■スターリンの暗殺者「第三章 李承晩」06
【主な登場人物】
■スターリン ソ連最高指導者
■フルシチョフ ソ連政治局員
■モロトフ ソ連政治局員
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手
■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント
■ルーシー・立花(かおり) ダンシング・キャッツの歌手
■チャーリー・立花 ダンシング・キャッツのリーダー
■ジェームス・鈴木 ダンシング・キャッツのトランぺッター
■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人 戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男
■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている
■神谷恂一郎 F機関で最も若くムードメーカーだったがシベリアで死亡
■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事
第三章 李承晩
■1953年1月1日 東京・田原町
昭和二十八年の元旦だった。朝から、元旦独特の静けさである。浅草まで足を伸ばせば、大勢の人が初詣にきているのだろうが、「平和荘」の周囲はいつもの人通りもなく、子供たちも遊んでいない。明日になれば、独楽まわしや羽子板、凧揚げなど、子供たちも出てきて賑やかになるはずだ。元旦だけは、家族揃ってこたつに入っているのかもしれない。
ラジオも元旦の特別番組が続いていた。寄席の中継や歌合戦などが、楽しそうに放送されていた。しかし、夕方になると、いつもの時間に「尋ね人の時間」が始まった。いつものアナウンサーが「尋ね人の時間です」と落ち着いた声で言う。
戦後の昭和二十一年一月からNHKは「復員だより」という番組を始めた。これは一年ほどで終わり、「引揚者の時間」が昭和二十二年七月から始まった。空襲などで行方不明になった人なども含めた「尋ね人の時間」は昭和二十一年七月から始まり、今は復員兵の消息も引揚者の問い合わせも「尋ね人の時間」を聞いていればわかる。
何のあてもないのだが、三浦良太は今も毎日「尋ね人の時間」を聞いていた。もしかしたら、誰かが自分を捜しているかもしれない、という漠然とした気持ちが胸を去らない。昭和二十年五月二十五日の山手空襲で、良太は家族を失った。両親も兄も妹も焼け死んだ。
その日から九歳の良太は上野で知り合った何人かの仲間の後をついてまわり、何とか飢えをしのいだ。しかし、戦争が終わっても、戦災孤児たちに救済はなかった。大人たちは余裕もなく、道端に横たわる瀕死の子供を見ても目を背けて通り過ぎるだけだった。
進藤栄太が道端で死にかけていた良太を病院に連れていってくれなければ、あの時に間違いなく死んでいた。たった十年足らずの人生になるところだった。だが、良太はその後の七年間を生き延び、今、十六歳で印刷工として働いている。
良太と栄太は、昨夜、除夜の鐘を聞いてから、ふたりで歩いて浅草寺まで初詣にいき、午前中はゆっくり寝ていた。午後から、栄太の部屋でこたつに足を入れてずっとラジオの演芸番組を聴いていた。そして、「尋ね人の時間」が始まったのだ。
「シベリア抑留中にイルクーツク収容所で一緒だった吉岡健夫と名乗った方をご存知の方は、日本放送協会『尋ね人』の係にご連絡ください」
「戦前、満州の新京でクリーニング屋をなさっていた内田隆さんをご存じの方は、日本放送協会『尋ね人』の係にご連絡ください」
今日も、様々な尋ね人の名前がアナウンサーによって読み上げられた。まだまだ戦争が終わった気はしない。つい最近まで、シベリア抑留から戻ったというニュースが流れていた。ソ連はまったく情報を公開せず、行方不明者の数は膨大だった。時々、空襲で行方不明になった人の消息を尋ねる投稿もある。そんな時、良太はいつの間にか手に力が入っている自分に気付いた。そんな良太を、じっと栄太が見つめていた。
栄太は、一週間ほど前から様子が変だった。妙に無口になり、何かを考えている風に見えた。時に壁を睨みつけるように強い視線を向ける。それは、何かを具体的に見るというより、自分の中にある何かを睨みつけているようだった。
「良太は、ずっと『尋ね人の時間』を聴いてるな。誰かが『昭和二十年五月二十五日の山手空襲で行方不明になった、牛込柳町に住んでいた三浦良太をご存知の方』と投稿するのを待ってるのか」
「ううん、もうあきらめてる」
「母方の親戚はいるんだろ」
