、六カ月を過ぎた頃だった。男は尋問のための部屋で待っており、藤崎を連行した看守が部屋を出ると、「そこへ」と言ってテーブルの対面の椅子を勧めた。六カ月、看守は常にそばにいたが会話を交わすこともなく、人の声に飢えたようになっていたのか、藤崎にはその男の声が心地よくさえ聞こえた。

「私はイワノビッチ・スモクトノフスキー。政治局の人間です。あなたに確認することがあって、うかがいました」と、男の口調はあくまで丁寧だった。
 
黒々とした髪をオールバック風にし、いかつい肩をした男だった。座っているのでよくわからないが、背はかなり高そうである。官僚然とした男だった。机の上に革の書類鞄が置いてあり、そこから分厚い書類を取り出した。

「最初に、お知らせしておきます。アンドレイ・アフメーロフは、二週間前に処刑されました。国家反逆罪です」
 
六カ月も放置され死刑囚の気力が萎えた頃、まず衝撃を与える。心を無防備にさせた後、尋問を開始する。確かにアンドレイの処刑には驚いたが、ソ連では起こり得ないことではない。昨日まで権力を握っていた人間が、今日は処刑されるのは珍しいことではなかった。だから、藤崎に衝撃はなかった。

「あの男には痛い目に遭わされたが、諜報員としては優秀だったと思う」
「ええ、優秀な諜報員でした。ただ、ある陰謀に加担しました」
「権力闘争に勝った方は、負けた方が陰謀を企んだと必ず言う」
イワノビッチという男は、藤崎を見て笑みを浮かべた。
「我が国の用語を、よく理解しているようですね」

「アンドレイが加担した方は、負けたんだな」
「うーむ、それに返事はできませんが、アンドレイは処刑される前に様々な自白をしました。自分がトカゲの尻尾として切られたのを知って、トカゲの本体に復讐するつもりだったのかもしれません」
「ということは、トカゲの本体と頭は無事なのだな」
イワノビッチは、また笑った。

「まあ、そのことは置いといて、イリヤ・モシンスキー殺害についてもアンドレイは告白しました。その結果、あなたが率いていたF機関のことも、まったく違う報告が上がっていたことがわかりました。それに、あなた方、F機関の五年間に及ぶ対ソ情報工作についても、詳細に調べました」
「それで----、改めて裁判でもするのか」
「いえ、その必要はありません。その調査書類を、私はある人物に上げました。その人物から私は使命を与えられていたのです」
「使命?」
「今、多くの日本人が我が国に抑留されています。その中から、我が国の役に立つ人物を見つけろ、という使命でした。私はある程度絞り込み、条件を充たす人物を探しました。その中で、あなたを見つけたというわけです」

「ソ連の役に立つ日本人? ソ連のスパイになれ、ということか」
「あなたの経歴は、その人物が望む条件にぴったりです。日本のスパイ学校出身の特務機関員。情報工作のプロだし、祖国のために命を懸けた。部下を救うために、死を覚悟して戻り、一度契約したことは相手が敵であっても破らない。ロシア語がペラペラで、教養もある。どうです、その人物に会ってみませんか? その人物は、あなたの処刑を中止させ、自由にすることができます」

好奇心を抑えることができず、藤崎はその人物との会見を了承した。すると、そのまま藤崎は解放され、男にモスクワ市内のアパートの高層階の一室に連れていかれた。そこは、政治局高官の宿舎として提供されているようだった。そう豪華ではないが、住み心地のよさそうな部屋だった。
 
イワノビッチは藤崎を居間のソファに座らせると、「私はここまでです。間もなくその人物が出てきます」と言って出ていった。しばらく藤崎がソファに座っていると、禿頭の小男が奥からニコニコしながら出てきた。
「ニキータ・フルシチョフ」と、男は言って手を差し出す。
「藤崎一馬」と、藤崎はフルシチョフの手を握り返した。

ニキータ・フルシチョフ。二十代前半にボリシェヴィキに入党し、戦争前にはソ連共産党中央委員に選出された。大粛清を生き延び、ウクライナ共産党第一書記、そして政治局員と、順調に共産党内の階段を昇ってきた男だ。小太り、禿頭といった外見が、相手に警戒心を起こさせないのかもしれない。ソ連共産党最高幹部のひとりだった。

「きみのことは、膨大な書類を読んだので、よく知っている。率直に言うと、私専属のエージェントにならないかということだ」
「専属エージェント?」
「スパイとか諜報員とか、そんな言葉は使いたくない。あえて言えば調査員かな。日本が戦争に負けて、まだ十か月にもなっていないが、その間、我が国を中心とする共産主義圏と、米英を中心とする資本主義圏の対立が先鋭化している。つい先月のことだが、イギリスのチャーチルがトルーマン大統領に招かれてアメリカにいき、演説を行なった。その中で『バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた』と言った。チャーチルによれば、我々は鉄のカーテンの内側にいるというわけだ」

「東ドイツのソ連占領地区を手放す気はないのだろう。朝鮮半島も北はソ連の管理だ」
「ヨーロッパでは、我が国と国境を接する国はすべて共産圏になった」
「ソ連の衛星国家」
「そういう失礼な言い方はしない。ポーランドやハンガリーが気を悪くする。問題は極東なのだよ。中国では、今、人民解放軍と国民政府軍が戦っている最中だし、日本は連合国つまりアメリカに占領されている。朝鮮半島も三十八度線の南はアメリカの管理になっている。つまり、極東では我が国はアメリカと国境を接しているのと同様だ。一触即発の事態だって起こりうる状況なのだよ」

「それで?」
「定期的に占領下の日本に潜入し、調査し、報告してくれる直属の人物が必要なのだ。正確な情報がなければ、判断を間違う。日本に潜入するには、日本人が最適だ。ロシア人は目立ちすぎるし、占領政策ではアメリカとぶつかってばかりいる」
「日本の状況を調べるといっても、どんな情報がほしい?」
「主に政治と経済の情報だ。どういう政党や政治家がいるのか。どんな法律を作ろうとしているか。占領軍との関係。どちらかといえば、ジャーナリストの仕事に近いかもしれない。もちろん、ソ連のスパイと疑われれば、危険はあるかもしれないが」

「破壊工作や暴力的なテロは、絶対に必要ない?」
「ない」と、フルシチョフは断言した。
「条件がある」と、藤崎は言った。
「何だね」
「私の仲間が四人、イルクーツクの収容所に入れられている。彼らを帰国させてほしい」
「わかった。何とかしよう」

その時、藤崎は日本人であることを棄てた。

 

2024年12月 7日 (土)

■スターリンの暗殺者「第四章 終戦前夜」15

【四章の主な登場人物】
■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋
■上島隆平 F機関の利け者 
■東金光一 F機関の事務方
■神谷恂一郎 F機関で最も若くムードメーカー
■アンドロイ・アフメーロフ ソ連内務人民委員部(NKVD)所属の間諜
■イリヤ・モシンスキー ソ連内務人民委員部(NKVD)ハバロフスク支局長
■イワノビッチ・スモクトノフスキー ソ連政治局員
■ニキータ・フルシチョフ ソ連政治局員
■大木大尉 虎頭要塞守備隊長・砲兵隊長


■1945年8月4日 ソ連・ハバロフスク

不思議なことに、藤崎たち五人の取り調べは、一日目は行われなかった。彼らは別々の部屋に入れられ、放置された。放置されることで疑心暗鬼が生まれる。それぞれひとりだから、他の人間がどうなっているのか、何を話したか、想像し、不安になる。それを狙ってのことだと、皆、わかっているはずだ、と藤崎は思った。
 
相手がどういう方法で尋問してくるか、どういう心理戦を仕掛けてくるか、どれも予想がついた。F機関の全員を藤崎は信じている。個別に隔離され、放置された時、何も話さないことだ。相手は「他の人間は、こう言ってるぞ」とカマをかけてくる。しかし、仲間を信じて何も話さない。ただ、耐えるしかない。
 
二日目の午後になって、藤崎の部屋の鉄製の扉が開いた。そこには、NKVD将校の制服姿のアンドレイ・アフメーロフが立っていた。顔つきまでが違っているように見える。一瞬、アンドレイは頬を緩めたが、また真顔に戻り、部屋に入ってきた。
 
こちらが騙されていたのか、と藤崎はため息をついた。自分の焦りが、他の四人も巻き込んでしまった。五年間、監視と盗聴を継続し、アンドレイの弱点をつかんだつもりだったが、盗聴も監視も知ったうえで、この男は金と女に弱い諜報員を演じていたのだ。

「藤崎一馬、その名前で呼んでいいですか?」と、アンドレイは言った。
「こちらのことは、すべてわかっているということか」
「そうです」
 
そう言うと、アンドレイは鉄扉を閉めた。ふたりきりになることを警戒していない。自信に充ちた態度だった。しかし、なぜ、この男は自分の上司を殺したのか。
「あなた方は日本の諜報機関の人間で、我が国の日本への参戦時期の情報を得るために潜入し、NKVD極東支局長を尋問し殺害したことで拘留されています。我が国と日本が交戦状態になれば、我が国に潜入したスパイは処刑されても文句は言えません」
 
藤崎は部屋の隅にあった丸椅子に腰を下ろした。死ぬのは覚悟していた。しかし、他の四人も道連れにしてしまったことを悔やむ気持ちが消えない。確かに、彼らも死ぬ覚悟はしているだろう。だが、藤崎が無理な計画を立てなければ、死なずにすんだのだ。

「仲間のことを考えていますね」
藤崎は、アンドレイを睨んだ。こいつには本当に騙された、と思うが、諜報員としての能力は尊敬に値する。そして、今もまだ、彼の計画は進行中なのだ。こいつの狙いは何だ、と藤崎は目に力を込めた。

「他の四人を救うことができる提案があります」
「おまえの狙いは、何だ」と、藤崎は口を開いた。
「それを話す機会はあるかもしれませんが、今は言えません」
「おまえは、自分の上司を殺した」

「そのことですが、あなたが殺したことにしてくれませんか。私が殺したと話しても信じてもらえませんよ。そもそも尋問官は私ですしね。それに、私があなた方に寝返り協力したと話しても、すでに私の報告書が出ています。あなたたちをソ連領に誘い込み、捕らえるためだったとなっています。あなたたちの特務機関は、私たちにとっては目障りでした。日本語で言う『目の上のタンコブ』です。ただ、ソ連と日本は中立条約を結んでいるから、敵対しているわけではない」

