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2024年9月

2024年9月28日 (土)

■スターリンの暗殺者「第三章 李承晩」06

【主な登場人物】
■スターリン ソ連最高指導者
■フルシチョフ ソ連政治局員
■モロトフ ソ連政治局員
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手

■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント

■ルーシー・立花(かおり) ダンシング・キャッツの歌手
■チャーリー・立花 ダンシング・キャッツのリーダー
■ジェームス・鈴木 ダンシング・キャッツのトランぺッター
■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人  戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男

■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている
■神谷恂一郎 F機関で最も若くムードメーカーだったがシベリアで死亡

■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事

 

第三章 李承晩

■1953年1月1日 東京・田原町
 
昭和二十八年の元旦だった。朝から、元旦独特の静けさである。浅草まで足を伸ばせば、大勢の人が初詣にきているのだろうが、「平和荘」の周囲はいつもの人通りもなく、子供たちも遊んでいない。明日になれば、独楽まわしや羽子板、凧揚げなど、子供たちも出てきて賑やかになるはずだ。元旦だけは、家族揃ってこたつに入っているのかもしれない。

ラジオも元旦の特別番組が続いていた。寄席の中継や歌合戦などが、楽しそうに放送されていた。しかし、夕方になると、いつもの時間に「尋ね人の時間」が始まった。いつものアナウンサーが「尋ね人の時間です」と落ち着いた声で言う。
 
戦後の昭和二十一年一月からNHKは「復員だより」という番組を始めた。これは一年ほどで終わり、「引揚者の時間」が昭和二十二年七月から始まった。空襲などで行方不明になった人なども含めた「尋ね人の時間」は昭和二十一年七月から始まり、今は復員兵の消息も引揚者の問い合わせも「尋ね人の時間」を聞いていればわかる。
 
何のあてもないのだが、三浦良太は今も毎日「尋ね人の時間」を聞いていた。もしかしたら、誰かが自分を捜しているかもしれない、という漠然とした気持ちが胸を去らない。昭和二十年五月二十五日の山手空襲で、良太は家族を失った。両親も兄も妹も焼け死んだ。
 
その日から九歳の良太は上野で知り合った何人かの仲間の後をついてまわり、何とか飢えをしのいだ。しかし、戦争が終わっても、戦災孤児たちに救済はなかった。大人たちは余裕もなく、道端に横たわる瀕死の子供を見ても目を背けて通り過ぎるだけだった。
 
進藤栄太が道端で死にかけていた良太を病院に連れていってくれなければ、あの時に間違いなく死んでいた。たった十年足らずの人生になるところだった。だが、良太はその後の七年間を生き延び、今、十六歳で印刷工として働いている。
 
良太と栄太は、昨夜、除夜の鐘を聞いてから、ふたりで歩いて浅草寺まで初詣にいき、午前中はゆっくり寝ていた。午後から、栄太の部屋でこたつに足を入れてずっとラジオの演芸番組を聴いていた。そして、「尋ね人の時間」が始まったのだ。

「シベリア抑留中にイルクーツク収容所で一緒だった吉岡健夫と名乗った方をご存知の方は、日本放送協会『尋ね人』の係にご連絡ください」
「戦前、満州の新京でクリーニング屋をなさっていた内田隆さんをご存じの方は、日本放送協会『尋ね人』の係にご連絡ください」

今日も、様々な尋ね人の名前がアナウンサーによって読み上げられた。まだまだ戦争が終わった気はしない。つい最近まで、シベリア抑留から戻ったというニュースが流れていた。ソ連はまったく情報を公開せず、行方不明者の数は膨大だった。時々、空襲で行方不明になった人の消息を尋ねる投稿もある。そんな時、良太はいつの間にか手に力が入っている自分に気付いた。そんな良太を、じっと栄太が見つめていた。

栄太は、一週間ほど前から様子が変だった。妙に無口になり、何かを考えている風に見えた。時に壁を睨みつけるように強い視線を向ける。それは、何かを具体的に見るというより、自分の中にある何かを睨みつけているようだった。

「良太は、ずっと『尋ね人の時間』を聴いてるな。誰かが『昭和二十年五月二十五日の山手空襲で行方不明になった、牛込柳町に住んでいた三浦良太をご存知の方』と投稿するのを待ってるのか」
「ううん、もうあきらめてる」
「母方の親戚はいるんだろ」
「新潟の方にいると聞いたことがある」
「探してみるか」
「いまさら、もういいよ」

良太がそう答えると、栄太は軽くうなずくように頭を振り、また沈黙に戻った。その栄太の顔を見つめて、良太は口を開いた。
「このところ、様子が変だよ。何か、あったの?」

栄太が目を向ける。暗い目をしていた。戦後、新聞社に復職し、溌剌としていた栄太を良太は懐かしく思い出す。九歳の良太を育てるという目的を得て、栄太は新聞記者の仕事に力を注いだ。不自由になった足を引きずりながら、様々な事件を追った。しかし、それも数年で終わり、レッドパージで新聞社を追われ、今では良太と同じ印刷工だ。

「昔、俺を取り調べた特高の刑事を見かけたんだ」と、栄太が言った。
「いつ?」
「クリスマス・イブの日だ。警視庁に復職していた」
「なぜ、わかったの?」
「後を尾けて、数日後、どこの所属か調べてみた。新聞記者時代のツテもあるからね」
「それで」
「公安部に復職だ。特高時代と仕事は同じさ。さすがに拷問はしないだろうが----」
「それで、どうするの?」
「何もできないだろうな。だから、気がおさまらない」
「もう、忘れなよ」と、良太は言った。
「そうだな。そう思うが、この足が忘れさせてくれない」と、栄太が左足をさすりながら言った。

その時、ラジオは「尋ね人の時間」からニュースに移った。占領が続く沖縄では、戦後初めて「日の丸」の掲揚が米軍司令部から許可された。また、左派社会党委員長の鈴木茂三郎がニューデリーでインドの首相ネルーと会見していた。そして、横須賀では前日の夜、通称ドブ板通りのバーで爆発があり、米兵四十二人が死亡、六人が重傷を負った。さらに日本人女性四人が死亡したという。

「そんなに死ぬなんて、どんな爆発だったんだ?」
「気になるの?」と、良太は訊いた。
「何だか気になる。犠牲者が多すぎる。それだけ米兵の死者が出たとしたら大事件だ。今日は新聞がなかったから、世間はそれほど騒ぎになっていないだろうが、新聞社は大変なことになってるだろうな」と、栄太は首を傾けて何かを思案しているように見えた。「良太、悪いが夕食はひとりですませてくれ。ちょっと出かけてくる」
「どこいくの?」
「昔の同僚のところだ」

そう言うと、栄太はこたつから出て、壁に掛けてあったコートと毛糸のマフラーを身に付けた。狭い三畳の部屋は手を伸ばすだけで用事が済む。良太は元気になった栄太をうれしく思ったが、事件を調べにいくのであろう栄太を心配する気持ちの方が強かった。

■1953年1月1日 東京・有楽町

進藤栄太は、かつての同僚である谷口史郎を待っていた。有楽町のガード下にあるビアホールで、珍しく元旦から開いている店だった。アパートを出て駅の公衆電話で編集部に電話すると、案の定、谷口は出社していた。谷口は復員後に新聞社に復職した記者で、進藤と同じ社会部で事件を追った仲だった。

少し遅れて谷口がやってきた。テーブルの向かいに腰を下ろし、生ビールを注文する。
「もう社には戻らない。昨夜からずっと働いているからな。こういう時、独り者は便利に使われる」

谷口は三十半ばを過ぎる歳だが、未だに独身だった。戦争で何かあったのか、妙に虚無的なところがあり、新聞記者の仕事に打ち込むことで何かを忘れたいのかもしれない。一緒に事件を追っていた頃から、栄太はそんなことを感じていた。

「横須賀の爆発事件、事故なのか。それともテロ、破壊工作なのか?」
「米軍は一切発表していないが、十二月に入って、毎週、水曜日に基地で爆発騒ぎが起こっていた。米軍が伏せているから詳細はわからない。ただ、人的被害はなかった。しかし、昨日も水曜日だったから、特別に警戒していた。ところが、今回は基地内ではなく、米兵がたむろするバーで爆発が起こった。明らかに米兵を狙ったテロだよ。俺は昨夜のうちに現場に入り、周辺で聞き込んできたんだ。今回は、基地ではなく日本の管轄領域で起こった事件だ。日本の警察に捜査権があるが、米軍が横車を押してくる可能性もある」

「日本人の犠牲者も出ているんだろう」
「ああ、だから日本の警察も黙って引っ込むことはない。犠牲者が米兵だけだと、日本の警察は手を引けと言い出しかねないがね」
「日本は、独立国家になったんだぜ」
「駐留米軍はそのままだし、地位協定によると米国人の犯罪は裁けない。米軍基地は日本じゃないしな」

「犯人は、米国人なのか?」
「いや、ソ連製の手榴弾が使われた形跡がある。それに、爆発が起こる少し前に、日本人らしき男がバーから出ていった」
「北朝鮮の工作員?」
「かもしれん。国連軍の総司令部は東京にあるし、総司令官のマーク・ウェイン・クラークは東京にいる。日本は後方基地だし、そこを北朝鮮が襲っても不思議ではない」
「朝鮮戦争の場外戦が、日本を舞台に繰り広げられるということか」と、栄太は言った。