「新潟の方にいると聞いたことがある」
「探してみるか」
「いまさら、もういいよ」
良太がそう答えると、栄太は軽くうなずくように頭を振り、また沈黙に戻った。その栄太の顔を見つめて、良太は口を開いた。
「このところ、様子が変だよ。何か、あったの?」
栄太が目を向ける。暗い目をしていた。戦後、新聞社に復職し、溌剌としていた栄太を良太は懐かしく思い出す。九歳の良太を育てるという目的を得て、栄太は新聞記者の仕事に力を注いだ。不自由になった足を引きずりながら、様々な事件を追った。しかし、それも数年で終わり、レッドパージで新聞社を追われ、今では良太と同じ印刷工だ。
「昔、俺を取り調べた特高の刑事を見かけたんだ」と、栄太が言った。
「いつ?」
「クリスマス・イブの日だ。警視庁に復職していた」
「なぜ、わかったの?」
「後を尾けて、数日後、どこの所属か調べてみた。新聞記者時代のツテもあるからね」
「それで」
「公安部に復職だ。特高時代と仕事は同じさ。さすがに拷問はしないだろうが----」
「それで、どうするの?」
「何もできないだろうな。だから、気がおさまらない」
「もう、忘れなよ」と、良太は言った。
「そうだな。そう思うが、この足が忘れさせてくれない」と、栄太が左足をさすりながら言った。
その時、ラジオは「尋ね人の時間」からニュースに移った。占領が続く沖縄では、戦後初めて「日の丸」の掲揚が米軍司令部から許可された。また、左派社会党委員長の鈴木茂三郎がニューデリーでインドの首相ネルーと会見していた。そして、横須賀では前日の夜、通称ドブ板通りのバーで爆発があり、米兵四十二人が死亡、六人が重傷を負った。さらに日本人女性四人が死亡したという。
「そんなに死ぬなんて、どんな爆発だったんだ?」
「気になるの?」と、良太は訊いた。
「何だか気になる。犠牲者が多すぎる。それだけ米兵の死者が出たとしたら大事件だ。今日は新聞がなかったから、世間はそれほど騒ぎになっていないだろうが、新聞社は大変なことになってるだろうな」と、栄太は首を傾けて何かを思案しているように見えた。「良太、悪いが夕食はひとりですませてくれ。ちょっと出かけてくる」
「どこいくの?」
「昔の同僚のところだ」
そう言うと、栄太はこたつから出て、壁に掛けてあったコートと毛糸のマフラーを身に付けた。狭い三畳の部屋は手を伸ばすだけで用事が済む。良太は元気になった栄太をうれしく思ったが、事件を調べにいくのであろう栄太を心配する気持ちの方が強かった。
■1953年1月1日 東京・有楽町
進藤栄太は、かつての同僚である谷口史郎を待っていた。有楽町のガード下にあるビアホールで、珍しく元旦から開いている店だった。アパートを出て駅の公衆電話で編集部に電話すると、案の定、谷口は出社していた。谷口は復員後に新聞社に復職した記者で、進藤と同じ社会部で事件を追った仲だった。
少し遅れて谷口がやってきた。テーブルの向かいに腰を下ろし、生ビールを注文する。
「もう社には戻らない。昨夜からずっと働いているからな。こういう時、独り者は便利に使われる」
谷口は三十半ばを過ぎる歳だが、未だに独身だった。戦争で何かあったのか、妙に虚無的なところがあり、新聞記者の仕事に打ち込むことで何かを忘れたいのかもしれない。一緒に事件を追っていた頃から、栄太はそんなことを感じていた。
「横須賀の爆発事件、事故なのか。それともテロ、破壊工作なのか?」
「米軍は一切発表していないが、十二月に入って、毎週、水曜日に基地で爆発騒ぎが起こっていた。米軍が伏せているから詳細はわからない。ただ、人的被害はなかった。しかし、昨日も水曜日だったから、特別に警戒していた。ところが、今回は基地内ではなく、米兵がたむろするバーで爆発が起こった。明らかに米兵を狙ったテロだよ。俺は昨夜のうちに現場に入り、周辺で聞き込んできたんだ。今回は、基地ではなく日本の管轄領域で起こった事件だ。日本の警察に捜査権があるが、米軍が横車を押してくる可能性もある」
「日本人の犠牲者も出ているんだろう」
「ああ、だから日本の警察も黙って引っ込むことはない。犠牲者が米兵だけだと、日本の警察は手を引けと言い出しかねないがね」
「日本は、独立国家になったんだぜ」
「駐留米軍はそのままだし、地位協定によると米国人の犯罪は裁けない。米軍基地は日本じゃないしな」
「犯人は、米国人なのか?」
「いや、ソ連製の手榴弾が使われた形跡がある。それに、爆発が起こる少し前に、日本人らしき男がバーから出ていった」
「北朝鮮の工作員?」
「かもしれん。国連軍の総司令部は東京にあるし、総司令官のマーク・ウェイン・クラークは東京にいる。日本は後方基地だし、そこを北朝鮮が襲っても不思議ではない」