「だから、手を出さなかったと----。しかし、今になって我々を捕らえても意味ないだろう」
「そんなことは、ありません。近々、我が国は日本に宣戦布告します」
「おまえは、殺されたイリヤの後釜になるのか」
「よく、わかりましたね」
「それが殺した理由か」
「それだけでは、ありませんがね」
アンドレイはクックッと、さもおかしそうに笑った。優越感に浸っているのだ。

「さて、話を戻しましょう。あなたがイリヤを殺したことにしてくれれば、あなたにあるチャンスを差し上げます」
アンドレイは背筋を伸ばし、顎を引き、カツカツと軍靴の音を立てて、部屋の中を歩いた。鍛えられた軍人のような歩き方だった。

「チャンス?」
「ここを脱出し、あなたが入手した情報を日本軍に届けることができるチャンスです」
藤崎は、一瞬、アンドレイが言った言葉を理解できなかった。混乱しそうになる。

「どういうことだ?」
「ただし、条件があります。情報を伝え終わったら、ここへ帰ってくること。あなたに与えられる猶予は二十四時間」
「今日は四日だ。今から脱出しても、虎林に着くのは五日になる。今日、明日にでもソ連軍は国境を越えるつもりか」
「それは、わかりません。もしかしたら、あなたの情報で関東軍は我々を迎え撃つ準備ができるかもしれない」
「なぜ、そんなことをする?」
「話せません」

「情報が漏洩した事実が、必要なんだな」と、藤崎は確信したように言った。「おまえは、NKVDのために動いていない。だから、支局長も殺した。もっとも、ソ連じゃ突然の粛清や処刑は日常茶飯事らしいが----」
 
アンドレイが薄笑いを浮かべた。的を外したわけではないらしい。いや、図星だったのかもしれない。NKVDの長はベリヤだったはずだ。大粛清を行い、数知れない人間を処刑し、収容所に送った男。最も恐れられている人物だった。
 
そのベリヤと彼が率いるNKVDに、瑕疵をつけようとしている人物がいる。アンドレイは、その人物に忠誠を尽くしているのではないか。NKVD極東支部を掌握するために支局長を殺し、その地位に就く。それが目的のひとつ。さらに----。
 
NKVD支局長が尋問に耐えかねて日本の諜報員に重要な情報を漏らし、その情報が日本側に伝わる。その情報遺漏の責任は誰かが取らねばならない。当然、NKVDトップのベリヤだろう。ベリヤを追い落としたい誰かが責任を追及する。結局、クレムリン内部の権力闘争なのだ。

「私の提案を呑むのなら、私が出た後、扉を開けるといい。ただし、さっきも言ったように、あなたは二十四時間後には戻っていなければならない。そうしないと、他の四人は銃殺刑に処せられることになる」
「何だと」
「あなたが戻れば、四人は収容所送りになります。ただし、あなただけは軍事法廷で裁かれます。その場合、銃殺になる可能性もある」

日本人諜報員によって対日参戦の日にちが漏洩した事実を作りたいが、その証人は抹殺したい。そのために、四人を人質に取る。

「あなたの名誉と仲間への友情のために、あなたとの取引の内容は彼らにも知らせておきます。それが、精一杯の私の好意ですよ」
そう言うと、アンドレイは懐から藤崎の旅券と財布を出してテーブルに置いた。昨夜、取り上げられたものだった。

「こちらに選択の余地はないということか」
「そういうことです」
 そう言って、アンドレイは鉄扉を開き出ていった。

■1945年8月5日 満州・虎頭
 
虎頭要塞はソ連に対する満州防衛の要として構築された、東西十キロ、南北四キロに及ぶ巨大な要塞である。ウスリー江に面した猛虎山の丘陵に建設され、昭和十八年に完成した。五十キロの射程距離を持つ巨大な砲台を持ち、迷路のような地下通路が縦横に走っている。ソ連国境の向こうにシベリア鉄道を見ることができ、その破壊が可能だった。
 
しかし、日ソ中立条約締結によってソ連が仮想敵国ではなくなった後、配備されていた守備隊を減らし、その人員を南進への兵力に充当した。だが、今年四月の条約更新をしないというソ連側の対応を警戒し、この七月に千四百人の守備隊が改めて配置された。
 
ハバロフスクを出発した十時間後の八月五日早朝、虎頭要塞の背後の門に藤崎はたどり着いた。警備兵が両脇に立っている。巨大な要塞の後部は小山のふもとのようなもので、それほど目立たないし、この先に砲台があるとは想像できない。

「F機関のFが面会したいと、守備隊長の西脇大佐に伝えていただきたい」
藤崎は、警備兵のひとりに向かってそう言った。
「西脇大佐は、司令部に出張中であります」と、警備兵が答えた。
「では、砲兵隊の大木大尉はおられるか」
「お待ちください」と言って、警備兵は要塞の中に入っていった。

虎頭要塞の守備隊長も砲兵隊長の大木大尉も顔なじみだったのが、藤崎には幸いだった。こちらの正体を詮索しないで、面会には応じてもらえるだろう。特に大木大尉は直情径行型の愚直な軍人で、愛すべき人物だった。頭は堅いが、柔軟性がないわけではない。ひと言で言えば、武人である。
 
十五分ほど待たされて、大木大尉が現れた。長い地下道を通ってやってきたのだろう。藤崎を認めると、破顔した。
「まだ生きてたか。特務機関員」と、大木は大声を挙げた。

「頼みがある」と、藤崎は言った。
「いきなりだな」
「時間がない。関東軍司令部に重要な情報について連絡したい」
「関東軍司令部は、あんたらF機関の情報については重要視しないぞ」
「そんなことを言っている場合じゃない。ソ連が対日参戦を決め、着々と準備を進めているんだ」
大木大尉の顔色が変わった。

「本当か」
「ドイツ降伏の三カ月以内にソ連は対日参戦をする。つまり、八月八日までに参戦するということだ。現に、アムール川沿いにソ連軍の師団が集結している」
「その情報は、確かか?」
「間違いない。ハバロフスクで入手した」
「ここの要塞が忙しくなるな」
「バカ言うな。下手したら玉砕だぞ」
「玉砕か」
「したいのか」
「したくはないが、逃げるのは嫌だ」
「ここには、千数百人いるんだろ」
「民間人も保護を求めてやってくるかもしれん」
「とにかく、あと三日だ。油断しない方がいい」
「露スケの奴らが国境を越えたら、シベリア鉄道を破壊してやる」
「射程距離五十キロというが、正確に目標に落とせるのか」
「俺は砲兵だぜ」と、大木大尉は胸を張った。

それから、大木大尉は踵を返し、要塞内部に向かった。藤崎は、その後を追った。長い地下通路を歩く。分厚いコンクリートで固められており、相当な砲撃にも耐えられる構造だ。ここに籠って戦えば、持久戦になるだろう。

「武器弾薬、食糧などの備蓄はあるのか?」と、藤崎は先をゆく大木大尉に訊いた。
「この時期、そんな余裕のある部隊が存在していると思うのか?」
「じゃあ、持久戦には持ち込めないな」
「ああ、短期決戦でケリをつけるしかない」
この男、ソ連軍が攻撃してきたら死ぬ気だなと藤崎は思った。
「司令室はすぐそこだ」と、大木大尉が言った。

頑丈な鉄扉があった。それを大木大尉は力を入れて開く。地下通路が続き、その奥に要塞の指令室があった。指令室も鉄扉である。それを開いて、大木大尉は入っていった。ついてこい、という顔で藤崎を振り向く。
 
正面の壁に大きな地図があった。満州の全図だ。国境線がすべてわかる。その手前に大きなテーブルがある。おそらく作戦会議もここで開くのだろう。右手奥に無線機が設置され、通信兵二名が椅子に座って向かっていた。

「おい、関東軍総司令部に連絡を入れてくれ。重要な情報を入手した。最優先事項だと言うんだ」と、大木大尉は言った。
 
通信兵が返事をして、すぐに関東軍総司令部を呼び出す。数分後、総司令部から返事が入った。兵士が大木大尉の言葉を繰り返す。向こうの通信兵が総司令官を呼びにいくと言って通信が切れた。

「どういう情報か?」という声が、しばらくしてスピーカーから流れた。
「山田総司令官殿でありますか。虎頭要塞守備隊の大木大尉であります」
「わかった、大木。用件を早く言え」
「ソ連に潜入していた特務機関員よりの報告です。ソ連軍は対日参戦の準備中。八月八日までに国境を越える可能性あり、とのことです」

「間違いないか」
「信頼できる情報です」
「戦力は?」
「少なくともハバロフスク周辺に一個師団が待機中だ。歩兵隊、工兵隊、戦車隊が揃っている」と、藤崎は大木大尉に向かって言った。
「特務機関員がそこにいるのか?」と、スピーカーから声が流れた。
「はい、そうであります」と、大木大尉が答えた。
「直接、報告を聞きたい」
「了解です」

藤崎はマイクの前に座った。
「どこで、その情報をつかんだ?」
「ハバロフスクのソ連内務人民委員部、通称NKVD極東支局長を捕らえ尋問し直接聞き取りました」
「その男は?」
「尋問後、死亡しました」
「NKVDの追跡は?」
「彼らが気付く前に、国境を越えました」
「わかった。大木大尉に代われ」

藤崎は大木大尉と交代した。大木大尉が通信機に向かう。
「大木、そこには他に誰がいる」と、関東軍司令官が言った。
「私と特務機関員、それに通信兵二名です」
「わかった、通信兵に命じてその男を拘束しろ。そいつはソ連軍に寝返っている」
 
大木大尉が藤崎を見た。通信兵二名が立ち上がり、藤崎の背後にまわった。大木が腰のケースから拳銃を取り出して藤崎に向けた。

「司令官殿、どういうことでありますか?」と、大木大尉が藤崎から目を離さずに大声で言った。
「昨日、こちらで傍受したソ連軍の通信がある。その暗号を解読すると、内容はNKVD極東支局長を尋問殺害した日本の特務機関員五名全員を逮捕したというものだった。そいつは逮捕され、助命を条件に偽情報を我々に与えるためにソ連軍が送ってきたものと推察される」
「お言葉ですが、彼はそんな男ではありません」
「では、なぜ、ソ連軍に逮捕された男がそこにいるのだ」

説明がややこしいのと、アンドレイの提案を正直に話しても信じてはもらえまいと思い、見つかる前に逃げたと報告したことが失敗だったのだ。今更、本当のことを言っても信用はされまい。一度、疑われてしまえば、どんな話も言い逃れと取られる。
 