「北朝鮮の仕業だと判明したら、『報復を』という声が本国でも強くなるだろう」
「北朝鮮の工作員に間違いないのか?」
「もうひとり、爆発に巻き込まれた日本人がいる」と、谷口が切り出した。「軽傷だったようだが、助けられた後、姿を消した」
「誰かの証言があるのか」
「バーテンが奇跡的に軽傷で生き残っているらしい。爆発元のトイレが遠かったのと、たまたま爆発の時にカウンターの下に屈んでいたので助かったらしい」
「そのバーテンの証言がとれたのか?」
「まだ、直接はとれていない。捜査筋からの情報だ。奴ら、米軍に捜査権を取り上げられたくないから、新聞にどんどん情報を漏らしてくれる。バーテンによると、珍しく日本人が店に入ってきて酒を飲み、トイレに入った。そのまま出ていったのかと思っていたが、その十分ほど後に爆発した。トイレに爆弾が仕掛けられていたんだ。戦争中によく使われた、手榴弾によるブービートラップだろうということだ」

「もうひとりの日本人は?」
「その男の十分後くらいに入ってきて、日本人のことを訊いて、すぐに出ていった。ドア近くで爆発に遭い、外に吹き飛ばされたらしい」
そこでひと息ついた谷口は、ビールジョッキを傾けてうまそうにビールを飲んだ。
「この前、警視庁公安部の山村という刑事について訊かれたよな」と、谷口が話を変える。
「ああ」
「どういう関係なんだ」
 
栄太は、一瞬、沈黙した。山村との関係を話すことは、自分の恥辱を話すような気がするのだ。よく考えれば、恥じることはないと思う。特に戦後は価値観が逆転し、特高の拷問に耐えた栄太を表立って責める人間はいないだろう。しかし、結局、栄太は拷問に屈したのだった。そのことが、恥の感覚を甦らせる。

「戦争中、特高に逮捕された時、俺を取り調べたのが山村だった」
「拷問されたのか」
栄太は黙ってうなずいた。
「脚をそんなにした相手?」
「ああ」
「そいつが、また公安に復職してるのか。あんたは、レッドパージに遭ったというのに。戦争中に共産党員として拘留されていたというだけで----。まさに時代の逆行だな」
 
谷口は何かを連想したのか、遠くを見る目をしてつぶやいた。戦争体験については一切話をしない谷口だが、戦争中のことを思い出しているのだと栄太は思った。

「その山村が、横須賀の爆発現場にいた」と、しばらくして谷口が言った。
「山村が? 管轄が違うんじゃ----」
「おまえに訊かれた時に、山村を調べて顔も確認した。間違いない。現場にいたのは山村だ。若い刑事も一緒だった」
「なぜ、山村が?」
「俺もそう思って、今日、警視庁を当たってみた」
「それで?」
「山村と、もうひとりの新城という刑事、米軍基地連続爆破事件を非公式に調べていたらしい」
「その関係で、横須賀の爆発現場にいたのか」
「そうだろう」
「そのまま爆破事件の捜査を担当するのかな?」
「神奈川の事件だから、通常は警視庁の出番はない。ただし、公安だから簡単には手は引かないと思う。組織的な事件かもしれないし、北朝鮮の工作員組織なら、公安調査庁や内調といった国家的な部署も出張ってくるかもしれない」
「北朝鮮の工作員に対するカウンターパートみたいなのは、今の日本にあるのか?」
「独立したばかりの国だぜ。国家警察的な組織の復活は旧内務省グループの悲願だったけど、ようやく発足した組織ばかりだ。どこがどう何に対応するのか、混乱するかもしれないな。元々、官僚たちは縄張り意識の強い奴らだからね」

「そう言えば、李承晩が来日するらしいな」
「ああ、日韓関係は非常に悪い。李承晩は、徹底した日本嫌いだ。今年一月、日本が独立する直前、一方的に李承晩ラインを設定し、竹島も領土と主張して軍隊を配置し実効支配した。竹島近辺は豊富な漁場だ。日本の漁船が李承晩ラインを超えたとして銃撃し、拿捕する。すでに漁師に死者が出ているし、もう何人も拿捕されて韓国に収容されている」
「北朝鮮と戦っている時に、そんな日韓関係では米国にとっても困るわけか」
「ああ、そこで、国連軍総司令官のクラークが日韓関係改善のために李大統領を日本に招待した。五日に来日し、六日に吉田首相と会談する予定だ。七日には帰国する。しかし、去年の日韓会談は決裂した。今度も決裂の可能性が高いな」
「李承晩は、朝鮮戦争の徹底抗戦派なんだろう。休戦には反対しているそうだし」
「ああ、国連軍が断続的に行っている休戦交渉にも反対している。韓国軍だけでも戦争継続すると言い出しかねない」
「李承晩が北朝鮮の工作員に狙われることはないのか」
「充分、あり得るだろうな」と、谷口は言った。

 

2024年9月21日 (土)

■スターリンの暗殺者「第二章 スターリン」05

【主な登場人物】
■スターリン ソ連最高指導者
■フルシチョフ ソ連政治局員
■モロトフ ソ連政治局員
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手

■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント

■ルーシー・立花(かおり) ダンシング・キャッツの歌手
■チャーリー・立花 ダンシング・キャッツのリーダー
■ジェームス・鈴木 ダンシング・キャッツのトランぺッター
■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人  戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男

■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている
■神谷恂一郎 F機関で最も若くムードメーカーだったがシベリアで死亡

■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事

 

■1952年12月12日 モスクワ

モロトフとの会見を終えた翌日の夜、ニキータ・フルシチョフの自宅をひとりの男が訪れた。ロシア風の衣服に身を包んでいるが、東洋人の風貌だった。身長は百七十センチ、体重は六十キロ、分厚い毛皮のコートを脱ぐと筋肉質の体をうかがわせる薄着だった。年の頃は三十代後半、四十に近いのかもしれない。真黒な髪を後ろになでつけている。
 
召使が男からコートを受け取り、フルシチョフの居室に案内した。途中、男はまったく気配を感じさせず、何の物音も立てない。召使はドアをノックし、フルシチョフの応答を待ってドアを開くと、男は猫のようにするりと室内に姿を消した。
「久しぶりだ。元気だったか?」とフルシチョフは振り返り、ドアの前に立つ男に言った。

「おかげさまで---」と、皮肉ともとれる口調で男は答えた。
「きみに頼みがある」
「だから、こうしてうかがいました」
「日本にいってもらいたい」
「今度は、何ですか?」
「十日ほど前、スターリンの屋敷に男が呼ばれた。〈ヴォールク〉と呼ばれる男だ」
「日本語では〈狼〉ですな」と、男は日本語を正確に発音した。
「彼はスターリングラード攻防戦で、ドイツ兵を数百人狙撃した伝説を持っている。私自身があの戦いに参加していたから、その噂を聞いたことがある。その頃、二十四歳だったというから、現在、三十四歳。大戦後、スターリン直属の秘密工作員として活動してきた。感情に流されず、冷酷で、冷静で、極めて優秀な破壊工作のプロであり、抜群の腕を持つ狙撃手だ」

「スターリンの暗殺者----というわけですか?」
「はっきり言えばそうだ。そのため、正体はよくわかっていない。ただ、朝鮮族出身で、ロシア語、朝鮮語、日本語を自由に操るらしい。〈ヴォールク〉のことは、どんな記録も残されていない。名前も、出身地も、経歴も、今まで彼が関係した暗殺、粛清、破壊工作も。唯一、スターリングラード攻防戦の伝説だけが知られている」
「その男は、大元帥から何を命じられたのですか?」
「それが、はっきりしないのだ。暗殺指令だと思われるが、標的はわからない。ただ、その工作の目的は、朝鮮戦争の新しい火種を作ることだ。それによって、再び中国とアメリカが激しく戦い、消耗戦を続けるように仕向ける----。スターリンは狂って、妄想の世界に入っているのだよ。とんでもない標的を想定している可能性がある」
「雲をつかむような話ですな。それで、なぜ日本へ?」
「〈ヴォールク〉が向かった先が、日本だと判明した」
「日本ですか」と、男は〈やれやれ〉というように首を振った。

「〈ヴォールク〉は、標的に向かって邁進するだろう。助けが必要な時には、日本に潜んでいる北朝鮮工作員たちを使うと思われる。スターリンから金日成に極秘の依頼がいっている。金日成は、スターリンの命令には絶対服従だ。スターリンは、日本における我が国の外交官や諜報組織の人間たちを信用していない。自分以外のクレムリンの誰かに忠誠を誓っているのではないか、と疑っているのだ」
「大元帥には、もうあまり時間はなさそうだし、後継者争いは本人たちより周囲の方が必死で、誰になるか見極めようとしている。党の幹部たちも誰につくかで、運命が決まるってわけですからね。勝ち馬に乗らなきゃ、下手したら柱に縛り付けられ、銃口の前に立つことになる」
 
フルシチョフは苦笑いをして、自分の禿頭をツルリと左手でなでた。そんな時、子供のように愛嬌のある表情になるのは自分でもわかっていた。生臭い話を、笑いでごまかそうとしているのだ。