「朝鮮戦争の場外戦が、日本を舞台に繰り広げられるということか」と、栄太は言った。
「北朝鮮の仕業だと判明したら、『報復を』という声が本国でも強くなるだろう」
「北朝鮮の工作員に間違いないのか?」
「もうひとり、爆発に巻き込まれた日本人がいる」と、谷口が切り出した。「軽傷だったようだが、助けられた後、姿を消した」
「誰かの証言があるのか」
「バーテンが奇跡的に軽傷で生き残っているらしい。爆発元のトイレが遠かったのと、たまたま爆発の時にカウンターの下に屈んでいたので助かったらしい」
「そのバーテンの証言がとれたのか?」
「まだ、直接はとれていない。捜査筋からの情報だ。奴ら、米軍に捜査権を取り上げられたくないから、新聞にどんどん情報を漏らしてくれる。バーテンによると、珍しく日本人が店に入ってきて酒を飲み、トイレに入った。そのまま出ていったのかと思っていたが、その十分ほど後に爆発した。トイレに爆弾が仕掛けられていたんだ。戦争中によく使われた、手榴弾によるブービートラップだろうということだ」
「もうひとりの日本人は?」
「その男の十分後くらいに入ってきて、日本人のことを訊いて、すぐに出ていった。ドア近くで爆発に遭い、外に吹き飛ばされたらしい」
そこでひと息ついた谷口は、ビールジョッキを傾けてうまそうにビールを飲んだ。
「この前、警視庁公安部の山村という刑事について訊かれたよな」と、谷口が話を変える。
「ああ」
「どういう関係なんだ」
栄太は、一瞬、沈黙した。山村との関係を話すことは、自分の恥辱を話すような気がするのだ。よく考えれば、恥じることはないと思う。特に戦後は価値観が逆転し、特高の拷問に耐えた栄太を表立って責める人間はいないだろう。しかし、結局、栄太は拷問に屈したのだった。そのことが、恥の感覚を甦らせる。
「戦争中、特高に逮捕された時、俺を取り調べたのが山村だった」
「拷問されたのか」
栄太は黙ってうなずいた。
「脚をそんなにした相手?」
「ああ」
「そいつが、また公安に復職してるのか。あんたは、レッドパージに遭ったというのに。戦争中に共産党員として拘留されていたというだけで----。まさに時代の逆行だな」
谷口は何かを連想したのか、遠くを見る目をしてつぶやいた。戦争体験については一切話をしない谷口だが、戦争中のことを思い出しているのだと栄太は思った。
「その山村が、横須賀の爆発現場にいた」と、しばらくして谷口が言った。
「山村が? 管轄が違うんじゃ----」
「おまえに訊かれた時に、山村を調べて顔も確認した。間違いない。現場にいたのは山村だ。若い刑事も一緒だった」
「なぜ、山村が?」
「俺もそう思って、今日、警視庁を当たってみた」
「それで?」
「山村と、もうひとりの新城という刑事、米軍基地連続爆破事件を非公式に調べていたらしい」
「その関係で、横須賀の爆発現場にいたのか」
「そうだろう」
「そのまま爆破事件の捜査を担当するのかな?」
「神奈川の事件だから、通常は警視庁の出番はない。ただし、公安だから簡単には手は引かないと思う。組織的な事件かもしれないし、北朝鮮の工作員組織なら、公安調査庁や内調といった国家的な部署も出張ってくるかもしれない」
「北朝鮮の工作員に対するカウンターパートみたいなのは、今の日本にあるのか?」
「独立したばかりの国だぜ。国家警察的な組織の復活は旧内務省グループの悲願だったけど、ようやく発足した組織ばかりだ。どこがどう何に対応するのか、混乱するかもしれないな。元々、官僚たちは縄張り意識の強い奴らだからね」
「そう言えば、李承晩が来日するらしいな」
「ああ、日韓関係は非常に悪い。李承晩は、徹底した日本嫌いだ。今年一月、日本が独立する直前、一方的に李承晩ラインを設定し、竹島も領土と主張して軍隊を配置し実効支配した。竹島近辺は豊富な漁場だ。日本の漁船が李承晩ラインを超えたとして銃撃し、拿捕する。すでに漁師に死者が出ているし、もう何人も拿捕されて韓国に収容されている」
「北朝鮮と戦っている時に、そんな日韓関係では米国にとっても困るわけか」
「ああ、そこで、国連軍総司令官のクラークが日韓関係改善のために李大統領を日本に招待した。五日に来日し、六日に吉田首相と会談する予定だ。七日には帰国する。しかし、去年の日韓会談は決裂した。今度も決裂の可能性が高いな」
「李承晩は、朝鮮戦争の徹底抗戦派なんだろう。休戦には反対しているそうだし」
「ああ、国連軍が断続的に行っている休戦交渉にも反対している。韓国軍だけでも戦争継続すると言い出しかねない」
「李承晩が北朝鮮の工作員に狙われることはないのか」
「充分、あり得るだろうな」と、谷口は言った。