しかし、藤崎はここで拘束されるわけにはいかない。今日の夕方六時までに帰らないと、四人は銃殺されてしまう。情報は関東軍総司令部に伝わったが、それはソ連軍の謀略だと判断されてしまった。
 
昨日、ソ連軍の暗号通信を傍受したというが、それもアンドレイが手配した謀略ではないのか。ソ連参戦の情報が漏れたことで、ベリヤの責任を追及できる。同時に、藤崎がもたらせた情報を関東軍に信用させないために、あえて通信を傍受させたのだ。

「確かに、一度は逮捕された。ただ、情報は偽ではない。間違いない情報だ」と、藤崎は大木大尉の目をまっすぐに見て言った。
「大木大尉、その男を拘束し、すぐに新京へ送れ。こちらで尋問する。以上だ」
 
新京の関東軍総司令部との通信は切れた。藤崎の目の前には銃口があり、緊張した面持ちで大木大尉が立っている。背後に立つ二名の通信兵が近づく気配がした。

2024年11月23日 (土)

■スターリンの暗殺者「第四章 終戦前夜」14

【四章の主な登場人物】
■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋
■上島隆平 F機関の利け者 
■東金光一 F機関の事務方
■神谷恂一郎 F機関で最も若くムードメーカー
■アンドロイ・アフメーロフ ソ連内務人民委員部(NKVD)所属の間諜
■イリヤ・モシンスキー ソ連内務人民委員部(NKVD)ハバロフスク支局長
■イワノビッチ・スモクトノフスキー ソ連政治局員
■ニキータ・フルシチョフ ソ連政治局員
■大木大尉 虎頭要塞守備隊長・砲兵隊長


■1945年8月1日 満州・虎林

虎林は、ソ連国境に近い満州国の街である。新京から鉄道でハルピン、牡丹江を経て虎林までくれば、ソ連と朝鮮の国境が近い。ソ連領内のウラジオストック、ハバロフスクへも鉄道が通じている。虎林には、日本軍が対ソ連のために構築した虎頭要塞があった。そこには、関東軍の守備隊が配置されている。
 
F機関の五人は、今、虎林の駅前にある満鉄ホテルの一室に集まっていた。四日前、アンドレイは脅迫と買収によって、二重スパイとなることを了解した。翌日、アンドレイはハバロフスクへ向かい、二日後、ある情報をつかんで新京に帰ってきた。それが、昨日のことだった。

「私の担当連絡員は、ハバロフスクの支局長だ。私がモスクワまで報告にいくことはほとんどない。ハバロフスクには赤軍の極東軍司令部もあるし、NKVDの極東支部もある。そこで、赤軍の大移動が行われていると聞いた。ヨーロッパから大量の兵士が、シベリア鉄道で極東に移動しているらしい。ハバロフスク郊外には、大勢の赤軍兵士が集まっているとか」と、アンドレイは言った。

「やはり、対日参戦はあるな」と、藤崎が言った。
「しかし、今、ポツダム宣言が出され、連合軍は日本の対応待ちのはずだ」と、上島は言った。
「鈴木貫太郎首相は、『ポツダム宣言は黙殺』と言ったらしいですね」と、東金が言う。
「受け入れられない、とは言わなかったぜ」と、渡辺が冷静に言う。
「今、ソ連が連合軍に加わって日本に宣戦布告したら、首相はすぐにもポツダム宣言を受諾するだろう。陸軍がいくら反対してもな」と、藤崎が言った。「だから、ソ連の対日参戦はあり得るし、ソ連軍が極東地域に集結しているのなら、間違いないだろう」
「それが、いつかが問題だ」と、上島はつぶやく。

「それを、探れないか?」と、藤崎がアンドレイに向かって言った。
「もうひとつ、情報がある。ある筋から耳にしたんだが、今年二月、ヤルタ会談でルーズヴェルトとスターリンが会った。その時に秘密協定があったというんだ」と、アンドレイが気を引くように言った。
「秘密協定?」と、上島は先を促すように口を挟んだ。
「そう、ルーズヴェルトとスターリンの間にだ。しかし、二カ月後、ルーズヴェルトが死んでトルーマンが大統領になった。ところがだ、トルーマンは何も聞かされていなかったんだな。だから、ポツダムではスターリンに鼻面を引きまわされたらしい。NKVDじゃ、その話で持ちきりだぜ」

「その秘密協定の内容は?」と、藤崎が訊いた。
「対日参戦についてのことらしい」
「具体的には、わからんか」
「俺が探り出せたのは、そこまでだ。どうしても知りたいなら、あんたも一緒にハバロフスクへいくかい」と、アンドレイは皮肉な笑みを見せた。
「ハバロフスクへいけば、わかるのか?」と、藤崎が前のめりになるように確認した。
「支局長は、その内容を知っている」
「その支局長を拉致して、吐かせるか。アンドレイ、おまえ、手引きできるか?」
「荒仕事は、苦手なんだ」
「私たちを案内し、その男を教えるだけでいい」

その時、上島は藤崎を見た。藤崎と目が合う。上島は立ちあがり、「F」と声をかけて隣の部屋へ向かった。藤崎が後を追ってくる。隣の部屋で、上島は待った。
「Fよ、焦りすぎじゃないか。今、ソ連国内に潜入して、NKVD諜報部門の極東支局長を拉致するなんて無茶だよ」
 
藤崎の目を見て、上島は言った。藤崎は焦っている。冷静な藤崎にしては珍しいが、敗戦を覚悟し、何とか己にできる最善の努力をしようと思っているのだろう。
「ソ連参戦の正確な日にちが知りたいんだ。そうすれば、関東軍に報告して邦人の保護、あるいは満州からの引揚げに対応できる。ソ連軍が満州になだれ込んできたら、満州は蹂躙されるぞ。ソ連軍のドイツでの行状を聞いたか。略奪、強姦、虐殺----、全滅させられた村もあるし、老女から少女まで強姦された。ソ連軍に占領されたら地獄だ」
藤崎は、その光景を目の前にしているように語った。上島は、藤崎の顔を見ていたら何も言えなくなった。
「全員、死ぬかもしれんな」と、上島は言った。

その結果、五人は虎林のホテルで打ち合わせをしている。アンドレイは隣の部屋にいた。諜報員にしては、元々、酒にだらしない男だったが、日本側に寝返ってからはさらに酒量が増えていた。今頃は、ウォッカを呷っていることだろう。

「アンドレイによれば、支局長は毎日、決まった時間に仕事を終えて帰宅する。途中、いきつけのレストランでウォッカを何杯か飲むらしい。ロシア人はウォッカを水みたいに飲む。アパートまでは二十分。その間に、暗い路地がある。アンドレイの地図によれば、この通りだ」
 
藤崎が、アンドレイが描いた地図を広げた。上島はハバロフスクの地図と照合してみたが、手描きの地図は正確に描かれていた。通りの名前も書き込まれている。藤崎がハバロフスクの大きな地図をテーブルに広げ、支局の場所と拉致を予定している場所に印をつけた。

「車は、アンドレイが手配する。拉致したら、すぐに車で移動する。尋問の場所は郊外の人気のない場所だ。それもアンドレイの案内だ」
「あいつを信用できますか?」と、神谷が言った。
「場所も下調べできないし、土地勘もない。計画も大ざっぱだし、細部も詰められない。アンドレイを信用するしかない」
「元々、無理な計画だからな」と、上島は皮肉にならないように口を開く。「無理を承知でやろうっていうんだ」
「すまんな」と、藤崎が頭を下げた。
「みんな、今回は死ぬかもしれん。覚悟だけはしておけよ」と、上島は明るい声で言った。

「死にたくはないが、覚悟はしとくよ」と、渡辺が答えた。
「どういう布陣でいきますか?」と、東金がいつものように冷静に訊いた。
「Aチームは、私とWとKだ。支局長を拉致し、尋問する。Bチームは、UとT。ハバロフスク郊外の赤軍の様子を探る。どれくらいの人数が集結しているのか、その様子を確認してほしい」と、藤崎が言った。

「明朝、鉄道でハバロフスクへ向かう。Aチームはハバロフスクに本社がある大日本帝国極東貿易の社員、Bチームは満鉄社員だ。みんな商用でハバロフスクへ向かう。アンドレイは、ひとりで行動する。鉄道で国境を超えるわけだが、気を付けてくれ。ソ連の国境警備隊はそう厳しくはないが、油断はしないように」
「Fよ、向こうで何かあった時、バラバラになった時、生きていれば集合場所はここでいいな」と、上島は念を押した。
「ああ、それから、情報をつかんで、ここまでたどり着けたら、虎頭要塞の守備隊を通じて関東軍司令部に報告を入れてくれ」と、藤崎が言った。
 
それは、新京まで帰り、参謀本部へ報告することは叶わないだろうということか、と上島は心の中で藤崎に問うた。関東軍司令部に情報が届いたとしても、彼らはその情報を生かしてくれるだろうか。


■1945年8月2日 ソ連・ハバロフスク
 
ハバロフスクはシベリア鉄道の要だった。シベリア鉄道はモスクワからウラジオストックまでをつなぐ九千数百キロに及ぶ世界最長の鉄道である。ハバロフスクからは支線も出ており乗降客も多い。そして、今、上島隆平は貨物列車から大勢の兵士が降りてくるのを目撃していた。
 
ただ、じっと見ているわけにはいかなかった。上島は東金を促してホームから足早に立ち去った。駅舎を出て、周辺を見渡した。あれだけの兵士たちが毎日ヨーロッパから送られているとしたら、彼らをどこに収容するだろうか。幸い、今は夏の盛りだ。屋外での野営も可能である。
 
あれだけの兵士を、どこに野営させることができるだろうか。その時、一時的な露営地としてアムール川の川岸が浮かんだ。上島と東金が駅舎の前に立っていると、隊列を組んだ兵士たちが現れてアムール川の方向に行進していった。アムール川沿いなら広い場所があるし、水も確保できる。
 
上島と東金は、アムール川とは逆の方向に向かった。商用客としてホテルに入り、暗くなってからアムール川沿いを探索しようと考えたのだ。ソ連軍が対日参戦の準備をしているのなら、戦車隊も集結しているはずである。全容を把握できなくとも、可能な限り兵員数や戦車の数などの戦力を探り出したかった。
 