「それで、私に何をさせようというのですか?」と、男は訊いた。
「きみには、〈ヴォールク〉の目的を阻止してもらいたいのだ」
再び、男は〈やれやれ〉という風に肩をすくめた。
「あなたは、標的は誰だと思っているのですか?」
「日本に潜入したのなら、日本人が標的かもしれない。その場合、吉田茂首相が最も可能性がある」
「吉田茂----。彼が暗殺されて、朝鮮戦争の終結が遠のきますか。喜ぶのは旧軍グループでしょう。彼らは、吉田の暗殺を企てていたらしいですからね」
「日本の再軍備では、旧軍の実力者たちは吉田に徹底的に排除されたからな」
「それでも、旧軍グループはGHQのウィロビーとくっついて暗躍しましたよ」
「報告によると、今も旧軍グループとアメリカ軍との結びつきは続いている。アメリカの反共アレルギーは、日本の軍部の復活さえも容認するらしい。戦犯だった岸も『日本を反共の砦に』と訴えて釈放された。岸はCIAとも密接な関係がある。そのCIA長官には新国務長官ダレスの弟が内定している。今のアメリカ政府高官の中には、『ナチスと大日本帝国を亡ぼしたために共産圏の膨張を許した』と批判する者さえいる。反共、反共、反共----、アメリカ人どもは反共に凝り固まっている」
 
フルシチョフは、アメリカ人の反共ヒステリーにうんざりして言った。ハリウッドでは、多くの映画人が赤狩りの憂き目に遭っている。スターリンは大の映画好きだったが、それに付き合わされてフルシチョフもハリウッド映画はずいぶん見ていた。戦前からギャング映画で活躍する強面のエドワード・G・ロビンソンが好きだったが、彼も赤狩りの犠牲者だった。

「吉田以外に、可能性のある標的は?」
「年明けの一月五日、大韓民国の李承晩大統領が日本を訪れるという情報が入った。招いたのはクラーク国連軍司令官だ。三日間の滞在で、吉田首相との会談が予定されている。ただし、李承晩は徹底した抗戦派だ。朝鮮戦争を長引かせるためには、彼の暗殺は逆効果になるかもしれない。逆に、彼の狙撃に失敗したら、ますます徹底抗戦に傾くだろう」
「李承晩を狙う可能性は高いのでは? 〈ヴォールク〉は十日先行しているから、準備にほぼ一か月かけられる。やってやれないことはない」
「確かに、可能性はあるな」と、フルシチョフは言った。
「とりあえず、李承晩を想定して探索します」
男は、短期間で〈ヴォールク〉を見つけ出せるだろうかと考えを巡らせているらしく、フルシチョフから目をそらし、しばらく沈黙した。

「年明けにはアメリカ大統領の就任式があり、国務長官も正式に決まる」と、フルシチョフは口を開いた。「彼らのアジアにおける課題は、インドシナと朝鮮半島だ。特に、膠着している朝鮮戦争の決着を急ぐだろう。そのために、アメリカの政府高官が日本や韓国を訪れる可能性がある」
「アメリカの政府高官? まさか、国務長官クラスを狙うんじゃないでしょうね」
「就任式が終わると、ダレスが国務長官に任命されるだろう。その後、ニクソン副大統領かダレス国務長官が日本にやってくる可能性は高い。ダレスは、トルーマン政権時代に国務省の顧問だった。すでに何度も日本にきている。彼が最初に来日した数日後、朝鮮戦争が起こった。その後、吉田に強く再軍備を求めたし、日本の講和を積極的に推進したのはダレスだ」
「国務長官が北朝鮮の兵士に暗殺されたら、新しい戦争の火種にはなりますな」
「北朝鮮の兵士?」
「暗殺者は、朝鮮族と言いましたよね」
「スターリンは暗殺者が捕まること、殺されることを想定したのか。失敗しても北朝鮮の兵士が狙ったとなれば----」

「大元帥閣下、狂っていても抜け目はない。それで、なぜ私に?」
「きみなら怪しまれず、日本で自由に動ける。きみの仲間たちも、もう日本社会に溶け込んでいるのだろう。ロシアの熊たちが動いたのでは、目立って仕方がない」
「同志フルシチョフ、私は共産主義者ではありませんよ」
フルシチョフは、〈何が言いたい〉と思いながら眉をひそめた。
「私たちの仲間はイデオロギーで結束したものじゃないし、もう諜報活動も破壊工作も我々の仕事ではありません。彼らは、まっとうな生活をしています。昔の縁で私を助けてくれるだけだ」
「諜報活動や破壊工作をしてほしいと言っているのではない。破壊工作を阻止してほしいのだ」
「日本共産党の方が人数を抱えてる。人海戦術で〈ヴォールク〉を探せる。コミンフォルムを通じて指令を出してみたらどうですか」と、男は揶揄する口調で言った。
「日本共産党にできることではない」
「占領期、コミンフォルムは共産党や労働者たちに破壊工作を指令したのでは?」と、男はニヤリと皮肉な笑いを浮かべた。

各国の共産党はソ連に対しては従順だった。共産主義国家を成立させたソビエト連邦は、共産主義者たちの夢が具現化された国だ。大戦後、フランスでも共産党による革命が現実的になったことがある。大戦中、レジスタンス活動の中心を担ったのは共産党だったからだ。そのフランス共産党も、常にクレムリンの意向を気にした。
 
しかし、今回の使命に共産党は使えない。そんなことは、わかっていた。この任務は、諜報の世界に精通した人間でなければ担えない。フルシチョフには、男が皮肉を言っているのがわかった。日本の占領期間中、共産党や労働組合の仕業とされているいくつかの事件が起こった。その背後には、ソ連から送りこまれた日本人工作員の存在があった。
 
ヒロシマに原爆が落とされた三日後の未明、ソ連軍は日ソ中立条約を反故にして満州、南樺太、千島列島になだれ込んだ。ドイツのソ連軍占領地域では略奪、虐殺、強姦が日常茶飯事だったが、赤軍の規律のひどさはアジアでも同じだった。多くの日本人が殺され、犯され、捕虜として拉致された。彼らはシベリアで強制労働に従事させられ、何年も極寒の地で帰国を夢見て生きていた。命を落とした者は、数知れない。
 
そんな中、様々な事情でソ連に留まった者もいた。中には、ソ連諜報部に赤化教育を叩き込まれ、工作員として日本に潜入する人間もいた。彼らは引揚げ船で舞鶴に上陸し、日本社会の様々な場所にスリーパーとして散っていった。フルシチョフの前で皮肉な笑みを浮かべる男もそんなひとりだった。
 
フルシチョフは「日本でロシアの熊が動いたのでは目立って仕方がない」と言ったが、それは理由のひとつでしかない。フルシチョフは、今回の任務がソ連上層部の路線闘争であることを最も知られたくなかった。男を使う理由がそこにある。
 
日本人工作員と朝鮮族テロリストの争いが明らかになったとしても、ロシア人諜報組織が朝鮮系ロシア人の破壊工作を阻止しようとしたと知られるよりはましである。ソ連共産党内部の路線対立、つまりスターリンと側近たちの対立を絶対に顕在化させてはいけない。事は秘密裡に運ばねばならない。
 
男が任務に失敗しても、ソ連は一切関知していないとフルシチョフは主張するだろう。気持ちのよい男だが、結局、捨て石にしかすぎない。男がフルシチョフを前にして冷笑と見える表情を変えないのは、そんなことを先刻承知しているからに違いない。

「わかりました。引き受けましょう。あなたには、仲間の命を救ってもらった」と、男は決断した口調で答えた。
「あれは取引だった」と、フルシチョフは言った。
「私はね、借りを作ったままなのが嫌なんです。この仕事で、完全に貸し借りなしにしてもらいます」
「きみの仲間は、みんな帰国できたはずだ」
「残念ながら、ひとりはシベリアの土になりました」
男は、何かを思い出すように言った。
「気の毒なことをした」
 
フルシチョフは、まったくそう思っていない口調で答えた。フルシチョフが男とその仲間の助命に動いたのは、彼らが役に立つと考えたからにすぎない。

「きみがこの国に残ったのは、仲間を帰国させるためだけだったのかね?」
「ロシアの大地が気に入ったのですよ」
「皮肉かね?」
「あなたの手配で、今はモスクワ大学日本語学科教師という正業まである。そこそこの生活はできてますからね。敗戦国へ帰っても、何もありゃしなかった。満州の特務機関にいたうさん臭い奴がソ連に抑留されて赤に寝返ったと、後ろ指を指されるだけです。場合によっちゃ公安の監視がつく。こっちにいた方が気楽ですよ。いつ逮捕されるか、収容所送りになるか、という心配は消えませんがね」
フルシチョフは、そんな男の言葉を信じてはいない。しばらく、男の顔を見つめていたが、やがて口を開いた。
「きみは、ヒロシマ出身だったな」
「忘れました」と、男は肩をすくめた。
「原爆を落としたアメリカは憎くないかね?」
「戦争だったんです。勝てばいいんだ。手段なんて関係ない」
「日本で会いたい人はいないのかね?」
「いませんね」

昨夜、フルシチョフは男の履歴をまとめた詳細な書類に改めて目を通した。男は陸軍中野学校を出た後、満州で特務機関を立ち上げ、対ソ工作に従事し、軍を補佐した。終戦直前、仲間と共にソ連に拿捕され、過酷な尋問を受けた----。

「現在、独立後の日本とは国交断絶状態だが、きみは日本における我々の諜報組織の協力が得られる」と、フルシチョフは言った。

ソ連の対日参戦後に日本のソ連大使館は閉鎖されたが、終戦後、連合国ソ連外交代表部が占領管理機関として設置された。軍人中心の三百人ほどのスタッフで構成され、代表にはデレビャンコ中将が就任した。デレビャンコ中将は軍事諜報の専門家で、彼を通じて日本の情報は本国に報告された。
 