冬場は零下何十度にもなるハバロフスクだったが、八月の暑さは格別だった。麻のスーツの上着を脱ぎネクタイを緩めて、ぎらぎらと照りつける真夏の太陽を上島は見上げた。ふっと、東京にいる妹の光子の面影が浮かんだ。ふたりだけの兄妹だった。
 
今年三月には東京に大規模な空襲があり、下町の広い範囲が焼けたという。何万人もの人が死んだ。その中には上島の家族もいたかもしれない。光子は無事だっただろうか。別れた時は、まだ十五歳の少女だった。生きていれば、二十歳を過ぎている。
 
帝大を出て陸軍に士官候補生として入り、訳がわからないうちに中野学校の一期生として、スパイになるための訓練を受けることになった。指導教官から「家族も棄て、名前も変えて別人になれ」と命じられ、それ以降、上島隆平という名前で生きてきた。軍の記録には、上島隆平としか出ていない。家族が本名で陸軍に問い合わせても、「そんな人間はいない」と言われるだけだ。

「どうしたんです?」と、東金が不審そうな声を出した。
「日本は負けるだろうな」と、上島は言った。
「間違いないですね。無茶な戦争を始めたんです。早い段階で、講和に持ち込むべきでした」と、東金はいつものように冷静な分析をする。
「ソ連が参戦すると、まず満州、それから南樺太、千島列島にも侵攻するだろう。北海道も危ないかもしれん。ウラジオストックからだと、日本海側の新潟あたりも----」

「ヨーロッパでソ連軍に占領された国がどうなったか、知っていますか」
「ああ、ソ連は占領地域に居座っている。どの国も共産化するだろうな」
「米軍に占領された方がましかもしれません」
「沖縄が米軍に占領された。次は九州への上陸か、関東上陸か。関東なら、相模湾か九十九里だろうな。南から米軍、北からソ連軍。大日本帝国は、亡ぶぞ」
 だとしたら、ここで死ぬことになっても仕方がないな、と上島は思った。

                                                                                            ★

支局長のイリヤ・モシンスキーはレストランに寄り、ウォッカをひと瓶空けて席を立った。酔ってはいるようだったが、足元は確かだった。店から出てきたイリヤの後を、藤崎は距離を置いて尾いていった。神谷がイリヤの斜め前を歩いている。渡辺は、拉致予定の場所で待機していた。
 
五分ほどで、拉致予定の路地が見えてきた。相手に気付かれないように、少しずつ藤崎は距離を詰める。路地の向かいに到達した神谷が、靴ひもを直す振りをしてしゃがみ込んだ。イリヤが路地の前を横切ろうとした時、路地から渡辺が出てイリヤの前を塞いだ。神谷が立ち上がり、イリヤの側面に寄る。
 
藤崎は、イリヤの真後ろに立っていた。イリヤの後頭部と首筋の境目をめがけて手刀を落とす。イリヤの膝が崩れた。すかさず渡辺が両脇に腕を差し込んで支え、路地に連れ込む。神谷がイリヤの片側を支え、足早に路地を抜けていく。藤崎は周囲を確認して、路地を走った。
 
路地を抜けた広い通りに、車が止まっていた。渡辺が後部ドアを開けて乗りこみ、イリヤの体を引き込む。そのイリヤを挟む形で神谷が車に乗り、ドアを閉めた。藤崎は、それを見届けて助手席のドアを開けて乗った。アンドレイが顔を向ける。
「いけ」と藤崎が言うと、アンドレイは車を出した。
 
市内ではゆっくりとした速度で走り、郊外に出るとアンドレイはスピードを上げた。草原が広がる場所の小さな小屋の近く、木立ちに隠れる形で車を停める。
「ここは?」と、藤崎は訊いた。
「農場の見張り小屋だ。今の季節は誰もいない」と、アンドレイが答えた。「私はここに残る。彼が気付いた時、その前にいたくない」
「ああ、あんたが寝返っていることを知らせる必要はない。今後のこともある」
「ちょっと待て。あんたは、彼を解放する気なのか?」
「必要なことを訊けたらな」

藤崎が車を降り、後部座席から渡辺と神谷が両側からイリヤを担ぐようにして降りた。イリヤを運ぶ渡辺と神谷の後ろから藤崎は尾いていった。小屋の中には灯りもなく、外から入る月明かりだけがぼんやりと人影を浮かび上がらせた。
 
イリヤを柱に縛り付け、渡辺が両頬を叩いた。イリヤが呻き声を上げる。もう一度ビンタをすると、イリヤは目を開いた。自分の状態に気付くのに、少し時間がかかった。やがて、目の前の藤崎に鋭い視線を向ける。だが、後ろから月の光が入っているので、藤崎の姿はシルエットにしか見えないだろう。イリヤの顔は月明かりで、はっきり表情もわかった。

「おまえたち、何者だ」と、イリヤが言った。「いや、聞かなくてもわかるぞ。日本人だな」
「ヤルタ会談の秘密協定」と、藤崎はロシア語で言った。「その内容は?」
「そんなことは知らん」
「知っているはずだ」
「知らん。拷問でも何でもしてみろ」
「この写真を見ろ」
 
藤崎は写真を取り出して、イリヤの顔の前に差し出した。アンドレイから手に入れたイリヤの妻の写真だった。イリヤは四十を過ぎているが妻は十四歳も年下で、数年前に結婚したばかりだった。その妻を溺愛していると、アンドレイは言った。相手の弱点を調べること。中野学校で習った。どんな拷問でも耐えられる男も愛する者への脅迫には屈する。

「彼女に手を出したら、おまえら全員殺してやる」
「狙われる立場は弱い。おまえが話さないなら、彼女は死ぬ」

イリヤ・モシンスキーは、煩悶の表情を浮かべた。卑劣な脅しだ、と藤崎は思う。だが、立場が逆だったら、相手も同じことをするだろう。イリヤは目の前にいるのが、自分と同類の人間たちだとわかったようだ。ただ、落ちるまでには、多少の時間がかかる。

「話したら、私を解放するか。妻は殺さないか」
「お前の話が嘘だったら、戻ってきておまえも妻も殺す」
「おまえなら、やるだろう」と、イリヤが言った。「卑劣な日本人め」
 
しかし、罵倒だけがイリヤにできる唯一のことだった。藤崎は、彼の頭脳が回転していること、様々な可能性を検討していることがわかった。やがて、諦めの表情が浮かんできた。

「ルーズヴェルトとスターリンは約束した。ドイツ降伏から三カ月以内に、ソ連は日本に宣戦布告する」
「ということは、八月八日が密約の最終日か」

藤崎はつぶやいて、渡辺を振り返った。渡辺がイリヤを縛っているロープの結びを確認した。藤崎を見て、うなずく。堅く縛ってあるということだ。藤崎は合図をした。渡辺と神谷が小屋を出る。

「悪いが、そのままでいろ。朝になれば、誰かくるだろう」と、藤崎は言った。
 イリヤ・モシンスキーは、ロシア語で罵詈雑言を喚いた。なるほど、罵り語は、どこの国の言葉でも多種多様にあるものだと、藤崎はおかしさを感じた。喚いているイリヤを残して小屋を出る。車に戻ると、渡辺と神谷が周囲を探索していた。

「どうした?」
「アンドレイがいない」
その時、小屋の方角からアンドレイが戻ってきた。少し息を切らしている。
「何をしていた?」
「小屋の外から中の様子を見ていたんだ。その後で小便をしていた」
 
藤崎は、小屋の方を振り返った。何かが、心にひっかかっていた。アンドレイが運転席に乗り込み、藤崎が助手席、後部座席には渡辺と神谷が乗り込んだ。
「ホテルへ向かうが、少し離れたところで降ろすぜ」と、アンドレイが言った。「あんたらといるところを見られたくない」
「わかった。上島と東金の帰着を確認したら、明日の早朝ここを離れる。おまえは、素知らぬ顔で戻るんだな」
「わかっている」と、アンドレイが答えて車を出した。

                                 ★

上島は、アムール川の沿岸に集結した兵士と戦車の数に呆然となった。一体、何人の兵士がいるのだろう。一個師団が集結している。これですべてではないはずだ。まだまだ兵士はヨーロッパから移動してくるだろう。ヨーロッパの占領地域に必要な人数だけを置き、残りはすべて極東に移す計画なのではないか。
 
上島は夏草の中を後退した。東金には待機を命じ、ひとりで探索にきたのだ。これ以上は近づけないし、近づいても意味がない。ソ連は全戦力を極東に終結させているのではないか。日本だけが、まだ抵抗を続けているのだ。ここで対日参戦し、降伏後の日本に対して何らかの野心をスターリンは抱いている。

「どうでした?」と、待機場所で東金が訊いてきた。
「一個師団は優にいたよ。歩兵隊、砲兵隊、工兵隊、戦車隊、すべて揃っている。あの様子だと、攻撃に出る日はそう遠くない。今日、明日じゃないとは思うが」
「Fさんたちの方は、うまくいきましたかね」
「わからん。とにかくホテルで集まろう」

ふたりは暗い道を、人目につかないように市内に向かった。しかし、誰も歩いていない道を日本人がふたり歩いているのだ。誰かに出会えば、怪しまれるに違いない。その時、ヘッドライトが見えた。一台の車がこちらへやってくる。隠れる場所はなかった。ふたりは何事もなかったように、道の端を歩き始めた。そのふたりの前に、車が停まる。上島は身構えた。

「私ですよ」と、アンドレイの声が聞こえた。
ヘッドライトを点けたままの車の窓から、アンドレイが顔を出している。しかし、上島は警戒を解かなかった。
「迎えにきたのです。市内まで送ります。ホテルで、みんな待っている」
上島は何も言わず、後部座席に乗り込んだ。反対側のドアを開けて、東金も乗り込む。アンドレイはUターンして、スピードを上げた。
「どうして、この道にいるとわかった?」と、上島は訊いた。
「兵士たちの終結している場所に向かうには、この道しかないでしょう」
「部隊が集結している場所を、知っていたのか?」
「見当はつきます。ハバロフスク周辺で何万人もの人間が集結できるところですから」
 
そのアンドレイの言葉が上島は気になった。アンドレイはヨーロッパから極東に大量の兵士が異動していること、ハバロフスク周辺に集結していることを噂で聞いたと報告した。本当は、アンドレイ自らが、それを確認したのではなかったか。
「藤崎さんの方は、うまくいったようですよ」と、アンドレイが言った。 
                              ★

「スターリンの嘘つき野郎め」と、神谷が憤慨して口にした。「今年二月の段階で対日参戦を約束してやがった」
「それで、四月に中立条約延長なしを通告か」と、渡辺が言う。
「ドイツ降伏後、三カ月以内の参戦」と、上島が確認する。
「そうだ。五月八日にドイツは無条件降伏した。だから、八月八日までにソ連は日本に宣戦布告する」と、藤崎が答えた。

「しかし、日ソ中立条約はまだ効力を持ってますよ」と、東金が言った。
「スターリンは、そんなこと気にもしちゃいない」と、神谷は怒り続けている。
「あの兵士たちの様子じゃ、侵攻は近い」と、上島が報告する。
「八日まで、六日間しかない。明日、虎頭までいき、守備隊を通じて関東軍と、可能なら参謀本部に連絡する」と、藤崎は言った。
 
ホテルの藤崎の部屋で、五人が揃っていた。渡辺と神谷は藤崎と同じ会社ということになっていたが、上島と東金は満鉄社員の身分だった。五人が揃っているところを見られない方がいいのだが、彼らが得た情報を共有するために藤崎は全員を集めた。五人のうちの誰かひとりが虎頭要塞にたどりつけばいい。
 
その時、ドアが蹴破られた。全員が反射的に身を起こし、ドアの方を向いた。しかし、次の瞬間、抵抗はあきらめた。NKVDの制服に身を固めた五人の男たちが、小銃の銃口を各人に向けて立っていた。五人は、凍結したように立ちすくんだ。NKVD将校の制服を身に着けた男が部屋に入ってきた。

「イリヤ・モシンスキーを殺害した容疑で、おまえたちを逮捕する」
NKVDの将校は、五人を見渡して言った。その瞬間、藤崎は理解した。アンドレイ・アフメーロフ、奴だ。奴がイリヤ・モシンスキーを殺したのだ。
「そんな男は、知らないぜ」と、渡辺が言った。
「取調室で訊こう」と、将校が答えた。「彼は延髄を刺し貫かれていた。確実に死ぬし、返り血も浴びない」

なぜ、アンドレイは上司であるイリヤを殺したのか。イリヤはアンドレイが日本側に寝返っているのを知らなかったのに----と、藤崎は考えていた。

 

 

2024年11月16日 (土)

■スターリンの暗殺者「第四章 終戦前夜」13

【四章の主な登場人物】
■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋
■上島隆平 F機関の利け者 
■東金光一 F機関の事務方
■神谷恂一郎 F機関で最も若くムードメーカー
■アンドロイ・アフメーロフ ソ連内務人民委員部(NKVD)所属の間諜
■イリヤ・モシンスキー ソ連内務人民委員部(NKVD)ハバロフスク支局長
■イワノビッチ・スモクトノフスキー ソ連政治局員
■ニキータ・フルシチョフ ソ連政治局員
■大木大尉 虎頭要塞守備隊・砲兵隊長


■1945年7月27日 満州国・新京

満州国は昭和七年(一九三二年)に成立し、昭和九年に清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が康徳帝を即位し元号も康徳と改められた。また、かつての長春を新京と改め首都とした。新京の駅名表示には、漢字、ローマ字、キリル文字が併記されており、日本語、中国語、英語、モンゴル語、ロシア語に対応していた。文字通り、中国人、モンゴル人、日本人、朝鮮人、ロシア人などがいきかう街だった。
 
満州国の首都だけあって、新市街には公官庁が整備され、首都機能が集中した。上下水道、道路、路面電車などの交通網も整備され、関東軍司令部、憲兵隊司令部、日本大使館、満州中央銀行なども置かれた。また、東京海上ビル、東洋拓殖ビルなどの建物も偉容を誇っていた。
 
そんな新京の商業地域にある「ロシア商会」という名前の小さな貿易会社をF機関が監視することになったのは、社長のアンドレイ・アフメーロフがソ連内務人民委員部(NKVD)所属の間諜である疑いを持ったからだった。
 
ロシア商会という、いかにもな名前を持つ貿易会社は、社長のアンドレイの他に中国人の男女がひとりずつしかいない所帯だった。男が力仕事を担当し、女が事務をとっていた。仕事の内容は、キャビアやウォッカなどのロシアの特産品を輸入し販売することで、アンドレイは仕入れと称してたびたびソ連と満州を往き来していた。
 
F機関は、ノモンハンでの手痛い敗戦によってソ連情報の正確な収集が必要だと痛感した参謀本部が作った特務機関だった。
 
昭和十四年(一九三九年)、関東軍は参謀本部を無視してノモンハン事件を起こし、ソ連軍の前に敗北を喫した。大勢の兵士を無駄死にさせ、敗走の責任をとって何人かの司令官は自裁し、何人かは惨敗の責任を前線の司令官に押し付けようとする参謀たちから病室での自決を強要された。
 
参謀本部は対ソ情報の重要性を認め、翌年の昭和十五年、陸軍中野学校一期生で早稲田大学時代にロシア文学を学んだFこと藤崎一馬を満州に派遣し、F機関を創設させた。しかし、F機関は参謀本部直属だったため、関東軍とは犬猿の仲だった。
 
この五年間、藤崎たちは貴重なソ連の情報を収集し、参謀本部に報告してきた。同時に関東軍司令部にも情報は上げていたのだが、関東軍の参謀たちはF機関の情報を無視することがほとんどだった。
 
昭和二十年四月、ソ連は日ソ中立条約の延長をしない旨を申し入れてきたため、条約は一年後に失効することが決定した。にも関わらず、日本外務省はソ連を連合国との仲介役として期待する傾向があった。参謀本部はソ連の狙いを判断できず、条約延長拒否の理由を探ることをF機関の最優先事項とした。
 
藤崎たちは五年間で培ったルートを活用し、懸命にソ連の内部情報を探ったが、思うように情報は集まらなかった。そこで、目を付けたのが五年間監視を続けてきたロシア商会のアンドレイ・アフメーロフだった。五年前に通信の傍受に成功し、アンドレイがソ連の諜報員であることは判明した。
 
その後、アンドレイの監視盗聴によって重要な情報を入手できたが、昭和十六年四月に日ソ中立条約が成立し、満州と国境を接するソ連の脅威がなくなった日本軍は「南進」を決定し、資源を求めてフランス領インドシナへ侵攻した。参謀本部も条約締結によってソ連脅威説を下ろし、F機関の報告も軽視されるようになった。
 
ところが、敗色濃厚になった今、にわかにソ連の動向が重要になってきたのだ。外務省および東郷外務大臣は、ソ連を仲立ちにして連合国との講和を図ろうとしていたし、参謀本部の一部にはソ連の対日参戦を心配する人間もいた。そんな状況の中、昨日、連合国側からの「ポツダム宣言」が一方的に発表された。
 
ポツダム宣言にはソ連は署名していなかったため、大勢は中立条約が来年四月まで効力を持っているからソ連の対日参戦はないだろうという予測だったが、藤崎はソ連参戦を確信し、その裏付けとなる情報収集のために躍起になっていた。しかし、決め手になる情報は入手できず、焦った藤崎はアンドレイに直接コンタクトする計画を立てた。

「奴と接触するって?」と、上島が言った。
新京の官庁街にある雑居ビルの一階である。「日満文化交流協会」という看板の出た事務所だった。「F機関の知恵袋」と言われる最年長のWこと渡辺三郎、藤崎と中野学校で同期だったUこと上島隆平、若手のKこと神谷恂一郎、データ分析に強いTこと東金光一、それに藤崎の五人が揃っていた。

「そうだ。早急にソ連の対日参戦の意志を探り出さなければならん。戦局は非常に不利だ。先月、沖縄がアメリカ軍に占領された。本土は、連日の空襲に遭っている。この五年、アンドレイの言動は監視し盗聴してきた。彼の弱みも、望みも、欲望もわかっている。こちらに転ばせることができるかもしれない」と、藤崎は言った。

「買収か」と、上島が言う。「確かに、奴は金に汚い。それに共産主義に信念を持っている人間でもない。欲望に弱く、金と女になびく」
「それで、奴を落とせると----」と、渡辺が確認する。
「落とすしかない。奴を二重スパイにしてソ連に送り込み、情報を取得する」と、藤崎は言った。
「Fさん、焦ってませんか?」と、東金が冷静な声を出した。
「焦っている。だから、一か八かの賭けをする。ポツダムでの会議には、ソ連からスターリンとモロトフが参加している。ポツダム宣言には署名していないが、ソ連は連合国側だ。トルーマンとスターリンがどんな話をしたのか、早急に探り出さねばならん」
 
全員が藤崎を見つめた。心配する顔、異論を持つ顔、それぞれだが、藤崎が出した結論を彼らは飲んでくれるし、そのために最大の力を発揮してくれる。だから、失敗は許されない。幸い、今まで大きな失敗はなかったが、それはいつも成算のある計画を立ててきたからだ。今回は本当に賭けだ。賭けに勝つしかない、と藤崎は思った。

「あなたがそう決めたのなら、みんなに否はない。計画を話してください」と、渡辺が四人を見渡して答えた。

■1945年7月28日 満州国・新京
 
アンドレイ・アフメーロフは、いきつけのナイトクラブ「金馬車」に顔を出した。もう十時を過ぎていたが、彼がご執心のナターシャは、まだ日本人の客と踊っていた。満州では、どこでも日本人が威張っていた。まるで自分の国のように振る舞っている。アンドレイはテーブル席に座り、ボーイにウォッカを頼み「ナターシャがあいたら、きてほしい」と言った。
 
ナターシャがやってきたのは、十時半を過ぎた頃だった。アンドレイはナターシャを目当てに、もう半年近く通っていた。毎回、ナターシャを口説くのだが、色よい返事は返ってこない。もちろん、その間に金で買った女や他の酒場の女とも交渉があったが、ナターシャに対する気持ちは募るばかりだった。
 
ナターシャ・ジェルジンスキーは、革命で逃げ出した白系ロシア人の娘だった。祖父母と父母に連れられてロシアから大連に逃げてきた時には、まだ二歳だったという。ということは、今、二十八歳である。しかし、二十代前半にしか見えない。大連で成長し、満州国が成立した後に新京に移ってきた。クラブ勤めにしては、身持ちの堅い女だった。

「ナターシャ、そろそろ私の気持ちを受け入れてくれよ。焦らされすぎて、おかしくなりそうだ」と、アンドレイは大げさな身振りで言った。
「いいわよ」とナターシャが答え、アンドレイは、耳を疑った。
「もうすぐ店が終わるから、新京満鉄ホテルで部屋を取って待ってて。部屋が決まったら電話してね」
「本当かい」
「嘘は言わないわ」
そう言うと、ナターシャは席を立った。その後ろ姿を見送りながら、アンドレイは頬がゆるむのを抑えられなかった。