対日理事会ソ連外交代表部は占領政策についてソ連側の主張をしたが、ほとんどがマッカーサーによって無視され、ソ連外交代表部は「マッカーサーは独裁者だ」と、ワシントンに本部を置く極東委員会で駐米大使アンドレイ・グロムイコを通して訴えた。しかし、極東委員会もマッカッサーを抑えることはできなかった。
 
米ソ対立が激しくなった朝鮮戦争勃発の一か月前、デレビャンコ中将は本国に引き上げ、対日理事会ソ連代表をポリャシェンコ大佐が引き継いだ。ポリャシェンコ大佐は終戦翌年から東京で勤務する軍人で、彼はマッカーサーのレッドパージを厳しく批判し、日本の再軍備に徹底して反対した。
 
しかし、講和条約が発効し日本が独立した今、占領管理機関だった極東委員会も対日理事会も存在しなくなり、ソ連外交代表部も解散しなければならない。そうすると日ソ間の外交ルートが完全に消滅することになり、ソ連としてもそれは望んではいなかった。そこで、ソ連通商代表部に外交特権を付与する案が出ているが、まだ確定はしていない。
 
今後は、日ソ国交正常化に向けて秘かに交渉が始まるだろう。しかし、クリル諸島返還やシベリヤ抑留の問題があり、まだまだ時間がかかるとフルシチョフは見ていた。その間、日本に留まっている外交官や軍人たちには、情報を収集し本国に報告する仕事は続けさせなければならない。

「今、日本にいるロシア人はほとんどが軍人か、情報機関の人間だ。彼らの協力ほど、信用できないものはありません。協力という名の監視。私が妙な動きをした時は、すぐにモスクワに報告がいく。それに『そんなことをしたら友人の安全は保障しない』なんて脅しも平気で口にする」と、男は言った。
「きみに友人はいるのか?」と、フルシチョフが訊いた。
「この国で七年暮らしてきたんだ。それなりの顔見知りはできますよ」
男は誰かの顔を思い浮かべているのだろうか、視線を上げて沈黙した。
「たとえば、ニーナ・フィリッポブナ?」と、しばらくしてフルシチョフがつぶやいた。
「彼女には、手を出すな」
男は、真剣な目でフルシチョフを睨んだ。皮肉っぽい薄笑いは消えている。
「何も、彼女を人質にしようと言ってるんじゃない。きみを祝福しているのだ。ようやく、きみも人並みの幸せを求める気になったかとね」
男はフルシチョフを睨んでいたが、やがて何かを諦めたような皮肉な冷笑が再び浮かんだ。自分の弱点を晒したことを、後悔しているのだ。

「おめおめと----、また日本か----」 
しばらくして、男は投げやりな口調でつぶやいた。日本語だった。

 

 

2024年9月14日 (土)

■スターリンの暗殺者「第二章 スターリン」04

【主な登場人物】
■スターリン ソ連最高指導者
■フルシチョフ ソ連政治局員
■モロトフ ソ連政治局員
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手

■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント

■ルーシー・立花(かおり) ダンシング・キャッツの歌手
■チャーリー・立花 ダンシング・キャッツのリーダー
■ジェームス・鈴木 ダンシング・キャッツのトランぺッター
■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人  戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男

■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている
■神谷恂一郎 F機関で最も若くムードメーカーだったがシベリアで死亡

■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事

 

■1952年12月1日 モスクワ

十七日後に七十四歳を迎えるスターリンの体は様々な病に冒され、いつ致命的な発作が起きても不思議ではない状態だった。
 
スターリンは若き時代には革命家として活動し、世界で初めて共産主義国家が誕生し、革命を指導したレーニンが死んだ後、熾烈な権力闘争を権謀術数を駆使して生き抜き、ライバルたちの暗殺や処刑を重ねて権力を手中にした。数百万人が死刑やシベリア流刑になった大粛清を行い、大飢饉の時代には数千万の国民が餓死するのを考慮せず、工業化へ向けて五カ年計画を推進した。

しかし、七十四年を生きてきて、今、スターリンは病んでいた。高血圧と動脈硬化が進行しており、さらに心臓疾患があり軽い発作を何度も繰り返している。だが、ソビエト連邦の最高権力者として最も問題なのは、前頭葉部の脳細胞に小さな膿胞が生じ、これによって記憶力の減退、健忘症、被害妄想、怒りっぽさが増進されていることだった。

元々、偏執狂的傾向があり、被害妄想と猜疑心の強さはスターリンの性格の根幹を成していた。その怒りはいつ爆発するかわからず、周囲の人間を戦々恐々とさせていたが、七十を過ぎ、それがますます昂じていた。猜疑心の強さは、暗殺を怖れ、毎日、寝る部屋を変えるという異常さに顕れ、召使や警護兵たちを困惑させた。

すでに、国家の最高指導者として正常な判断を下せる状態にはなかったが、二カ月前のソビエト共産党中央委員会総会において、スターリンは改めて己の権力基盤を盤石にした。ただ、スターリンの言動については多くの者たちが不安と疑念を抱いており、その指導力を危ぶんでいた。妄想に囚われたスターリンには、今や二種類の人間しか存在しない。他の国の手先か、裏切り者か、である。
 
総会後、スターリンは根拠のない疑念に捉われ、何十年も忠実に仕えてきた秘書ポスクレブイシェフと警備局長ヴラシクを逮捕させた。スターリンは、誰も信じない。マクベスのように疑心暗鬼に捉われ、「すべての人間が自分の命を狙っている」と思い込んでいる。そのため、いくら側近であっても、些細なことが処刑や追放のきっかけになった。

現在、スターリンの頭を占めている問題は、複雑に錯綜する世界情勢だった。資本主義国家を代表するアメリカ、そしてイギリス、国家体制の存続をかけた彼らとの戦いに勝利しなければならない。アメリカでは二十年ぶりに共和党のアイゼンハワー大統領が誕生し、強硬な反共主義者のジョン・フォスター・ダレスが国務長官に任命される予定だった。

また、ニクソン副大統領も国務長官に劣らず反共の姿勢を明確にしている。ニクソンは「赤狩り」で有名な非米活動委員会の委員を務めていた。彼らは、インドシナ、朝鮮半島での戦いを共産主義圏と自由主義圏の戦いと位置づけ、共産主義の徹底的な封じ込めを狙っている。今後、さらに冷戦がエスカレートするのは目に見えていた。

しかし、共産圏も一枚岩ではない。ユーゴスラビアには、スターリンに反旗を翻すチトーがいた。また、スターリンに忠実な北朝鮮の金日成とは違い、中国大陸で共産党一党支配を実現した尊大な毛沢東をスターリンは肚の底から嫌っていた。毛沢東には、何を考えているのかわからない不気味さがあった。
 
初めて会った時、毛沢東は「中国には、何億人もの人民がいる。戦いでどれだけ死んでも、すぐに補充できるし、中国人民は精力的だからすぐに生産は追いつく」と下品な冗談を交えて豪語した。人民を単なる消耗品としか考えていない。だから、朝鮮戦争への参戦をためらわなかったのだ。
 
もう二年半、朝鮮戦争は続いている。中国軍は中華人民義勇軍と称しているが、長い内戦を戦ってきた人民解放軍の兵士たちは勇敢であるだけに多大な犠牲を出していた。ソ連は武器の供与と戦争指導のための将校を派遣しているだけで、朝鮮戦争の戦いの主力は中国とアメリカだ。戦いが長引けば、消耗するのはその両国である。
 
また、あれほどソビエト連邦が反対したのに、アメリカは日本の単独講和を認め、とうとう今年四月二十八日に講和条約が発効し日本の占領は終了した。しかし、スターリンは日本が正式に降伏文書に調印した後も侵攻を続けて占領した、日本が国後・択捉などと呼んでいるクリル諸島を返還するつもりは毛頭なかった。
 
アメリカの新国務長官ジョン・フォスター・ダレスは、日本をアジアの反共の砦にするつもりだ。アイゼンハワー政権でCIA長官に就任予定の弟、アレン・ダレスも協力するに違いない。三年前、マッカーサーはアメリカ独立記念日に「日本は赤化東進の防壁」と明言した。終戦直後の解放政策を改め、反動的なレッドパージが吹き荒れ、労働運動への締め付けも始まった。あの頃、日本は混迷の最中にあった。
 
終戦直後、日本共産党はアメリカ軍を解放軍と讃えた。指導者たちは「民主化を推進することによって、いつかは共産主義国家に」などと寝ぼけたことを言っていた。毛沢東も金日成も軍事力によって共産主義国家を樹立したのだ。そのことを日本共産党に教えてやらねばならない。
 
独立した今こそ、占領時以上に日本を混乱させ不穏な社会情勢を作り出すことが必要だ。アメリカは日本を忠実な同盟国とするために、講和を認め日本に再軍備を促した。アメリカの安全保障のために、アジアの赤化は日本を防波堤にして食い止める気だ。米軍基地は、占領時代と変わらぬ規模で日本に存在する。日本には国連軍総司令部が置かれ、朝鮮戦争の後方基地でもある。
 