一時間後、アンドレイは裸のまま呆然と、ダブルベッドの足下に立つ日本人を見上げていた。どうしてこんなことになったのだ、と考えようとしたが、パニックになったのか、何も浮かんでこない。

「私は、もういいのね」
ナターシャがバスローブを引き寄せて、ベッドから立ち上がった。そのまま下着を身に付け、洋服をまとい、この部屋に入ってきた時の姿に戻った。さっき、アンドレイの裸の胸に裸身を寄せてきたのが、嘘のようだった。

いよいよ思いが遂げられるとナターシャを抱いた時、彼女が顔を背けたと思ったら、ドアが開き、ふたりの男が飛び込んできた。ひとりがカメラを向けると、フラッシュを焚いた。目の前が真っ白になった。
 
フラッシュの光で、まだ目がくらんでいた。チカチカする。それでも、ようやく自分が罠にはめられたのだとわかった。美人局だろうか。この日本人は、ナターシャの情夫なのだろうか。金で片が付く話なのだろうか。様々な思いがアンドレイの頭をよぎった。

「アンドレイ・アフメーロフさん」と、日本人はロシア語で言った。
カメラを持っているのも日本人だった。その男は、アンドレイの右後ろに立ち、アンドレイの逃亡を警戒していた。反撃はできそうになかった。それに、裸だ。アンドレイは裸の体にシーツを巻き付けた。
「あなたがNKVDの諜報部門の人間だということは、わかっている」
そういうことか、とアンドレイは思った。女がらみのトラブルではない。ナターシャは金で引き受けただけだ。この日本人は、軍関係者か、特務機関員なのだろう。
「こんな写真くらいで、私は脅せないぞ」と、アンドレイは言った。
「そうでしょうか。この写真がNKVD内に公表されたらまずいのではありませんか。相手が革命を逃れ亡命した白系ロシア人だと、よけいにまずいでしょう。ほんのささいな疑いで、収容所送りになったり、処刑された人間は数知れないのでは?」

アンドレイは、絶句した。確かに、今のソ連では、ささいなミスが死を招く。この日本人と接触したことが上部にわかると、それだけで疑いを持たれる。寝返ったのではないか、何か情報を漏らしたのではないか、そう疑われるのは間違いない。疑われるだけで、死がやってくる。

「私は、日本の参謀本部直属の特務機関員です。そう名乗った私と接触したことを、本部に知らせてみますか。Wさん、私たちの記念写真を撮ってください」と、日本人はいたぶるように言う。
Wと呼ばれた男がカメラを捧げて、アンドレイの前に立った。日本人はシーツを巻き付けているアンドレイの横に座り、アンドレイの頭を両手でつかんで正面を向かせ、自分もカメラを見つめた。フラッシュが光る。

「これで、先ほどの写真を撮られた後、日本の特務機関員とも会ったことの証拠が残りました。女との写真をネタに、寝返りを強要された証拠です。もしかしたら、こちらの写真の方が効き目があるかもしれませんね」
日本人の言う通りだった。そんな写真が組織の上部に渡ったら、間違いなく粛正される。一度疑われた諜報員に復活はない。

「私はFと名乗っておきます。彼はW」
Fと名乗った日本人は、顎でカメラを持った男を示して言った。
「単刀直入にいきます。取引の提案です。あなたの国では、ささいな疑いでも致命的だ。あなたは処刑されるか、収容所に送られる。しかし、私の提案に同意すれば、あなたには大金が支払われるし、満州にでも日本にでも亡命できる。いかがですか」

「何をすればいい?」
「ソ連は対日参戦をやる気があるのか、それともないのか。それを知りたい」
「そんな高度な政治判断、私にわかるものか」
「それを探ってもらいたい」
「誰もスターリンの考えはわからんよ」
「何とか探れませんか。そうしないと、先ほどの写真が、あなたの組織に送られることになる」

アンドレイは沈黙した。ここで、あくまで拒否すれば、この日本人たちはどう出るだろう。おそらく、殺される。母国に帰還しても死が待っているとしたら、金を受け取り、日本人の提案を受け入れれば、この場は生き延びることができる。
「わかった」と、アンドレイは答えた。

 

2024年11月 9日 (土)

■スターリンの暗殺者「第三章 李承晩」12

■1953年1月6日 東京・日比谷

昨夜、帝国ホテルに入った李承晩は、本日、クラーク国連軍総司令官の公邸で日米韓の三か国会議を行い、さらに吉田茂との日韓会談を行う予定だった。昨年中断した日韓会談以降の両国の関係を打開するため、クラーク国連軍総司令官が両国の仲介をしたのである。
 
日韓関係は、最悪の状態だった。日本の敗戦によって朝鮮半島は三十八度線を境にして、ソ連とアメリカが管理する形になったが、その後、ソ連の後押しを受けた金日成が朝鮮民主主義人民共和国を建国する一方、朝鮮独立運動の活動家でアメリカに亡命していた李承晩が帰国して大韓民国の成立を宣言した。
 
大統領となった李承晩は、数年後、憲法の再選禁止を撤廃するため三選までを許す改憲案を提出し、野党議員を大量に検挙するなどの弾圧を行い、昨年七月、改憲を強行した。また、日本に対しては、講和条約発効前に李承晩ラインを設定し、竹島の領有権を主張した。竹島には軍隊を配備している。
 
一方的に設定した李承晩ラインを超えた日本の漁船は、容赦なく拿捕され、乗組員たちは抑留された。射殺された漁民もいる。日韓の間では抑留された漁民の解放交渉もままならず、最悪の日韓関係に陥っていた。吉田茂首相は李承晩への嫌悪感を隠さず、今回の会談も決裂ではないかと予想されていた。
 
その吉田茂と会うために、李承晩は車に乗りこんだ。日比谷から赤坂まで、お掘沿いにいくことになる。前後に白バイ警官が二名ずつ配置され、案内と警護に当たっていた。沿道の要所には制服姿の警官が配置され、山村や新城と同じように私服刑事が人混みの中に散っていた。

「いかにも朝鮮人の顔でしたね、李承晩」と、新城が言った。
「クラークから見たら、朝鮮人も日本人も見分けがつかないさ」
「完全な独裁者じゃないですか。去年だって、戒厳令を発令して、改憲反対派の議員を検挙しちまった。民主主義の国じゃないですよ」
「日本は、戦争に負けて民主主義国家になった。被抑圧民族だった彼らは解放され、独裁国家を作った」
 
山村は、未だに朝鮮人や中国人を同等に見てはいなかった。戦前、散々、彼らを蔑視し、差別したが、その気持ちは変わっていない。ただ、表に出さないようにしているだけだ。新城の言葉を聞いていると、山村のような差別意識はないように感じる。やっていることに批判はあるにしても、朝鮮人も中国人も同等だと認識している。戦後に教育を受けた人間なのだろう。

「しかし、特別警備と言っても、こちらは徒歩ですからね。車でさっさといかれちゃ追いつけない」
「沿道の点検をしながら向かうさ」と、山村は歩き始めた。

                                                                                                              ★

山村のハンチングを被った姿は、反対側の歩道からもよくわかった。背の高い若い刑事と並んで歩いていた。進藤栄太は左足を引きずりながら、その姿を追った。歩く速さは健常な人間と変わらないが、一歩一歩が辛そうに見えるだろう。人がどう見るか。長い時間が経ったが、それに馴れることはなかった。
 
谷口司郎と話したことで、栄太の新聞記者としての好奇心が掻き立てられ、李承晩の姿を見るためにやってきたが、そこで、またも山村を見つけてしまった。その姿を見ると、心の中を風が吹き抜けていくような気分になる。自分の人生がこうなったすべては、あの時のことが原因なのではないか、すべてはあれから派生したのではないか、そんな思いに捉われる。
 
新聞社内で栄太は自由主義者として見られていたが、栄太が書いた記事も特高警察に目をつけられていたらしい。栄太はある会合に定期的に出席しており、それを知られていたのだ。その会合は自由主義的な考えを持つ大学教授や外交官などの官僚、新聞記者、作家などが参加していた。
 
その会合は一種の研究会で、ある時、数人の大学教授が「早期講和案」を出してきた。それを叩き台にして議論をしてほしいということである。その議論がまとまったところで、有力な政治家にルートを持つ人間が建白書の形で上奏することになった。ところが、その参加者の中に特高警察のスパイが紛れ込んでいた。
 
参加者は捕らえられ、厳しい尋問を受けた。栄太は自宅を捜索された時、隠し持っていたマルクスの本を見つけられて共産党員ではないかと疑われ、とりわけ厳しく調べられた。否定し続ける栄太は、吊るされて竹刀で体中を殴られた。小林多喜二みたいになりたいか、と山村は殴りながら言った。
 
あの時のことが甦る。あれで、俺はとうとう共産党員であると認め転向を約束した。苦痛に耐えかね、死の恐怖に脅え、偽りの自白をしてしまった。そのことが、今も栄太を苛む。自分で自分が許せないのだ。屈服してしまった己の姿が今も甦る。あれ以来、ずっとそんな風に自問自答してきた。
 
自分で自分が許せないほど辛いことはない。あれ以来、自分が何をやっても〈おまえは自尊心を棄てたのだ〉という自己蔑視が続いている。信念を貫いていたなら、否定し続けていたなら、自分に誇りが持てただろう。その後の人生も自信を持って生きてこられたに違いない。
 
だが、負け犬だ。みじめな負け犬になってしまった。その象徴が左足の障害だった。だから、その原因を作ったあの男は許せない。あの男を抹殺しても何の意味もないし、自分の自尊心は取り戻せない。しかし、今の栄太には山村に復讐することだけが、人生を取り戻すきっかけになるのではないかと思われた。

栄太の人生から抹殺されるべき男は、若い刑事と共に赤坂へ向かっていた。

 

■1953年1月6日 東京・赤坂

Fは、アパートの隅の部屋に住む女の名前が若林良枝であること、銀座の洋装店勤めで店は明日からだということを調べ上げた。今日、若林良枝は部屋にいる可能性が高い。女がいたとしても、〈ヴォールク〉は躊躇しないだろう。
 
先ほど、吉田茂を乗せた車が前後を警備車両に挟まれてアメリカ大使館の中へ消えていった。マッカーサーが居住していたところを引き継ぎ、クラーク国連軍総司令官の公邸となっていた。そこで日米韓の会談が行われる。そろそろ李承晩の車がくるはずだった。
 
Fは四辻の若林良枝のアパートの部屋が見える、斜め前のビルの二階にある喫茶店で窓辺のテーブルに向かっていた。若林良枝の部屋の窓から銃口が覗けば、十秒で駆けつけられる位置だ。しかし、その間に狙撃は成功するかもしれない。だが、通りで長く立っていたのでは目立って仕方がない。

白バイが先導する李承晩の車が見えてきた。Fは席を立ち、通りに出た。車は米国大使館の門に向かう直線道路に入った。斜め前のアパートの窓を見つめる。自分の観察が間違っている可能性もあったが、狙撃者の立場になって探した狙撃場所だ。後部座席をリアウインド越しに狙うなら、その部屋の窓が最適だった。
 
窓は開かない。銃口も覗かない。十秒が経った。アパートの窓から目を離し、振り返ると車は門を入るところだった。何事もなかった。ということは、帰りを狙うことにしたのか。会談を含めて数時間の余裕はある。Fは歩き始めた。
 
Fは、先日見当を付けておいたビルを目指した。帰りの車のリアウインドウを、少なくとも十秒ほど視認できるポイントだ。あの雑居ビルの男子用トイレ。射出角度、火線を判断すると、二階の小窓が最も可能性が高い。
 
上階の法律事務所を訪ねてきた風を装って、Fはビルに入り、階段を上った。二階の男子用トイレの個室に入り、ドアに鍵をする。金隠しの上に足を乗せて手を伸ばし、高所に設置されたタンクの中を手探りした。ビニールに包まれた何かが手に触った。掴んで取り出し、壁にもたれる。しっかりと包まれた小型拳銃だった。包みを外すと刻印が読めた。
 
ベレッタ1919。一九一九年にイタリアで製造が始まり、一九三四年に後継モデルが登場して製造が終了した拳銃だ。最後に製造されたものとしても、二十年近く前のモデルである。二十五口径で護身用の自動拳銃だった。殺傷力は弱い。急所に命中しないと殺せないし、心臓や頭以外なら命中してもしばらく生きているかもしれない。これで百メートルも離れた車の中の人物を狙うつもりなら、冗談としか思えない。
 
しかし、狭いトイレに誰かが入ってきた時は、この拳銃で用は足りる。長い銃身の狙撃用の銃は、トイレの中では振りまわすことさえできないだろう。誰かがトイレのドアを破って入ってきたとして、この銃なら銃声も小さいからフロアの人間にも気付かれない。そういう用意のために、あらかじめ沈めてあったのか。
 
だとすれば、もうすぐここに狙撃手がやってくる。おそらく〈ヴォールク〉と呼ばれる男。Fは拳銃を再び包みタンクの中に戻すと、トイレを出て階段を降りた。ビルを出て、二階のトイレの小窓が監視できる位置に移動した。道を挟んだ斜め前の小さな路地に目立たないように立つ。李承晩が出てくるまで、少なくともまだ二時間はかかるだろう。
 
山村という公安の刑事がFが監視するビルの前に立ったのは、一時間ほど後のことだった。若い刑事が一緒だった。山村はビルの前に立ったまま若い刑事に何かを指示した。若い刑事がビルの中に入っていく。しばらくして、若い刑事があわてた様子で飛び出してきた。手にあの拳銃の包みを持っていた。
 
先日、彼らに尾行された時、ビルの前で立ち止まり、狙撃場所として向いていると思い、しばらく観察した。その行動を怪しまれたのかもしれない。山村刑事は、Fと同じ想像をしたのだ。狙撃のポイントとして見抜いた。
 
山村が何かを言い、若い刑事がどこかへ向かった。しばらくして、制服警官を含む数人の男たちがやってきて、ビルに入っていった。それを見届けると、Fは監視場所を離れた。四辻の方へ向かっていると、米国大使館の門が開き、二台の白バイに先導された李承晩の車が出てくるのが見えた。予想より早かった。会議は決裂だったのか。
 
しかし、なぜ〈ヴォールク〉はあの場所に現れなかったのだろう、という疑問が湧いた。現れていたら警官隊と鉢合わせすることになったが、時間的には現れていなければならなかった。準備をし、待ち受ける。会談が短く終わる可能性だってあったのだ。その時、Fは気付いた。
 
あの拳銃は〈見つけてください〉と言わんばかりだった。あれは、警備の人間を引きつける餌だったのだ。その時、四辻の角にあるアパートの二階の窓が小さく開き、カーテンに隠れている銃口が見えた。
 
銃声がして、李承晩の乗った車のフロントガラスに放射状のひびが走った。だが、それだけだった。銃弾は貫通しなかった。防弾ガラスだ。白バイがサイレンを鳴らして速度を上げ、李承晩の乗った車もそれに続いた。四辻を曲がる。
 
通りに立っていた制服警官たちは、狙撃場所を特定できていなかった。警戒して、周囲を見まわすだけだ。彼らの注意を引かないように、普通の歩き方でアパートに入った。玄関を入ると階段を駆け上がる。奥の部屋から背の高い男が楽器ケースを提げて出てきたところだった。Fを見て立ち止まる。

「ヴォールク?」と、Fは思わず口にした。
背後の窓から西日が入り、逆光で男の顔はよく見えない。
「何者だ?」

男は突進してきた。タックルされる寸前、Fは身をかわす。勢いで廊下にあった金盥を蹴飛ばし大きな音が響いた。その金盥を押さえた。隣の女がドアを開けて出てきた。その女に気を取られた瞬間、男が階段を駆け降りた。女がFの顔を正面から見た。Fは身をひるがえし、男を追った。
 
勢いよくアパートを飛び出したFを、警官たちが注視した。楽器ケースを下げた男は人混みの中に紛れようとしていた。「おい、そこの男」と、Fに向かって警官が叫んだ。その声で警官たちがFを目指して駆け寄ろうとする。Fは、近くの路地に飛び込んだ。迷路のような路地を選んで走り抜けた。

                                                                 ★

「被害者は、この部屋の住人です。若林良枝、二十五歳。頸の骨を折られています。即死だったでしょう」と、一課の刑事が言った。
 
山村はうなずいた。相手は最初、どうしてここに公安の刑事がいるのだ、という目をしたが、李承晩の車を狙撃した場所と思われることを説明すると納得したようだった。それから、隣の女が発見した若い女の死体の検分が始まったのだ。

隣の女の証言によると、廊下で大きな音がしたのでドアを開けたところ、驚いた顔をした男がいた。それからあわてて逃げていった。隣の部屋のドアが開きっぱなしになっているので覗いたら、若林さんが倒れていた。男は、数日前、隣の部屋のことを訊いてきた男に似ていた。そんな女の証言を元に、似顔絵が作られるという。

この部屋の窓から、李承晩の車を狙撃したのだ。李承晩の車は走り去ったから、狙撃された位置が確定できないため、正確な火線は想定できないが間違いないだろう。しかし、李承晩の車の運転席には運転手がいて、助手席には警護の人間が乗っていた。
 
その間を縫って後部座席の李承晩を狙ったのは、よほど自信があったのか、あるいは狙撃したということだけで目的が達成できたのか。フロントウインド側から狙ったということは、そういうことではないのか、と山村は考えた。
 
それにしても、何の関係もない若い女を躊躇せず殺した冷酷さには山村でさえ戦慄した。その部屋を使う目的のためだけに、頸の骨を折ったのだ。手足を縛り、さるぐつわをするだけでもよかったはずだ。目撃者は作らない、ということなのか。単なる殺人者ではない。殺しに馴れている。殺しを特別なことと思っていない。

隣の女によると、男は転んだような格好で金盥に手をついていたという。それから急いで立ち上がり、階段を駆け降りた。廊下には、まだ金盥が転がっていた。山村は鑑識課員を呼んで、金盥から指紋の検出を試みてほしいと伝えた。

「犯人の指紋が残っているかもしれない」と、山村は言った。

 

■1953年1月7日 東京・南千住
 
昭和二十年三月十日の東京下町を焼きつくした大空襲で罹災した人々を、一時的に収容するために山谷に広いテント村が開設された。そこに、戦後、労働者向けの簡易宿泊所が多くできて、バラックが立ち並ぶドヤ街となった。その街に潜り込めば、簡単には探し出せない。

Fは、昨夜、着ているものを変え、頭の包帯も取り、簡易宿泊所に身を潜めた。二段ベッドの上側にボストンバッグを置き、着のみ着のままで眠った。疲れていて眠りは深かったが、夜中に誰かに覗かれている気配がして目を開けると、ベッドの横に男の顔があった。Fが目を覚ましたのを見ると、男は「新顔かい」と言った。

「ああ」と、Fは答えた。
「挨拶はねぇのか」と、男が言った。
Fはボストンバッグから一升瓶を取り出して、男に渡した。
「二級酒だが、みんなでやってくれ」
ひと部屋に二段ベッドが四つ配置されていた。全部埋まっているとすると、Fを入れて八人。ひとり一合と少しだ。大した量ではない。それでも、男の顔が緩んだ。

「おーい、新入りさんの挨拶代わりの差し入れだ」と、男が声を挙げる。
 ベッドで寝ていた男たちが、一斉に身を起こした。ベッドとベッドの間の狭い床に車座になる。
「新入りさんもやらねぇか」
そう誘われて、Fは最初の一杯だけ付き合った。その酒盛りの間に、Fはドヤ街のしきたりや仕事にありつく方法などを教わった。男たちの中には、元復員兵や引揚者、それに上野で浮浪児をしていたという元戦災孤児などがいた。男たちは、米軍関係の仕事にありつくといい金になると言った。ただ、やばい仕事もあるらしい。


「やばい仕事って?」と、Fは訊いた。
「下手したら死ぬからな。弾薬庫から大量の爆弾を運びだすとかよ」と、その男は言った。
「米軍の仕事は常雇いがいるんじゃないのか。就労カードみたいなものも必要だろ」
「俺たちには臨時の仕事しかこないさ。危険な作業だったり、戦死した死体をきれいにしたり」
「そんな仕事なら、いい金にはなるだろうな」
そんな話で時間が過ぎていった。翌朝、Fは五日分の料金を払い、そのベッドを確保した。荷物は帳場で預かってくれるというので、必要なものだけポケットに詰めて、仕事を探しに出るような恰好でドヤを出た。