スターリンは、七年前、日本占領へのソ連軍の参加をトルーマンに阻止されたことを思い出し、改めて憤怒に燃えた。あの時、ソ連軍極東方面司令官をマッカーサーと同列の連合軍最高司令官とせよ、とスターリンはトルーマンと交渉した。少なくとも、北海道の占領はソ連軍によって行うべきだと主張した。
 
だが、あの田舎者のトルーマンは、その要求を頑として受け入れなかった。あの時はまだ原爆保有国はアメリカだけで、バーンズ国務長官は原爆をチラつかせて外交交渉に当たった。いまいましい奴だった。しかし、三年前、ソビエト連邦は原子爆弾の開発に成功し、軍事力でアメリカに負けるとは思えない。
 
今、スターリンが怖れるのは中共の台頭であり、アメリカの反共政策の強化だが、そのためには「アメリカと中国には消耗戦を続けさせておけばいい」と考えていた。朝鮮半島での戦いをできるだけ長引かせ、その間にソビエト連邦は国力を高めるのだ。共産国家ソ連を未来永劫にわたって存続させるために----。
 
しかし、二年半を過ぎて朝鮮半島の戦いは一進一退をくりかえし、双方が戦いに倦んでいる。昨年から休戦のための交渉が断続的に行われていたが、話はまとまらなかった。また、敵は戦傷捕虜の交換を提案してきた。だが、この戦争を終わらせてはいけない。だから、新しい火種が必要なのだ。戦いの炎を再び燃え上がらせなければならない。
 
そのために、スターリンは〈ヴォールク〉を呼んでいた。前の大戦で様々な活躍をし、スターリングラードの戦いではドイツ兵を数百人も狙撃した伝説を持っている。しかも、その時、〈ヴォールク〉はまだ二十四歳だった。人を殺し、破壊工作をするために生まれてきた人間、スターリン自らが手塩にかけて育てたテロリストだった。
 
スターリンは、後に〈ヴォールク〉となる少年に会った時のことを思い出す。彼は十二歳だった。孤児院の院長の報告を聞いて、スターリンは少年のうちから暗殺者や工作員を育てることを思い付いた。その候補となる最初の少年だった。自分だけの忠実な暗殺者をスターリンは自分の息子のようにかわいがった。彼らは、よく働いてくれた。
 
〈ヴォールク〉は朝鮮族だったが、朝鮮民主主義人民共和国の最高権力者として君臨する金日成も、大戦中は朝鮮族出身者で構成されたソ連軍の部隊に所属する大尉だった。東洋人に見える外見は、今回の使命には適している。おまけに、ロシア語も朝鮮語も日本語も話せる。朝鮮半島や日本に潜入しても怪しまれることはない。
 
なぜ、この工作をもっと早く思いつかなかったのか、とスターリンは悔やんだ。アイゼンハワー新大統領は、明日から四日間、朝鮮戦争の前線を視察するために韓国にやってくる。軍人だったアイゼンハワーの国民向けのスタンドプレーだろうが、何という好機を逃してしまったことか。新大統領狙撃の衝撃をアメリカ人たちに与えられないのは残念だ、とスターリンは思った。
 
アイゼンハワーは、大統領選で朝鮮戦争の終結を公約にした。奴が大統領に就任したら、朝鮮戦争の休戦交渉は加速するだろう。アイゼンハワーを暗殺できたら、朝鮮戦争終結を公約した新大統領は消え、反共の闘士と言われたニクソンが大統領になる。同時に、アメリカの全国民を激怒させられる。
 
アメリカは原爆使用もためらわないほどの怒りを、朝鮮戦争に注ぐに違いない。まだ建国したばかりの中華人民共和国は、持てるすべての力を国連軍との戦いに注がなければならなくなる。その時の毛沢東の顔を見てみたいものだ、とスターリンはほくそ笑んだ。台湾に逃れた蒋介石だって、未だに本土復帰を虎視眈々と狙っている。

スターリンは外交儀礼としてアメリカ合衆国新大統領誕生の祝辞を在米ソ連大使を通じてアメリカ側へ伝えていたが、新大統領の韓国訪問をもっと早くに知っていたら暗殺計画を実行していたはずだ。しかし、今、大統領暗殺に代わる衝撃をアメリカ国民に与え、日本国内を混乱させるために、老スターリンは〈ヴォールク〉を待っていた。

そのために、金日成には最高レベルの協力を直接要請した。北朝鮮の工作員たちは、命を棄てても国家に尽くすように教育されている。日本にいるソ連外交官や軍人、あるいは諜報員を使うのは論外だ。彼らはクレムリンの誰と繋がっているのか、誰に忠誠を誓っているのか、わかったものではない。

北朝鮮工作員を使う方が確実だし目的に適う、とスターリンは自分の考えに満足するようにうなずいた。

■1952年12月11日 モスクワ
 
フルシチョフは、クレムリンの一室でモロトフを待っていた。ドアの外には、腹心の部下を立たせてある。フルシチョフはモロトフとの会談は秘密にしておきたかったが、クレムリン以外で会ったことが知られると、猜疑心の塊のようなスターリンに何を疑われるかわからなかった。しかし、第一副首相のモロトフと中央委員であるフルシチョフがクレムリンの会議室で会うのなら、誰かに知られたとしても言い逃れはできる。
 
モロトフはスターリンの側近として長く外相を務めてきたが、数年前からスターリンに疎まれ、第一副首相という閑職に追いやられていた。先日の総会では、外相時代の判断について妄言のような非難をスターリンから浴びせられた。三年前には、ユダヤ人である妻ポリーナをスターリンの命令によって収容所送りにされている。年を重ねて、スターリンのユダヤ人嫌いは抑制が効かなくなった。
 
フルシチョフがそんなことを考えていると、部下がドアを開きモロトフが入ってきた。モロトフは素早く視線を左右に振って、他に誰もいないことを確認する。それでも、盗聴マイクでも隠されているのではないか、と疑っている顔つきだった。もっとも、それくらいの警戒をしないと、ソビエト共産党内で生き延びることはできない。

「同志モロトフ、お忙しいところ---」と、フルシチョフは声をかけた。
「忙しくはないよ。そんなことわかっているんじゃないか。同志ニキータ」
モロトフは親密さを見せているのだろうか、いつもフルシチョフを「ニキータ」と呼んだ。
「実は、長い外交経験がある同志モロトフにうかがいたいことがあります」
「もう、外交なんてとっくに---」と、モロトフは語尾を濁し首を振った。
 
破棄されることにはなったが、かつてヒトラーと独ソ不可侵条約を結ぶ交渉を成功させ、ヤルタやポツダムでの連合国との会談でスターリンを補佐し、日本からの連合国との終戦交渉の仲介依頼をのらりくらりとソ連参戦まで長引かせた、海千山千の外相の面影はなくなっている。今は、妻の収容所送りと自身の閑職に甘んじている男だった。

「お話しする前に、確認しておきたいことがあります」
フルシチョフは何かを決断したように、気負いを露わにして言った。モロトフがフルシチョフの顔を正面から見つめる。
「我らが大元帥の最近の状態を、どう思いますか?」と、フルシチョフは訊いた。
「コーバ。懐かしのコーバ」と、モロトフはスターリンを革命時代の愛称で呼んだ。
 
モロトフほど、スターリンと苦楽を共にしてきた男はいないし、ずっとスターリンを崇拝してきた。それは、妻ポリーナを収容所に送られた今も変わっていない。しかし、先日の中央委員会総会以来、スターリンによるモロトフの粛清も近いのではないかと噂されている。今なら、モロトフを味方につけるのは可能だとフルシチョフは踏んでいた。

「健康上、様々な問題がありますが、それ以上に問題なのは、大元帥の下す判断ではないかと思います」と、フルシチョフは右手の人差し指で自らの頭を指した。
「同志ニキータ、めったなことを言うと---」と、モロトフが周囲を見渡した。
「かまいません。この国にとって、重大な問題になることなんです。狂った老人に、大事な判断をゆだねるわけにはいきません」
「どういうことだ?」
「朝鮮戦争のことです。私は、早急にこの戦争を終わらせるべきだと考えています。朝鮮戦争終結を公約にしたアイゼンハワーが勝った今、その好機だと私は思っています」
「それは、私も同じだ」
「我が国が原子爆弾を保有したことは、すでに世界に知られています」
「だから、アメリカも簡単に我が国には手出しできなくなった」
「大元帥は、今の世界情勢を見誤っていると思いますが、同志はどう考えますか?」

「きみがそこまで言うのなら----。まずい判断が続いている。国連軍、実質はアメリカ軍だが、彼らが捕虜交換を提案してきた時、私は受けるべきだったと思う。今のところ、水面下での交渉だ。ほとんど進展はない。年が明けると、アイゼンハワーが大統領に就任する。彼は軍人だからこそ、朝鮮での消耗戦のような戦いを終わらせようとしているのだ。しかし、この戦争は我がソビエト連邦がイニシアチブをとって終わらせるべきなんだ。そうして、朝鮮民主主義人民共和国と中華人民共和国に対する我々の指導力を、西側諸国に見せつけねばならん」
「しかし、アメリカの新政権には国務長官に予定されているダレス、ニクソン副大統領など、強硬な反共主義者が揃っています。彼らは、簡単に戦争終結を呑むでしょうか」
「大統領が公約を果たすことに反対はできないだろう。それに、三十八度線を境界にして、休戦に持ち込むことは可能だ。元の状態に戻るだけだからな。ただ、金日成は我々の言いなりだが、毛沢東がどう反応するかはわからない」

「中国軍もかなりの犠牲を出しています。中華人民共和国が成立して、まだ三年です。本当は国内の課題に取り組みたいはず。周恩来などは、最初から参戦には反対でした。それなのに、蒋介石を台湾に追い出したと思ったら、一年足らずで朝鮮の戦いが始まった。今なら毛沢東の本音も、戦争の終結だと思います」
「そうだろうな」と、モロトフはうなずいた。
「しかし、大元帥はまったく逆のことを狙っています。中国とアメリカに消耗戦を続けさせようとしているのです」
「その情報を、どうやって手に入れたのかね。同志ニキータ」と、モロトフはフルシチョフにギョロリと視線を向けた。

ようやく目が覚めたようだな、とフルシチョフは思った。この老練な外相経験者を取り込むことが、フルシチョフには絶対に必要だった。孤立した状態で計画を進めるのは、リスクが大き過ぎた。少なくとも、何らかの言質はとっておかなければならない。

「私にも情報網はありましてね。特に大元帥の動向を把握しておかなければ、我が国の将来に絶大な影響がありますから」
「で、きみは何をどうしたいのかね」
「大元帥は妄想にとらわれて、朝鮮戦争を長引かせるために、新たな火種を作ろうとしています。そのための工作を実行に移しました」
「妄想、は言い過ぎではないか」
「いや、妄想の域に入っています。今の大元帥の状態は、普通ではありません。狂人の妄想と言うべきでしょう。過去の妄執と、自己の願望、あらゆるものに対する疑念が渦巻き、現実を認識できていないのです」
「そこまで言うのなら、覚悟はできているのだな。同志ニキータ」
フルシチョフは深くうなずいた。
「ベリヤには、知られないようにするんだな」と、モロトフは言った。

若き日にレーニンが創設した秘密警察に所属していたベリヤは、ずっとソビエト共産党の影の部分を担ってきた。国内的には監視、逮捕、処刑、国外では諜報活動、破壊工作である。そして、権力を掌握したスターリンの側近として多くの人間を粛清し、今は第一副首相を兼務している。
 
治安と警察権力を統轄する秘密警察組織NKVDの最高権力者であるベリヤには、死の匂いが染みついていた。フルシチョフは、いずれベリヤと対決しなければならないと覚悟していたが、モロトフの言うように今ではなかった。

「大元帥の工作、具体的にどのようなことか知りたくありませんか?」
「知りたくない。きみが、その工作にどう対処するのかも、聞きたくない」

それは、モロトフの精いっぱいの同意の言葉だった。少なくとも、モロトフは敵にはまわらないと言っているのだ。今のフルシチョフの立場では、それで満足すべきだろう。スターリンの後継者としてはベリヤが最も有望視されているし、マレンコフの名も挙げられている。フルシチョフは彼らより年上だったが、スターリンの後継者としてはマレンコフやベリヤより出遅れていた。

「きみの幸運を祈るよ。同志ニキータ」と言って、モロトフは立ち上がった。
 
フルシチョフは立ち上がり、モロトフを送った。モロトフは慎重にフルシチョフへの同意を明言はしなかったが、「きみの幸運を祈るよ」だけで充分だった。モロトフが警戒したように、今の会話はすべて盗聴器を通して記録されていた。万が一の時には、モロトフをフルシチョフ陣営に引き込む切り札になる。

2024年9月 7日 (土)

■スターリンの暗殺者「第一章 米軍基地」03

【主な登場人物】
■スターリン ソ連最高指導者
■フルシチョフ ソ連政治局員
■モロトフ ソ連政治局員
■ヴォールク(狼) 謎の工作員/狙撃手

■ロバート・パウエル CIA上級分析官
■ポール・バネン CIAエージェント
■マイケル・ダーン CIAエージェント

■ルーシー・立花(かおり) ダンシング・キャッツの歌手
■チャーリー・立花 ダンシング・キャッツのリーダー
■ジェームス・鈴木 ダンシング・キャッツのトランぺッター
■花井光子 「平和荘」住人 飲み屋の女将
■柿沢恵子 「平和荘」住人 引揚者 通いの娼婦
■井上涼子 「平和荘」住人 SKDの踊子
■進藤栄太 「平和荘」住人 元新聞記者
■三浦良太 「平和荘」住人  戦災孤児の工員
■神崎辰之助 「平和荘」住人 元憲兵
■梶 幸兵 「平和荘」に引っ越してきた男

■藤崎一馬 ソ連情報収集を目的としたF機関のリーダー
■渡辺三郎 F機関の知恵袋 顎髭のジャズ・プレーヤー
■上島隆平 F機関の利け者 凍傷で指を失くし常に手袋をしている
■東金光一 F機関の事務方 メガネをしている
■神谷恂一郎 F機関で最も若くムードメーカーだったがシベリアで死亡

■山村善兵衛 元特高刑事
■新城玄太 警視庁公安部の新人刑事


■1952年12月30日 東京・霞ヶ関

新城が大きな音を立てて扉を開け、まっすぐ山村に向かってきた。相変わらず、うっとうしい男だと山村は思った。背が高く、脚が長い。戦後の青年特有の屈託のなさが表情に現れている。アプレだな、と山村はつぶやいた。
「山村さん、妙な話を聞いたんですが----」
「何だい?」と、山村は無愛想に言った。

先日から、新城と組んで米軍基地爆破事件について調べているが、左翼系の組織を探ってみても、彼らがかんでいるという情報はまったく上がってこなかった。それで、山村は公安の監視対象になっている在日朝鮮人組織を探ってみた。朝鮮半島で北朝鮮および中国の軍隊と戦っている国連軍の中心は米軍だ。米軍基地爆破は、北朝鮮が関係している公算が大きかった。

在日朝鮮人の立場は、日本の敗戦と共に逆転した。在日朝鮮人連盟という組織も戦後すぐに結成されたが、GHQは解散を命じた。しかし、その後も在日朝鮮人組織を作ろうという動きは続いている。その中心人物の周辺を調べる中で、協力者から山村は北朝鮮の工作員組織の動きが活発になっていることを耳にした。

「内調からの情報です」と、新城は山村の横にきて声を落とした。
「どんな?」
「米軍基地の爆破工作に使われたのは、ソ連製の手榴弾だそうです」
「RG42だろ。ゴムリングでレバーが起きるのを抑え、安全装置のピンを抜いておく。引っ張られたゴムリングが、徐々に延びて爆発する。簡単な時限装置だ」
「知ってたんですか」と、新城は落胆したように言った。
「公安調査庁の知り合いに会ってきた」
「七月に創設されたばかりでしょう、あそこ。昔の特高、中野学校出身者、特務機関員、憲兵なんかが採用されて復活してるらしいですね」
「内調と公安調査庁、各警察の公安部、どれも目的は似たようなもんだ。ただし、正面からいっても情報はくれないが----」
「山村さんには、昔の仲間がいるってわけですか」
「個人的に情報交換できる相手はいるさ」
「それで、公安調査庁の協力者は、それ以外にも何か?」
「在日朝鮮人組織の情報交換をするつもりだったんだが、十二月になって急に彼らの一部の動きが活発になったというんだ。それは、こちらの情報源からも入ってきていた。ということは、その情報に確実性があるということだ。そのことと米軍基地の爆破工作が関連しているのかどうか。それに関して、内調の情報は何かあったか」
「詳しいことは漏らしませんが、今回は北朝鮮の工作だと読んでいるようでしたね」
「北朝鮮が後方基地の攪乱でも狙ったか」
「毎週水曜日の爆破が三回続いています。四回めがあるとしたら、大晦日の夜ですね。前の三回は、警告、予告、みたいなものかも?」
「なぜ、そう思う?」
「大して実害が出てないじゃないですか。弾薬庫を爆破するとか、後方基地を狙う作戦なら、それくらいはやるんじゃないですか」
「そんなに簡単にできることじゃない。警備の薄いところを狙ったから、三回も続けられたんだ」
「だからですよ。どうも、本気じゃないみたいだ」

その新城の言葉がひっかかった。米軍基地が三回狙われたのなら、四度めも米軍基地が目標だと思うだろう。新城が言ったように、後方基地を狙うなら兵站が目標になる可能性が大きい。食糧、武器弾薬、その他の物資を破壊する、あるいは、消滅させる。朝鮮半島に運ぶのを妨害する。

しかし、米軍が標的だとしても、基地内である必要はない。兵士を狙うことも考えられるかもしれない。その場合、大勢の兵士を戦闘不能にしなければ意味がない。少数の兵士を殺傷しても、米軍の復讐心を煽るだけだ。激しい報復が行われるだろう。

あるいは、何らかの方法で兵士たちに厭戦気分を抱かせる。日本の基地から朝鮮半島に渡るのを拒否したくなるような----。考えれば考えるほど、山村には米軍基地爆破の目的がよくわからなくなった。なんらかの攪乱を狙っているのだろうか。本当の目的を隠し混乱させるために、手当たり次第に関東近辺の基地を爆破してまわっているのか。

「横田、厚木、立川、次はどこだと思う?」と、山村は独り言のように言った。
「横須賀ですよ、たぶん。あそこは米国海軍の拠点だ。東京、神奈川の地域では、次はあそこじゃないですかね」
「当たりかもしれんな。よし、明日、横須賀へいってみるか」
「管轄が違いますよ」
「そんなもの、気にしていられるか」