常磐線南千住の駅に出て売店で新聞を買い、仕事にあぶれた男たちが集まっているという公園へいきベンチに腰を下ろした。新聞の一面に「李承晩大統領狙撃」という見出しが出ていた。小見出しは「北朝鮮工作員の仕業か」となっている。案の定、吉田茂との会談は決裂状態だったらしい。
 
社会面にさらに詳細な記事が載っていたが、その記事に並んで「二十五歳の女性殺される」という見出しが出ていた。それによると、李承晩大統領を狙撃した場所と思われる木造アパート二階の部屋に住む若林良枝が、頸の骨を折られて死んでいたという。〈やはり殺したのか〉と、Fは思った。
 
隣の部屋に住む女性が事件当時、不審な男を目撃しており、犯人である可能性が高いと書いてあった。その男は、事件の数日前、女性の部屋を下見にきた人物によく似ていた、と隣の部屋の女が証言していた。Fは、若林良枝殺しの犯人として手配されたのだ。

 

■1953年1月7日 東京・霞が関

「指紋から男が特定できました」と、新城がデスクにきて言った。「金盥、階段の手すりから同じ指紋が検出できました。その指紋と一致する記録が残っていたんです」
「誰だ?」と、山村は言った。
もったいぶらずに、早く報告しろ、と言いたいところだったが抑えた。そんなことをいちいち言っていたら、一日が新城に対する小言で終わってしまう。

「藤崎一馬という男です」
「何者だ?」
「戦後、警察、特高、憲兵隊、軍などの記録をうちが引き継いだのですが、その中の軍の記録にあった指紋が一致しました」
「軍人か」
「ええ、陸軍中野学校の一期生ですよ。早稲田でロシア文学を学んだ後、士官候補生として陸軍に入っています。民間人に化けるために、中野学校では一般大学を出た優秀な人材を採用したと言われています。この男はロシア語ができるので、その後、対ソ連の諜報工作に従事したようです。ノモンハン事件の翌年の昭和十五年、満州でF機関を創設し、参謀本部を補佐。特務機関員ですね」
「そんな人間の記録が残っていたのか」
「今じゃ機密でも何でもないですからね」

陸軍は、終戦の時、多くの書類や資料を焼いた。八月十五日の午後、陸軍省と参謀本部のあった市ヶ谷台は、その煙で太陽が見えなくなったと言われている。それでも、残った記録はあるのだ。

「広島市の出身らしいのですが、広島は原爆で記録が焼失して調べようがない。あるいは、中野学校は入学した時に名前を変えるように指示されたそうですから、本名は別なのかもしれません。軍の記録は、藤崎として残ってますけどね。でも、その男、ソ連に拉致され、生死不明のままなんです」と、新城が続けた。

「他には?」
「情報としては、それくらいです。ところで、似顔絵、見ましたか? 山村さん」
「見ていない」
「あの男によく似ています。横須賀の爆破事件、赤坂での尾行」
「本当か」
 山村は椅子を倒して立ち上がっていた。

 

2024年11月 2日 (土)

■スターリンの暗殺者「第三章 李承晩」11

■1953年1月5日 東京・赤坂

今年二十五歳になる若林良枝は、月曜日の夕方に群馬県草津の実家である旅館からアパートに帰ってきた。年末年始は実家の旅館が忙しく、帰省といっても手伝いに帰っているようなものだった。ただ、祖父母、父母、弟や妹の顔を見るのは久しぶりで、賑やかな実家で楽しく過ごせたのは嬉しかった。

職業婦人として独立しようという意志が強かった良枝は、女学校を出ると親を説得して東京の洋裁学校へ進んだ。戦後の洋裁ブームで生徒も多くいたし、洋裁雑誌もどんどん創刊され、婦人誌にはスタイルブックの付録がつくほどだった。

そんな戦後の洋裁ブームを反映して、昭和二十五年のお年玉年賀はがきの特等は高級足踏みミシンで、一等は純毛洋服地だった。そんな時代に良枝は洋服のデザイナーをめざして、学校を卒業すると銀座の洋装店にお針子として就職した。

昭和二十五年四月、衣料の配給制と毛・スフなどの繊維の生産制限が撤廃され、良枝が踏み入った業界は前途洋々だった。良枝はお針子として働きながら、ファッションデザインのコンテストに応募し始めた。
 
勤め始めて四年、良枝はパタンナーとして裁断も任されるようになり、毎日を生き生きと過ごしていた。住まいも赤坂のアパートで銀座までは近く、夜遅くなっても車ですぐに帰ることができた。家賃は少し高いが、贅沢をしない良枝は、毎月の給料が余ることが多かった。
 
銀座のお店は七日からの営業だったが、一日は部屋でゆっくりしようと、今日、帰ってきたのだった。部屋には何もないので少し買い物をして、アパートに帰りついた時は夜の七時になっていた。簡単な食事を作って食べ、お茶を飲んでゆっくりラジオを聴いていると、ドアをノックする音がした。

「はい」と返事をして、ドアを開けると背の高い男が立っていた。
「えーと、鈴木さんの部屋じゃないですか」と、すでに間違ったことを自覚している言い方だった。
「鈴木さんて、一階奥ですよ」と、良枝は答えた。
男は無遠慮に部屋の中を見渡すようにした。反射的に、良枝は部屋の中を振り返った。
「あっ、そうですか。ごめんなさい」
男は頭を下げ、三和土に置いてある靴やサンダルを注視した。何だか、嫌な感じだったが、良枝は仕事の時の癖で笑みを浮かべていた。
「失礼しました」と、男は言って背中を向けた。

良枝はドアを閉めて、絞っていたラジオのボリュームを上げた。ラジオドラマが始まった。昨年四月からNHKで放送が始まった「君の名は」は、毎週木曜日の午後八時半からだった。その放送は欠かしたことがなかったけれど、月曜のドラマは特に気にしたことはなかった。良枝は、ぼんやりと耳を傾けた。

■1953年1月5日 東京・田原町

三が日の後の四日が日曜日で、今日、五日から仕事始めという会社が多かったのか、店は開店と同時に客で埋まった。年末年始休暇を終え、久しぶりに会った同僚と新年最初の飲み会を開く客たちだった。中には会社ですでに飲んでいたのか、赤い顔をして入ってくる客もいた。
 
そんな客が早めに引き上げると、常連客がやってきた。ひとりできてカウンターで手酌で飲んでいる客や、小上がりでは新年会でも開いているのか四人の中年男たちが賑やかに飲んでいた。それでも、十時を過ぎると、みな、帰っていく。やはり、正月だからだろうか。

普段より早くに店を閉めた花井光子は、アパートに向かいながら〈梶は部屋にいるだろうか〉と考え自然と心が浮き立った。あの夜、光子は梶の部屋で数年ぶりに男の肌に触れた。心ならずも男たちに馴らされた体は自分でも驚くほどの反応を見せ、梶をたじろがせた。梶は意外にも女の体を熟知していて、光子は声を殺すのに苦労した。
 
梶に抱かれていると、何かが溶けていくように自分の中から流れ出るものがあった。痩せて見えた梶の体は、脱ぐと筋肉質で鍛えられた感じがした。抱かれると力強さを感じ、その腕を抱えてうとうとした時、安心感と幸福感に包まれた。冷たい視線を向ける梶だったが、その振る舞いにはやさしさを感じた。
 
あの安心感と幸福感を、もう一度感じたいと光子は思った。そう思うと、アパートへ帰る足も早くなる。しかし、梶がいない時の落胆を想像すると、足も止まった。梶はバンドマンだから、夜の仕事である。時には、帰宅は明け方になることもある。午後十一時。仕事があれば、この時間にはいないだろう。
 
アパートが見えるところまで帰った時、光子は梶の部屋の灯りが点っているのに気付いた。〈いるんだわ〉と、心が躍った。玄関を入り、そのまま廊下を奥に向かう。梶の部屋の前に立ち、そっとノックをした。
 
しばらくして、扉の向こうから「誰だ」とかすかな声がした。光子が「私」と答えると、少し扉が開き、梶が顔を半分見せて「十分後にしてくれ」と言った。光子はうなずいて、廊下を引き返し階段を上って自分の部屋に帰った。
 
〈なぜ、すぐに入れてくれないのかしら〉と、光子は思った。ドアの隙間からは何も見えなかったが、何かの作業をしていたのだろうか。まさか、誰かいたわけではないだろう。話し声も聞こえなかった。梶には、どこか秘密めいたところがあった。無口で、自分のことは何も話さない。
 
先日、つい梶の部屋で寝てしまい、朝、布団を畳んで押し入れにしまおうとした時、柳行李くらいの大きさの立派なケースが二個あるのを見た。上質のなめし皮で作られたもので、しっかりした錠がかかっていた。その横には、楽器ケースが並んでいた。部屋には、家具は何もなかった。一時的に住んでいる、という雰囲気である。部屋の隅にボストンバッグがポツンと置かれ、中には着替えなどが入っているようだった。
 
十五分ほど後、自分の部屋で和服からセーターとスカートに着替え、お茶を入れた魔法瓶とみかんを持って、光子は下へ降りた。誰かに見つかってもかまわないと思っていた。先日のことだって、隣室のタクシー運転手の妻は気付いているかもしれない。だとしたら、噂好きの女だから、すぐにアパート中に広がるだろう。
 
扉を小さく叩くと梶が顔を出し、光子を中に入れてくれた。先日と同じように、部屋の隅に布団が畳んでおいてある。ボストンバッグも同じようにあった。光子は腰をおろし、みかんと魔法瓶を畳の上に置いた。

「湯呑み、持ってくればよかったかな」
光子がそう言うと、梶は黙って立って隅のボストンバッグを開き、アルマイトでできたコップを出してきた。軍隊で支給されるようなコップだった。元は鎖で水筒に繋がれていたものなのかもしれない。
「これしかない」と、梶は言って差し出した。

「食器とか、揃える気もないの?」
そう言った時、光子は機械油のような匂いを嗅いだ。何だろう。楽器の手入れでもしていたのだろうか。
「長くはいないから」と、梶は言った。
「私とのことも、それまでなのね」
「他に何か望むのか」
「ううん」と、光子は答えて体を梶にあずけた。「それまででいいの。それまでは----」
 
梶は隅に重ねた布団を敷くと、光子をそっと抱き上げ、敷布団の上に横たえた。光子のセーターを脱がし、スカートを下ろす。自らも服を脱ぎ棄て、引き締まった体を光子に重ねてきた。安心感と幸福感が再び光子を包んだ。

 

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