山村は、ようやく目標に向かって何かを絞り込めた気がした。

■1952年12月31日 神奈川県・横須賀
 
男は、焦っていた。北朝鮮工作員の報告では横須賀基地に隙はなかったし、実際に自分で調べてみても潜入するのは不可能だと判断した。基地内のクラブに出演する歌手やバンドマンに対するチェックも厳しくなっている。しかし、それは想定内のことだった。今、米軍の目は基地への破壊工作に向いている。
 
最初の時は、まったく人のいない場所から滑走路に手榴弾を転がした。簡単な仕掛けの時限装置だ。いつ爆発するかは読めなかった。幅五ミリのゴムバンドを両側から引っ張り、一ミリずつ切り込みを入れてテストしてみたが、二ミリの切り込みでは切れるまでに時間がかかりすぎたし、三ミリではすぐに切れてしまった。
 
ゴムバンドを引っ張る力はほぼ同じだったが、微妙な張力の違いで切れるまでの時間が違ってくる。結局、幅五ミリのゴムバンドに二ミリの切り込みを入れ、手榴弾のレバーと切れ込みの位置を合わせてきつく巻き、ピンを抜いて転がせば、数分から五分ほどでゴムバンドが切れ、手榴弾は爆発した。数分あれば、爆発地点から充分に離れられる。
 
しかし、一回めの時は予想以上に爆発まで時間がかかった。もう一度試すつもりでやった二度めは、ほぼ予想時間で爆発した。それは、米軍への予告のようなものだった。それに、爆発物などの破片から米軍がどれほどの分析をするか、知っておきたかったのだ。
 
彼らは、ソ連製の手榴弾だと断定した。ソ連製武器を使うとしたら、北朝鮮軍だと推察するだろう。中華人民共和国の人民解放軍は、昔、ドイツ軍が使ったような柄付きの棒のように見える手榴弾を使う。柄付き手榴弾は、米軍が使うパイナップル型と比べると、遠くへ飛ばせるメリットがある。
 
三度めは、基地内へ潜入しての仕掛けだった。バンドマンとして基地に入るのは、プロモーターに探りを入れた時に聞いた通りチェックもなく簡単だった。だが、基地内で爆発が起これば、帰りは厳しくチェックされる可能性があった。それで、手榴弾を仕掛けた後、フェンスを破って脱出した。
 
今回は、今までのように無人の場所を選ぶわけではない。三度の警告、テストは終わったのだ。そろそろ米兵には死んでもらわなければならない。米軍が、いや米国全体が激怒するほどのテロ事件にしなければならない。その結果、三度も予兆があったのに大規模テロを防げなかった責任は、在日米軍トップが取ることになるだろう。
 
しかし、男はニューイヤー・パーティーの会場を狙うつもりはなかった。そこには、米兵の多くの家族も出席している。女や子供が巻き添えになる。その方が衝撃的だが、今回はパーティ会場に入るのは困難だ。だが、米兵のたむろするところには、どこでも女たちがいる。そのことが男を苛立たせていた。無駄な犠牲者は必要ない。
                                                                                         ★

ルーシー・立花こと立花かおりは、楽器を載せたトラックの幌付きの荷台から通り過ぎる横須賀の街を見ていた。大晦日の夕方である。人々はせわしなさそうに歩いていた。日本髪を結って、着物姿で歩いている若い女もいる。今夜、年が明ければ、そのまま初詣にいくのだろう。

「今夜の仕事が終われば、正月三日間は休めるからな。ゆっくり初詣にでもいこう」と、父が言った。
「うん」と、かおりはうなずく。
 
今日のトラックにはダンシング・キャッツのメンバーの他に、ウェスタン・バンドの五人が乗っているだけだった。テンガロンハットにウェスタン風の衣装を身に付けている。足下のカウボーイブーツの装飾が目立った。

「この間の爆発の時、あそこにいたんだって」と、ウェスタン・バンドのリーダーらしき男が父に向かって言った。
「ああ、いたよ」
「大きな爆発だったのかい」
「音と震動は、けっこう凄かった」
「噂だと、毎週水曜に爆発が起こってるらしいじゃないか」
「そうらしいね」
「今日は、水曜だぜ」
「だけど、米軍も警戒してるだろう。三回も続いたんだから」
「朝鮮戦争の後方基地への攻撃として、北朝鮮の工作員が爆弾を投げ込んでるって噂が流れてる」
「でも、米軍の被害は微々たるもんらしい」
「何を狙ってるんだか」とウェスタン・バンドのリーダーは言って、話を打ち切るようにタバコをくわえた。
 
その時、トラックは基地の入り口に到着し、検問所の横で止まった。運転手がトラックの後ろにまわってきて、幌を開ける。その後ろに、MPの腕章を付けた米兵ふたりが銃を持って立っていた。
「全員、降りてください」と、運転手が言う。
 
最初にウェスタン・バンドのメンバーが降り、ダンシング・キャッツのメンバーが続いた。米軍キャンプでの就労許可証がIDカード代わりになるので、それぞれがMPに提示する。一番最後に、父に抱き上げられるようにして降りたかおりは、十メートルほど向こうのフェンス際に立つひとりの男に気付いた。

「あ、あの人」と、思わず口を衝いて言葉が出た。
「何だい?」と、父が訊く。
「ううん、何でもない」
 
父にはそう答えたが、先週、同じトラックに乗って基地に入った男のように思えた。服装も似たようなハーフコートを着ていた記憶がある。しかし、その男は帰りのトラックには乗っていなかった。楽屋から出ていったのは、あの人だったかしら、とかおりはチラリと見た男の顔を思い出そうとした。

                                               ★

Fは、横須賀の米軍基地のフェンス沿いを歩いていた。巨大な広さを誇る基地だった。中には米兵たちの住居もあるし、劇場もあるし、ゴルフコースもあった。何でも揃っており、基地の中だけで生活できるようになっている。フェンスの向こうは、米国そのものだった。
 
水曜日。大晦日の午後六時。陽は落ち、照明灯がフェンス沿いの道を照らしている。これ以上、ウロウロしていたら米軍のMPに誰何されるだろう。Fは基地の近くにある通称・ドブ板通りに向かって歩き始めた。
 
Fが大晦日に横須賀にくることになったのは、ソ連の諜報組織の人間から連絡が入ったからだった。北朝鮮の工作員は、かなりの人数が日本国内に潜入しているが、ソ連側も全容は把握していない。同盟国ではあったが、得た情報については共有することはあっても、諜報組織そのものの情報は流さない。
 
朝鮮戦争ではソ連は武器を供与し、技術指導や作戦指導に将校は派遣していたが、戦闘のための兵士は送っていない。前線にソ連兵が立つことはなかった。一方、国連軍が北朝鮮軍を中国国境の鴨緑江近くまで追い詰めた時、毛沢東は決断し、人民解放軍は義勇軍として参戦した。彼らは長い内戦で鍛えられた精鋭であり、国連軍はたちまち三十八度線まで後退させられた。今では、金日成はスターリンより毛沢東を頼りにしている。
 
しかし、ソ連は金日成を北朝鮮の独裁者にしてくれたのだ。スターリンの指令は、何があっても優先しなければならない。そして、北朝鮮側からもたらされたスターリンへの報告は、フルシチョフにも入るようになっていた。その情報が、ソ連の諜報組織内の協力者を通じてFに届く。
 
米軍は三度の爆破に使われた手榴弾をソ連製と分析し、単純な時限装置の仕組みを解明した。また、三度めの立川基地では、バンドマンのひとりがいなくなっていたことが判明した。当夜のジャズ・バンドとビッグ・バンドのどちらのメンバーでもないことも、その後の調べでわかっている。爆破の規模から見ても、ひとりでできる犯行だった。
 
プロモーターを調べたところ、爆破の数日前、米軍キャンプでの仕事をしたいのだがと、フリーのミュージシャンと称する男がやってきたという。男は、バンドを運ぶトラックのことや基地の検問のことなどを訊いた。
 
プロモーターは、仕事ができたら連絡すると男には言ったが、爆破事件当日、プロモーターから急に呼ばれたと運転手に言って、ひとりの男がトラックに乗った。そのことがわかって、同乗したふたつのバンドに確認したところ、どちらも相手のメンバーだろうと思っていたらしい。
 
その男が日本人に見えたことから、米軍は日本人か朝鮮人だろうと推測し、ソ連製の手榴弾と日本人に見える犯人ということから北朝鮮工作員と結論付けた。後方攪乱を狙ったと見て、警戒を強めた。特に水曜日に当たる大晦日の夜は、兵士たちが浮かれ騒ぐことを予想し、基地内の警戒レベルを最高に引き上げている。
 
そんな警戒の厳しい基地に敢えて潜入を図るだろうか、とFは先ほどフェンスの外から見た基地を思い出していた。ソ連側からの情報では、今夜、横須賀基地で何かが起こる可能性があるとのことだった。スターリンが〈ヴォールク〉に与えた指令は、朝鮮戦争の新しい火種だ。「北朝鮮に報復を」と米国民が騒ぐほどのダメージを与える必要がある。
 
Fは、若い米兵たちであふれんばかりになっているドブ板通りを見ながら、そんなことを考えていた。

                                                 ★

夜の九時を過ぎ、酒がまわった米兵たちの騒ぎ方が派手になった。ネオンの点滅が通りを賑やかに照らし出している。何人かで騒ぎながら歩いているのもいるし、バーのドアからあふれ出して、通りでグラスを呷っているグループもいる。英語が飛び交っていた。時に女たちの嬌声が混じる。
 
電柱の陰に立ち、男はそんな米兵たちの様子を眺めていた。大きな黒人兵が、自分の胸までしかない日本の若い女と何かを言い合っている。その向こうのバーは、ドアが開いて店内が見えている。米兵であふれていた。しかし、狭い店だ。十数人の客しかいないだろう。
 
この通りの店は、すべて調べてあった。そんなに広い店はない。小さな店が軒を連ねていた。狭い店内にぎっしりと人がいるのだから、爆発の効果は絶大だ。今夜は、МPは基地内の警戒のために狩り出されている。いつもなら酔った米兵のトラブルを防ぐために、この通りも定期的にパトロールしているのだが、今夜は酔った若い米兵ばかり目につく。あちこちで喧嘩沙汰も起きている。
 
先ほど、男は、この通りで最も広いバーを覗いた。店内は米兵でいっぱいだった。フロアで踊っているのが二十数人、カウンターやテーブルで飲んでいるのが十数人。ざっと五十人近くの白人の米兵たちだった。黒人兵は、別のバーに集まっている。日本人の若い女たちもいた。店の女なのか、米兵目当てに集まってきたのかはわからない。
 
彼らは、そんな中にひとりで入ってきた東洋人を一瞬、不審そうに見たが、特に注意は払わなかった。男は人混みをかきわけてカウンターに進んだ。三十半ばの日本人のバーテンがカウンターの中にいた。チラリと男を見て、口を開いた。

「日本人のくるところじゃないぜ」
バーテンは怒鳴るように言った。ダンス・ミュージックが大音量でかかっているので、大きな声を出さないと聞こえない。
「日本人には、酒を売らないのか」
「銭を払えば、誰にだって売るさ」
「じゃあ、ウォッカをダブルで」
「了解」
 
そう言うとバーテンは棚からスミノフのボトルを出し、カウンターに置いたグラスにウォッカを注いだ。男は透明なウォッカを明かりにかざしてから、一気に煽った。それから百円札を一枚カウンターに置き、「釣りはいらない」と言った。周囲を見渡す。照明はかなり暗い。男は視線をバーテンに戻し、「トイレはどこだい」と訊いた。バーテンが顔も向けずに顎で示す。
 
トイレの位置も、そのトイレの窓から裏の路地へ抜けられることも、店が無人の時に忍び込んで調べてある。必要なものは、その時に、水洗トイレのタンクの中に防水ケースに入れて隠してあった。水洗タンクは高い位置にあり、先に握りが付いた長いチェーンが横に垂れているタイプだ。高い位置にある水洗タンクは、誰も覗かない。
 
トイレに入り、内側からロックする。窓枠に足をかけ、タンクを覗き込む。防水ケースを取り出し、手榴弾五個、針金、ペンチ、タコ糸、粘着テープを並べる。手榴弾を窓枠の下側に並べて針金と粘着テープで固定する。そのひとつひとつのピンにタコ糸を結び付け、片方のタコ糸をまとめてドアノブに結んだ。その上を針金で巻いて固定する。
 
トイレのドアは外開きだ。全部のピンが抜けなくても、ひとつでも爆破すれば、他の手榴弾も誘爆をする。相当な威力になるはずだ。男はドアノブから伸ばした針金を片手に持ち、ドアのロックを外した。今、誰かにドアを開けられたら爆発してしまう。ドアが開かないように針金を引きながら、慎重に窓から路地に出る。片手に持っていた針金をトイレの中に落とし、窓を閉じ、男は急いで路地を抜けた。
 
それから三分経った。二十メートルほど離れた場所の電信柱の陰で、男はその時を待っていた。ビールやバーボンを飲んだ米兵は、トイレに入る。ドアを乱暴に引くかもしれない。あれだけの人間がいるのだ。すぐにでも、爆発は起こるはずだった。

その時、男はひとりの日本人が店に入っていくのに気付いた。何者だ、あの男。

                                                                  ★

Fは、米兵が大勢いる場所を当たってみることにした。大晦日の夜だ。酒と女がある場所を求めて、若い米兵たちは群がっているに違いない。八時過ぎ、Fは日本人客も入っている店のカウンターでバーボンの水割りを頼んだ。横須賀に興味を持ってやってきた観光客の振りをして、基地周辺のことをバーテンや常連客に質問した。

その店で三十分ほど過ごし、通りで一番広い白人の米兵御用達の店を教えられ、やってきたのだった。Fが混み合った店の中をかきわけてカウンターにたどり着くと、バーテンが目を丸くして怒鳴った。

「今夜は、珍しい。日本人は、あんたでふたりめだ」
「日本人は、お断りかい」
「金を払えば、みんな客さ」
Fはバーボンの水割りを頼んで、カウンターに金を置いた。
「ところで、そのひとりめの日本人は?」
「さっき、トイレに入ってったが、もう出たかな」
「どんな男だった?」
「痩せた、背の高い日本人さ」
「朝鮮人には見えなかったかい」
「日本語にヘンなところはなかったな」
「どれくらい前に出た?」
「十分ほど前にトイレに入って、出てったとしたら四、五分前じゃないか」

Fはグラスを置いて、出口に向かった。踊っている米兵と女たちの間を抜けるのに時間がかかった。ひとりの米兵がトイレに向かうのが見えた。

                                                          ★

山村と新城は、夕方になってから横須賀基地の入口が見える場所で張り込みを続けていた。バンドマンたちを乗せた幌付きトラックが入ったのが注意を引いたくらいで、後は米軍の関係者ばかりが出入りしていた。バンドマンたちも全員トラックを下ろされ、IDカードの提示を求められていたから、警戒はずっと厳しくなっているようだ。

「山村さん、ここにいて意味ありますかね」と、二時間ほどして新城が言った。
「二時間ばかりで音をあげたか」
「何のために張り込んでるんですか」
「今夜、ここで何かありそうな気がする」
「警戒は相当に厳重そうだし、基地内に潜入するのは無理じゃないですか」
「確かに厳重だな」

時間は、いつの間にか九時近くになっている。新城の言うように、確かな情報があって張り込んでいるわけではない。いつ切り上げてもいいのだが、山村はずっと胸騒ぎを感じていた。刻々と新年が近づいてくるだけで、何かが起こる気がして仕方がなかった。だが、ここにいても気が休まるわけではない。

「わかった。今日は引き上げるか」
「腹、減りませんか」と、新城が言った。
「ああ、減ったな」
「ドブ板通りの端っこに、アメリカン風ハンバーガーショップがあるんです」
「何だ。ハンバーガーって」
「挽肉で作った厚切りハムみたいなのを、パンで挟んだものです」
「コッペパンに何か挟んだようなものか」
「ちょっと、違いますけどね」
「まあいい。付き合おう」

ドブ板通りに着いた時は、九時過ぎになっていた。通りは多くの米兵で賑やかだった。大騒ぎしている数人の黒人兵もいた。みな、大きな体をしている。山村は、生理的な嫌悪感を抱いて目を背けた。黒人兵が残していった混血児が、この近辺には多いと聞いたことがある。元皇族が、そんな混血児を収容する施設を大磯に作ったという。それも、戦争に負けたからだ、と山村は思う。

その時、爆発が起こった。二十メートルほど先の店から火柱が上がり、炎がドアから噴き出す。爆風で山村はのけぞった。かぶっていたハンチングが飛ばされる。新城がコートで身を覆うようにした。近くの電信柱に身を隠すようにしている男がいた。

爆発音で耳がやられ、キーンという音しか聞こえない。見ると、その店は炎を上げて燃えていた。入口から吹き飛ばされたのか、数人の男が横たわっている。山村が新城を促して近づくと、米兵が三人横たわったまま意識不明のようだった。あちこちから血を流している。

日本人がひとりいた。その男は意識があり、自ら上半身を起こしたが、呆然とした表情だった。額から血が流れている。周辺の店の窓ガラスも割れていたが、怪我人は出なかったらしく、人々がおそるおそる集まり始めていた。

山村は新城に手伝わせて、意識不明の米兵を少し離れた場所に移した。炎が近すぎたのだ。最後に、怪我をした日本人を立たせ、肩を貸して十メートルほど離れた場所に移動した。その店の外に置いていた、テーブルと椅子が爆風でひっくり返っていた。椅子を起こして男を座らせ、山村もひとつの椅子を取り腰を下ろした。新城は立ったままだった。

「あんた、あの店にいたのか?」
「ああ、出るところだった」
「けがは?」
「額を何かで切った。大したことはない」
「何があった?」
「爆発。それ以外はわからない」
「原因は?」
「わからない。だが、大勢の米兵がいた。女たちも」
「あれじゃあ、助からんだろう」
「ざっと五十人はいただろうな」
山村は警察手帳を出して見せる。男は、平然としていた。
「わしは刑事だ。管轄は違うが、あんたは目撃証言をする義務があるな」
「ああ」と、男は答えた。
「警察と消防がくるだろう。ここにいてくれ」

山村は立ち上がり、新城と一緒に現場に戻ることにした。その時、先ほど電信柱で爆風を避けていた男が、すぐ近くの野次馬の中にいることに気付いた。背が高くて目立つ男だった。何だか、爆発が起きる前から身を隠していたような気がする----と、山村は思った。

 

 

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